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2025年7月26日土曜日

江漢西遊日記四 その69

P79 東京国立博物館蔵

(読み)

氣能毒 ニぞんじ白 砂糖 三 俵  宛 奇(キ)心 い多

きのどくにぞんじしろざとうさんぴょうずつ  き しんいた


春べし然 し住  僧 能身持 不宜     ハ無用 尓

すべししかしじゅうそうのみもちよろしからざればむように


い多春べしと通 詞ヨリ住  寺尓申  聞ケル僧

いたすべしとつうじよりじゅうじにもうしきけるそう


頭  を低(タレ)耻(ハチ)入 个り惣 て此 長 崎 能寺 ゝ ハ

かしらを  たれ   はじ いりけりすべてこのながさきのてらでらは


とかく妾  を招(カゝ)へ肉 喰  など恒 と春故 ニヤ

とかくめかけを  かか えにくしょくなどつねとすゆえにや


かく云 しなり唐 人 能墓(ハカ)アル故 一 年 尓何ン

かくいいしなりとうじんの  はか あるゆえいちねんになん


貫 目と定 メ砂糖 を寄心 春る事 なり

かんめとさだめさとうをきしんすることなり


唐 人 塚 能前 ニて衣類 金 銀 を描(カキ)多るを

とうじんづかのまえにているいきんぎんを  かき たるを


板 行 ニ押(ヲシ)多る紙 を燃(モス)盃   をチユポイと云フ

はんこうに  おし たるかみを  もす さかずきをちゅぽいという


目か年など見ル事 をハカン\/と云フ

めがねなどみつことをばかんかんという

(大意)

(補足)

「奇(キ)心」、寄進。

「住寺」、住持。

「招(カゝ)へ」、抱え。

「寄心」、寄進。

 江漢さんは坊様が大嫌い。当時長崎には生臭坊主がゴロゴロしていたのでありましょう。

 これで第四冊がおわります。次回から「江漢西遊日記五」となります。

 

2025年7月25日金曜日

江漢西遊日記四 その68

P78 東京国立博物館蔵

(読み)

管弦(クワンゲン)能氣取 なり寺 能門 ニ至 ルと止メる也

   か んげん のきどりなりてらのもんにいたるととめるなり


誠  尓飴 賣 能如 し唐 人 下官 ノ者 多 し其

まことにあめうりのごとしとうじんげかんのものおおしその


内 能キ人 ハ十  人 之(コレ)を船 頭 と呼フ宋 敬 庭

うちよきひとはじゅうにん  これ をせんどうとよぶそうけいてい


と云 人 尓知己(シルヒト)ニなる是 ハ五十  位  尓見へ髭(ヒケ)少々

というひとに   ひるひと になるこれはごじゅうくらいにみえ  ひげ ショウショウ


あり其 餘 ハひげなし亦 西 湖と云 人 ハ四十  位

ありそのほかはひげなしまたせいこというひとはしじゅうくらい


ニして是 は肥(コヘ)多る人 なり顔 色 利口 そふ尓見

にしてこれは  こえ たるひとなりかおいろりこうそうにみ


由予カ製 春る銅 版 画能覗(ノソキ)目か年を見セ

ゆよがせいするどうはんがの  のぞき めがねをみせ


けれハ皆 々 感 心 春るシツポコ臺 四人 結(ツメ)ニて

ければみなみなかんしんするしっぽこだいよにん  つめ にて


吾 も共 尓喰ヒ个り住  僧 唐 人 尓無心 を申  故

われもともにくいけりじゅうそうとうじんにむしんをもうすゆえ


数 十  人 呼(ヨヒ)多り唐 人 の云フニハ寺 も大 破ニ及 べ里

すうじゅうにん  よび たりとうじんのいうにはてらもたいはにおよべり

(大意)

(補足)

「宋敬庭」、宋敬亭。南京船主。平賀源内が明和元(1764)年に秩父で石綿を発見し、すぐに火浣布(かかんふ)をつくった。宋敬亭はこれを非常に珍しがり、注文したが、まだ小片しかつくれず源内を困らせた、とありました。

「西湖」、費 晴湖(ひ せいこ、生没年不詳)は清の商人・画家。江戸時代中期、日本に渡来し南宗画様式の画技を伝える。わが国の画壇に寄与すること甚だ大きかった、とありました。

「結(ツメ」、詰め。

 

2025年7月24日木曜日

江漢西遊日記四 その67

P77 東京国立博物館蔵

(読み)

済マぬうちハ舩 を神 崎 能沖 尓掛 十  一 月 ニ至

すまぬうちはふねをこうさきのおきにかけじゅういちがつにいた


里おらん多かひ多ん乗 切 して東風を待

りおらんだかぴたんのりきりしてこちをまち


て出  舩 春

てしゅっこうす


廿   八 日 朝 曇  五  時 より唐 人 通 詞清 川

にじゅうはちにちあさくもりいつつどきよりとうじんつうじきよかわ


榮 左衛門 下通 詞吉 嶋 佐十  良 と共  大 波

えいざえもんげつうじきちじまさじゅうろうとともにおおなみ


戸より屋根舟 ニ能里稲 作 悟真 寺へ唐 人

どよりやねふねにのりいなさくごしんじへとうじん


六 十  人 程 佛 参 春舟 向  地能岸 尓着(ツク)と

ろくじゅうにんほどぶっさんすふねむかうちのきしに  つく と


寺 より笛 太 鞁を打ツ者 をやとゐて唐 人

てらよりふえたいこをうつものをやといてとうじん


能先 ヘ立チ笛 多ゐこをなら春此 者 一 向 尓

のさきへたちふえたいこをならすこのものいっこうに


下人 ニて羽織 もき春゛埒 もなき体(テイ)ニて林(ハヤス)

げにんにてはおりもきず らちもなき  てい にて  はやす

(大意)

(補足)

「済」のくずし字、読めませんでした。

「廿八日」、天明8年10月28日。西暦1788年11月25日。

「唐人通詞」、職務は世襲で、ほとんどが明末清初の日本への政治的亡命者か、海寇(かいこう。海上から侵入する賊。海賊)のながれであったといわれる、とありました。ウィキペディアに詳説あり。

「唐人六十人程佛参」、唐人は、当時長崎の人からアチャサンとよばれ、仏参は「阿茶さんの寺参り」といわれていた。それは、唐人屋敷に閉じ込められた彼らの数少ないレクリエーションでもあり、しばしば黙許された。辮髪異装の行列は、まことに豪華でかつ悠長なもだったらしい。彼らはお詣りのあと、市中の茶屋で遊興した。とありました。

 江漢さんはこの行列を見たものとおもわれます。

「林(ハヤス)」、囃す。


2025年7月23日水曜日

江漢西遊日記四 その66

P76 東京国立博物館蔵

(読み)

中  足 ハ履(クツ)なし春足 なり之 ハ柱  ヘ能ほり

ちゅうあしは  くつ なしすあしなりこれははしらへのぼり


帆綱 を渡 ル故 なる歟此 者 陸 ヘあから春゛只

ほづなをわたるゆえなるかこのものおかへあがらず ただ


舩 中  能ミ尓暮 春事 なり此 マタロス帆綱 より

せんちゅうのみにくらすことなりこのまたろすほづなより


帆津な尓渡 里軽 王さをし水 中  へも入  事 妙

ほづなにわたりかるわざをしすいちゅうへもはいることたえ


なり黒  坊ハ其 王ざ一 向 尓出来春゛石 火矢ハ

なりくろんぼはそのわざいっこうにできず いしひやは


毎 朝 一 ツ放 ツ事 也 亦 祝  事ニハ二 ツ三 ツも放 ツ

まいあさひとつはなつことなりまたしゅくじにはふたつみっつもはなつ


是 ハ日本 火を打ツて浄(キヨ)メル如 し舩 を動  春

これはにほんひをうって  きよ めるごとしふねをうごかす


為(タメ)尓打ツなど云フハ長 崎 者 能うそ話 しなり

  ため にうつなどいうはながさきもののうそばなしなり


舩 ハ六 月 着  岸 して八 月 出  舩 春ると雖  モ新(シン)

ふねはろくがつちゃくがんしてはちがつしゅっこうするといえども  しん


かひ多ん古 かび多ん能勘 定  其 外 取 合 とくと

かぴたんふるかぴたんのかんじょうそのほかとりあいとくと

(大意)

(補足)

「勘定」、『⑦ 考え定めること。かんてい。「ただ身ひとりの上を―すべし」』

「舩ハ六月着岸して八月出舩春る」、季節風の関係で大型帆船はほとんどがこの時期しか航海できませんでした。

「長崎者能うそ話しなり」、自分はオランダ船に乗り、カピタンとも友人でいろいろ聞き及んでいるので、地元の人も知らないことを知っているのだと鼻高々自慢しています。彼の辞書には謙虚という言葉はなさそうです。船に乗れるよう手配してくれたのは長崎者ですよ。

 

2025年7月22日火曜日

江漢西遊日記四 その65

P75 東京国立博物館蔵

(読み)

あり綱 ハ表  と艫(トモ)の方 ヘハ餘 里張ら春゛左右 へ

ありつなはおもてと  とも のほうへはあまりはらず さゆうへ


数 十  春じ尓張ル事 剛(キヒシ)く其 綱 ニ横 尓亦 張りて

すうじゅうすじにはること  きびし くそのつなによこにまたはりて


者しごとして登 ル帆を掛 ルケタハ揚ケおろしをせツ

はしごとしてのぼるほをかけるけたはあげおろしをせず


帆ハ此 ケタニ巻く久 しく舩 かゝ里春る時 ハ帆を

ほはこのけたにまくひさしくふながかりするときはほを


者川し帆亦 長カなり尓非 ス四方(カク)なり中 ノ柱

はずしほまたながなりにあらずし  かく なりなかのはしら


尓三 ツ先 の柱  尓二 ツ矢帆一 ツ亦 二 ツとも能方 ニハ

にみっつさきのはしらにふたつやほひとつまたふたつとものほうには


大 キなる帆一 ツ是 ハ向 フ風 ニ乗ル開 き帆なり

おおきなるほひとつこれはむかうかぜにのるひらきほなり


年 々 舩 違 ヒぬ表  尓獅子(シシ)を黄尓ぬりて

ねんねんふねちがいぬおもてに   しし をきにぬりて


あり舩 中  を働  く者 をマタロスと云 是 ハおら

ありせんちゅうをはたらくものをまたろすというこれはおら


ん多地方 能者 なり衣類(イルイ)ハ蘭 人 の如 く寒

んだちほうのものなり   いるい はらんじんのごとくかん

(大意)

(補足)

「マタロス」、オランダ語 matroos 、船員。「西遊旅譚三」に図あり。 

 左のマタロスの顔を拡大してみると、いかにも紅毛碧眼っぽく描いていて、瞳が特徴的です。右の船員が手にしているものは拡声器か?

 オランダ船も唐船も当時の錦絵にたくさん描かれています。

 

2025年7月21日月曜日

江漢西遊日記四 その64

P74 東京国立博物館蔵

(読み)

能り一 里沖 神﨑(カウサキ)尓蘭 舶 ふなかゝ里して

のりいちりおき   こうさき にらんせんふながかりして


其 舩 能そバへ乗り付 其 高 キ事 二丈  程 モ

そのふねのそばへのりつけそのたかきことにじょうほども


あらんと見へ縄 者゛しこを登 ル事 至  て武ツカし

あらんとみえなわば しこをのぼることいたってむつかし


登 り津くして下 を見れハ屋根ニ能ぼりて見

のぼりつくしてしたをみればやねにのぼりてみ


見おろ春如 しさて大 舶 なか\/書 ニも辞(コトハ)

みおろすごとしさておおふねなかなかしょにも  ことば


ニも述へか多し舩 チヤンニて黒 ぬ里闌 干(ランカン)能ミ

にものべがたしふねちゃんにてくろぬり    らんかん のみ


黄色 なり石 火矢筒 一 方 ニ二十  五頂 いて

きいろなりいしひやつついっぽうににじゅうごいだいて


六 十  程 あり艫(トモ)能方 屋形 ありヒイドロ障子(ショウシ)

ろくじゅうほどあり  とも のほうやかたありびいどろ   しょうじ


ニして海 を望 武帆柱 ラ三 カ所 尓立ツ帆綱(ツナ)ハ

にしてうみをのぞむほばしらさんかしょにたつほ  づな は


誠  尓くも能巣能如 し綱(ツナ)毎(コト)セビとて万 力 車

まことにくものすのごとし  つな   ごと せびとてまんりきしゃ

(大意)

(補足)

「ふなかゝ里して」「武ツカし」「津くして」、「し」が他の文字とかさなっています。

「二丈程」、約6m。

「チヤン」、チャン〔「青」の中国音からか〕→瀝青(れきせい)『れきせい歴青・瀝青】

天然に産する固体,半固体などの炭化水素類の一般的総称。普通,天然アスファルト・コールタール・石油アスファルト・ピッチなどをいう。道路舗装用材料・防水剤・防腐剤などに用いる。ビチューメン。チャン』のことだとおもわれます。『チャンぬり【チャン塗り】

瀝青(れきせい)を塗ること。「―の油かはらけ,しぼかみのたばこ入」〈浮世草子・日本永代蔵6〉』

「望武」、ひさびさの「望」のくずし字、忘れていてすぐには読めませんでした。

「セビ」、西遊旅譚三の図の説明の中に「万力車。長崎にニテハセビト云。ヲランダニテハカツトロルト云」とあります。

 西遊旅譚三に蘭舶の詳細な図があります。

 船の中央で縄バシコを登っている人が描かれています。

「石火矢筒一方ニ二十五頂いて六十程あり」、画にもあるとおり、荷を運ぶ商船とは名ばかりで、実際は軍船であったのが当時の船でありました(宣教師もほとんどが軍人でした)。自分の船を守るだけではなく、海上で他国の船にであって、自分の船のほうが強そうだとみれば海賊行為に及び、荷を奪っていました。

 また本国で英仏蘭のいずれかが戦争状態であると、アジアの航路でそれらの国が出会うと即、大砲の打ち合いとなって戦闘となるのでした。それらに関するたくさんの記録や本も出版されています。

 江漢さん「石火矢筒」の数をちゃんとあわせたように描いています。ふだんの風景画とはまったくことなる筆運び、タッチです。

 

2025年7月20日日曜日

江漢西遊日記四 その63

P73 東京国立博物館蔵

(読み)

牛 なり蘭 人 鉄 槌(テツツイ)を以 テひ多以を打 殺(コロス)又

うしなりらんじんてっつい     をもってひたいをうち  ころす また


四足 を志バ里横 ニして能どを切り殺 春夫 ヨリ

しそくをしばりよこにしてのどをきりころすそれより


後 足 を志バ里車  ニて引 あけるニ口 よりして

あとあしをしばりくるまにてひきあげるにくちよりして


水 出ツ足 能処  ヨリ段 \/と皮 をひらき殊\/

みずでずあしのところよりだんだんとかわをひらきことごと


く肉 を塩 ニ春彼 国 ニてハ牛  肉 を上  喰  と春る

くにくをしおにすかのくににてはぎゅうにくをじょうしょくとする


中  以下ハパンとて小麦 ニて製(セイ)春物 なり之 を食

ちゅういかはぱんとてこむぎにて  せい すものなりこれをくう 


寒  国 ニして米 を不   生故 なり

さむしくににしてこめをしょうぜずゆえなり


廿   七 日 とかく雨 折 \/時雨(シクレ)なり朝 五  時 比 吉

にじゅうしちにちとかくあめおりおり   しぐれ なりあさいつつどきころよし


雄息(ソク)定  之助 おらん多通 詞ニて其文(フン)箇(コ)

お  そく じょうのすけおらんだつうじにてその ぶん   こ


持 となり紅 毛 舩 へ荷積ミ水 門 より小舟 尓

もちとなりこうもうせんへにづみすいもんよりこぶねに

(大意)

(補足)

「ひ多以」「志バ里」、変体仮名が目立ちます。

「段\/」、くずし字辞典にはここのような形のものはありませんでした。

「殊\/く」、悉く。ことごとく。

「廿七日」、天明8年10月27日。西暦1788年11月24日。

「文箇」、文庫。

「紅毛舩」、『こうもうせん【紅毛船】江戸時代,オランダ船の俗称。幕末には広く諸外国の船をいう』

 

2025年7月19日土曜日

江漢西遊日記四 その62

P72 東京国立博物館蔵

(読み)

妙  なる人 と云 とぞ西 国 長 崎 近 邊 能大 名  衆

みょうなるひとというとぞさいごくながさききんぺんのだいみょうしゅう


一 代 ニ一 度此 嶋 へお入  有 とぞ其 外 ハなら春゛

いちだいにいちどこのしまへおはいりありとぞそのほかはならず


廿   六 日 少  々  雨天 向  地稲 佐悟真 寺ニ行キ

にじゅうろくにちしょうしょううてんむかいちいなさごしんじにゆき


唐 人 おらん多能墳(ハカ)を見る皆 臥(フシ)多るまゝ

とうじんおらんだの  はか をみるみな  ふし たるまま


尓葬(トムロウ)蘭 人 ヅール。コツプ。と云 人 能塚 石 ヲ

に  とうろう らんじんずーる こっぷ というひとのつかいしを


カマボコ形リ尓して何 やラ蘭 字を彫り

かまぼこなりにしてなにやららんじをほり


金 箔 を入レ上 ニ砂 時計 を彫ル是 ハ漏(ロウ)

きんぱくをいれうえにすなどけいをほるこれは  ろう


刻 ツキ多る譬 へなり宿 ヘ帰 りて牛 能生 肉 ヲ

こくつきたるたとえなりやどへかえりてうしのなまにくを


喰フ味  ヒ鴨(カモ)能如 しおらん多此 節 出  舩 前 ニ

くうあじわい  かも のごとしおらんだこのせつしゅっこうまえに


ニて牛 を数 \/死して塩 ニ春其 牛 皆赤(アカ)

にてうしをかずかずししてしおにすそのうしみな あか

(大意)

(補足)

「廿六日」、天明8年10月26日。西暦1788年11月23日。

「悟真寺」夜景で有名な稲佐山の麓、浄土宗・悟真寺の境内にあり、歴代住職によって守られてきた世界的にも珍しい国際墓地。元和から寛永初年にかけて、長崎で病死した唐人の墓地として境内に百間四方の土地を設定して、朱印をえたとされる。西遊旅譚三に図があります。 

「蘭人ヅール。コツプ。」、Hendrik Godfried Duurkoop(ヘンドリック・ゴドフリート・デュールコープ、ドルヌム(ドイツ)、1736年5月5日-1778年7月27日)。ドゥールコープは日本でいわゆるオランダ人墓地に埋葬された。1778年、彼は確かにそこに埋葬された最初の人ではなかったが、彼の墓石は現在、この場所で最も古い墓標となっている。と、オランダ版のウィキペディアにありました。西遊旅譚三の図。 

「漏(ロウ)刻」、『ろうこく【漏刻・漏剋】

水時計の一種。水を入れた器(漏壺(ろうこ))から常時一定量の水を落とし,その水位変化によって目盛りが時刻を示す装置。時の刻み』

 鴨と牛肉は見た目も味も確かに似ています。しかし牛肉は鴨肉とちがって、やはり獣臭い。個人的には鴨肉に軍配があがります。

 出島の図に、左上の部分に牛が引っ張られている画がありました。

 

2025年7月18日金曜日

江漢西遊日記四 その61

P71 東京国立博物館蔵

(読み)

え津き入 ル事 なりとて此 かひ多んハ当 年 初 メ

へつきいれることなりとてこのかぴたんはとうねんはじめ


て参  候   者 ニて餘 リ懇 意ニなし夫 より出嶋 を出テ

てまいりそうろうものにてあまりこんいになしそれよりでじまをいで


个る吾 等ニ付 添ヒ来 ル者 三 人 皆 長 崎 者 ニて

けるわれらにつきそいきたるものさんにんみなながさきものにて


一 向 おらん多人 をミ多る事 なし尤  も此 出嶋

いっこうおらんだじんをみたることなしもっともこのでじま


蘭 人 居所  ハ一 向 入 ル事 なら春吾 カ蘭 人 と物

らんじんいどころはいっこうはいることならずわれがらんじんともの


談  ヲ春るを見て誠  ニ肝(キモ)を津婦し其 上 かひ多ん

かたるをするをみてまことに  きも をつぶしそのうえかぴたん


と知ル人 なりとあれハ何 と云 人 と者なし合へり

としるひとなりとあればなんというひととはなしあえり


とぞ長 崎 の者 ハ唐 人 ハ見れど蘭 人 ハ見多

とぞながさきのものはとうじんはみれどらんじんはみた


る事 なし佛 参 など皆 駕籠ニ能りて行ク

ることなしぶっさんなどみなかごにのりてゆく


故 なり夫 故 尓訳(ワケ)を知らぬ者 ハ今 ニても奇(キ)

ゆえなりそれゆえに  わけ をしらぬものはいまにても  き

(大意)

(補足)

 右側の頁の左下隅にあるのは「卅」。十(10)廿(20)卅(30)。丁数です。

「参候」、小さく「人」のような形の字が「候」のくずし字というか略字。「丶」のときもあります。

「夫より出嶋を出テ个る」、西遊旅譚三に出島の画があります。 

 方角が入っているので、長崎の街に対してどのような位置にあるかがわかります。

「尤も」、このくずし字もよく出てきます。

 出島に入って、オランダ人と歓談したり、さらにはカピタンと知り合いでいかにも親しそうに話す様子を見て、まわりの通詞などが驚き、江漢さんが鼻高々で胸をはってそり返っている姿が目に浮かびます。

 

2025年7月17日木曜日

江漢西遊日記四 その60

P70 東京国立博物館蔵

(読み)

ツキ来 ル者 ヘ与 ヘ个り此 かひ多んハ江戸ヘ五度

つききたるものへあたえけりこのかぴたんはえどへごど


参  多る者 ニて知ル者 なり名ヨハン。ネス。カスパル。

まいりたるものにてしるものなりなよはん ねす かすぱる


ロンベルグと云 亦 一 人能かひ多んハ二階 住居(スマイ)ニ

ろんべるぐというまたひとりのかぴたんはにかい   すまい に


てハなし路 ニ花 畠  と云 アリ地(イケ)能上 ニ橋 アリ

てはなしみちにはなばたけというあり  いけ のうえにはしあり


其 上 ニ涼 ミ所  アリ玄 関 能様 なる処  より入 て

そのうえにすずみどころありげんかんのようなるところよりいりて


坐しきへ通 り夫 より玉 津きと云 処  を見 物

ざしきへとおりそれよりたまつきというところをけんぶつ


春是 ハ碁双 六 なと春る様 なる者 ニて戯(タワムレ)

すこれはごすごろくなどするようなるものにて  たわむれ


なり四 尺  尓七 尺  程 ニ羅紗 を張りて机(ツクエ)の如 シ

なりよんしゃくにななしゃくほどにらしゃをはりて  つくえ のごとし


夫 ニ玉 を置き馬 を打 ムチ能如 キ棒(ホウ)ニて

それにたまをおきうまをうつむちのごとき  ぼう にて


津くる也 四所 ニ玉 能落 ル所  ありてそれ

つくるなりししょにたまのおちるところありてそれ

(大意)

(補足)

「玉津き」、『「射玉為賭図」石崎融思 1797年11月11日制作』とあるので、江漢がみたのはこの画と同じものかもしれません。 

「かひ多ん」、江戸時代,長崎の出島に置かれたオランダ商館の館長。慶長14(1609)年〜安政3(1856)年までの166代を数える。カピタンは毎年正月、長崎より江戸におもむき、将軍に拝謁し、土産ものと海外事情を記した「風説書」提出した。貿易許可の謝意を表すためでありました。

 ビリヤード台についての細かい文章の説明はありますが、画にするほどの興味はひかなかったようで、西遊旅譚にも画は描かれていませんでした。

 

2025年7月16日水曜日

江漢西遊日記四 その59

P69 東京国立博物館蔵

(読み)

其 内 より出で手ニ長 ヒキセルを持チ吾 等ニ

そのうちよりいでてにながいきせるをもちわれらに


向  て挨 拶ツ春松 十  郎 通 辯 して云 ニハナント。

むかいてあいさつすまつじゅうろうつうべんしていうにはなんと


リツパ。尓ケツコーカとあちら可ら自慢(シマン)して

りっぱ にけっこーかとあちらから   じまん して


云フなり彼 等日本 をバ物 をかさら春゛至  て素

いうなりかれらにほんをばものをかざらず いたってそ


なる国 風 と思 ヒ云フなるべし夫 よりこちらからも

なるこくふうとおもいいうなるべしそれよりこちらからも


是 ハ目を驚(ヲトロ)可し多る事 と返 答 春夫 より

これはめを  おどろ かしたることとへんとうすそれより


黒  坊 二 人銀 能盆 の上 尓金 を焼 付し多る

くろんぼうふたりぎんのぼんのうえにきんをやきふしたる


コツプとフラスコと能せ傍  ラ尓立ツ其 コツプ

こっぷとふらすことのせかたわらにたつそのこっぷ


ニて酒 を呑ムアネイス。ウヱインと云 焼酎(セ ウチ ウ)也

にてさけをのむあねいす うえいんという   しょうちゅう なり


是 ハウイキヨウニて造 ル酒 なり剛(ツヨイ)酒 故 ニ吾 ニ

これはういきょうにてつくるさけなり  つよい さけゆえにわれに

(大意)

(補足)

「アネイス。ウヱインと云焼酎」、フランスではパスティス、アニゼット、ギリシャではウゾ、トルコではラクと呼ばれる酒のことか、食前酒。

 カピタンの云う「ナント。リツパ。尓ケツコーカ」は「どうです、とても立派でよい部屋でしょう」と手振り身振りで部屋を指し示し、江漢一同はお世辞もあるでしょうけど、結構本気で驚きながら「どこを見ても驚いています」というような会話でしょうか。

「ウイキヨウ」、『ういきょう ―きやう【茴香】セリ科の多年草。南ヨーロッパ原産で,古く日本に入り栽培される。芳香があり,高さ1~2メートル。葉は複葉で小葉は糸状の裂片となる。六月ごろ,枝頂に黄色の小花を多数つけ,秋,円柱状の小果を結ぶ。乾燥した果実を健胃薬・香味料などにする。フェンネル。〔「茴香の花」は 夏〕』

 少々長くなりますが、オランダはこの頃より危機に陥ります。このような状況です。

『18世紀末のフランス革命に始まる動乱の中でオランダも危機を迎え、1795年に連邦共和国は滅亡、新たに成立したバタヴィア共和国は東インド会社を経営不振を理由として廃止した。さらに1806年からは本国は実質的にフランスの支配を受けた。1808年8月にはフランスと敵対していたイギリスの軍艦がオランダの艦船を追って長崎に強制入港するというフェートン号事件が起きた。1811年からはバタヴィアをイギリスに占領され、オランダ国家とその植民地が消滅するという事態となった。しかし、長崎のオランダ商館は江戸幕府に対して、東インド会社の解散やオランダ国家の変動を知らせず、出島は当時世界で一ヶ所だけオランダの国旗を掲げ続けていた』。

 

2025年7月15日火曜日

江漢西遊日記四 その58

P68 東京国立博物館蔵

(読み)

綿 能赤 キ色 能物 ニて包 ミ髭(ヒゲ)ハなし辞(コトハ)

めんのあかきいろのものにてつつみ  ひげ はなし  ことば


ハ天 竺 ことハニして蘭 人 ニも不通  甚  タキタナ

はてんじくことばにしてらんじんにもつうじずはなはだきたな


キ者 なり夫 よりかび多ん部屋へ行ク畳(タゝミ)

きものなりそれよりかぴたんべやへゆく  たたみ


二十  デ ウも敷(シキ)四方 ランマ下 尓ビイドロ尓描(カキ)

にじゅうじょうも  しき しほうらんましたにびいどろに  かき


多る額 を掛ケ並 ヘ下 ニハ倚子(イス)を並 ヘ倚子毎(コト)

たるがくをかけならべしたには   いす をならべいす  ごと


尓唾子(タコ)とて津ハ吐キ之 ハ銀 ニて竪(タテ)二尺(シャク)程 ニて

に   だこ とてつばはきこれはぎんにて  たて に  しゃく ほどにて


花瓶(クワヒン)能如 し畳  能上 ニ毛 せんの如 キ花 を

   か びん のごとしたたみのうえにもうせんのごときはなを


織(ヲリ)多る物 をしき天 上  ノ中 尓ビイドロニて作 る

  おり たるものをしきてんじょうのなかにびいどろにてつくる


瑠理(ルリ)燈 を釣リ向 フ尓紅 キ幕(マク)能下ケ多る書

   るり とうをつりむこうにあかき  まく のさげたるしょ


斉(サイ)能如 キ処  アリ障子(ショウジ)皆 ビイドロヲ以 テ張ルかひ多ん

  さい のごときところあり   しょうじ みなびいどろをもってはるかぴたん

(大意)

(補足)

「髭」、「長」も「此」も、単独で使うときと同じくずし字になっています。

「かび多ん部屋」、西遊旅譚三に詳細なカピタン部屋の画があります。 

 ここの文章に説明されている物はすべて描きこまれていて、順に目を移してゆくとこれまた現在のカメラのパンでながしてゆくようであります。

「倚子」、椅子。

「唾子」、『だこ【唾壺】

① 唾を吐き入れるつぼ。たんつぼ。② タバコ盆の灰吹き。吐月峰(とげつぽう)』

「ビイドロ」、ガラスのこと。

「天上」、天井。

「瑠理(ルリ)燈」、『るりとう 0【瑠璃灯】

① ガラスの油皿を中に入れた六角形の吊灯籠(つりどうろう)。「亭(ちん)に雪舟の巻竜銀骨の―をひらかせ」〈浮世草子・日本永代蔵•3〉

② 歌舞伎・文楽で用いる照明具。面に直角な板をつけた四角い小板にろうそくを立てたもの。大道具に打ちつけたり,並べて下げたりする。多分に装飾的』

 カピタン部屋の見取り図は、江漢さんは西洋画から学んだ遠近法をとりいれて、精緻そのもの。しかしどことなくまだ自分のものになってないような感じで全体に硬い。

 

2025年7月13日日曜日

江漢西遊日記四 その56

P65 東京国立博物館蔵

(読み)

クロ坊 スワルトヨング

くろぼうすわるとよんぐ


頭 ラハ釈 迦カシラ

かしらはしゃかがしら


ベンカラ嶋 能木綿

べんがらじまのもめん


を巻く足 ハ日本

をまくあしはにほん


の象 股 引 雪駄(セツタ)ヲ者く

のぞうももひき   せった をはく


黒 ヒとて墨 ニて

くろひとてすみにて


多る様 ニハなし日尓焦 れて

たるようにはなしひにこがれて


赤 くろし

あかぐろし


スワルトとハ黒 ヒ事

すわるととはくろいこと


ヨングとハ若 イ者 ナリ

よんぐとはわかいものなり

(大意)

(補足)

「西遊旅譚三」にもおなじ構図の画があります。 

こちらのほうが、より「生う川し」になっています。

「クロ坊」、「西遊旅譚三」に、「ジャガタラ能人なり(ジャガタラハ赤道直下の国故尓??熱国なり)阿蘭陀人の下奴(ゲヌ)となり来る其色真黒(マツクロ)なり」とあります。

「スワルト」、オランダ語「zwart」、黒い。音はズワルトときこえます。

「ヨング」、オランダ語「jong」、若い。

「嶋」は縞。

「象股引」、『ぞうももひき ざう―【象股引】脚部がゆったりした股引。象が渡来した頃(1729年)のもの』

「墨ニて」のあとは虫食い?で不明。

 

2025年7月12日土曜日

江漢西遊日記四 その55

P64 東京国立博物館蔵

(読み)

鳥 ゐんこ能類  ニて其 後チ不見なり亦 酒

とりいんこのたぐいにてそののちみずなりまたさけ


を呑(ノマ)セける尓何 ヤラ獨(ドフ)ろく能様 なる酒 尓

を  のま せけるになにやら  どぶ ろくのようなるさけに


て春く思 ひ个れハ酢(スシ)\/と申  尓彼 云 尓ハ薬(クスリ)\/

てすぐおもいければ  すし すしともうすにかれいうには  くすり くすり


とて玉 子へ指シ个ゝ連クスリ\/ ハ日本能辞(コトハ)なり

とてたまごへさしけけれくすりくすりはにほんの ことば なり


夫 よりして外 ヘ出亦 通 詞部屋へ参 り幸

それよりしてそとへでまたつうじべやへまいりこう


作 ニ逢フ幸 作 申  付 徳 太郎 松 十  郎 安 内?

さくにあうこうさくもうしつけとくたろうまつじゅうろうあんない


ニてかび多ん部屋ヘ行ク尓外 能土間より階(ハシコ)

にてかぴたんへやへゆくにそとのどまより  はしご


三 方 より登 ル大 者゛しごなり上ニ廊(ロウ)可ありて

さんぽうよりのぼるおおば しごなりうえに ろう かありて


先 松 十  郎 部屋ヘ行 尓皆 者き物 能まゝ也

まずまつじゅうろうへやへゆくにみなはきもののままなり


か多和ら尓黒 ン坊 来 ル松 十  能云 能 生  う川し尓

かたわらにくろんぼうきたるまつじゅうのいうよくしょううつしに

(大意)

(補足)

「類」、くずし字はこの一文字だけで読むの困難。前後の流れから読みます。「るい」、「たぐい」。

「安内」、案内でしょうけど、不明です。

 ストッツル(このとき25歳)との会話文や江漢御一行様の動きなど、まるで現場リポートをしているようで、とても生き生きと描写されています。237年前の出来事!

 

2025年7月11日金曜日

江漢西遊日記四 その54

P62 東京国立博物館蔵

P63

(読み)

清 朝  人

しんちょうじん

P63

云ヒ个り之(コレ)ハ能ク分 リて能 通 し个り。ミネール。とハ

いいけり  これ はよくわかりてよくつうじけり。みねーる。とは


貴公 と云ふ事 。カーモル。ハ部屋なり。コム\/

きこうということ。かーもる。はへやなり。こむこむ


とハ来(キタレ)\/と云 事 なり夫 故 尓跡 ニ付 て行ク尓

とは  きたれきたれということなりそれゆえにあとにつきてゆくに


二階 へ土足 ニて登 りキタナキタ〃ミをしきて

にかいへどそくにてのぼりきたなきたたみをしきて


皆 立て坐春事 なし倚子(イス)尓腰 をかけシツ

みなたてざすことなし   いす にこしをかけしつ


ポク臺 能如 キ物 能上 ニコツプニ酒 等 ヲ能せ其

ぽくだいのごときもののうえにこっぷにさけとうをのせその


外 火とほし色 \/をかざる尓皆 ヒイドロ銀

ほかひとぼしいろいろをかざるにみなびいどろぎん


細 工なり亦 白 キおう武能様 なる鳥 大 キサハ

ざいくなりまたしろきおうむのようなるとりおおきさは


鳩(ハト)程 もアリて放(ハナシ)畜(カイ)尓して手ニ居ゑ顔 ヘ付

  はと ほどもありて  はなし   がい にしててにすえかおへつけ


あ多まを口 ノ中(ウチ)ヘ入レなどして愛(アイ)春なり此

あたまをくちの  うち へいれなどして  あい すなりこの

(大意)

(補足)

「跡ニ」、後に。「倚子」、椅子。

「カーモル」、オランダ語で「部屋」は kamer(カーメル)。「ミネール」という音のオランダ語はなく不明。

 江漢さん、見るものすべて珍しく、好奇心全開になります。

 

2025年7月10日木曜日

江漢西遊日記四 その53

P60 東京国立博物館蔵

P61

(読み)

者 二 人来 ル門 を入  所  ニて婦ところ袂(タモト)を

ものふたりきたるもんをはいるところにてふところ  たもと を


改  ム何 物 尓ても持チ入ル事 を禁 春暫  く行 と

あらたむなにものにてももちいることをきんずしばらくゆくと


去 年 江戸石 町  長 崎 屋と云 おらん多゛宿

きょねんえどいしちょうながさきやというおらんだ やど


ニて逢(アヒ)多るおらん多外科ストッツルと云 者 也

にて  あい たるおらんだげかすとっつるというものなり


吾 長 崎 ヘ参 ル事 ハ兼 て江戸ニて約 束 して置

われながさきへまいることはかねてえどにてやくそくしておき


ぬ夫 故 吾 を見ると先 ヱ立チ人 能居ぬ牛

ぬそれゆえわれをみるとさきえたちひとのいぬうし


部屋能方 へ行ク路 \/何 ヤラ話 ス尓一 向 不

へやのほうへゆくみちみちなにやらはなすにいっこうつうぜ


通只 テイケネン\/   と云 事 能ミ是 ハ江戸能

ずただていけねんていけねんということのみこれはえどの


丸 の内 見付 \/  を圖引 てもらゐ多しと云フ事

まるのうちみつけなどなどをずひいてもらいたしということ


なり夫 よりしてミネール。コム。カーモル\/  と

なりそれよりしてみねーる。こむ。かーもるかーもると

P61

蘭人ストツツル

イキ カーモル コム\/

我  部屋   来レ


(大意)

(補足)

「江戸石町長崎屋」、江戸参府中の商館長(カピタン)をはじめ随員のための定宿。日本橋本石町三丁目、長崎屋源右衛門方。

 宿をのぞく画があります。『浅草庵作 葛飾北斎画 享和2(1802)序刊』

 江戸におけるオランダ人の定宿であった日本橋本石町三丁目の長崎屋の情景。窓外に見物人が集まっている。オランダ人たちは江戸滞在中も自由に外出はできなかった、とありました。

「外科ストッツル」、Johan Arnold Stützer (1763–1821)。『MIchel-J-A-Stuetzer-in-the-East-Indies-2015.pdf』に詳しく記されています。

「テイケネン」、tekening.オランダ語で図面、地図。

 

2025年7月9日水曜日

江漢西遊日記四 その52

P59 東京国立博物館蔵

(読み)

内 ヘ入 ル事 を禁 春勝 木利兵衛ハ江戸會

ないへはいることをきんずかつきりへえはえどかい


所 能下 役 是 ヘ参 リおらん多出嶋 ヘ入 ラン事 ヲ

しょのしたやくこれへまいりおらんだでじまへはいらんことを


談 春゛吾 をハ白 川 侯 能ヲンミツならんと思

だんず われをばしらかわこうのおんみつならんとおも


ひ夫 故 世話を春る者 ナシ爰 ニ於 て白 戸

いそれゆえせわをするものなしここにおいてしらと


會 所 能商  人 となり館 内 ヘ入 ルケンチ ウ位

かいしょのしょうにんとなりかんないへはいるけんちゅうくらい


能小袖 ニ脇差(サシ)一 本 なり春 木門 弥ハ誠  ニ

のこそでにわき さし いっぽんなりはるきもんやはまことに


通 詞能草 履取 となり布 子尓カラ尻 ヲ

つうじのぞうりとりとなりぬのこにからしりを


からけて行クを見多り

からけてゆくをみたり


廿   四 (五 )日天 氣江戸會 所 より門 能切 手を請

にじゅうよっ(いつ)かてんきえどかいしょよりもんのきってをうけ


取り吾 カ後 ニ従  ヒ勝 木利兵衛外 尓長 崎 の

とりわれがあとにしたがいかちきりへえほかにながさきの

(大意)

(補足)

「白川侯」、松平定信のこと。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫。老中であった1787年から1793年まで寛政の改革を行った。

「世話」、変体仮名「世」(せ)の形はほとんど「を」で、すぐ右の行の「吾をハ」の「を」とおなじです。

「春木門弥」、「春」のくずし字が変体仮名「春」(す)とおなじで、「す」+「て」のようなかたち。一ヶ月とちょっと前(天明8年九月十五日。1788年10月14日)に、尾道を一緒に観光しています。

「ケンチウ」、『けんちゅう ―ちう【絹紬・繭紬】柞蚕糸(さくさんし)を経緯(たてよこ)に用いた薄地の平織物』。『さくさんし【柞蚕糸】柞蚕の繭からとった太い糸。やや褐色で光沢がある。この糸で織ったものを絹紬(けんちゆう)という』

「廿四(五)日」、天明8年10月25日。西暦1788年11月22日。

「商人となり館内ヘ入ルケンチウ位能小袖ニ脇差(サシ)一本なり」、数ページ先に画があります。 


  中央の商人風なのがきっと江漢さんでしょう。

 

2025年7月8日火曜日

江漢西遊日記四 その51

P58 東京国立博物館蔵

(読み)

持 渡 ル者 廣 東 邊  能産 物 薬 種 砂糖

もちわたるものかんとんあたりのさんぶつやくしゅさとう


類 なり亦 金 銀 とも持 渡 ル也 程 赤 城

るいなりまたきんぎんとももちわたるなりていせきじょう


ハ十  五年 此 方 渡海 春と云

はじゅうごねんこのほうとかいすという


廿   三 日 天 氣時雨 上 玄とて家 ゴトニ餅 を

にじゅうさんにちてんきしぐれかみいとていえごとにもちを


舂(ツク)昼 より田口 氏へ行 薬 園 を見 物 ス

  つく ひるよりたぐちしへゆくやくえんをけんぶつす


夫 より梅 カ﨑 と云 処  唐 船 かゝ里てあるを

それよりうめがさきというところとうせんかかりてあるを


乗り見 物 春亦 唐 人 往 来 春るを見る

のりけんぶつすまたとうじんおうらいするをみる


帰 り尓上 村 徳 太郎 是 もおらん多掛 りの者

かえりにうえむらとくたろうこれもおらんだかかりのもの


之 へよる酒 吸 物 を出ス夜 ニ入 四 時 ニかえる

これへよるさけすいものをだすよるにいりよつどきにかえる


廿   四 日天 氣時 \/雨 おらん多毛唐 人 モ共 尓館(クワン)

にじゅうよっかてんきときどきあめおらんだもとうじんもともに  か ん

(大意)

(補足)

「廿三日」、天明8年10月23日。西暦1788年11月20日。

「上玄(かみい)」、『旧暦10月(現在の11月頃)の最初の亥の日を指し、亥の子(いのこ)の行事が行われる日です。亥の子は、無病息災や子孫繁栄を祈る行事で、特に西日本では盛んに行われます』、と、ここまではグーグルのAI(調べ物をしていると、ここのところAIによるものが急激に増えてきました)による概要から。ここからは辞書『また江戸時代には,この日に炉やこたつを開き火鉢を出す習慣があった』。

「梅カ﨑と云処唐船かゝ里てあるを乗り見物」、「西遊旅譚三」に精密な支那船(トウセン)の図があります。 

「唐人往来春るを見る」、同じく「西遊旅譚三」より。 

 やはり江漢は絵師で、いつもとは全く異なる絵筆運びで、ものの形を精細に写しとっています。うまいです。

「夜ニ入四時」、夜の10時頃。

 

2025年7月7日月曜日

江漢西遊日記四 その50

P57 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   二日 天 氣昼 ヨリ元 大 工町  唐 人 通 詞吉

にじゅうににちてんきひるよりもとだいくちょうとうじんつうじきち


嶋 佐十  郎 方 ヘ行 酒 吸 物 出ス吾 ホ製 作

じまさじゅうろうかたへゆくさけすいものだすわれらせいさく


能目か年ヲ見セる唐 人 今 渡海 春る舩 ハ

のめがねをみせるとうじんいまとかいするふねは


私   ニスル商  人 なり皆 蘇州  と云 処  ヨリ来 ル則

わたくしにするしょうにんなりみなそしゅうというところよりきたるすなわち


蘇州  ハ日本 ノ大 坂 の如 し南 京 第 一 繁(ハン)

そしゅうはにほんのおおさかのごとしなんきんだいいち  はん


昌  能地なり王 命 尓て渡海 春る者 昔 しハ

じょうのちなりおうめいにてとかいするものむかしは


范(ハン)氏なり中 比 ニてハ王 氏来 ル今 ハ銭 氏也

  はん しなりなかごろにてはおうしきたるいまはせんしなり


外 尓十  二家とて是 ハ自分 一 己能商   ニ交易(ヱキ)

ほかにじゅうにかとてこれはじぶんいっこのあきないにこう えき


春るなり其 舩 五六 艘 来 ルなり日本 より交 ヱき

するなりそのふねごろくそうきたるなりにほんよりこうえき


能代 物 ハ銅 十  萬 斤 を高 と春彼 国 ヨリ

のしろものはどうじゅうまんきんをたかとすかのくにより

(大意)

(補足)

「廿二日」、天明8年10月22日。西暦1788年11月19日。

「酒吸物」、江漢が接待されるときの酒の記述は「酒肴」or「酒吸物」が多いです。いろいろ調べますと『汁と吸物は同じような汁物ですが、飯に添えるのが汁で、酒の肴として供するのは吸物と定義されています。江戸時代料理書には、汁の部と吸物の部は区別して記載されており、汁は飯に添える副菜なので味は濃いめにし、吸物は酒に合うよう軽く薄めの味にして綺麗につくり、供する時機を大切にするとしています』とありました。現在でも日本料理店の腕を確かめるにはその店の吸物(椀もの)をみればわかるといいます。

 江戸時代の輸出入品を調べると、たとえば『主な輸入品としては、中国産の生糸、絹織物、砂糖、香木、胡椒、鮫皮、薬品など、輸出品として初期は銀(1668年以降は輸出禁止)、金(おもに小判。 1763年輸出禁止)、その後は銅(棹銅)が主体で、陶磁器、漆器などの工芸品もあった』とあります。更に調べてみると銅が重要な輸出品であったことがわかります。

「十二家」、官商とともに長崎貿易を独占したいわゆる十二家額商。一定の員数に限られた官許の民間商人のこと。

 

2025年7月6日日曜日

江漢西遊日記四 その49

P56 東京国立博物館蔵

(読み)

数 \/出春外 尓雑 用 なし揚 屋へ料

かずかずだすほかにざつようなしあげやへりょう


理廿   五匁  能内 十  匁  なりとぞ夫 故 旅

りにじゅうごもんめのうちじゅうもんめなりとぞそれゆえたび


宿 へ太夫 を呼ヘハ一 日 十  五匁  なり二 人共

やどへたゆうをよべはいちにちじゅうごもんめなりふたりとも


尓長 崎 近 所 能産 レと云 何 とも美人

にながさききんじょのうまれというなんともびじん


なり此 揚 屋能亭 主 ハ大 坂 者 ニて爰 ニ住

なりこのあげやのていしゅはおおさかものにてここにじゅう


居 春と云 草 画五六 枚 認  メルお山 多ち皆\/

きょすというそうがごろくまいしたためるおやまたちみなみな


見 物 春予カ揚ケし太夫 ノ曰  王多くしハ江戸の

けんぶつすよがあげしたゆうのいわくわたくしはえどの


路考 と申  役 者 尓能ク似多と申  事 實  な

ろこうともうすやくしゃによくにたともうすことまことな


里やと問フ爰 ニ於 て能ク見れハなる程 能

りやととうここにおいてよくみればなるほどよく


似て居多り其 夜爰 ニ泊 ル

にていたりそのよここにとまる

(大意)

(補足)

「路考」、三代目 瀬川 菊之丞(せがわ きくのじょう、宝暦元年〈1751年〉〜文化7年12月4日〈1810年12月29日〉)。化政期に活躍した女形の歌舞伎役者。俳名は玉川、路考。通称は仙女菊之丞、仙女路考。上方出身。

 江漢さん、席画でお山に囲まれ見物されてうれしそう。そして「何とも美人」な太夫と「其夜爰ニ泊」り、いたくご満足の様子です。