2026年2月6日金曜日

繪本寶能縷 その2

P1 国文学研究資料館蔵

絵本直指寳P1

(読み)

かゐこやしない草 㐧一

かいこやしないそうだいいち


蚕  種  乃紙 尓産 付

可いこ多゛年 可ミ うミつけ

かいこだ ねのかみにうみつけ


多る可゛春 三 月 中  氣

          ち うき

たるが はるさんがつちゅうき


穀 雨前 後に生 れ

こくうぜんご う満

こくうぜんごにうまれ


出 るをかへるといふ

いづ

いずるをかえるという


なり既 尓帰 り出

  春て

なりすでにかえりで


て一 番 二番 などと

ていちばんにばんなどと


別 ち折 敷へ入

ワ可 おしき

わかちおしきへいれ


桑 の葉をこ満

ぅわのはをこま


可尓きざみ

かにきざみ


あ多ふるなり

あたうるなり


これを

これを


黒 子

くろこ


と毛

とも


壱 つ

ひとつ


春゛へ

ず え


と毛

とも


いふ那り

いうなり


勝 川 春  章  図

かつかわしゅんしょうえ


(大意)

(補足)

 わたしのこのBlogは変体仮名を読めるようにしたいという動機が第一で、それはいまでも変わりありません。ですので、(読み)のところでは変体仮名の部分はその元字をつかっています。たとえば助詞の「に」は、変体仮名では「尓」「丹」「耳」などがあり、それぞれ変体仮名のかたちはことなっていて、これらをすべてひらがなの「に」にしてしまっては、どの変体仮名を「に」としたのかがおぼえられません。

 ということで、(読み)が、ここではふりがなもつけているのでいっそう読みにくくなってしまっていますが、そのような考えにしたがって記述しています。

「かゐこやしない草」、「草」の読みは「くさ」、「そう」のどちらもでもよさそうです。

「中氣」、二十四節気 (にじゅうしせっき)は一年を春夏秋冬の4つの季節に分け、さらにそれぞれを6つに分けて、節気(せっき)と中気(ちゅうき)を交互に配しています。三月中気は、二十四節気の「穀雨(こくう)」を指し、新暦の4月20日頃、旧暦の3月に含まれる「中気(ちゅうき)」であり、春の終わりから夏の始まりへと向かう、穀物を育てる恵みの雨が降る時期とされています、とありました。

「折敷」、『「へぎ」を折り曲げて縁とした角盆,または隅切り盆。足を付けたものもある。近世以降,食膳としても用いる』

 女二人、どことなく唐土の雰囲気が感じられるのはどうしてでしょうか?

庭の木にいくつか花が咲いています。時期は現在の4月中旬すぎですから、桜ならすでに葉桜、う〜ん🤔・・・なんだろう。

 江戸時代幕末まで、生糸は長崎で中国から輸入されてましたが、幕末1859年横浜開港より輸出され、1909年には中国を抜いて、世界一の輸出生糸生産国となりました。


 

2026年2月5日木曜日

繪本寶能縷 その1

 

表紙 国文学研究資料館蔵 

裏表紙

(読み)

繪本  寶   能縷

えほんたからのいとすじ

(大意)

(補足)

 『日本古典文学大辞典解説』に詳しい解説があります。天明6年(1786)江戸前川六左衛門刊。養蚕・製糸・機織から販売に至る経過を絵解きした彩色摺り絵本。

 元来、北尾重政・勝川春章合作の、安永期(1772ー1781)の中判錦絵シリーズ『かゐこやしない草』全12枚に、序と奥付を付し、絵本体裁に仕立てた後摺り改題本である。

 本書は、橘守国(1679-1748)・作の絵本『絵本直指宝(えほんねざしだから)』(延享2年(1745)大阪柏原屋清右衛門刊)巻一に収めた蚕家織婦図にその構図のほとんどを仰ぎ説明文までも大部分借り用いている。

以上、『日本古典文学大辞典解説』より。

 表紙裏表紙ともに、繭玉のかたちをほぼそのまま意匠化したすばらしい図柄になっています。このまま、のれんやふろしき、着物や帯柄、何にでもつかえそうです。繭玉は真っ白なものばかりとおもいきや、薄肌色のものもけっこうあって、ここに使われている繭玉がまったくその色合いなのには驚かされました。

 ジジイはまだ小学校にあがる前ころでしょうか、母の実家(埼玉県北部)によくあずけられました。お蚕さんを育てる時期にあずけられると、まだ小さい子どもとはいえ、子どもにでもできることは何でも手伝いをさせられました。

 小さい背中に籠を背負って、裏の桑畑に行って、教えられたとおりの桑の葉を選んで背中にポイっとほうりこむのです。重たくなってきたら家に戻り、籠をひっくり返し、また背負ってと同じことを繰り返しました。

 お蚕さんはとにかく猛烈な食欲であっというまに採ってきた桑の葉がなくなってゆきます。ワサワサ、わさわさ、正方形の大きなお盆のようなところに入れられているお蚕さんの食べるときの音がこれまた印象的でした。数匹ではきっと聞こえてこないでしょうけど、何百頭、何千頭ともなると桑の葉を食べる音がすごいのです。そしてお蚕さんのいる部屋はほんのりと暖かい。

 また、ジジイの小学校は横浜でしたが、横浜はシルクのスカーフを輸出したりしていて、有名でありました。だからなのでしょうが、横浜開港記念日だったか、小学校で全校生徒に繭玉をひとつづつ配るというような、いまでは考えられないような記念品でした。

 この本を読んでいると、お蚕さんの養蚕や製糸などの手伝いをなつかしく思い出させてくれます。

 

2026年1月4日日曜日

江漢西遊日記六 その93

P107 東京国立博物館蔵

(読み)

板 本 五冊 世尓行(ヲコナハ)る小  子江 漢 今 隠遁(イントン)シテ

はんぽんごさつよに  おこなわ るしょうしこうかんいま   いんとん して


世用 なし廿   八 年 以前 遊 歴 し多る時 日ゝ記(シルシ)

せようなしにじゅうはちねんいぜんゆうれきしたるときひび  しるし


多るを以 テ爰 尓誌 しぬ文 化乙 亥 三 月 也

たるをもってここにしるしぬぶんかきのといさんがつなり


西 遊 日 記と題 号 春

さいゆうにっきとだいごうす

(大意)

(補足)

「文化乙亥三月」(ぶんかきのといさんがつ)、文化12年3月。1815年4月上旬頃。司馬江漢は延享4年〈1747年〉〜文政元年10月21日〈1818年11月19日〉。

 「廿八年以前遊歴し多る時日ゝ記(シルシ)」、1815 - 28 = 1787 となり、西遊の旅は1788年4月23日から1789年4月13日なので、さて?

 『江漢西遊日記』の旅をはじめたのは2024年11月13日でした。本日まで1年と約2ヶ月弱かかって、この旅を終えることになります。

 楽しい旅路でありました。

 

2026年1月3日土曜日

江漢西遊日記六 その92

P106 東京国立博物館蔵

(読み)

宮 ニ泊 ル爰 より日本 橋 迄 六 里余  と云

みやにとまるここよりにほんばしまでろくりあまりという


四月 十  三 日 天 氣浦 和蕨(ワラヒ)を過 て板 橋

しがつじゅうさんにちてんきうらわ  わらび をすぎていたばし


尓至  追 分ケと云 処  より駕籠ニ能里本 郷

にいたりおいわけというところよりかごにのりほんごう


通 里神 田明  神 の前 より日本 橋 を通  て

どおりかんだみょうじんのまえよりにほんばしをとおりて


三 十 町  芝 神 僊 坐尓著(ツク)八ツ時 過 なり僕

さんじっちょうしばしんせんざに  つく やつどきすぎなりしもべ


弁 㐂ハ駿 州  藤 枝 の者 ニて去 年 歳 十  六 ニて

べんきはすんしゅうふじえだのものにてきょねんとしじゅうろくにて


予(ヨ)可゛後(シリヱ)尓就(ツキ)長 崎 より平 戸生 月 嶋 ニ三 十

  よ が   しりえ に  つき ながさきよりひらどいきつきしまにさんじゅう


日 畄  ツて鯨  漁  を見其 余 京  大 坂 今 亦

にちとどまってくじらりょうをみそのほかきょうおおさかいままた


江 都能繁(ハン)昌  を見る名 馬能尻 ニ居ル

こうとの  はん じょうをみるめいばのしりにいる


蝿 の如 し歟嚮(サキノヒ)西 遊 旅 談 として画を入レ

はえのごとしか  さきのい さいゆうりょだんとしてえをいれ

(大意)

(補足)

「日本橋迄六里余と云」、中山道の大宮〜日本橋は30kmとあって、六里余とはちょっとひらきがあります。

「四月十三日」、寛政1年4月13日、1789年5月7日。もう初夏といってもいいくらいの季節。

「大宮」「浦和」「蕨」「板橋」、

「神田明神」「日本橋」「芝新銭座」、 

「駿州」、駿河国。

「名馬能尻ニ居ル蝿の如し」、とても巻末の最後を飾る言葉とはおもえないセリフ。どうしようもない江漢さんです。

「嚮(サキノヒ)」、キョウ。②さきに。まえに。

「西遊旅談」、『西遊旅譚』全五巻。寛政六(1794)年初版。享和三(1803)年『画図西遊譚』として図を一部変更のうえ再版された。

 「天明戊申四月二十三日 昼過ぎ、江戸芝神僊坐を出立して」から約1年、江戸に戻ったのは四月十三日のやはり昼過ぎ遅く八つ時過ぎでした。

 中山道をとばしすぎて疲れてしまったのでしょうか、「板橋尓至追分ケと云処より駕籠ニ能里」、これまたかなりの距離を駕籠にゆられて自宅に戻ったのでありました。

 

2026年1月2日金曜日

江漢西遊日記六 その91

P105 東京国立博物館蔵

(読み)

射貫 の穴 見ユ松 井田ニ泊 ル

いぬきのあなみゆまついだにとまる


十  一 日 曇 ル後 雨 正  六ツ時 立ツ妙  義山 へ三 十 町

じゅういちにちくもるのちあめしょうむつどきたつみょうぎさんへさんじっちょう


安 中 能宿  なり板 者な高 崎 能キ処  なり

あんなかのしゅくなりいたはなたかさきよきところなり


上  州  絹 を賣ル亦 能キ天 氣となる十  二里十

じょうしゅうきぬをうるまたよきてんきとなるじゅうにりじゅう


九  町  を経て深 谷ニ泊 ル榛(ハル)名山 ヘ五里あるよし

きゅうちょうをへてふかやにとまる  はる なさんへごりあるよし


不行

ゆかず


十  二日 天 氣朝 六 時 深 谷を出て熊  谷宿

じゅうににちてんきあさむつどきふかやをでてくまがやしゅく


を過 レハ熊  谷能土手三 十 町  ありサイカチ

をすぎればくまがやのどてさんじっちょうありさいかち


能木多 し右 ノ方 大 山 冨士を見ル爰 より

のきおおしみぎのほうおおやまふじをみるここより


押(ヲシ)と云フ処  ニ近 し此 日十  一 里二十  八 町  大(ヲゝ)

  おし というところにちかしこのひじゅういちりにじゅうはっちょう  おお

(大意)

(補足)

「松井田」「安中」「板者な(板鼻)」「高崎」「深谷」「熊谷」「押(ヲシ)(忍)」、

「十一日」、寛政1年4月11日、1789年5月5日。

 熊谷をすぎて、丹沢や富士山が見え、ますます一刻もはやく江戸につきたい気持ちは高ぶるばかり。

 天気にも恵まれ、11日12日連日約50kmを一気に江戸へ向かいます。ここまでくれば、街道の道も整備されているし、またほとんど平らなのでどんどん進むことができたのでしょう。


 

2026年1月1日木曜日

江漢西遊日記六 その90

P104 東京国立博物館蔵

(読み)

おとかめ漸(ヨウ)\/王び事 して去りぬ狂  哥一 首 ニ

おとがめ  よう ようわびごとしてさりぬきょうかいっしゅに


お直 クし能の里うちし多とおとか免ハ皆 下(シタ)

おちょくしののりうちしたとおとがめはみな  した


\/能曲 りか袮なり塩 な多゛と云 処  尓泊 ル十  一

したのまがりかねなりしおなだ というところにとまるじゅういち


里余  の路 なり

りあまりのみちなり


十 日曇  雨 なし正  六 時 尓出  立 一 里半 行キ岩

とおかくもりあめなししょうむつどきにしゅったついちりはんゆきいわ


田村 尓て夜明 ル闇 夜野火誠  ニ火事の如 シ

たむらにてよあけるやみよのびまことにかじのごとし


小田井軽 井沢(サハ)坂 本 の間  薄 井峠  七 年

おたいかるい  さわ さかもとのあいだうすいとおげしちねん


以前 浅 間山 焼 る此 邊  小石 降ル山 \/皆

いぜんあさまやまやけるこのあたりこいしふるやまやまみな


小石 ニて埋 ル樹 木 枯レル此 山 路 誠  ニ難 所

こいしにてうまるじゅもくかれるこのやまみちまことになんしょ


なり此 邊  より妙  義山 見得る亦 ユリ若 大 臣

なりこのあたりよりみょうぎさんみえるまたゆりわかだいじん

(大意)

(補足)

「お直クし」、お勅使。

「塩な多゛」、塩名田宿。「十一里余の路なり」とあって、かなりの強行軍です。

「十日」、寛政1年4月10日、1789年5月4日。

「岩田村」、岩村田です。「小田井」、「軽井沢」、「坂本」、「薄井峠」、碓氷峠。 

「七年以前浅間山焼る」、天明大噴火(てんめいだいふんか)は、江戸時代の1783年8月5日(天明3年7月8日)に発生した浅間山の大噴火。

「ユリ若大臣」、百合若大臣。『妙義山の射貫岩は、昔、ここで百合若大臣が松井田の里はずれから弓を射て、その時踏ん張った足跡石が路傍に残り、真正面にある岩には、彼が射通したという穴があいている』といった、怪異妖怪噺。

 

2025年12月31日水曜日

江漢西遊日記六 その89

P103 東京国立博物館蔵

(読み)

亀 屋と云 宿 尓泊 ル八ツ時 比 なり裏 ニ温 泉 アリ

かめやというやどにとまるやつどきころなりうらにおんせんあり


湯尓入 ル一 人吾可僕  弁 㐂尓聞ク見多る人 也

ゆにはいるひとりわがしもべべんきにきくみたるひとなり


と云 弁 㐂性 名 を云ヘハ手を打ツてなる程 と云フ

というべんきせいめいをいえばてをうってなるほどという


毛 利石 見守  臣 と云ヒき諏訪能池 (湖   )ノ向 フ尓城

もうりいわみのかみしんといいきすわのいけ みずうみ のむこうにしろ


見ユ冨士此 日ミへ春゛初 メて田を少 シ見ル

みゆふじこのひみえず はじめてたをすこしみる


九  日天 氣爰 より駕籠ニて出  立 し和田峠

ここのかてんきここよりかごにてしゅったつしわだとうげ


五里あり峠  尓雪 消  残 ル手ニ取 て見ル七 曲  坂

ごりありとうげにゆきすこしのこるてにとりてみるななまがりさか


アリ寒 ウして麦 も不生  能地なり夫 より下 りて

ありさむうしてむぎもふしょうのちなりそれよりくだりて


何 と可云 処  ニて日 光 勅  使御休 ミアリ其 傍  ラ尓

なんとかいうところにてにっこうちょくしおやすみありそのかたわらに


駕籠を下 シ个連ハ下部(シモベ)乗りうちし多るとて

かごをおろしければ   しもべ のりうちしたるとて

(大意)

(補足)

「亀屋」、現在も営業している「聴泉閣かめや」はこの宿と同じででしょうか?中山道で温泉が湧くのはここの下諏訪だけだったようです。

「性名」、姓名。

「九日」、寛政1年4月9日、1789年5月3日。

「和田峠」、標高1600m、中山道最大の. 難所とされた。 

「日光勅使」、日光例幣使。天皇の代理として、朝廷から神への毎年のささげものを指す例幣を納めに派遣された勅使のこと。

「乗りうち」、『のりうち【乗り打ち】馬やかごに乗ったまま,貴人・神社・仏閣などの前を通り過ぎること。下乗(げじよう)の礼を欠く行為。「早馬三騎,門前まで―にして」〈太平記•11〉』

 中山道最大の難所を駕籠で5里(約20km)、駕籠代もさることながら、駕籠かきも二人では無理で、交代するひと二人で交互に運んだのではとおもうのですけど、それにしても重労働です。