2026年7月25日土曜日

大日本物産圖會その34

P34 国立国会図書館デジタルコレクション蔵


P34_1

(読み)

同 刈 揚之圖

どうかりばのず


農 家の婦女 子笠 を并 へ袖 をつら

のうかのふじょしかさをならべそでをつら


ねて唄 をう多ふて苗 をうゑる是 を

ねてうたをうたうてなえをうえるこれを


早乙 女といふ扨 うゑ付 の後 度

さおとめというさてうえつけののちたび


々 手入連をして秋 尓至 り花

たびていれをしてあきにいたりはな


も散り穂もそろひて用 水 を抜

もちりほもそろいてようすいをぬき


日 光 尓田を干 て鎌 を以 て刈

にっこうにたをほしてかまをもってかり


とり竿 尓可けて五 日本ど干シ

とりかさにかけていつかほどほし


稲把(イナコキ)尓て古きおとし颺(トウ)扇(ミ)に

   いなこぎ にてこきおとし  とう   み に


と本し篩(フルイ)尓可けま多とうミ尓

とおし  ふるい にかけまたとうみに


て精 粗を区分 し木臼 に可け

てせいそをくぶんしきうすにかけ


てすり多て万斛簁(まんごくどおし)尓て精

てすりたて    まんごくとおし にてせい


粗を別け升 尓斗 りて俵

そをわけますにはかりてたわら


尓をさむ

におさむ

(大意)

(補足)

 画は緑から黄金色一色の秋になりました。

「同刈揚之圖」、前回と同じで「肥後国」、熊本県。

小さな赤札が3枚あります。

右側「稲コキ」、穂先から籾をおとす。脱穀。

中央「カラ竿尓て打」、同じく籾落とし。

左側「颺扇」(とうみ)、脱穀したものに混じっている様々なものを風をあてて(手動扇風機です)吹き飛ばし選別する。

 さらにその左側にある直方体の上に入れ口がある器械が「万斛簁」で籾の大きさをより分ける。松の木の奥に見えている笠を重ねてあるのが、「竿尓可けて五日本ど干シ」てある刈り取った稲。

 わたしの母の実家は農家でした。子どものころよくあずけられていましたので、これらの器械が納屋に置いてあるのを目にしました。これらの作業はみな手作業で人力でしたが、しばらくして1960年過ぎころより急速に機械化されていったようにおもいます。

 これら作業のあとは、最後に箒で丁寧に掃き、籾を集めて一粒も無駄にしません。一粒でも他の籾と同じように手間かけて育てたのだよと、母の口癖でした。

 

2026年7月24日金曜日

大日本物産圖會その33

P33 国立国会図書館デジタルコレクション蔵 

P33_1

(読み)

肥後 國 田植  図

ひごのくにたうえのず


皇 國 の米 産 地球  中  第 一 等 と須

こうこくのべいさんちきゅうじゅうだいいっとうとす


就中   美濃肥後伊勢尾張 遠

なかんずくみのひごいせおわりとおとう


江肥前 日  向山 城 大 和駿 河伊

みひぜんひゅうがやましろやまとするがい


豆近 江三河 を上  等 とす米 ハ

ずおおみみかわをじょうとうとすこめは


粳(ウルチ)糯(モチ)の二称  尓して八 十  八 夜

  うるち   もち のにしょうにしてはちじゅうはちや


前 後尓種子を俵  尓包 ミ池 沼

ぜんごにたねをたわらにつつみいけぬま


尓十  五六 日 浸(ヒタ)し水 より揚 て湯

にじゅうごろくにち  ひた しみずよりあげてゆ


を灌(そそぎ)むしろをお本ひ芽(モヤシ)二

を  そそぎ むしろをおおい  もやし に


分本どいづるを度とし天

ぶほどいずるをどとして


苗 代 尓散 布しのち五十

なえしろにさんぷしのちごじゅう


日 本ど経て苗 三 四 寸 のび多

にちほどへてなえさんよんすんのびた


るを玉 苗 といひてこれをうゑ

るをたまなえといいてこれをうえ


つけの期と須

つけのきとす

(大意)

(補足)

「肥後国」、熊本県。

「地球中第一等」、「地球」という表現が江戸時代後期より庶民にも広まって、明治時代には様々な書物や子どもの読本などにも使われ始めました。

 畔道に母娘が裾を端折って田植えの様子を見ています。田植えするお姉さんたちはきれいな着物に赤襷、これはもちろん今で言う写真用。実際はツギハギだらけの田植えをしやすいような実用本位の着物です。

 2枚の小さな札があって、薄茶色には「田植」、赤のは「畔タカヤス」とあります。

 畔道のわら籠に入っているのが玉苗。

 

2026年7月23日木曜日

大日本物産圖會その32

P32 国立国会図書館デジタルコレクション蔵

p32_1

(読み)

同 鰹  節 を製 ス圖

どうかつおぶしをせいすず


扨 魚 多 く集  る時 ハ雌牛(メウシ)の

さてうおおおくあつまるときは   めうし の


角(ツノ)鯨  の牙 等 尓て飼(かひ)奈くし

  つの くじらのきばとうにて  かい なくし


て釣る是 を可けると云 奈り

てつるこれをかけるというなり


つり多る魚 を渚(ナギサ)の砂上  耳

つりたるうおを  なぎさ のさじょうに


本う里上ゲ先ツ頭  を断(キ)り

ほうりあげまずあたまを  き り


腸 をぬき骨 を除 き二枚 ニ

わたをぬきほねをのぞきにまいに


おろし多るを又 二 ツ尓切 て

おろしたるをまたふたつにきりて


四片 と奈し籠(カゴ)尓奈らべて

しへんとなし  かご にならべて


幾 重も可さ年大 釜 の沸(ニヘ)

いくえもかさねおおがまの  にえ


湯(ユ)尓むして簀(ス)の子尓奈ら

  ゆ にむして  す のこになら


べ三 十  日 本ど本してふ多ゝび

べさんじゅうにちほどほしてふたたび


ミ可゛起て樽 尓つめ諸 方 へ

みが きてたるにつめしょほうへ


積 出す奈り

つみだすなり

(大意)

(補足)

「同」、土佐国。

「メウシ」、め‐うし【牝牛・雌牛】。ここの当て字の漢字に「牸牛」ともしている文書がありますが、ここの漢字にあてはまっていません。なんでしょうねぇ?

「飼」、餌にもみえますが、さて?

 ここの見どころはなんといっても大釜。薪をくべ火の粉をあげて燃えさかり、立ち上がる煙をすかして窯や大釜がうっすらと見え、また奥の敷居がわずかにみえそうでもあります。摺師の技によるところがおおきそうだ。

 

2026年7月22日水曜日

大日本物産圖會その31

P31 国立国会図書館デジタルコレクション蔵 

P31_1

(読み)

土佐 國 鰹  釣 之圖

とさのくにかつおつりのず


鰹  ハ外 海 の諸 国 尓採 といへ

かつおはそとうみのしょこくにとるといえ


ども土刕  尓て出すを名 産 と須

どもどしゅうにてだすをめいさんとす


魚  を捕る尓ハ網 ハ稀 尓して

さかなをとるにはあみはまれにして


鈎 多 し其 時 を撰 者゛つといへ

かぎおおしそのときをえらば ずといえ


ども三 四月 ごろを初 鰹  とし

どもさんしがつごろをはつがつおとし


て春  節 の上  品 と須生(イキ)い王しを

てしゅんせつのじょうひんとす  いき いわしを


飼 として一 艘 尓十  二人 のり込 九

えさとしていっそうにじゅうににんのりこみきゅう


尺  のつり竿 尓糸 の長 サ六 尺

しゃくのつりざおにいとのながさろくしゃく


計  奈り先ツ生 い王しを夥   しく

ばかりなりまずなまいわしをおびただしく


水 上  尓放 てバ可つを是 につき

すいじょうにはなてばかつおこれにつき


集  る其 中 へ針 尓い王しの尾を

あつまるそのなかへはりにいわしのおを


さして投 入 連バ忽(タチマ)ち食 つきて

さしてなげいれれば  たちま ちくいつきて


猶予(イウヨ)のひ満奈く引 上 る也

   ゆうよ のひまなくひきあげるなり

(大意)

(補足)

「土州」、「州」の異体字に「刕」などがあります。ここのは下の「刀」ふたつが「丶」四つ。

「猶予」、「予」の旧字は「豫」ですが、ここの漢字は拡大しても不明です。

 この濱の漁師たちは誰も箕の腰巻きをしてません。国によって違うのかも?舟の左舷に莚(むしろ)を横延ばしにしたようなものを取り付けています。これははて?なんでしょうか。舟がかっこういいなぁ。

 

2026年7月21日火曜日

大日本物産圖會その30

P30 国立国会図書館デジタルコレクション蔵 

P30_1

(読み)

同 國 峯越 鳧 捕 図

どうこくおごしかもとりず


豫州(ヨシウ)の峯々(ミ年\/)尓て九月 より

   よしゅうの   みねみね にてくがつより


十  月 の頃 尓至 りて朝 夕 鳧(カモ)

じゅうがつのころにいたりてあさゆう  かも


の群(ムラ)可゛り来 り峯 を越 る

の  むら が りきたりみねをこえる


を窺(ウカゞ)ひ猟師(リヤウシ)艸 蔭(カゲ)耳

を  うかが い   りょうし くさ  かげ に


穴 を掘り扇  形 の羅(アミ)を

あなをほりおおぎがたの  あみ を


もつて穴 の中 尓隠(カク)連近 く

もってあなのなかに  かく れちかく


飛 来る鳧 を捕(トラ)ふその

とびくるかもを  とら うその


手ぎハ実耳感(カン)するに

てぎわじつに かん ずるに


たへ多り

たへたり

(大意)

(補足)

「峯越鳧捕図」、『、愛媛県で行われていた伝統的なカモの網猟である「峯越鴨(おごし(orみねごし)のかも)」を指します。これは江戸時代から明治時代にかけて、現在の愛媛県一帯で広く行われていた古式ゆかしい猟法』とAIの概要。

「鳧」、『かも【鴨・鳧】① カモ目カモ科のうち,ハクチョウ類・ガン類・アイサ類を除いたものの総称。中形の水鳥。雄は派手な色合い,雌は地味な茶褐色のものが多い。マガモ・コガモ・オナガガモ・ハシビロガモなど。日本ではカルガモを除き,多くは冬鳥。季冬「海くれて―のこゑほのかに白し」芭蕉』

「鳧」、『けり【計里・鳧】チドリ目チドリ科の鳥。全長約35センチメートル。背面は灰褐色,腹は白色で,飛ぶと翼と尾に鮮やかな黒白の模様がでる。擬傷が巧み。アジア東北部に分布し,日本では近畿以北の限られた地域で繁殖。やまげり。』

 知っている漢字より知らない漢字のほうが圧倒的に多く、さらに読めても書けない漢字はさらに少ないことは充分納得しています。この「鳧」もはじめてみました。

 扇型の網を透かして見える鴨や山や空を強く意識した画。また日が昇る手前の山にはまだ陽があたらず山が影になっている様も空と草原との対比を強調しています。絵の枠をはみ出して翔ぶ鴨がしゃれています。

 

2026年7月20日月曜日

大日本物産圖會その29

P29 国立国会図書館デジタルコレクション蔵

P29_1

(読み)

伊豫 國 牛蒡 堀 之図

いよのくにごぼうほりのず


牛蒡(ゴバウ)ハ諸 國 培養(ハイヤウ)せ

   ごぼう はしょこく   ばいよう せ


ざる処  奈しと雖  も豫州

ざるところなしといえどもよしゅう


各 郡  尓て培 養 する物

かくこおりにてばいようするもの


を第 一 等 と須その大

をだいいっとうとすそのだい


奈る物 四 尺  余  尓い多る

なるものよんしゃくあまりにいたる


太 きこと左しわ多し

ふときことさしわたし


三 四 寸 尓あ満る和(ヤハ)ら

さんよんすんにあまる  やわ ら


可耳してその味 ハひ

かにしてそのあじわい


尤   佳(カ)なり

もっとも  か なり

(大意)

(補足)

「伊豫國」、愛媛県。予州。

「左しわ多し」、変体仮名「左」(さ)のかたちが、「左」は左側に形が流れているのに、変体仮名では右にながれていて、なんかもやもやします。

「あ満る」、ここの「あ」は変体仮名「安」におきかえたほうがよさそう。

 こんなでっかい牛蒡があるわけがなく、巨大さを誇張するのが浮世絵・錦絵のあるあるなので、それにならったものでしょう。しかし、長さが四尺(120cm)、太さが三四寸(9〜12cm)と詞書きにあってデカイことはでかい!それくらいのおおきさの牛蒡を甘く煮付けたものを長野県は野沢村で食したことがあります。

 左の小屋の土壁、ひび割れを入れるのが鉄則です。お手伝いの子どもの着物柄が鮮やかできれいです。

 

2026年7月19日日曜日

大日本物産圖會その28

P28 国立国会図書館デジタルコレクション蔵 

P28_1

(読み)

美濃石 灰 焼 之圖

みのせっかいやきのず


石灰(いし者゛い)越焼(やく)尓ハ平窯(ひら可゛ま)櫓(やくら)可゛満の

   いしば い を  やく には   ひらが ま   やぐら が まの


両  種(し由)阿りて櫓(やぐら)ハ高(多可)さ一 丈

りょう  しゅ ありて  やぐら は  たか さいちじょう


周経(めぐり)三 尺  中真(ち うしん)の穴 越下

   めぐり さんじゃく   ちゅうしん のあなをした


の方(可多)細(本そ)くなし底(そこ)尓穴(あ奈)あ

の  かた   ほそ くなし  そこ に  あな あ


里石(いし)と炭(すミ)とを夾(者さ)ミ幾重(い久ゑ)

り  いし と  すみ とを  はさ み   いくえ


もかさ袮下(し多)より焼(や起)天火(く王)

もかさね  した より  やき て  か


気(き)越登(の)本゛らせ下 の穴(あ奈)より

  き を  の ぼ らせしたの  あな より


灰(者い)をか起出(い多゛)せり斯(可久)天次第(し多゛い)

  はい をかき  いだ  せり  かく て   しだ い


尓石(いし)と炭(すミ)越積(つ)ミ添(そ)へ焼(や起)

に  いし と  すみ を  つ み  そ へ  やき


者じめより凡  百  日 昼夜(ち うや)

はじめよりおよそひゃくにち   ちゅうや


絶(多由)るこ登なし

  たゆ ることなし

(大意)

(補足)

「平窯(ひら可゛ま)櫓(やくら)可゛満」、フリガナ「ひら可゛ま」はこれであっているとおもいますが、「やくら」は二文字「やト」と読めますけどさて?しかし次の行に「櫓」のフリガナが「やぐら」とあって、前者の「やト」に少し重なる気もします。

「丈」、『じょう ぢやう【丈】① 尺貫法の長さの単位。一〇尺。1891年(明治24)100メートルを三三丈と定めた。約3m』。

 奥の丸い池みたいなのが平窯。手前が櫓窯。火気をともなう力仕事の危険な職場にもかかわらず、左隅に子どもがなにか手伝いをしようとしています。AIの概要によると明治10年頃は全人口の4割弱が14歳以下の子どもであった(現在は1割前後)とあって、どこもかしこも子どもだらけだったようです。

 櫓窯のはしご代わりの斜面をみると、ピラミッドはこのようにして積み上げていったのではないかと夢想してしまいます。

 山から切り出した石灰岩を砕き加工してできたのが生石灰、これをこの画のように焼き上げてできたのが消石灰、最初は肥料にしましたが、のちセメントとなって高度生長の礎となりました。

 わたしの住んでいる隣町に青梅市があります。江戸時代初期より江戸城の白壁などのために石灰(漆喰)を運ぶためにつくられたのが青梅街道です。現在でも奥多摩で生産されています。