2026年4月23日木曜日

日本山海名物圖繪巻之三 その1

P1 国文学研究資料館蔵

(読み)

日 光 膳 椀

    ぜん王ん

にっこうぜんわん


下 野  国 日 光 山 江戸ゟ 三 十  一 里阿り此 所  より出る

しもつけのくににっこうさんえどよりさんじゅういちりありこのところよりでる


椀 膳 堅 地尓てつよし雑 用 尓便 りありとて

わんぜんかたじにてつよしざつようにたよりありとて


諸 人 賞  翫 する也 ◯心越禅師題詞 刀鋸刪出方圓器。

しょじんしょうかんするなり


膠漆塗来斤玉光。分与世間通貨宝。太平風雨拝君王

(大意)

(補足)

「心越禅師」、『東皐心越(とうこう しんえつ、崇禎12年8月21日(1639年9月18日) - 元禄8年9月30日(1695年11月6日))は、江戸時代初期に中国から渡来した禅僧。詩文・書画・篆刻など中国の文人文化、独立性易とともに日本篆刻の祖とされる』。

「雑用尓便りありとて」、う〜ん🤔・・・意味がいまひとつ不明です。

 漢文はDeepLが、『刀と鋸で円形の器を削り出し 漆を塗れば玉のような輝きを放つ

 これを世の通貨として分かち合い 太平の世、風雨の中、君王に拝礼する』と翻訳しました。

 手動の轆轤(ろくろ)が目を引きます。紐をかけて手で回しますが、脚で回すものもありました。隣の部屋で眼鏡をかけた方は右手にヘラをもち椀に漆を塗っています。その奥の女性は食器棚のような箪笥に塗りたての漆椀をおさめていますが、これは漆風呂といって、漆を乾かす箱です。

 ここでは3つの工程を描いていますが、実際はこの数十倍以上の時間と工程がかかります。

 

2026年4月22日水曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その17

P32 国文学研究資料館蔵

(読み)

尾張 大 根

お者り多いこん

おわりだいこん


大 根 甚  多大 き尓して風 味かろく大 上  品 也

              ふうミ

だいこんはなはだおおきにしてふうみかろくだいじょうひんなり


日本 尓天大 根 の㐧 一 奈るへし江戸ねりま

にほんにてだいこんのだいいちなるべしえどねりま


大 根 大 きさ尾張 大 根 尓おとら須゛然  共 風 味ハ尾張 より毛

だいこんおおきさおわりだいこんにおとらず しかれどもふうみはおわりよりも


者る可尓於とれり江 州  伊吹 大 根 又 名 物 なり尾張 大 根 尓

はるかにおとれりこうしゅういぶきだいこんまためいぶつなりおわりだいこんに


おとら須゛摂 州  倉 橋 江口 木津等 より出る大 根 又 名 物 奈り

          くら者し

おとらず せっしゅうくらはしえぐちきづとうよりでるだいこんまためいぶつなり

(大意)

(補足)

「江州」、『近江国』。

「摂州」、『摂津国。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部』。

 練馬大根がこの当時から、名前があがるほど有名とは知りませんでした。

それにしても、この尾張大根、いくらなんでも大きさ強調しすぎ!かついでいる人の2,3倍はある。この大きさ二本を2人でかつげるわけがありません。

 幕末に海外からいろいろな人たちが日本にやってくるようになって、日本の春画が他の浮世絵や錦絵とともに人気となりました。そしてそこに描かれている日本人の男根(大根ではありません)の巨大さに、一時は日本人ものはこれほどにすばらしく大きいのだと信じられたという話があります。

 前頁のでかいかぶらも強調したいあまりに大きく描かれていそうです。

 

2026年4月21日火曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その16

P30P31 国文学研究資料館蔵

(読み)

近江蔓菁

あふミかふら

おおみかぶら


近 江かぶら甚  多゛大イ奈り至  て大 奈るハ壱 荷尓

                          可

おおみかぶらはなはだ だいなりいたってだいなるはいっかに


五 ツ六 ツ奈りでハ荷ひ可゛多し初  て古ゝに来て

いつつむっつなりではかいが たしはじめてここにきて


見る人 ハきもを徒ぶ須こと也 余国 より出るものハこれ本ど尓

みるひとはきもをつぶすことなりよこくよりでるものはこれほどに


大 奈るハなし又 摂 州  天 王 寺可ぶら名 産 也 近 江可ぶら能

だいなるはなしまたせっしゅうてんのうじかぶらめいさんなりおおみかぶらの


古゛とく大 きくハ阿ら袮ども其 味 すぐれて美奈り本し

ご とくおおきくはあらねどもそのあじすぐれてびなりほし


可ぶらとなして三 ケ 津へ出須人 のあま年く志り多る名 物 也

かぶらとなしてさんがのつへだすひとのあまねくしりたるめいぶつなり

(大意)

(補足)

「壱荷」、『か【荷】(接尾)助数詞。(一人が肩で担ぐほどの量の)荷物を数えるのに用いる。「酒樽三―」〔天秤棒で担ぐ二つの荷物を一組とし,それを一荷と称したことに由来する〕』

「三ケ津」、『さんがのつ 【三箇の津】→三津(さんしん)』『さんしん【三津】古く,内外航路の重要な港であった筑前の博多津(はかたのつ),薩摩の坊の津,伊勢の安濃津(あのつ)の三つの港をいう。三箇(さんが)の津(つ)』、ここでは『江戸時代には京・大坂・江戸の「三都(さんと)」や、役者の番付などで使われる表現としても知られてた』。

 本当に、こんなに巨大なかぶらがあったのかどうかちょっと信じられませんけど、どうなんでしょう?

 縄をまとめている母親のそばで遊ぶ子どもたち、風車に馬のおもちゃ。こちらの農家は裕福だったのかもしれません。

 通りがかりの旅人のような二人、こちらをむいて笠をかぶっている人の胸に数枚の札みたいのがぶら下がっています。なんでしょうねぇ?

 

2026年4月20日月曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その15

P28P29 国文学研究資料館蔵

(読み)

江戸四 日市 ノ蜜柑 市

えどよっかいちのみかんいち


江戸の市中  尓賣 ハお本く駿 河ゟ

えどのしちゅうにうるはおおくするがより


出紀州  み可んも大 坂 より舟 廻 し

できしゅうみかんもおおさかよりふなまわし


尓て下 る也 江戸四 日市 の廣 小 路尓籠 入 のみ可ん山 のごとく

にてくだるなりえどよっかいちのひろこうじにかごいりのみかんやまのごとく


尓高 くつミて毎 日 \/  賣 買 の商  人 群 集 春江戸ハ日本

にたかくつみてまいにちまいにちうりかいのしょうにんぐんじゅすえどはにほん


㐧 一 の都 會 尓て繁 昌  の津奈れバ京  大 坂 尓まさりて賑 ハへ里

     とくハい  者んしやう                 尓ぎ

だいいちのと かいにてはんじょうのつなればきょうおおさかにまさりてにぎわえり

(大意)

(補足)

「江戸四日市」、『古くは日本橋と江戸橋の間、川より南の大路をいい、毎月四の日に市がたつ町でした。明暦(めいれき)の大火(1657年)の後、町屋(まちや)を移転させ、川沿いに二町半(約272.5m)にわたり石を積んで、高さ4間(約7.2~7.8m)の土手蔵(どてぐら)を築いて防火壁としました。その後、この地を元四日市町(もとよっかいちちょう)、川沿いを四日市河岸(よっかいちがし)と呼び、様々な市が立つなど、繁盛(はんじょう)の地となりました』。 

 江戸名所図会四日市長谷川雪旦(はせがわせったん)画 天保5~7年(1834~1836)。

 この本は宝暦4(1754)年に出版されているので、ここの画は四日市河岸。

 すべて籠で運搬したのですから、いったいどれくらいの籠が使われたことか!河岸のあわただしい賑やかさが伝わってきます。

 

2026年4月19日日曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その14

P26P27 国文学研究資料館蔵

(読み)

紀伊 國 蜜柑

きいのく尓ミ可ん

きいのくにみかん


紀州  駿 河肥後ノ八 代 より出るみ可ん皆 名 物 奈り

          やつしろ

きしゅうするがひごのやつしろよりでるみかんみなめいぶつなり


中 尓も紀州  尤   すぐれ多り皮 あつくして其 味 あまし

                        そのあぢ

なかにもきしゅうもっともすぐれたりかわあつくしてそのあじあまし


京  大 坂 の市中  尓賣 毛のお本くハ紀州  奈り山 より出春尓籠 尓

きょうおおさかのしちゅうにうりものおおくはきしゅうなりやまよりだすにかごに


入 て風 のあ多らぬやう尓認  めて来る也 

いれてかぜのあたらぬようにしたためてくるなり


一 籠 尓百  入 二百  入 三 百  入

ひとかごにひゃくいりにひゃくいりさんびゃくいり


阿り籠 の大 きさハ何 連も同 しこと也 み可んの大 き奈るハ数 春く奈し

ありかごのおおきさはいずれもおなじことなりみかんのおおきなるはかずすくなし


其 外 餘國 尓も少  々  ハ有 加賀越 前 等 の雪 國 尓ハみ可んの木なし

そのほかよこくにもしょうしょうはありかがえちぜんとうのゆきぐににはみかんのきなし

(大意)

(補足)

 ここでは柿のときと同じようにみかんの木にはしごをかけてとっています。現在ではこれほどには大きくせず収穫しやすいように大きさをととのえています。

 蜜柑の大きな木を製材した材木の表面はとてもすべすべしてなめらかです。そして硬い。

 黒羽織を着た現場責任者のような人、むいた蜜柑を左手に、右手には一房持って、味見しているように見えます。

 蜜柑収穫まっさかりです。

 

2026年4月18日土曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その13

P24P25 国文学研究資料館蔵

(読み)

焙 籠

本いろ

ほいろ


上 の繪尓見え多る茶 の葉を湯出て日尓本し多るを

              由で

うえのえにみえたるちゃのはをゆでてひにほしたるを


本いろ尓可けてあぶる也 此 後 ハ煎 春る時 のほいろ尓ハ阿ら須

ほいろにかけてあぶるなりこののちはせんずるときのほいろにはあらず


宇治御茶 師御通  御用 凡  三 十  三 人 上林味卜 上林春松

うじおちゃしおとおりごようおよそさんじゅうさんにん


上林平入 上林三入 長井貞甫 酒多宗有 尾崎有庵


星野宗以 堀真朔 長茶宗味 辻善徳


茶 ノ保育炉 保育 又 ハ雪 洞 共 云 俗 尓助 炭 と云

   本いろ 本いろ   せつとう       じよたん

ちゃのほいろ ほいろまたはせつどうともいうぞくにじょたんという


抹 茶 臼  図

ひきちやうすのづ


(大意)

(補足)

「宇治御茶師御通御用」、『江戸幕府の制度で、宇治の茶師(碾茶生産者)が将軍家へ献上する新茶の運搬・御用を務める「御茶師」のうち、江戸城で用いる雑用や、西の丸用などの日常的なお茶を調達・納入した下位の茶師階級、またはその役割を指す』。

「凡三十三人」、『御茶師の人数は増減がありますが、18世紀頃の記録では御物御茶師が11家、御袋御茶師が 9 家、御通御茶師 13 家とされています』。なるほど33になります。

 絵に動きがあっておもしろい。臼でゴリゴリした挽茶の細かいものがつぶつぶで描かれていますけど、彫師・摺師泣かせかもしれません。

 わたしの育った街の商店街にお茶屋さんが数軒ありました。そのうちの一軒がいつもドラム缶を横にしたような器具でほうじ茶を炒っていたのですが、その香りがあたりにただよっていて、あれはたまりませんでした。なんどもなんどもスーハースーハーしたものでありました♫

 詳しい内容が「学習院大学学術成果リポジトリhttps://glim-re.repo.nii.ac.jp › shigaku_8_47_70『江戸時代の宇治茶師』」にあります。 

2026年4月17日金曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その12

P22P23 国文学研究資料館蔵

(読み)

茶 名 物 大概

          可い

ちゃめいぶつたいがい


宇治莖 茶  近 江滋賀  来 筑 前 岩 上  大 和吉 野川 上

  くき      し可゛らき     いハ可ミ

うじくきちゃ おおみしが らき ちくぜんいわがみ やまとよしのがわかみ


駿河ノ安倍 美濃ノ虎渓  近 江越 渓  播 州  粟 賀  仙 霊

   あべ    こけい    ゑつけい      あハ可゛のせんれい

するがのあべみののこけい おおみえっけい ばんしゅうあわがののせんれい


山 城 高 雄 本 葉  同 薄 葉 丹 後ノ草 山

    た可をの本ん者    うす者

やましろたかおのほんば  どううすば たんごのくさやま


同 高 泉 寺 同 明 石 伊勢川 俣  

          あけし   可王者多

どうこうせんじ どうあけし いせかわはた


伊予ノ金 甑   美濃輪違   江 州  一  山  同 厂 音  

   可奈こしき   王ち可ひ      ひとつやま   可り可゛年

いよのかなこしき みのわちがい こうしゅうひとやま  どうかりが ね


同 山吹  同 初 緑

   ふき   者川ミとり

どうやまぶきどうはつみどり


同 春 風 同 㐂撰  駿 河足 久保 日  向茶 数 品 阿り

        きせん    あしく本  

どうはるかぜどうきせん するがあしくぼ ひゅうがちゃすうひんあり


志め木尓て志めて水 氣をとり日尓本すてい

しめきにてしめてみずけをとりひにほすてい


ゆで阿げ多る葉を志め木尓て志める所

ゆであげたるはをしめぎにてしめるところ


(大意)

(補足)

 有名なお茶どころの国と茶銘柄を列記しています。現在でも引き続き生産しているところもあれば、完全に消滅しているところもあるようです。

 老婆は重いものは持てないので、茶葉を日に干す仕事です。他の3人の御婦人の着物の線が今までとはことなって、どこかやわらかくなっているようにみえるのは気のせいでしょうか。

 左隅「志め木尓て志め」て、水が桶からふた筋流れているところのつもりなのでしょうけど、紐のように見えなくもない。