2019年2月28日木曜日

変事出来二付心得覚記 その105




 P.43 5行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
然 ル所  同 十  五日 、十  六 日 村 方 ゟ
しかるところどうじゅうごにち、じゅうろくにちむらかたより

罷  出候   者 共 凡  弐百  人 追 々 立 帰 り
まかりでそうろうものどもおよそにひゃくにんおいおいたちかえり

候   内 、新 組 百  姓  紋 次郎 ・豊 五郎 ・
そうろううち、しんぐみひゃくしょうもんじろう・とよごろう

留 次郎 三 人 いまだ帰村 不仕    二付 、
とめじろうさんにんいまだきそんつかまつらずにつき、

様子相尋候得共、右三人之儀者
ようすあいたずねそうらえども、みぎさんにんのぎは

何 連江罷  越 候   哉不存  旨申之  、
いずれへまかりこしそうろうかぞんぜずむねもうし、

(大意)
しかしながら、同15日、16日に村から
出向いてきた者たち約200人は徐々に村に帰ってきました。
しかし、新組の百姓紋次郎・豊五郎・
留次郎の3人がいまだに村に帰ってはおらず、
様子を尋ね回ってみたものの、これら3人の者たちは
どこへ出かけたものかわからないとのことで、


(補足)
「然ル」、頻出です。「灬」がどこかにいってしまってますが、形で覚えます。
「弐」、偏と旁のようにしてくずします。次に「百」がきているので漢数字と推測できます。
「立帰り」、「立」に意味はなく接頭語。

「豊五郎」の「五」とその2行前の「十五日」の「五」が異なってます。
「いま多゛」(いまだ)、「何連」(いずれ)、変体仮名。
「相尋」、「相」は接頭語で意味なし。「尋」がずいぶんくずされています。


 百回をちょっと越しました。この調子でゆくと終了見込みは約1年後かもう少しというところです。
我が家から下名栗・上名栗あたりまで車で30分程度です。
先日出かけたのですが、バス停名が当時のままのものが散見され、親しみを感じました。
また名栗村出身の古老にお話を伺っても子どもの頃から周りの風景は何も変わってないと、山々を見ながら語ってくれました。

 道路は車社会に合わせて舗装され道幅も広くなり、橋も立派なものになってます。
しかし、住居の関係で道路を拡幅できないところは昔ながらの道で、車のすれ違いができないところもたくさんあります。この覚記にでてくるお寺は今でもみな現存します。

 150数年前の江戸時代はそれほど遠い昔ではなく、
手を伸ばせば届くようなところにあると感じるのです。


2019年2月27日水曜日

変事出来二付心得覚記 その104




 P.43 最初〜5行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
其 外 打 毀  、夫 ゟ 扇  町 屋江押 出
そのほかうちこわし、それよりおおぎまちやへおしだし

候  得共 、同 所 江罷  越 其 砌  者猶 又
そうらえども、どうしょへまかりこしそのみぎりはなおまた

人 数 弥 増 、迚 も村 方 之者 共 尋  出し
にんずういやまし、とてもむらかたのものどもたずねだし

引 戻  候   儀難出来  、無拠     一 同 帰村
ひきもどしそうろうぎできがたく、よんどころなくいちどうきそん

仕    候
つかまつりそうろう

(大意)
そのほか打ち壊し、それから扇町屋へ押しかけて行きました。
しかし、(われわれが)そこへ着いたときにはなおまた
人数がますますふくれあがっており、とても(われわれの)村の者たちを見つけて
連れ帰ることは難しく、なんとも仕方がないので村役人たちは村に
帰って来るしかありませんでした。


(補足)
 個性的で流麗ではあっても後々読みにくいくずし字とは正反対の楷書の趣が感じられる読みやすい頁になっています。

 再度、村役人たちの村と、扇町屋近辺の略図を示します。
飯能河原から扇町屋近辺までは直線距離で約8Kmです。



 移動は徒歩です。村役人たち一同は全員が壮健ではありません。源左衛門さんは51才でしたから、当時としてはもうお年寄りの仲間に入ります。さらにその移動中にも、あちこちからの情報を聞き集め、また文もかいたことでしょう。心身ともにぐったりだったはずです。

「砌」(みぎり)、とき・ころ・おり。
「猶又」(なおまた)、2文字セットで覚える。頻出。
「弥増し」(いやまし)、「弥々」(いよいよ)など頻出。
「迚も」(とても)、この漢字は現代では見ることは少なくなりました。
「難出来」(できがたく)、「隹」の原型はなく、平仮名「し」の中程でくるっと右回りに筆をまわしてそのまま残りをかき、仕上げに右に「、」。形で覚えます。
「無拠」(よんどころなく)。なんともしかたがない。他にどうしようもない。



2019年2月26日火曜日

変事出来二付心得覚記 その103




 P.42 6行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
村 方 之者 共 何 連に
むらかたのものどもいずれに

罷  居 候   とも難見分   、徒黨 共
まかりおりそうろうともみわけがたく、ととうども

同 所 二而穀 屋渡世 之者 四 軒 、翌
どうしょにてこくやとせいのものよんけん、よく

十  四 日朝 五 ツ時 頃 迄 二居 宅 ・土蔵
じゅうよっかあさいつつどきごろまでにきょたく・どぞう


(大意)
(我々の)村の者たちはどこに
いるのか見分けることができず、徒党の者たちは
飯能村の穀物店4軒、翌
14日朝5ツ(8時)頃までに住居・土蔵


(補足)
「何連に」、「連」(れ)変体仮名。平仮名の「に」とカタカナの「ニ」の使い分けは気分次第。
「候登も」、「登」(と)変体仮名で頻繁につかわれます。
「難見分」(みわけがたく)、「分」のくずし字は「彡」+「、」。

数行前では「徒黨のもの共」でしたが、こんどは「徒黨共」、これも前後の文章の調子と気分次第?
「渡世」(とせい)、この単語は現代では「渡世人」などの表現で映画の切った張ったの世界の言葉になってしまってます。当時はごく自然に「仕事・稼業・なりわい・手に仕事をもってそれで働き生きていくこと」として使われてました。どこから偏った使い方になってしまったのでしょう。

「四軒」、「四」だけをみると意外とわかりませんが、次が「軒」ときているので、推測できます。
「五」、筆の運びは、「7」の最後のところで、筆を右回りに返してくるっと回すように右下へ。
「土蔵」、「蔵」は名前でもたくさんでてきました。「土」が「云」に似てます。最後にどうして「、」がつくのでしょうね。


2019年2月25日月曜日

変事出来二付心得覚記 その102




 P.42 最初〜6行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
騒  立 候   二付 、村 役 人 共 精 々 申  諭
さわぎたてそうろうにつき、むらやくにんどもせいぜいもうしさとし

差 留 候  得共 不取用   、抜 々 村 方
さしとめそうらえどもとりもちいず、ぬきぬきむらかた

立 出 候   二付 、引 続  役 人 共 一 同 飯 能 村 へ
たちいでそうろうにつき、ひきつづきやくにんどもいちどうはんのうむらへ

追 欠 罷越   見受 候   處  、徒黨 之
おいかけまかりこしみうけそうろうところ、ととうの

もの共 何 方 ゟ 集   候   哉夥   敷
ものどもいずかたよりあつまりそうろうやおびただしく

多人 数 二而、
たにんずうにて、


(大意)
騒ぎ立てていましたので、村役人たちで精一杯説得し
押し止めようとしましたがそれもかなわず、われわれを突き破って
村を出ていってしまいました。すぐに村役人たち全員で彼らのあとを飯能村まで
追いかけていったところ、一体どこからこれだけのものたちが
集まったのかとおもわれるほど、おびただしい
人たちで


(補足)
この頁はまちがいなく源左衛門さんの手跡でしょう。

「騒」、馬偏が大きな「る」にみえます。また「又」の両脇にある「、」は旧字の「騷」?
「精々」、なるほどよく見ると「米」「青」に見えますが・・・。
「諭」、言偏が小さく旁が大きいので、ちょっと悩みます。
「罷越」(まかりこし)、2文字セットで覚えておく。

「徒黨」、「党」の旧字。
「集」のくずし字が、今風です。
「敷」、偏と旁の左右の位置関係が、冠と脚の上下に位置してます。

「役人共」「もの共」と「共」が3箇所に出てきます。「〜たち」の意味ですが
こちらの「候得共」は3点セットで「〜ですが」。


2019年2月24日日曜日

変事出来二付心得覚記 その101




 P.41 4行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
乍恐    以書付     奉申上       候
おそれながらかきつけをもってもうしあげたてまつりそうろう

武州  秩 父郡 上 名栗 村 新 古両  組 村 役 人
ぶしゅうちちぶぐんかみなぐりむらしんこりょうぐみむらやくにん

惣 代 年 寄 軍 蔵 ・百  姓  代 亀 太郎
そうだいとしよりぐんぞう・ひゃくしょうだいかめたろう

奉申上       候   、当 月 十  三 日 御訴   奉申上       候
もうしあげたてまつりそうろう、とうげつじゅうさんにちおうったえもうしあげたてまつりそうろう

通 り、村 方 小前 之者 共 多人 数 騒  立 、
とおり、むらかたこまえのものどもたにんずうさわぎたて、

高麗郡 飯 能 村 穀 屋共 方 江米 穀
こまぐんはんのうむらこくやどもかたへべいこく

借 請 度 趣   を以  、去ル十  三 日 暮 六ツ時 ゟ
かりうけたくおもむきをもって、さるじゅうさんにちくれむつどきより


(大意)
恐れ乍ら書付をもって申し上げます。
武州秩父郡上名栗村新古両組村役人
惣代年寄軍蔵・百姓代亀太郎が
申し上げます。当月の13日にお訴え申し上げました
通り、村方の小前の者たちが多人数で騒ぎ立て
高麗郡飯能村の穀物商方へ米穀物を
借り受けるつもりで、先日の13日暮六ツ(夕方の6時)より


(補足)
出だしの「乍恐以書付奉申上候」は、お役所やお上への提出書類の書き出しの定型文。
3箇所とも下から返って読む。
「名栗」の「栗」が読めません。
「高麗郡」、「麗」がよくみるとわかるような気がするのですが・・・。


「新古両組」、何度も出てきました。新組と古組。
上名栗村は亨保9年(1724)に年貢勘定でもめたため2つの組に別れて村運営を行うようになりました。古組は町田家の名主世襲制、新組は年ごとの輪番名主制です。
現在読んでいるこの史料は新組の名主平沼家から1998年に発見されたもので、今までは古組町田家からのものでしたので、この史料の重要性が当時より指摘されてます。

「米穀借請度趣を以」、最初から打ち壊す意思はなく、あくまでも借り受けることを強調しているのでしょう。自分たち村役人の責任も問われてしまいますから、昔も今も変わりません。


2019年2月23日土曜日

変事出来二付心得覚記 その100




 P.41 最初〜3行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
翌 日 十  八 日 、太次郎 殿 新 立 江参 り、
よくじつじゅうはちにち、たじろうどのにったちへまいり、

小前 一 同 帰村 届 ケ
こまえいちどうきそんとどけ

    其 文 言 二日
    そのもんごんにいわく


(大意)
翌日18日、太次郎殿が新立へ来ました。
小前全員が帰村したことの届け(を提出しました。)
その届けの内容は以下のとおり(です。)


(補足)
「帰村」、何度も出てきてます。「帰」の「リ」の一画目がほとんど「、」です。

「翌日」、「十八日」と「文言ニ曰」では同じ「日」なのですがくずし字は異なっています。


 変事出来してまだ1週間もたっていません。
名主たち村役人にとっては、1ヶ月にも相当するくらいの日時だったかもしれません。



2019年2月22日金曜日

変事出来二付心得覚記 その99




 P.40 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
相 成 候   哉、此 段 取 調  正  覚 寺
あいなりそうろうや、このだんとりしらべしょうかくじ

旦 中  ゟ 古と者じまり候   由 、
だんちゅうよりことはじまりそうろうよし、

乍去   紋 次郎 ・豊 五郎 いまだ
さりながらもんじろう・とよごろういまだ

不帰  、紋 次郎 噺  出し中 谷戸
かえらず、もんじろうはなしだしなかやど

徳 太郎 江噺  継二 相 成
とくたろうへはなしつぎにあいなり

豊 五郎 ゟ
とよごろうより

右 之趣   、十  七日  当 名主 太二郎 殿 へ、
みぎのおもむき、じゅうしちにちとうなぬしたじろうどのへ、

新 立 小前 之集   候   次第 ヲ申  渡 ス
にったちこまえのあつまりそうろうしだいをもうしわたす


(大意)
そういうことになったのか、このことについての取り調べでは正覚寺の
檀家たちより事は始まったときく。
しかしながら、紋次郎と豊五郎はいまだに
帰ってはいない。紋次郎が(最初に)はなしを始め、中谷戸の
徳太郎へはなし継がれたのだろ。
豊五郎より

以上のような事情について(確かめるために)、17日名主の太次郎殿へ
新立へ小前たちを集めるよう手はずを整えるよう申し渡した。


(補足)
 頁の中程で「相成」と中途半端で、あとに空白があり、さらに「豊五郎ゟ」のあとから空白と次の行がまるまる空いています。このときにはまだわからないことだったので、あとで書き加えることができるようにしたのでしょうか。

最後の行もよくわかりません。
新立の小前たちを集めるように命じられたのか、新立へ周辺の小前たちを集めるように命じられたのかのどちらかでしょう。
新立は町田家のところです。

「旦中」、この前に正覚寺があるので読めますが、「旦」だけだと?。
「古と者じまり候由」、変体仮名・平仮名が続き、源左衛門さんはこんな風に書きましたっけ?
「乍去」(さりながら)、「乍恐」(おそれながら)と同じ書き方です。
「いま多゛」、変体仮名。

 打ち壊しの恐れはなくなってきたので、早速この変事の取り調べが始まり出しました。

2019年2月21日木曜日

変事出来二付心得覚記 その98




 P.39 6行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
頭 取 之者 飯 能 二而訳 り候   二者よし、
とうどりのものはんのうにてわかりそうろうにはよし、

若 又 訳 り不申  候ハヽ  、村 役 人 二而
もしまたわかりもうさずそうらわば、むらやくにんにて

小前 取 調  可申   之被仰渡    候、
こまえとりしらべもうすべくのおおせわたされそうろう、

右 二付 、此 度 之直下ケ無心 之
みぎにつき、このたびのねさげむしんの

噺 しハ誰 ゟ 始  る、誰 江噺  継 二
はなしはだれよりはじまる、だれへはなしつぐに


(大意)
首謀者が飯能で明らかになればよい、
もしわからないときには、村役人にて
小前たちを取り調べるよう、申し渡された。
以上の件に付き、このたびの(穀物の)値下げと金銭の要求の
話は、誰から始まって、誰へ伝わって(いったのか)


(補足)
「頭取」、「頭」の豆偏がなじみ薄いです。
ちょうど同じ位置に2行、「不申」と「可申」が並んでいます。ちょっとした違いです。
「被仰渡候」、既出で定型文の典型です。

「直下ケ」、「継ニ」の「L」部分ですが、「∠」のように下位置にくるのが定番のようです。

 この時期、幕府は猫の手も借りたいほど忙しく、京都やあちこちで紛争が起きていました。
それでも、3,4日で役人がお出ましできるのですから、江戸近辺での変事にそれなりの危機感を感じていたのでしょう。


2019年2月20日水曜日

変事出来二付心得覚記 その97




 P.39 最初〜5行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
出向 候   間  、新 立 江参  呉様
でむきそうろうあいだ、にったちへまいりくれよう

申  候   二付 新 立 江参 ル、小物 ゟ
もうしそうろうにつきにったちへまいる、こものより

上ミ不残  小前 一 同 新 立 江集  ル、
かみのこらずこまえいちどうにったちへあつまる、

岩 鼻 御役 所 御届 ケ次第 、
いわはなおやくしょおとどけしだい、

木村 越 蔵 様 飯 能 村 江御廻 村
きむらえつぞうさまはんのうむらへごかいそん


(大意)
(お役人様がこちらへ)でかけてくるということなので、新立へ来るよう
申し付けられ、新立へ参りました。小物より、村の上ノ者小前一同は残らず新立へ集まりました。
岩鼻お役所へ事の次第をお届け次第
木村越蔵様が飯能村へやって来られました。


(補足)
 この頁はすべて12行が大きさも筆圧も均一の筆跡で、行末で書ききれなかった文字を詰め書きしているところもありません。きれいです。

 いままで「新立」を(しんだて)としていましたが、地図で確かめたところ(にったち)のようです。現在は「新館」と記されてます。町田家の場所。

「申候ニ付」、「申」がほとんど「十」のよう。
「参ル」、「集ル」、この「ル」はカタカナ?、変体仮名の「留」ではなさそうです。

 全ページでは吾野からお役人が来るという話で、この頁では飯能村へご廻村とあるので
同じお役人なのでしょうか。よくわかりません。

「岩鼻お役所」は何度も出てきましたが、現在の高崎にあった、幕府の代官所。

「飯能村」、「飯」の「食」へんがどうしても慣れることができません。形で覚えるしかないのですが。


2019年2月19日火曜日

変事出来二付心得覚記 その96




 P.38 5行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
尤   、是 ハ言 訳 申  候  得共 、村 方
もっとも、これはいいわけもうしそうらえども、むらかた

穏 便 二相 成 二付 聞 捨るもの也
おんびんにあいなりにつきききすてるものなり

施  し金 千 両  上 名栗 村 有 徳 之
ほどこしきんせんりょうかみなぐりむらゆうとくの

者 二而差 出し可申   候   事 二相 成 候   、此 日
ものにてさしだしもうすべくそうろうことにあいなりそうろう、このひ

帰 り申  候   太次郎 殿 申  様 、十  六 日 夜 、
かえりもうしそうろうたじろうどのもうすさま、じゅうろくにちよる、

我 野ゟ 御出  役 様 被仰渡    二付
あがのよりごしゅつやくさまおおせわたされにつき


(大意)
もっともこれは言い訳を言っているわけですが、村の様子が
落ち着いてきているので聞き流しました。

施しのための金千両は上名栗村の資産家の
者たちが用意するということに決まりました。この日
帰宅した太次郎殿が言うには、16日夜
吾野よりお役人様が申し渡すために来るとのことで


(補足)
 段差げしてある2行は、源左衛門さんの個人的な意見感想の箇所でしょう。

「尤」、頻出です。3画目が横ではなく下へきています、で、そのまま「点」です。
「言」は「云」。
「穏便」、楷書のようで読みやすいです。

「徳」、これだけだとちょっと?ですが「有」に続くと推測できます。
「夜」、「亠」と「亻」がひとつになって偏になります。

「野」もこれだけでは難しいですが、「我」と一緒なので、読むことができます。
「被仰渡」(おおせわたされ)、頻出で3点セット。「被」はたんなる記号になってしまってます。


2019年2月18日月曜日

変事出来二付心得覚記 その95




 P.38 最初〜4行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
小前 之者 申  様 、下 筋 ゟ 若し
こまえのものもうすさま、しもすじよりもし

打 毀  参 り候   節 之防  之多免、
うちこわしまいりそうろうせつのふせぎのため、

其 段 御噺 し不致  候  段 、大 勢
そのだんおはなしいたさずそうろだん、おおぜい

もの申  訳 無之  、松 太郎 ゟ 噺 し
ものもうしわけこれなく、まつたろうよりはなし


(大意)
小前のものが言うには、下筋(飯能方面)より、もし
打ち壊しの者たちが来たときの防ぎのための
そのときのお話をしていたなかったことについて、大勢の者たちは
申し訳なくおもっていると、松太郎の話であった。


(補足)
 最初の二行の筆が細いのが気になります。

「下筋」と「節」の「竹」冠のくずし字がずいぶんと異なってます。
「多免」(ため)、あて字でしょうが、この文書では2箇所のみでしか使われていません。

「ゟ」(より)、合字。この4行にも2度出てきますが、この部分だけでなく頻繁に使われています。現代に引き継がれてないのは国の教育政策のためでしょうか。



2019年2月17日日曜日

変事出来二付心得覚記 その94




 P.37 6行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
太次郎 殿 ・松 太郎 殿 同 道 二而柏  屋江寄 、
たじろうどの・まつたろうどのどうどうにてかしわやへより、

新 立 江参 り、昨 十  六 日 晩 始末
にったちへまいり、さくじゅうろくにちばんしまつ

滝 之助 殿 江小前 一 同 惣 代 ヲ以
たきのすけどのへこまえいちどうそうだいをもって

侘 入 、施  し之儀者思 召  ヲ請
わびいれ、ほどこしのぎはおぼしめしをうけ

被下  候   事
くだされそうろうこと


(大意)
太次郎殿と松太郎殿が一緒に柏屋へ寄り、
新立へ行った。昨日16日夜の一部始終について
小前一同の代表が滝之助殿へ
お詫びをした。施しの儀についてはありがたく受け入れたいく
していただけるようお願いしたいとのことであった。


(補足)
 この頁に「侘言」「侘入」と「侘」が2度でてきます。
「名栗村史研究1」の翻刻では「託」と「訁」になっているのですが、原文通り「亻」だとおもいます。意味は同じです。

「同道」、2文字セットで形で覚えておく。頻出。

 滝之助さんはあれだけの剣幕で、ちょっとやそっとの謝罪だけでは怒りは収まらないとおもうのですが、どうだったのでしょう。それにこれから名主である村役人たちから施しをしなければならないのですから、なおさらその胸中はまだまだ煮えていたはずです。

 この投稿でも何度かふれていますが、この変事に関して滝之助さんが江戸にいる父親へ出した手紙があり、その翻刻すべてがネットにあります。変事の内容を伝える部分がよくまとまられてます。また父親に対しての丁寧さを通り越したへつらうような文面がとても目に付きました。



2019年2月16日土曜日

変事出来二付心得覚記 その93




 P.37 最初〜5行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
見せ候   所  、延 命 寺殿 に逸々
みせそうろうところ、えんめいじどのにいちいち

問き被為聞  、大 勢 之者 ども
とききかせられ、おおぜいのものども

券  ヲ連詫 言 申  証  文 浅 海 戸へ
こぶしおれわびごともうししょうもんあさかいどへ

返 ス、川 又 并   金 左衛門 へも返 ス、
かえす、かわまたならびにきんざえもんへもかえす、

秀 次郎 殿 噺 し二付 大 笑  申  候
ひでじろうどのはなしにつきおおわらいもうしそうろう


(大意)
見せたところ、延命寺住職殿に懇々と
言い聞かされ、大勢の者どもは
意気消沈しあれこれ言い訳をしたものの、証文を浅海戸へ
返却しました。川又と金左衛門へも返しました。
秀次郎殿の話に大笑いをしたのでした。


(補足)
 地名についてです。
以前の投稿で必要なところはわたしの手書きの地図を用いました。
国際興業バスの「飯能駅・名栗」地区のバス路線図が大変にわかりやすくできていて、それを参照するのが一番良いでしょう。バス停の駅名が当時のままであるところが何箇所もあります。
ネットで検索すればすぐに分かりますので是非ダウンロードしてご使用ください。
おすすめの徒歩のハイキングコース(7万分の1)も記入されています。

 この頁はどこかスッキリしています。散髪屋にでも行ってきた感じです。
「延命寺」、「延」がつぶれて読めません。
「被為聞」(きかせられ)、下から返って読む。「為替」(かわせ)などと同じです。

「証文」が「證」になってます。
「川又」と「金左衛門」のお二人は誰でしたっけ?

一同大笑いして、さぞかしホッとしたことでしょう。
しかし、この後やらねばならないことがたくさんあるのでした。


2019年2月15日金曜日

変事出来二付心得覚記 その92




 P.36 5行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
十  七 日 当 名主 太二郎 殿
じゅうしちにちとうなぬしたじろうどの

下拙 宅 江参 り居 候   處  江、下 名栗
げせつたくへまいりおりそうろうところへ、しもなぐり

当 名主 秀 次郎 殿 参 り申  様 、浅 海 戸
とうなぬしひでじろうどのまいりもうすさま、あさかいど

叔母二頼 満連参 り候   、今朝松 太郎 殿
おばにたのまれまいりそうろう、けさまつたろうどの

を以  御尋  之儀、大 勢 之者 ども
をもっておたずねのぎ、おおぜいのものども

浅 海 戸ゟ 書 付 ヲ持 出し、論 地山
あさかいどよりかきつけをもちだし、ろんじさん

延 命 寺殿 に利気味候   帝
えんめいじどのにりきみそうろうて


(大意)
17日、この村の名主太次郎殿が
拙宅へ来て居たところへ下名栗
村の名主秀次郎殿が来て言うには、浅海戸
叔母(お綱)に頼まれてまいりました。今朝松太郎殿
からのお尋ねの件ですが、大勢の者どもが
浅海戸より書付を持って論地山の
延命寺住職へ行き、気負って


(補足)
「当」が2度出てきます。くずし方がはっきりとわかります。
「浅海戸叔母」はお綱殿でしょう。
「頼満連」(たのまれ)、変体仮名。
「今朝」、「今」のくずし字が難しい。
「延命寺」、「命」の「卩」が下にきてます。
「利気味」(りきみ)、あて字。現在ではもちろん「力み」です。

「論地山」、現在でもハイキングコースになっているところです。

 源左衛門さんは名主たちに様々な要求をしている者たちのことを
「大勢の者ども」とか「徒黨者共」と呼んでいます。「一揆勢」などの呼び方はしていません。
彼らは近所の者共でほとんどが顔見知りのものたちです。
決定的な名主と小前百姓たちとの決裂を避けたいとの思惑と今後のことをおもんばかってのことだからでしょうか。


2019年2月14日木曜日

変事出来二付心得覚記 その91




 P.36 最初〜5行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
其 段 大 勢 之者 共 へ申  聞  、然 ら者゛
そのだんおおぜいのものどもへもうしきかせ、しからば

対 談 之無相違    書 付 可相渡と
たいだんのあいちがいなくかきつけあいわたすべくと

申  候   二付 、栄 助 認   、倉 之助 実 印
もうしそうろうにつき、えいすけしたため、くらのすけじついん

可致   、右 大 勢 徒黨 者 共 書 付
いたすべく、みぎおおぜいととうものどもかきつけ

ヲ持 返 り申  候   、
をもちかえりもうしそうろう、

(大意)
そのような話を大勢の者どもへ聞かせ、それでは
お互いの話した内容に間違いがないように、書付にして手渡そうと
言うので、栄助殿が認め、倉之助殿がそれに押印
した。その場の大勢の者どもは書付
を持ち帰った。


(補足)
「対」は旧字の「對」でしょうか。
「渡」、古文書小辞典で調べるともう少しわかりやすいくずし字になっています。
ここのはきれいな形なのですが、ちょっとわかりにくい。

「認」、「印」、「心」も「卩」も下にきてしまってます。
「徒黨」、なぜかこの単語はいつも大きめに書かれています。

「返」、「違」、活字ではずいぶんと異なりますが、くずし字はぱっと見た目同じようです。


 この頁のあたりからなんとなく、荒れていた空気の温度が下がってきているように感じられます。

2019年2月13日水曜日

変事出来二付心得覚記 その90




 P.35 7行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
夫 ゟ 栄 助 殿 家内
それよりえいすけどのかない

おつ奈どのに右 之由 噺  候得者゛、
おつなどのにみぎのよしはなしそうらえば、

おつ那どの申  様 、大 勢 之
おつなどのもうすさま、おおぜいの

望  二任 せ申  から何 卒 毀 し
のぞみにまかせもうすからなにとぞこわし

く連ぬ様 取 計   くれ候   様 申  候   二付 、
くれぬようとりはからいくれそうろうようもうしそうろうにつき、


(大意)
それより栄助殿の家内
おつな殿に先程の一件を説明したところ
おつな殿が言うには、皆さんの
お望み通りに致しますので何卒打ち壊さ
ぬよう取り計らってくださいとのことでした。


(補足)
 栄助殿の家内ですが、お綱殿、おつなどの、おつ奈どの、おつ那どの、といろいろとでてきます。

「家内」、自分の妻のことを言うときに使うものだとおもってました。通常なら栄助殿の奥さんなので「御内儀」のはずです。

「望」、読めません。下部がかろうしじて「王」のよう。
「任せ」、「伺」に見えてしまいます。


2019年2月12日火曜日

変事出来二付心得覚記 その89




 P.35 最初〜7行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
おつなどのに承    り挨 拶 致 し
おつなどのにうけたまわりあいさついたし

可申   と栄 助 答  、大 勢 之者 申  様 、
もうしべくとえいすけこたえ、おおぜいのものもうすさま、

其 様 之面 倒 之事 ならば
そのようのめんどうのことならば

打 毀 春遍しと障  子壱 本
うちこわすべしとしょうじいっぽん

打 破 り、大 勢 之者 仲 間二而是 二
うちやぶり、おおぜいのものなかまにてこれに

先 静  に可致   と差 押 江挨 拶
さきしずかにいたすべくとさしおさえあいさつ

承    り而之事 、
うけたまわりてのこと、

(大意)
おつな殿と相談して
返答すると栄助は答えた。大勢の者たちは
そのような面倒なことならば
打ち壊してしまえと障子を一本
打ち破ってしまった。大勢の者たちは仲間へ向かって
これよりは静かにしろと仲間をなだめおさえ(名主との)応対
をしたとのことである。


(補足)
「障子壱本」からあとは、場面の雰囲気からの大意で、脚色たっぷりかもしれません。
わたしのフィクションにだまされないようにしてください。

「挨拶」、普段使う挨拶の意味ではなく、応対・仲裁・仲介などの意だとおもいます。
「答」=「竹」+「合」。「答」や「谷」のくずし字が難しい。
「大勢」、「勢」の「丸」のくずし字がかろうじて読めます。

 栄助殿はなぜご自身の一存で決めずに奥様のお綱殿に相談して決めなければならなかったのでしょうか。その場の逃げ口上だったのでしょうか。それとも頭が上がらない立場だったのでしょうか。ちと気になります。


2019年2月11日月曜日

変事出来二付心得覚記 その88




 P.34 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
打 古王春遍しと申  候   ニ付 、芋 恨
うちこわすべしともうしそうろうにつき、いもね

栄 助 殿 居合  見請 候得  者゛皆 々
えいすけどのいあわせみうけそうらえば みなみな

近 所 之者 二付 、栄 助 申  様 、みん那可゛
きんじょのものにつき、えいすけもうすさま、みんなが

何 を春るのだ、志づかに志路と申
なにをするのだ、しづかにしろともうし

个連者゛、是 栄 助 平 実 とハ違
ければ 、これえいすけへいじつとはちが

う楚、面 色 かへ帝 倉 之助 ・栄 助
うぞ、めんしょくかえてくらのすけ・えいすけ

下夕へ下り土間二而挨 拶 二及  遍し、
したへおりどまにてあいさつにおよぶべし、

首越とつ帝両人越土間へ春り
くびをとってりょうにんをどまへすり

つけ、いま申  候   金 子差 出春か
つけ、いまもうしそうろうきんすさしだすか

いかゝい多春と申  聞 セ、栄 助 申  様 、
いかがいたすともうしきかせ、えいすけもうすさま、

人 之者 なら者゛於連二も不知、
ひとのものならば おれにもしらず、

(大意)
打ち壊すと申しておりました。芋根の
栄助殿が居合わせ見受けたところでは、全員が
近所の者たちだったので、栄助が「みんな
何をするのだ、静かにしろ」と
言ったところ、(みんなが)「これ栄助普段とは違うのだぞ」と
顔色が変わり、倉之助と栄助
は土間に降りて挨拶をしろと、
(一揆勢が)二人の首を押さえて土間へすりつけられました。
今(われわれが要求した)金を出すのか
どうなのだと言うと、栄助が答えるには、
他の村役人たちのこともあるので俺にもわからぬ、


(補足)
この頁も変体仮名が目立ちます。
「古王春遍し」(こわすべし)、「みん那」(みんな)、
「何を春るのだ志づかに志路と申个連者゛」、「楚」(そ)、「帝」(て)、「越」(を)
「春」(す)、「於連」(おれ)。

「候得者゛」(そうらえば)、3点セットです。
「近所」、ちょっと楷書風。

「何を春るのだ志づかに志路」、口語体で珍しい。臨場感生々しい。
「个」(け)変体仮名。
「下タへ下り」、送り仮名が振ってあるので(したへおり)と読ませるのだとおもいます。
「土間」の「間」が異なってます。「土」のくずし字が今でも「古」に見えてしまいます。
「古」のくずし字は「ホ」のようだとはわかっているのですが。

「於連」(おれ)、「俺」のことだとおもうのですが、こんなあて字で書かれると、「俺」
感がでません。

 舞台の一幕になる場面です。
村役人はどうにか穏便にすませ家屋敷が打ち壊されぬよう、押したり引いたり必死でした。

2019年2月10日日曜日

変事出来二付心得覚記 その87


 
P.33 6行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
又 ハ平 常  之面 二而参 り候   者 も有之  、
またはへいじょうのめんにてまいりそうろうものもこれあり、

白 布 た春き・白 布 之鉢 巻 二帝
しろぬのたすき・しろぬののはちまきにて

六 尺  棒 ・とび口 ・木立 、中 ニハ丸 キ棒
ろくしゃくぼう・とびぐち・こだち、なかにはまるきぼう

銘 々 所 持以多し、金 弐千 両  、外 二
めいめいしょじいたし、きんにせんりょう、ほかに

時 貸し帳  面 消 、質 物 者不残
ときがしちょうめんけし、しちものはのこらず

可返   、若 違変 有之  に於 帝ハ
かえすべく、もしいへんこれあるにおいては


(大意)
または、普段のそのままの姿で来るものもありました。
白布のタスキや白布の鉢巻をして
六尺棒・トビ口・木の枝、中には丸い棒を
一人ひとりが持っていました。金2千両の他に
当座の借金は帳消しに、質物はすべて
返し、もし約束を守ることができなかったら


(補足)
 浅海戸のお綱殿が数日で聞き集めた噂を語っている場面です。次頁の1行目まで続きます。

「春」(す)、「帝」(て)、「以多し」(いたし)、「者」(は)、変体仮名が目立ちます。
「た」、「こ」がずいぶん右側にきてます。

「金弐千両」から文末までは、すでに何度か出てきた内容です。



2019年2月9日土曜日

変事出来二付心得覚記 その86




 P.33 最初〜5行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
私  門 ロ ニ而王か連申  候   、翌 朝
わたしかどぐちにてわかれもうしそうろう、よくあさ

十  七 日 之朝 、松 太郎 浅 海 戸江参 り、
じゅうしちにちのあさ、まちたろうあさかいどへまいり、

昨 日 之次第 承    り、全  く之儀二御座候   、
さくじつのしだいうけたまわり、まったくのぎにござそうろう、

浅 海 戸お綱 殿 申  様 、芋 恨ゟ 小沢 迄
あさかいどおつなどのもうすさま、いもねよりおざわまで

之人 不残  凡  百  人 余  、面 体 ヲ隠 し
のひとのこらずおよそひゃくにんあまり、めんていをかくし


(大意)
わたしは(家の)門口で別れました。翌朝
17日の朝、松太郎は浅海戸へ行き
昨日の様子を聞き、実にそのとおりでしょうとのことでした。
浅海戸のお綱殿の言うには、芋根より小沢まで
の人残らずおよそ100人が、顔を隠し、


(補足)
「17日の朝」とあります。
一揆が勃発したのは13日の夕刻ですから、ここまで3日と半日しかたっていません。
なんと濃い4日間なのでしょうか。

書き手は源左衛門さんに戻ったようです。

「王か連」(わかれ)、変体仮名。
「翌朝」、「翌」はいつもながら「羽」と「立」の2文字に見えます。「朝」、「朝昼夜」セットで覚えるとよさそうです。

「昨日」、「作」のときの「乍」のくずし字とは異なってます。
「芋根」「小沢」、地名です。

「面体」、「体」のくずし字の「亻」がおかしいです。旧字の「骨」としても変。それにこの2行あとにでてくる「鉢」と、そのまま重ねることができるくらいに同じになってます。書き損じたかもしれません。



2019年2月8日金曜日

変事出来二付心得覚記 その85




 P.32 6行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
小前 者 共 参 り候   而宜 敷 取 計
こまえものどもまいりそうろうてよろしくとりはからい

遍くと大 立 腹 二付 、太次郎 殿
べくとだいりっぷくにつき、たじろうどの

此 事 ハ明日迄 御預 ケ被下  申  二付 、
このことはあすまでおあずけくだされもうすにつき、

其 夜 八ツ半 頃 、当 名主 太二郎 殿 ・
そのよるやつはんごろ、とうなぬしたじろうどの・

松 太郎 殿 ・源 左衛門 三 人 帰 り
まつたろうどの・げんざえもんさんにんかえり

臥 申  候   、打 毀  も何二も参 り不申  候   、
ふしもうしそうろう、うちこわしもなにもまいりもうさずそうろう、


(大意)
小前百姓たちが押しかけて来たら、適当にあしらって
くれと大立腹でした。(そんな具合でしたので)太次郎殿が
この件については明日まで待って下さらないだろうかと言うので
その晩八ツ半(午前3時)頃に、当名主太二郎殿、
松太郎殿、源左衛門の3人が帰宅し
就寝いたしました。打ち壊しも何もやっては来ませんでした。


(補足)
 太次郎殿は大炎上している滝之助度の火消しに大わらわ。
なだめている様子が必死です。
夜中の八ツ半まで話し合い、切羽詰まっていたんですね。もうすぐ夜が明けてきます。
その夜、一揆勢もやってくることはなくホッとしている様子も伝わってきます。

「宜敷取計」(よろしくとりはからう)、「〜敷」の形はたくさん出てきています。「計」は「斗」。
「立腹」、くずし字が「腹」に見えません。
「明日」、「明」の旁のくずし字「月」は典型的なくずし方です。
「預」=「予」+「頁」、「予」のくずし字が難しい。
「夜」は頻出で、形も特徴的。
「当」のくずし字が丁寧に書かれているので筆の運びがよくわかります。
「帰」も同じく筆の流れがよくわかります。
「臥」、偏の最初の「、」があることによってかえって字がわかりにくくなっている感じです。



2019年2月7日木曜日

変事出来二付心得覚記 その84




 P.32 最初〜5行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
申  事 ゆへ御噺 し仕    候   、滝 之助 殿
もうすことゆへおはなしつかまつりそうろう、たきのすけどの

申  様 、下 名栗 浅 海 戸二も何 二も
もうすさま、しもなぐりあさかいどにもなににも

最早 可満王ぬ勝 手次第 に
もはやかまわぬかってしだいに

打 古王す遍し、今 者゛ん二も
うちこわすべし、こんば んにも

御用 向 参 り候   共 構  不申  候   間  、
ごようむきまいりそうろうともかまいもうさずそうろうあいだ、


(大意)
申すことでしたので、お話したまでのことでございます。滝之助殿
が言うには、下名栗だろうか浅海戸だろうがどこだろうが
もうかまわぬから好き勝手に
打ちこわしでもなんでもやってくれ、今晩にでも
御用の役人たちがやって来ようと、そんなのは構わないから


(補足)
 書き出しの最初から4行目までとそれ以降が明らかに筆跡が異なります。
P.28,P.29あたりの筆跡と同じです。

 下書きを書いておいて、いろいろな用事で出かけなければならない源左衛門さんに頼まれて家族たちが清書していたのでしょうか。
流れるような読みやすい美しい筆跡です。

 いよいよ滝之助さんの大立腹は頂点に達し、メラメラ激しく燃え上がりまくります。

「最早」、「最」=「日」+「取」、くずし字が楷書のようにわかりやすい。
「可満王ぬ」「打古王す遍し」「今者゛ん」、変体仮名と平仮名。「今」が楷書体。



2019年2月6日水曜日

変事出来二付心得覚記 その83




 P.31 5行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
滝 之助 殿 申  様 、
たきのすけどのもうすさま、

小前 二割 附いたさ連、其 外 触 下  迄
こまえにわりふいたされ、そのほかふれくだすまで

手入 いたされる二おき帝ハ、何 も
ていれいたされるにおきては、なにも

名主 ハいらぬ事 ゆへ、此 事 済 次第
なぬしはいらぬことゆへ、このことすみしだい

退 役 二およひ、誰 二而も名主 可致   候   、
たいえきにおよび、だれにてもなぬしいたすべきそうろう、

松 太郎 申  様 、下 名栗 可゛取 極 たと (申  事 ゆへ)
まつたろうもうすさま、しもなぐりが とりきめたと、(もうすことゆへ)


(大意)
滝之助殿が言うには、
小前百姓が文書を作り、その上その触れを下し
自分たちで勝手に動き回ることをされるに及んでは、もう何も
名主はいらぬではないか、今回のことが済んだら
わたしは名主を退き、誰でも良いから名主を致されればよかろう。
松太郎が言うには、下名栗が取り決めたこと(なので)


(補足)
「小前に割符」〜「おき帝ハ」までが、??です。
前後の話のつながりから、脚色してみました。いつもながらフィクションかも。

「い多さ連」「以多さ連る事ニおき帝ハ」「いらぬ事ゆへ」、平仮名・変体仮名が続いています。
「触」、「角」+「虫」ですが、教えてもらわないと読めません。

「済次第」、「済」を古文書小辞典で調べるとなるほど同じようなくずし字がありました。どうしてこのような形になるのでしょう。形で覚えるしかなさそう。

 滝之助さん、まだまだ怒り狂っている場面が続きます。



2019年2月5日火曜日

変事出来二付心得覚記 その82




 P.31 最初〜5行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
名主 滝 之助 殿 申  様 、外々之者 ハ
なぬしたきのすけどのもうすさま、よそのものは

どふたと申  候  ハヽ、是 ハ小前 二而
どうだともうしそうらわば、これはこまえにて

直 掛 合 違変 あ連者゛打 毀
じかかけあいいへんあれば うちこわし

申  聞 セ、此 度 之事 ハ名主 村 役 人
もうしきかせ、このたびのことはなぬしむらやくにん

に盤掛 不申  候   、
にはかけもうさずそうろう、


(大意)
名主の滝之助殿が、よその者たちは
どうなのだというので、これは小前百姓が
直接(村役人と)交渉したもので、約束を守らなければ打ち壊すと
言っております。かように、この度のことは村役人たちには
相談しなかったことでございます。


(補足)
 筆の太さがやや太くなりましたが、やはり平仮名や変体仮名がめだちます。

「外々」、「外」を強調しているのでしょうか。

「直掛合」(じかかけあい)。「直談判」(じかだんぱん)という言葉があるので、(じか)
にしましたが、まちがっているかもしれません。

「違変」、このまま形で覚えたほうがよさそうです。
「あ連者゛」(あれば)、変体仮名。

「申聞セ」、「聞」のくずし字が筆順も形もとてもよくわかります。
「に盤」(には)、この部分の書き手はこの「盤」(は)をよく使っています。



2019年2月4日月曜日

変事出来二付心得覚記 その81




 P.30 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
金 弐千 両   滝 之助
きんにせんりょう たきのすけ

金 弐千 両   伴 次郎
きんにせんりょう はんじろう

金 千 両   代 八
きんせんりょう だいはち

金 千 両   幸 次郎
きんせんりょう こうじろう

都合 九  千 両
つごうきゅうせんりょう

 外 二質 物 者不残  可返   候   、
 ほかにしちものはのこらずかえすべきそうろう、

  證  文 金 質 物 二准  し、
  しょうもんきんしちものにじゅんし、

  小作 金 者是 迄 分 帳  消 、
  こさくきんはこれまでぶんちょうけし、

  地面 者本 金 二而可返   筈
  じめんはほんきんにてかえすべきはず



(大意)
金弐千両 滝之助
金弐千両 伴次郎
金千両  代八
都合九千両

他に質物は残らず返すこと
証文金は質物に準ずる
小作金はこれまでの分は帳消し
(これまでの買い受けた)土地は元金にて返す約束とする


(補足)
頁が変わって、金額が続きます。
「千」、ここの「千」は前頁のとは異なり、ちゃんと「千」と読めます。
「両」も楷書です。

「都合」、「阝」の縦棒がなく下の方に横棒です。
「両」、いつものくずし字です。

「質物」が2度続きます。「質」には旧字(俗字)で「貭」がありますが、これは?。古文書小辞典で調べると、同じくずし字がのっていました。
「證」、「証」の旧字。

「作」のくずし字は特徴的で目立ちます。
「分」、「彡」+「、」
「筈」、ここでは「約束を果たす」「約束」でしょうか。

 以前の都合2万両の書付内容とは異なってます。
松太郎はあわてふためいたことでしょう。

 そうそう、前ページの一つ書きのところから、書き手が変わったような気がしました。

2019年2月3日日曜日

変事出来二付心得覚記 その80




 P.29 7行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
一   其 座に居合 せ申  候   者 申  様 ハ、
ひとつ そのざにいあわせもうしそうろうものもうすさまは、

夫 ハ如何 之訳ケと申  候  ハヽ、松 太郎
これはいかがのわけともうしそうらわば、まつたろう

申  様 、書 付 ハ
もうすさま、かきつけは

金 三 千 両   源 左衛門
きんさんぜんりょう げんざえもん


(大意)
ひとつ その座に居合わせた村役人たちがそろって言うには、
これは一体どういう訳なんだというので、松太郎が
書付の内容を説明した。

金三千両 源左衛門


(補足)
 一つ書きが急にあらわれました。どういうことなんでしょうか、不明です。

「如何」、頻出です。2点セットで覚えているつもりですが、まごつくことも多いです。

「三千両」、「千」が書き順の関係でどうしても「子」に見えてしまいます。

 松太郎が、村役人の前で、額に汗シドロモドロ状態なのが目に浮かびます。
そんな様子はこのあともしばらく続きます。


2019年2月2日土曜日

変事出来二付心得覚記 その79




 P.29 最初〜6行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
いたし候   哉と松 太郎 申  候   、
いたしそうろうやとまつたろうもうしそうろう、

滝 之助 殿 ・太次郎 殿 ・清 八 どの
たきのすけどの・たじろうどの・せいはちどの

申  様 、誰 も参 り不申  と申  候  ハヽ、
もうすさま、だれもまいりもうさずともうしそうらわば、

松 太郎 申  様 、是 もけしからぬ
まつたろうもうすさま、これもけしからぬ

者 共 あ連程 書 付 を御目ニ
ものどもあれほどかきつけをおめに

掛ケ帝と申  候   に
かけてともうしそうろうに


(大意)
したでしょうかと松太郎が述べた。
滝之助殿・太次郎殿・清八どの
が誰も来なかったというので
松太郎は、それはけしからん連中です。
あれほど(事前に)書付をお見せしてからと
いい含めておいたのに、と述べた。


(補足)
平仮名や変体仮名が目立ちます。やはり書き手は女性のようです。

「参り」「あ連程」のところに重ね書きのように筆が太くなってしまっているとことがありますが、
揚げ足取りではなく、なんだかホッとします。当時の人もうっかり書き損じしているんですね。

 今も昔も癖字やくずしすぎの字には苦労します。
こちらの書き手のようにきれいな美しい筆跡ならば、古文書も苦労なく鑑賞しながら楽しく読めるのにと思ってしまいます。


2019年2月1日金曜日

変事出来二付心得覚記 その78




 P.28 6行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
外 江参 り候  ハヽ、書 付 ヲ認   私   江
そとへまいりそうらわば、かきつけをしたためわたくしへ

見せ候   間  、御当 家へ持参 致
みせそうろうあいだ、ごとうけへじさんいたし

御目二掛ケ、其 上 下 筋 江持 行
おめにかけ、そのうえしもすじへもちゆく

よふにと申  候   間  、書 付 持参
ようにともうしそうろうあいだ、かきつけじさん


(大意)
でかけてきましたが、いただいた書付を私へ
見せ読んでみました。(小前百姓へ名主様の)御当家へ持って行き
内容に目を通していただきその上で、下筋へ持ってゆく
ようにと言い聞かせましたので、そのように書付を持参


(補足)
 どうやら、書付をもらった小前百姓たちと村役人との話し合いがこじれてしまい
松太郎が呼ばれたようです。

「参り」「持参」と「参」が3度でてきますが、少しずつ異なってます。
「候ハヽ」(そうらわば)、3点セットで覚えます。
「認」、「言」と「刃」が上部へ、「心」が下部へと形が変わってしまってます。

「御目に」、「目」が大きいと違う字に見えてしまう。

「下筋」、いつもながら「竹」冠が別物に見えてしまいます。
「持行」、「行」は頻出ですがいがいと難しい。

「候間」、2回出てきました。

きれいな文面が続いています。