P.43 5行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」
(読み)
然 ル所 同 十 五日 、十 六 日 村 方 ゟ
しかるところどうじゅうごにち、じゅうろくにちむらかたより
罷 出候 者 共 凡 弐百 人 追 々 立 帰 り
まかりでそうろうものどもおよそにひゃくにんおいおいたちかえり
候 内 、新 組 百 姓 紋 次郎 ・豊 五郎 ・
そうろううち、しんぐみひゃくしょうもんじろう・とよごろう
留 次郎 三 人 いまだ帰村 不仕 二付 、
とめじろうさんにんいまだきそんつかまつらずにつき、
様子相尋候得共、右三人之儀者
ようすあいたずねそうらえども、みぎさんにんのぎは
何 連江罷 越 候 哉不存 旨申之 、
いずれへまかりこしそうろうかぞんぜずむねもうし、
(大意)
しかしながら、同15日、16日に村から
出向いてきた者たち約200人は徐々に村に帰ってきました。
しかし、新組の百姓紋次郎・豊五郎・
留次郎の3人がいまだに村に帰ってはおらず、
様子を尋ね回ってみたものの、これら3人の者たちは
どこへ出かけたものかわからないとのことで、
(補足)
「然ル」、頻出です。「灬」がどこかにいってしまってますが、形で覚えます。
「弐」、偏と旁のようにしてくずします。次に「百」がきているので漢数字と推測できます。
「立帰り」、「立」に意味はなく接頭語。
「豊五郎」の「五」とその2行前の「十五日」の「五」が異なってます。
「いま多゛」(いまだ)、「何連」(いずれ)、変体仮名。
「相尋」、「相」は接頭語で意味なし。「尋」がずいぶんくずされています。
百回をちょっと越しました。この調子でゆくと終了見込みは約1年後かもう少しというところです。
我が家から下名栗・上名栗あたりまで車で30分程度です。
先日出かけたのですが、バス停名が当時のままのものが散見され、親しみを感じました。
また名栗村出身の古老にお話を伺っても子どもの頃から周りの風景は何も変わってないと、山々を見ながら語ってくれました。
道路は車社会に合わせて舗装され道幅も広くなり、橋も立派なものになってます。
しかし、住居の関係で道路を拡幅できないところは昔ながらの道で、車のすれ違いができないところもたくさんあります。この覚記にでてくるお寺は今でもみな現存します。
150数年前の江戸時代はそれほど遠い昔ではなく、
手を伸ばせば届くようなところにあると感じるのです。
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