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2025年4月20日日曜日

江漢西遊日記三 その52

P52 東京国立博物館蔵

(読み)

春るさて此 地ヘ来ルと馳走 役 人 付 添ひ

するさてこのちへくるとちそうやくにんつきそい


三 度能食  事尓魚 肉 多 し甚  タ困  入る

さんどのしょくじにぎょにくおおしはなはだこまりいる


廿   七 日 天 氣よく明 方 尓出  立 して先ツ

にじゅうしちにちてんきよくあけがたにしゅったつしてまず


橋 を渡 里向 フ能河 婦ちを通 り程 なく

はしをわたりむこうのかわぶちをとおりほどなく


山 ニ入 夫 より亦 濱 邊ヘ出て大 ケ﨑 と云

やまにいるそれよりまたはまべへでておおがさきという


処  なり者き嶋 八代 嶋 其 外 小嶋 数 \/

ところなりはぎじまやしろじまそのほかこじまかずかず


見ヘ此 所  ハ蜃(シン)氣楼 立ツと云 其 所  の

みえこのところは  しん きろうたつというそのところの


者 尓直 尓聞 し尓春 三 月 比 長 閑なる日

ものにじかにききしにはるさんがつころのどかなるひ


嶋 霞  て其 か春ミ能中 尓色 \/能模(モ)

しまかすみてそのかすみのなかにいろいろの  も


様 あら王れ亦 多ん\/とこな多能嶋 尓移 リ

ようあらわれまただんだんとこなたのしまにうつり

(大意)

(補足)

「廿七日」、天明8年九月廿七日。1788年10月26日。「六」と書き損じているようです。

「大ケ﨑」、浜辺の地名を探せども不明です。

「八代嶋」、現在では屋代島となっています。

 蜃気楼については少し前にもそのはなしが出てきました。

三度の食事に魚がつくのですから、とても贅沢で、それで申し訳なく困ったのか、それとも魚嫌いだったのか、どちらでありましょうか?

 これで巻三がおわり、巻四となります。

 江戸からここまで江漢さんの旅を旅してきました。けっこうな長旅で、疲れたわけではないのですけど、ちょっと気分転換したく、次回からちりめん本「日本の噺家Japanese Story-Tellers from the French of Jules Adam」を読んでいきます。

 巻四以降はそのあとにアップしてゆく予定です。

 

2025年4月19日土曜日

江漢西遊日記三 その51

P51 東京国立博物館蔵

(読み)

者 ヘ云 次く上 役 吾 前 ニ来 リて口 上  を聞 夫 より

ものへいいつぐうわやくわれまえにきたりてこうじょうをきくそれより


坐しきへ通 し二十  五菜 能膳 を出し酒 肴

ざしきへとおしにじゅうごさいのぜんをだししゅこう


を出し夫 より上ミより被下  しとて白 銀 三 枚

をだしそれよりかみよりくだされしとてはくぎんさんまい


外 尓金 三 百  疋 也 爰 を去 て内 坂 氏へ行

ほかにきんさんびゃくひきなりここをさりてうちさかしへゆく


上 ヨリ内 意ありて内 坂 を以 テ何 分 ニも病

かみよりないいありてうちさかをもってなにぶんにもびょう


中  故 お相 申 され春残 念 なる事 なりと

ちゅうゆえおあいもうされずざんねんなることなりと


廿   五日 天 氣家老 用 人 よりも各 \/挨 拶

にじゅうごにちてんきかろうようにんよりもおのおのあいさつ


ありて明  後日 ハ出  立 せんと春

ありてみょうごにちはしゅったつせんとす


廿   六 日 天 氣藩 中  能人 か王る\/ 参 リ夜 ニ

にじゅうろくにちてんきはんちゅうのひとかわるがわるまいりよるに


入 内 坂 ヘ暇  乞 ニ参 ル亦 々 酒 肴 出し馳走

いりうちさかへいとまごいにまいるまたまたしゅこうだしちそう

(大意)

(補足)

「二十五菜」、『にじゅう‐ごさい〔ニジフ‐〕【二汁五菜】. の解説 ... 本膳料理の標準的な膳立て。本膳と二の膳にそれぞれ汁と菜2品ずつ置き、別の膳に焼き物を置いたもの』。本当に土地のものいろいろな料理が25皿も並んだのかとおもいきや、「氵」を忘れたようです。

「白銀三枚外尓金三百疋」、白銀(江戸時代,白紙に包んで贈答用に用いた楕円形の銀貨。通用銀の三分にあたる)一枚は0.7両とあったので、2.1両。また、一分=金100疋とあったので、1両=4分。合計すると3両ほどか。

「廿五日」、天明8年九月廿五日。1788年10月24日。

「暇乞」、いつもながらこれだけなら読めません。しかし何度も目にしているので大丈夫。

 当時の接待の様子がわかり、貴重な場面です。

 

2025年4月18日金曜日

江漢西遊日記三 その50

P50 東京国立博物館蔵

(読み)

顔 色 あをく婦くれ多る男  居ル爰 尓

かおいろあおくふくれたるおとこおるここに


て行厨(ヘントウ)を開 きけり岩 国 より此 山 神

て   べんとう をひらきけりいわくによりこのやまがみ


ヘ参 詣 春る者 ありと見へ多り四面 山 ニて

へさんけいするものありとみえたりしめんやまにて


塞 キ見所  なし夫 より下 りて暮 六 時

ふさぎみどころなしそれよりくだりてくれむつどき


過 尓帰 りぬ路 々 春々虫 なく

すぎにかえりぬみちみちすずむしなく


廿   四 日雨天 此 日上 へ牡丹 の画絹 地也 外 扇  ニ

にじゅうよっかうてんこのひかみへぼたんのえきぬじなりほかおおぎに


画を描キ之 をケン上  春家老 五人 ヘヌメ地ニ

えをかきこれをけんじょうすかろうごにんへぬめじに


画を描 亦 用 人 ニハ大 唐 紙 二枚 宛 之 を贈

えをかくまたようにんにはおおからかみにまいずつこれをおく


る町 尓使(シ)者屋アリ門 可まへなり玄 関 より

るまちに  し しゃありもんがまえなりげんかんより


あかると下 役 ノ者 と見ヘ出向 フ口 上  を上 役 ノ

あがるとしたやくのものとみえでむかうこうじょうをうわやくの

(大意)

(補足)

「廿四日」、天明8年九月廿四日。1788年10月23日。

「ヌメ」、『ぬめ 2【絖】

地が薄く,なめらかで,つやのある絹布の一種。桃山時代に中国から京都西陣に伝来。精練・裏糊(うらのり)を施し日本画の絹本地,造花材料などに用いる』

「使(シ)者屋」、この「屋」は変体仮名の「や」でしょうか?う〜ん🤔

 江漢さんこの犬戻(この日記では「イヌモドシ」、西遊旅譚二では「イヌモドリ」)のハイキングでみた岩石群に感激したのか、西遊旅譚巻二には三枚も挿絵を描いています。

 岩の上に腰掛け、画を描く江漢さんがいます。

 ゴザを敷いて弁当の様子。ちゃんと四人います。

 様々な奇岩を見上げ、感激している御一行様です。


 「暮六時過尓帰りぬ」、現在なら10月も下旬で山ですから、ずいぶん遅くまで楽しんだようであります。

 

2025年4月17日木曜日

江漢西遊日記三 その49

P49 東京国立博物館蔵

(読み)

上 ノ方 ヘ十  余町  行キ亦 河 をこな多へ渡 リて

かみのほうへじゅうよちょうゆきまたかわをこなたへわたりて


十  五六 町  行キ阿品 村 を過 て山 合 ニ行 事

じゅうごろくちょうゆきあじなむらをすぎてやまあいにゆくこと


八 九町  犬戻(モトシ)と云 処  山 皆 岩 石 なり渓 水

はっくちょういぬ もどし というところやまみながんせきなりけいすい


岩 能間  を飛ヒ流 レ誠  尓画能如 し比 ハ秋 なれ

いわのあいだをとびながれまことにえのごとしころはあきなれ


ハ紅 葉 綿  能如 し岩 上 ニ能ほりて酒 を

ばこうようにしきのごとしいわうえにのぼりてさけを


呑 其 景色 を写 春夫 より一 里半 行 て

のむそのけしきをうつすそれよりいちりはんゆきて


弥山 可嶽 アリ登 ル事 廿   一 町  路 ナシ岩

みせんがたけありのぼることにじゅういっちょうみちなしがん


石 ニ取 付 登 ル頂   尓小  キ社  アリ山 神 を祭 ル

せきにとりつきのぼるいただきにちいさきやしろありやまかみをまつる


鐘 あリ其 か年を武せ う尓津きならし傍  ラ

かねありそのかねをむしょうにつきならしかたわら


尓茶 やアリ其 家 横 尓倒(タヲレ)かゝ里て一人

にちゃやありそのいえよこに  たおれ かかりてひとり

(大意)

(補足)

「阿品村」、古地図になかったので、現在の地図。阿品村が左上隅、岩国城が右下隅、中央に犬戻しがあります。「弥山可嶽」は阿品の左側の山。

「紅葉綿能如し」、紅葉の様を綿に見立てたのかとおもいましたが、錦の間違いのようです。

「弥山可嶽」の岩山登山の様子は『春波楼筆記』にも記している。

「岩國尓至り。彌山が嶽尓登らんとて。其路犬戻しとて。岩石をあら者し。飛泉流れ誠尓

岩國とハ。爰を言ふか。農夫樵木の路尓して。漸く過ぎて。一村尓入る。五六歳の童女三

歳位の児を背尓おふて行くあり。此者両親尓離れ。外尓よるべき者なし。一村中の食の

餘りを請ひて助かりぬ。家ハあると見えたり。鰥寡孤獨の者ハ。領主より助けすくふべ

き尓。此国の大夫舎と云ふ人ハ。賢人尓て。學問したる人と云ふ事を。其頃尓聞けり。行

き渡らざる事と見えたり。世尓唐めきたる事を好み。風流なる人を誤りて學者と云

ふ者多し」

『鰥寡』、かんか。妻を失った男と,夫を失った女。

 なるほど、「岩国とはこれを言うか」に納得いたしました。

 

2025年4月16日水曜日

江漢西遊日記三 その48

P48 東京国立博物館蔵

(読み)

神 と云 者 アリ犬 神 能人 来 リて喰 物 或  ハ器(キ)

がみというものありいぬがみのひときたりてくいものあるいは  き


物 様 の物 好キ物 と思  心  起 れハ其 品 \/を

ぶつようのものすきものとおもうこころおこればそのしなじなを


所 持し多る者 忽  ち犬 神 取 付 狂  人 となる也

しょじしたるものたちまちいぬがみとりつききょうじんとなるなり


犬 神 の者 ハ且 て人 尓取 付 多る事 を不知 とナリ

いぬがみのものはかってひとにとりつきたることをしらずとなり


亦 山 代 と云 処  近 ク尓鎌(カマ)可原 村 アリ爰 ヨリ

またやましろというところちかくに  かま がはらむらありここより


三 里深 山 ニ入 其 所  の人 物 髪 ひけをそら

さんりしんざんにいりそのところのじんぶつかみひげをそら


春異国 の人 の如 し岩 石 尓水 晶  石 英 を

ずいこくのひとのごとしがんせきにすいしょうせきえいを


生  春

しょうず


廿   三 日 天 氣五  時 ヨリ旅 館 の倅  を案 内 とし

にじゅうさんにちてんきいつつどきよりりょかんのせがれをあんないとし


行厨(ベントウ)持 一 人此 方 二 人四人 ニして橋 を渡 リ

   べんとう もちひとりこのかたふたりよにんにしてはしをわたり

(大意)

(補足)

「犬神」、ネットで検索するも不明でした。

「山代と云処近ク尓鎌(カマ)可原村アリ」、画像の右下隅あたりが岩国。山代と釜ケ原(鎌(カマ)可原)のだいたいの位置です。 

「廿三日」、天明8年九月廿三日。1788年10月22日。

「行厨(ベントウ)」、『こうちゅう かう―【行厨】携帯用の食物。弁当。「車中にて―を食らふ」〈航西日乗•柳北〉』、当て字かと思ったら熟語でした。

 弁当持ちが一人、この土地の人が二人、それに江漢一人で合計四人で橋を渡って、ハイキングに出かけます。

 丁数「二十五」とあって「廿五」ではありませんでした。

 

2025年4月15日火曜日

江漢西遊日記三 その47

P47 東京国立博物館蔵

(読み)

家内 尓疱 瘡 人 ありし時 爰 ニ居ル事 なら春故

かないにほうそうにんありしときここにいることならずゆえ


尓小津村 と云 処  へ引 越し比 ハ三 月 也 爰 ハ蜃(シン)

におづむらというところへひっこしころはさんがつなりここは  しん


氣楼(ロウ)能立ツ処  なり天 氣至  テ長 閑なる日霧(キリ)

き  ろう のたつところなりてんきいたってのどかなるひ  きり


能如 くか春ミて其 中 ニあら和れる長  州  八代(ヤツシロ)

のごとくかすみてそのなかにあらわれるちょうしゅう   やつしろ


嶋 三 万 石 能處  カムロ嶋 上 の関 此 嶋 能間

しまさんまんごくのところかむろしまかみのせきこのしまのあいだ


ニ立ツ事 なり其 嶋 一 面 尓か春ミて見へざる

にたつことなりそのしまいちめんにかすみてみえざる


様 ニなると其 中 ニ竹 林 或  ハ松 並 木楼 閣

ようになるとそのなかにちくりんあるいはまつなみきろうかく


能如 キ者 う春墨 ニて画(ヱカク)可如 く見ユ正  面

のごときものうすずみにて  えがく がごとくみゆしょうめん


ハ海土路(ミトロ)村 ハ正  面 なり小津村 ハ斜  なりと

は    みどろ むらはしょうめんなりおづむらはななめなりと


爰 ニてハ嶋 遊 ひと云 なりさて亦 此 国 尓犬

ここにてはしまあそびというなりさてまたこのくににいぬ

(大意)

(補足)

「小津村」、尾津村のことでしょうか?岩国から東の浜の村名は海辺なのでみな「津」がついています。

「蜃気楼」、3つの島の名前があり、「上の関」は上関(かみのせき)のことだとすると、それら周辺に残り2つの島名がなければなりませんが、みつかりません。また小津村(尾津村)から上関の方角を見ることはできなそう。

「海土路(ミトロ)村」、海土路町(みどろちょう)。ここより13時半の方向の赤丸で見えにくくなっているところが尾津町。 

 蜃気楼の見える3つの島の位置や、「正面ハ海土路(ミトロ)村ハ正面なり小津村ハ斜なり」の位置関係が不明です。

「疱瘡」、江戸時代の疱瘡の医療に関する書物はたくさんあって、香港やバタビアから種痘の種を運んだり、医者が自分自身を実験台にしたりと、それらどれもが感動的です。

 

2025年4月14日月曜日

江漢西遊日記三 その46

P46 東京国立博物館蔵

(読み)

なりとぞ少  々  苦 味アリ夜 の八 時 尓帰 リぬ

なりとぞしょうしょうにがみありよるのやつどきにかえりぬ


廿   二日 天 氣此 日祭  アリ橋 を渡(ワタ)レハ陣 家アリ

にじゅうににちてんきこのひまつりありはしを  わた ればじんやあり


其 後 ロ能山 を城 山 と云 旅 客  ハ此 邊(ヘン)ヘハ行

そのうしろのやまをしろやまというりょきゃくはこの  へん へはゆく


事 を禁(キン)春祭 リ尓て之 をゆる春川 の邊 ニサン

ことを  きん ずまつりにてこれをゆるすかわのへんにさん


ジキをかけて見 物 春此 所  絹 服 を禁 ス

じきをかけてけんぶつすこのところきぬふくをきんず


縮 面 板 しめ染 緋ちりめん能如 く見ユる

ちりめんいたしめぞめひちりめんのごとくみゆる


物 皆 木綿 なり此 日祭  故 ニ宿(ヤト)よりも酒

ものみなもめんなりこのひまつりゆえに  やど よりもさけ


出春鮎 の春し其 鮎 巾 二寸 長 サ八 九  寸 アリ

だすあゆのすしそのあゆはばにすんながさはちきゅうすんあり


江戸ニハ無(ナ)き物 なりさて旅 館 主 人 ハ萬 兵(ヘイ)

えどには  な きものなりさてりょかんしゅじんはまんぺい


衛と云 話 シニ此 国 至  テ疱 瘡 をきろふ私

 というはなしにこのくにいたってほうそうをきろうわたくし

(大意)

(補足)

「夜の八時」ですから、夜中の二時ということで、ずいぶん遅くまで楽しんだ様子。

「廿二日」、天明8年九月廿二日。1788年10月21日。

「城山」、地図の岩國とある左に青い屋根がふたつあって、その上が城山。

「木綿なり」、江漢西国へ旅するこの時期、時代は大きな天災地変が続き、天明の打ちこわし(天明七年)、天明の大飢饉(天明二年〜天明八年)、そして松平定信がおこなった寛政の改革(1787年〜1793年)がありました。着るものなどもふくめて、贅沢も厳しく禁じられていてのですが、この日記全般から感じる日本の様子は、それほど切羽詰まった感はあまりないようにおもいます。

「其鮎巾二寸長サ八九寸アリ」、今でも有名らしい。

 そして、『錦川で天然アユが釣れるのは岩国市から錦町までのエリア。なかでも錦帯橋付近は数も多く釣れる可能性がある。また、錦川は大型のアユが釣れることでも知られ、お盆過ぎから9月下旬頃は、大もののひとつの目安である尺サイズ(およそ30cm)に届くアユがサオを絞ることも珍しくない』とありました。江漢さんグットタイミング👍

 日記の綴じの下側に「廿四」とあるのは丁数。24枚目ということ。一枚の紙の中央で山折りにして綴じます。

 

2025年4月13日日曜日

江漢西遊日記三 その45

P45 東京国立博物館蔵

(読み)

南 二十  余町  家 数 二万 余軒 多  ハ瓦  屋

なんにじゅうよちょういえすうにまんよけんおおくはかわらや


なり他国 能者 滞    居ル事 を禁 ス故 ニヤ盗(ヌスヒト)なし

なりたこくのものとどこおりおることをきんずゆえにや  ぬすびと なし


廿   一 日 天 氣旅 館 主 人 ハ排諧(ハイカイ)を好 ム画二三

にじゅういちにちてんきりょかんしゅじんは   はいかい をこのむえにさん


紙認  メ遣  ス錦  川 能川 原を二三 町  行 て見ル

ししたためつかわすにしきがわのかわらをにさんちょうゆきてみる


尓昔 シ獨 立  と云 唐 僧 爰 尓一 年 醫

にむかしどくりゅうというとうそうここにいちねんい


尓隠 レ居 し尓吾 カ生 レし処  能赤壁(セキヘキ)尓似

にかくれおりしにわれがうまれしところの   せきへき にに


多りと云ツて感 し多る所  何ンの事 もなき所

たりといってかんじたるところなんのこともなきところ


なりき日暮 より内 坂 氏ヘ行く酒 喰  を出

なりきひぐれよりうちさかしへゆくしゅしょくをだ


し馳走 春江戸尓無キ物 とて牛 茸(タケ)と云

しちそうすえどになきものとてうし  たけ という


菌(キノコ)を喰  セけり之 ハ傘 をひろけ多る大 キサ

きのこ   をしょくせけりこれはかさをひろげたるおおきさ

(大意)

(補足)

「廿一日」、天明8年九月廿一日。1788年10月20日。

「排諧」、俳諧。

「獨立」、独立 性易(どくりゅう しょうえき、慶長元(1596)年〜寛文12(1672)年。中国明末に生まれ、清初に日本に渡来した臨済宗黄檗派の禅僧である。医術に長け、日本に書法や水墨画・篆刻を伝えた。

 岩国藩3代目藩主である吉川広嘉に知り合いが所有する『西湖遊覧志』を見せ、錦帯橋造橋の重要な示唆を与えたと言われている。

「無」、このくずし字に似たものはありますが、ここのくずし字ほどにはなっていません。江漢流のくずし字。

「牛茸」、クロカワ、のことらしい。高級品とあったり、万人向けではないといったり、評価は人それぞれ、食べ物ですからね。

 

2025年4月12日土曜日

江漢西遊日記三 その44

P44 東京国立博物館蔵

(読み)

申  度 絹 地の画一 枚 个ん上  と書 付 上ケル

もうしたくきぬじのえいちまいけんじょうとかきつけあげる


夫 よりしてハ滞 留  中  上 ヨリ能まかなゐ(ヒ)

それよりしてはたいりゅうちゅうかみよりのまかな  い


ニて毎 日 三 度能喰  能時 先 吸 物 酒 を

にてまいにちさんどのしょくのときまずすいものさけを


出シて(テ)膳 を出ス者かまを者き多る者 き

だして   ぜんをだすはかまをはきたるものき


 うじを春る岩 国 ハ山 中  ニして海 ハ三 里を隔

ゅうじをするいわくにはさんちゅうにしてうみはさんりをへだ


ツ然  とも魚 多くさん北 の方 ハ石 見能国 也

つしかれどもうおたくさんきたのほうはいわみのくになり


橋 ハ廿   五間 能橋 五 ツ掛 ル中 三 ツは橋杭(クヒ)

はしはにじゅうごけんのはしいつつかかるなかみっつははし くい


なし河 巾 百  二十  五間 なり錦(ニシキ)河 尓掛

なしかわはばひゃくにじゅうごけんなり  にしき かわにかか


る故 ニ錦 帯 橋  と名 ク俗 ニソロバン者゛しと云

るゆえにきんたいきょうとなつくぞくにそろばんば しという


橋 能裏 ソロバン尓似多り人 家ハ橋 より西

はしのうらそろばんににたりじんかははしよりせい

(大意)

(補足)

「西遊旅譚二」に錦帯橋の画があります。 

 数十年前に錦帯橋の脇にある五橋という醸造所を見学したことがあります。明治4年(1871年)創業ということなので、江漢さんの時代にはまだありませんでした。

 このとき、社長さんが案内してくれたのですが、一番最初に醸造工程の最後に出てくる廃棄物を安全に処理するところから見せてもらったのがとても印象的でありました。試飲した日本酒もおいしくて、自宅に数本宅配しました。

 岩国よいとこ一度は訪れましょう。

 

2025年4月11日金曜日

江漢西遊日記三 その43

P43 東京国立博物館蔵

(読み)

尓宿(ヤト)る爰 ハ巡  禮 宿 ニて一 向 ニムサキ処  なり

に  やど るここはじゅんれいやどにていっこうにむさきところなり


外 ニも旅 商  人一 両  人 之 と枕(マクラ)を並  て寝(ネ)ル

ほかにもたびあきんどいちりょうにんこれと  まくら をならべて  ね る


廿 日天 氣此 岩 国 能江戸屋しきハ今 井

はつかてんきこのいわくにのえどやしきはいまい


谷 なり留主居役 内 坂 十  郎兵衛当 時ハ

たになりるすいやくうちさかじゅうろべえとうじは


爰 ニ居 个り因 て先 内 坂 宅 ヘ人 を遣  し

ここにおりけりよってまずうちさかたくへひとをつかわし


个連ハ迎 ヒ参 りて二三 町  行 て能き家 尓

ければむかいまいりてにさんちょうゆきてよきいえに


参 ル夫 より町 奉行  の下 役 の者 参 リて申  ニハ

まいるそれよりまちぶぎょうのしたやくのものまいりてもうすには


子細(シサイ)を書 付 差 出しなされべしと云 ニ付

   しさい をかきつけさしだしなされべしというにつき


私   此 度 肥前 長 崎 表  へ画修 行  能為

わたくしこのたびひぜんながさきおもてへえしゅぎょうのため


参  候   ニ付 此 地相 通  候   間  御機嫌 相 伺

まいりそうろうにつきこのちあいとおりそうろうあいだごきげんあいうかがい

(大意)

(補足)

「ムサキ」、『むさ・い① 汚れてきたならしい。むさくるしい。「―・いところですが足をお運び下さい」「―・い男」』

「廿日」、天明8年九月廿日。1788年10月19日。

「此岩国能江戸屋しきハ今井谷なり」、岩国藩の江戸藩邸上屋敷は麻布今井谷、下屋敷が芝区白金猿町61番地にあったらしい。

 ゆく先々でいろいろな方にあったり泊めてもらったりしているのですが、それがどのようにしてまとまるのかがひとつ疑問でした。

 江漢さんが来るそうだ、またはわが街へ来ているということを聞きつけて、会いにゆくということもあったでしょう。またここのように、自分から知らせて、迎えに来てもらうということもあることがわかりました。

 

2025年4月10日木曜日

江漢西遊日記三 その42

P42 東京国立博物館蔵
(読み)
山川好景暫同遊倶宿旅亭巌
嶋秋百八回桜分手処孤舟遥
見霊灯明 南湖鯤拝

倡  家三 軒 あり夜ル見世付 あり揚 代
しょうかさんげんありよるみせつけありあげだい

十  七 匁 雑 用 共 亦 昼 比間  旅 館 ヘ呼フ
じゅうななもんざつようともまたひるのあいだりょかんへよぶ

時 ハ六 匁  なり妓 子も同 多゛ん
ときはろくもんめなりげいこもどうだ ん

十  九日 雨 漸  クあか里て天 氣となる四 時 舟 ニ能り
じゅうくにちあめようやくあがりててんきとなるよつどきふねにのり

ておか多と云 処  尓津く夫 より六 里程 行 て
ておがたというところにつくそれよりろくりほどゆきて

関 戸ニ至 ル往 来 ナリ爰 より三 里入 て岩
せきどにいたるおうらいなりここよりさんりいりていわ

国 なり日暮(クレ)尓およひ个連ハ錦帯(キンタイ)橋 の許(モト)
くになりひ  ぐれ におよびければ   きんたい はしの  もと
(大意)
(補足)
「匁」、『もんめ。② 江戸時代,銀目の名。小判一両の60分の1』。何度も出てきてますが、いくらくらいかが曖昧なので毎回確かめます。17匁はざっと三分の一両、お高い‼️
6匁は十分の一両、安くはないですね。
「十九日」、天明8年九月十九日。1788年10月18日。
 宮島から舟で「小方」へ、地図では山間の路になってます。その街道を下って「関戸」そこから三里とありますけど、地図ではそれほどなさそうに見えますが曲がりくねった路だからかもしれません。
 

 岩国は数十年前に観光しました。そのときの誤った地図の距離感が今もすりこまれてしまっていて、岩国(錦帯橋)というと山口県の西部、防府・山口・宇部あたりを浮かべてしまうのです。
 新幹線で広島から岩国まではすぐでしたから、なんでそんな間違った距離感をもってしまったのかわかりません。距離にしてマラソンと同じ約42.2Km(横浜〜大磯くらい)。車でも90分かそれくらいです。

2025年4月9日水曜日

江漢西遊日記三 その41

P41 東京国立博物館蔵

(読み)

本 社 ハ半  ニアリ潮 能さし入ル潟(カタ)ニ造 リて回(クワイ)

ほんしゃはなかばにありしおのさしいる  かた につくりて  か い


廊(ロウ)能下 迄 潮 さし引春 平 相  国 清 盛

  ろう のしたまでしおさしひきすへいしょうこくきよもり


能創 立 と云 誠  ニ古(フル)ヒ多る事 い者ん可多

のそうりつというまことに  ふる びたることいわんかた


なし廊(クワロウ)能燈 火水 面 ニう川る此 嶋 ハ

なし  かいろう のとうかすいめんにうつるこのしまは


巡 里七 里人 家千 余軒 田畑 なし猿

めぐりしちりじんかせんよけんたはたなしさる


鹿 多 し其 比 市 まちとて芝 居あり

しかおおしそのころいちまちとてしばいあり


茶 ヤなと出テ多り

ちゃやなどいでたり


十  八 日 雨 降ル此 日爰 ニ滞 畄  して春 木

じゅうはちにちあめふるこのひここにたいりゅうしてはるき


氏尓別 ル詩を賦春晩秋与司馬君

しにわかるしをふす


暫同道別干藝州厳島


(大意)

(補足)

「平相国清盛(へいしょうこくきよもり)」、『〈相国〉は太政大臣の唐名であり、平相国とは平家の太政大臣という意味』

「い者ん可多なし」、『いわんかたな・し いはんかた― 【言はん方無し】(形ク)〔「ん」は推量の助動詞「む」の連体形〕言うべき言葉がない。何とも言いようがない。例えようがない。格別だ。「―・くむくつけげなるもの来て」〈竹取物語〉』

「十八日」、天明8年九月十八日。1788年10月17日。

 宮島の厳島神社は、1991年の台風被害で屋根がつぶれてしまった直後に訪れたことがあります。その後修復されてからも観光しています(何度も食した穴子丼がうまかった)。「猿鹿多し」とあって、当時は猿もいたようです。

 

2025年4月8日火曜日

江漢西遊日記三 その40

P40 東京国立博物館蔵
(読み)
夜半 亦 東風吹キ舩 を出ス
やはんまたこちふきふねをだす

十  七 日 天 氣小嶋 ニかゝ里北 ノ方 廣 嶋 能
じゅうしちにちてんきこじまにかかりきたのほうひろしまの

川口 見へ西 ノ方 宮 嶋 見ヘる程 なく廣(ヒロ)
かこうみえにしのほうみやじまみえるほどなく  ひろ

嶋 猫(ネコ)や橋(ハシ)と云 処  尓舩 を入ル舩 よりあが
しま  ねこ や  ばし というところにふねをいるふねよりあが

れハ城  下瓦  屋を並 へ冨商  多 し城 ハ
ればじょうかかわらやをならべふしょうおおししろは

左  ノ方 ニ見て右 ノ方 ニ入ル魚 市 場を過キ
ひだりのほうにみてみぎのほうにいるうおいちばをすぎ

町 者づれより海 邊へ出ツ海 上  嶋 数\/
まちはずれよりうみべへいずかいじょうしまかずかず

見ヘ草 津と云 へ一 里半 程 なく猪能口
みえくさつというへいちりはんほどなくいのぐち

と云 処  より小舟 ニ能る三 里渡 りて宮 嶋 ニ
というところよりこぶねにのるさんりわたりてみやじまに

至 ル雨天 なり先 宮 へ参 詣 春左右回廊(クワイロウ)
いたるうてんなりまずみやへさんけいすさゆう  か いろう
(大意)
(補足)
「十七日」、天明8年九月十七日。1788年10月16日。
「猫(ネコ)や橋(ハシ)」、『寛永年間広島城下絵図』のお城左下、川がY字になっている左側の支流にかかっている橋が「ねこやはし」。

『芸州厳島図会 六月十六夜広島本川口の図』では大賑わいの猫や橋。

「草津」、広島から西へ少し進んだところに「草津後田村」があります。
 
 江漢さん、広島から小舟で宮島に入るなんて、なかなか通であります。

2025年4月7日月曜日

江漢西遊日記三 その39

P39 東京国立博物館蔵

(読み)

十  五日 天 氣矢掛 を發(ハツシ)て神邊(カンナヘ)ニ至 ル能

じゅうごにちてんきやかけを  はっし て   かんなべ にいたるの


間  増 山 侯 能臣 春 木文 弥とて文 もあり

あいだましやまこうのしんはるきぶんやとてぶんもあり


画かく此 者 吾 を後 ロより呼ヒ可け之(コレ)も

えかくこのものわれをうしろよりよびかけ  これ も


主 人 能命 ニて長 﨑 へ行く者 なり同 道

しゅじんのめいにてながさきへゆくものなりどうどう


して路 十  余里行キて今 津の驛 尓

してみちじゅうよりゆきていまずのえきに


泊 ル此 路 福 山 能の城 見ユ

とまるこのみちふくやまののしろみゆ


十  六 日 天 氣能ク出  立 して二里行キて

じゅうろくにちてんきよくしゅったつしてにりゆきて


小野路 と云フ処  より舩 尓乗(ノ)る爰 ハ能 処

おのみちというところよりふねに  の るここはよいところ


尓て冨商  多 し西 能小江戸と云 とぞ東

にてふしょうおおしにしのこえどというとぞこ


風吹キて十  八 里程 走 リて小嶋 尓か〃る

ちふきてじゅうはちりほどはしりてこじまにかかる

(大意)

(補足)

「十五日」、天明8年九月十五日。1788年10月14日。

矢掛(画像の右上隅)・神辺・福山・今津(尾道の右上)・「小野路」尾道(画像の左下隅)、 

 矢掛から今津まで「十余里行キ」とあり、40〜50Kmを一日で歩いたのですから、健脚そのもの。

「増山侯」、増山正賢(ましやま まさかた)、伊勢長島二万石藩主。宝暦四年(1754)〜文政二年(1819)、江戸生、築地で死去。酒造統制違反となり大坂を追われた破産した木村蒹葭堂を自領に招き、窮地を救ったことは有名。風雅を愛でた文人大名で、特に虫類写生図譜『虫豸帖(ちゅうちじょう)』は本草学的にも貴重な資料。

「春木文弥」、南湖とも称し、谷文晁(1763-1840)と並び、「天下の二老」と称された春木南湖(1759-1839)は、伊勢国長島藩主・増山雪斎に抱えられ、その援助で京都、大坂、長崎に遊学、その道中日記「西遊日簿」に江漢との様子が記されています。少々長いですが引用します。

『翌十五日晴矢掛備中七日市ニテ休入口七日市川トテ舟渡シアリ

昼頃カンナベ驛ニ至故鄉ノ人司馬江漢ニ逢夫ヨリ同道ニテ大渡り川

トテ川アリ二十間斗ノ間一枚ノ橋ナリ駕ヨリ下リ渡ル山手ト云フ所ヨ

リ福山城ミエル備中備後境アリ海道/左ニ松永トテ湊アリ此日祭ニテ

角力アリニギヤカナリ此夜ハ國今ツニ泊藤屋源助尤江漢ト同宿ス

翌十六日今津出テホウシ山ヲ越テ山中ニ備後藝州境アリ山中松樹

多シ夫ヨリ尾ノ路ト云所至ル是ヨリ舟ヲカリ乘ル尤江漢同道ニテ九

時頃出帆

尾路ト云所ヨリ廣島ニ海上小島大島多クアリ誠ニ奥州松島ノ風

景如此ナラント思海上八九里ノ間人家ナキ所アリ岸穴ニ盜人今ニ住

居所モアリ其所ノ者夫ヲ其マゝ置トミエ普天ノ下ニモ如是此ナ所

アリケルニソト江漢ト語テ廣島ノ湊賣餘り至シニ俄ニ風起テ船ヲ宇島

ト云所ニ掛ル宮島アサ島眼下ニ望風景甚佳ナリ

翌十七日朝晴五ツ時過廣島ニツクネコヤ橋下ニ着御城下尤繁華ニシ奇

麗ナリ夫ヨリ江漢ト同道ニテ芸州イノロト云所ヨリ乗舟テ宮島エ行

暮七時前厳島着岸ス先明神礼拝ス丁ノ内ニ猿鹿イテ紙合羽ヲ着

シテアルケバ鹿コレヲクハントス奈良丁ノ如シ其風景相州江島/如

クニシテ廣

其夜折ヨク回樓燈明トホリ誠日本無双之勝景ナリ其夜宮島市中イヨヤ

久兵衛方ニ宿

翌十八日雨司馬氏此島ニテ風景フ寫トテ殘ル余用事アリテ別ナス

晚秋與司馬氏暫同道別干嚴島

山川好景暫同遊俱宿海天嚴島秋百八回樓分手處孤舟照見靈燈明

夫ヨリ司馬氏別テ朝六半頃舟ニノリ島々風景ヲ見ルニ太湖ノ如クナル

島アリ秋雨淋シク見ルニ鹿一疋浪打際ニ遊シ景誠ニ絶景言葉不盡此間

海上三リ餘ナリ四ッ時玖波驛ツキ夫ヨリ周防関戸驛ニ至リ岩国錦帯橋

ニ至リ名高橋ナリ』

 江漢と二人で観光する様子が映像になって、旅番組を見ているようです。

 

2025年4月6日日曜日

江漢西遊日記三 その38

P38 東京国立博物館蔵

(読み)

と云フ人 の方 ヘ行く酒 菓子を出ス

というひとのほうへゆくさけかしをだす


十  四 日天 氣朝 冷 氣五  時 過 尓出  立

じゅうよっかてんきあされいきいつつどきすぎにしゅったつ


して長 田村 と云 処  尓至 リ序 助 と云 者

してながたむらというところにいたりじょすけというもの


能家 ニよる菓子茶 を出ス夫 より窟 木

のいえによるかしちゃをだすそれよりくぼき


村 と云 を過 て岡 田と云 処  尓至 ル爰 ハ伊東

むらというをすぎておかだというところにいたるここはいとう


侯 能領  地なり藩 中  ノ醫者 熊 谷 連

こうのりょうちなりはんちゅうのいしゃくまがいれん


鱗 と云 者 能処  尓至 り爰 ニて昼  喰 春サウ

りんというもののところにいたりここにてちゅうじきすそう


ザと云 処  ヨリ人 家續 きて中 原 川 を渡

ざというところよりじんかつづきてなかはらかわをわた


里往 来 ニ出ツ此 路 尓吉備公 の墳 アリ

りおうらいにいずこのみちにきびこうのつかあり


矢掛 と云 驛 尓泊 ル

やかけというえきにとまる

(大意)

(補足)

「十四日」、天明8年九月十四日。1788年10月13日。

足守を五時(朝八時)に出立して、長田村、窟木村(窪木村?)、岡田村と村名が続きます。 

サウザは総社、そこから矢掛という駅で泊。

「伊東侯能領地」、伊東長寛(ながとも)。明和元年(1764)生。一万三百石余。備中岡田に住す。とありました。

 一万石以上の領主が大名ですから、この当時でも大まかに260〜270くらいあったので、江漢さんゆく先々は大名だらけというわけです。

「熊谷連鱗」、熊谷連琳(れんりん)。播磨守長寛(ながとも)の時代に、武助というものが奉公に出され、立身して扶持方給人までになった。とありました。

 

2025年4月5日土曜日

江漢西遊日記三 その37

P37 東京国立博物館蔵

(読み)

庭 尓径 二尺  余  丸 柱 ラ能礎(イシツヱ)在 之 ハ備 中

にわにけいにしゃくあまりまるはしらの  いしずえ ありこれはびっちゅう


足 守 賀陽 郡 溝 手村 賀陽 寺能

あしもりかようぐんみぞてむらかようじの


趾 ヨリ掘 出ス千 年 余の物 と云 亦口(クチ)五

あとよりほりだすせんねんよのものというまた くち ご


六 寸 生(ス)焼 の器  アリ同  ク岩 下 ヨリ堀

ろくすん  す やきのうつわありおなじくいわしたよりほり


出ス

だす


十  三 日 雨天 今朝先ツ雨 ナシ晩 方 雲  晴

じゅうさんにちうてんけさまずあめなしばんがたくもりはれ


月 漸\/ 出ツ日々秋 色 を催  し衣服 う春し

つきようよういずひびあきいろをもよおしいふくうすし


主 人 能衣をかり着(キ)春る俄  尓大 ツイ立

しゅじんのいをかり  き するにわかにおおついたて


を張 蘭人物(ランシンフツ)を描(カ)ク出来よし裏 ニハ

をはる    らんじんぶつ を  か くできよしうらには


山 水 一 日 尓出来上 ル日暮 ヨリ木 下男成(ヲナリ)

さんすいいちにちにできあがるひぐれよりきのした  おなり

(大意)

(補足)

「口(クチ)五六寸生(ス)焼の器」、『西遊旅譚二』には同じ箇所でその器の画があります。 

「十三日」、天明8年九月十三日。1788年10月12日。

 月がやっと出たとあります。じきに満月をむかえる月です。🌔

 

2025年4月4日金曜日

江漢西遊日記三 その36

P36 東京国立博物館蔵

(読み)

能堺  尓亦 吉備津の宮 アリ此 社 内 尓

のさかいにまたきびつのみやありこのしゃないに


湯立 能釜 あり銀 二十  目納 ムレハ釜 尓

ゆだちのかまありぎんにじゅうめおさむればかまに


湯を入 火を焚く忽  ち鳴 動 春る事

ゆをいれひをたくたちまちめいどうすること


奇妙  なり夫 より宮 内 と云 処  より入 て二

きみょうなりそれよりみやうちというところよりいりてに


里あり則  チ足 守 なり木の下 侯 未 タニ

りありすなわちあしもりなりきのしたこういまだに


御着 ナシ用 人 役 黒 宮 氏へ尋  ル

おつきなしようにんやくくろみやしへたずねる


十  二日 大雨 夜 ニ入 不止(ヤマス)藩 中  の者 か王る\/

じゅうににちおあめよるにいり   やまず はんちゅうのものかわるがわる


参 リ吾カ奇談 を聞ク四五枚 画を描ク

まいりわがきだんをきくしごまいえをかく


此 地松 茸 取 多て喰(シヨク)春る尓脂(ヤニ)能香(ニホイ)

このちまつたけとりたて  しょく するに  やに の  におい


あり江戸能松 多けハ此 香  ナシ此 家 能

ありえどのまつたけはこのにおいなしこのいえの

(大意)

(補足)

「堺」、境。

「吉備津の宮」、『きびつじんじゃ 【吉備津神社】

岡山市吉備津にある神社。大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)をまつる。1425年再建の吉備津造りの社殿は国宝。釜鳴(かまなり)神事で有名。備中国一の宮』

「湯立能釜」、『かまなり【釜鳴り・竈鳴り】

釜で湯を沸かしたり飯を炊いたりするとき,釜がうなるような音を立てること。古くは,その鳴り具合で吉凶を占った』

「銀二十目」、『め ㋐ 秤(はかり)で計った量。重さ。「―減り」㋑ 重さの単位。匁(もんめ)。「百―」』。

「銀目」、『ぎんめ【銀目】

① 江戸時代の,銀または銀貨を量る際の単位の名目。匁(もんめ)・貫(一〇〇〇匁)・分(ふん)(一〇分の一匁)などの名目があった。大坂を中心に行われた』、『匁』もんめ、② 江戸時代,銀目の名。小判一両の60分の1。

「宮内」、『宮内とは江戸時代の備中国賀陽郡宮内村のことです。備中国一宮の吉備津神社の門前町が起源です。江戸時代になると、宮内村は門前町として栄え、山陽道でも屈指の遊興街を形成しました。井原西鶴の著した『好色一代男』にも備中宮内として出てきます』とありました。

「木の下侯」、木下利虎(としとら)。明和元年(1764)〜享和元年(1801)。九世足守藩主。

「用人役黒宮氏」、黒宮献子、元文5年(1740)〜寛政6年(1794)。家代々足守藩の家老。浦上玉堂や古川古松軒とも交友があった、とありました。

「十二日」、天明8年九月十二日。1788年10月11日。

 家老の家へ訪ねたり、藩中の者たちがかわるがわる訪れてきたりと、江漢さん、やはり有名人?紹介状か何か持っていたのでしょうか?

 

2025年4月3日木曜日

江漢西遊日記三 その35

P35 東京国立博物館蔵

(読み)

浦 上 方 と同 シ事 也

うらがみかたとおなじことなり


十 日雨天 絹 地尓蘭画(ヲランタヱ)ヲ認  メル粋  吾カ側(ソハ)

とおかうてんきぬぢに   おらんだえ をしたためるせがれわが  そば


を不離  歓  フ事 限 リなし明(ミン)の季唐 カ画

をはなれずよろこぶことかぎりなし  みん のりとうがえ


軸 ニして精 妙  ナル者 也 亦 文 微  明 皆ナ以 テ

じくにしてせいみょうなるものなりまたぶんちょうめいみなもって


真 物 なり之 を珍 蔵 春

しんぶつなりこれをちんぞうす


十  一 日 雨 石 関 を出  立 して行キ个る向 フへ

じゅういちにちあめいしぜきをしゅったつしてゆきけるむこうへ


兵  右衛門来 リ先 々 滞 畄  い多し候  得と云 不畄

ひょうえもんきたりさきざきたいりゅういたしそうらえというとどまらず


して行ク尓往 来 ニ非  ミカドと云 処  へ出て

してゆくにおうらいにあらずみかどというところへでて


夫 より四里を過 て足 守 ニ行ク路 吉備(キヒ)

それよりしりをすぎてあしもりにゆくみち   きび


津の宮 アリ参 詣 春又 行 て備 中  能

つのみやありさんけいすまたゆきてびっちゅうの

(大意)

(補足)

「十日」、天明8年九月十日。1788年10月9日。

「粋」、倅。

「粋吾カ側(ソハ)を不離歓フ事限リなし」、江漢さんウホウホ喜んでいるのがわかります。

「明(ミン)の季唐」、宋の李唐。李唐(りとう、生没年不詳)は、宋の画家。

「文微明」、文徴明『ぶんちょうめい 【文徴明】[1470〜1559]中国,明の文人。名は璧,号は衡山など。詩・書・画に長じた。師の沈周とともに南宗画風の再興に尽くした』

「ミカドと云処へ出て夫より四里を過て足守ニ行ク」、岡山駅から吉備線で西へひとつ目の駅が備前三門、六つ目が足守。 

「往来ニ非」、前後のながれから意味を考えましたが、どうもよくわかりません。

う〜ん🤔

 

2025年4月2日水曜日

江漢西遊日記三 その34

 

P34 東京国立博物館蔵

(読み)

十  六 七 能娘  出て杓  を取 其 娘  能物 云ヒ

じゅうろくしちのむすめでてしゃくをとるそのむすめのものいい


ハキ\/として甚  タ異  リ

はきはきとしてはなはだことなり


九  日雨 今 日佳節 なり藤 井を五  時 出  立 して

ここのかあめきょうかせつなりふじいをいつつどきしゅったつして


二里岡 山 ニ至 ル城  下町 能し二町  程 隔  リて

にりおかやまにいたるじょうかまちよしにちょうほどへだたりて


橋 二 ツ掛 ル石 関 町  と云 処  尓赤穂 屋喜左

はしふたつかかるいしぜきちょうというところにあこうやきざ


衛門 と云 者 吾 を知ル者 と聞 夫 ヘ参 ル父子

えもんというものわれをしるものとききそれへまいるふし


共 尓好 事の者 ニて甚  タ歓  ひ爰 尓畄(トゝマ)ル

ともにこうずのものにてはなはだよろこびここに  とどま る


其 日浦 上 兵  右衛門甚  タ好 事家ニて先ツ

そのひうらがみひょうえもんはなはだこうずかにてまず


之 ヘ尋  ル酒 飯 を出し又 石 関 尓かえ(ヱ)りぬ

これへたずねるさけめしをだしまたいしぜきにかえ   りぬ


豆 府(フ)尓かまぼこヲ入 さ以として飯 を出春

とう  ふ にかまぼこをいれさいとしてめしをだす

(大意)

(補足)

「杓」、酌。

「九日」、天明8年九月九日。1788年10月8日。

「佳節」、『かせつ

めでたい日。節供。唐・王維〔九月九日、山東の兄弟を憶ふ〕詩 獨り異に在りて、異客と爲る 佳にふに、倍(ますます)親を思ふ』

「浦上兵右衛門」、延享二年(1745)〜文政三年(1820)。江戸後期の著名な文人画家。浦上玉堂。玉堂へ江漢から「富岳遠望図」を送るなど、その親交はあつかった。 

 この絵は「相州鎌倉七里浜図」とまったく構図が同じですが、質はまったく異なります。当時こんな透明感のある画を描いたとはとてもおもえぬほどに素晴らしい。漁師?の老人と孫が日本昔話に出てくる今風でなんともかわいらしい。欧文でKookanのサインがあります。

 銭湯の壁絵で見てみたい。

 

2025年4月1日火曜日

江漢西遊日記三 その33

P33 東京国立博物館蔵

(読み)

の如 し樵夫 ニ之 を聞 ハ何 レ能時 作 リ多る者

のごとしきこりにこれをきけばいずれのときつくりたるもの


ニヤ知ル者 ナシあな多能方 ニハ二間 三 間

にやしるものなしあなたのほうにはにけんさんけん


一 枚 石 を以 テ造 ル者 多 し之 を塚 と申  なり

いちまいいしをもってつくるものおおしこれをつかともうすなり


爰 ハ大 路 と申  所  なりとぞ夫 ヨリ十  余町

ここはおおみちともうすところなりとぞそれよりじゅうよちょう


行キ寺 アリ観 音 堂 アリ瀧 ハ埒 もなき只

ゆきてらありかんのんどうありたきはらちもなきただ


谷 ノ流 レなり又 あとへ帰 り藤 井と云 間 ノ

たにのながれなりまたあとへかえりふじいというあいの


宿 尓泊 ル爰 ヨリ備前 岡 山 ヘ二里と云 播

やどにとまるここよりびぜんおかやまへにりというばん


州  までハ京  ニ属 して人 の物 云 事 此

しゅうまではきょうにぞくしてひとのものいうことこの


備前 ニ入 と江戸能音 ニなりぬ彼 ヒロイシ

びぜんにいるとえどのおんになりぬかのひろいし


茸 を吸 物 として其 夜酒 を呑 个り宿 尓

たけをすいものとしてそのよさけをのみけりやどに

(大意)

(補足)

「あな多能方ニハ」、『遠称の指示代名詞。《彼方》㋐ 遠くの方・場所をさす。あちらのほう。むこう。かなた。「山の―」「―の岸に車引立てて」〈更級日記〉』

「藤井」、地図の右上。

 お城の絵のある「松平上総介居城」が岡山城。どうしてこの名前なのか不明です。

 備前に入ると、言葉が江戸と同じ調子になるとありますが、どうなのでしょうねぇ。