2025年4月6日日曜日

江漢西遊日記三 その38

P38 東京国立博物館蔵

(読み)

と云フ人 の方 ヘ行く酒 菓子を出ス

というひとのほうへゆくさけかしをだす


十  四 日天 氣朝 冷 氣五  時 過 尓出  立

じゅうよっかてんきあされいきいつつどきすぎにしゅったつ


して長 田村 と云 処  尓至 リ序 助 と云 者

してながたむらというところにいたりじょすけというもの


能家 ニよる菓子茶 を出ス夫 より窟 木

のいえによるかしちゃをだすそれよりくぼき


村 と云 を過 て岡 田と云 処  尓至 ル爰 ハ伊東

むらというをすぎておかだというところにいたるここはいとう


侯 能領  地なり藩 中  ノ醫者 熊 谷 連

こうのりょうちなりはんちゅうのいしゃくまがいれん


鱗 と云 者 能処  尓至 り爰 ニて昼  喰 春サウ

りんというもののところにいたりここにてちゅうじきすそう


ザと云 処  ヨリ人 家續 きて中 原 川 を渡

ざというところよりじんかつづきてなかはらかわをわた


里往 来 ニ出ツ此 路 尓吉備公 の墳 アリ

りおうらいにいずこのみちにきびこうのつかあり


矢掛 と云 驛 尓泊 ル

やかけというえきにとまる

(大意)

(補足)

「十四日」、天明8年九月十四日。1788年10月13日。

足守を五時(朝八時)に出立して、長田村、窟木村(窪木村?)、岡田村と村名が続きます。 

サウザは総社、そこから矢掛という駅で泊。

「伊東侯能領地」、伊東長寛(ながとも)。明和元年(1764)生。一万三百石余。備中岡田に住す。とありました。

 一万石以上の領主が大名ですから、この当時でも大まかに260〜270くらいあったので、江漢さんゆく先々は大名だらけというわけです。

「熊谷連鱗」、熊谷連琳(れんりん)。播磨守長寛(ながとも)の時代に、武助というものが奉公に出され、立身して扶持方給人までになった。とありました。

 

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