P38 東京国立博物館蔵
(読み)
と云フ人 の方 ヘ行く酒 菓子を出ス
というひとのほうへゆくさけかしをだす
十 四 日天 氣朝 冷 氣五 時 過 尓出 立
じゅうよっかてんきあされいきいつつどきすぎにしゅったつ
して長 田村 と云 処 尓至 リ序 助 と云 者
してながたむらというところにいたりじょすけというもの
能家 ニよる菓子茶 を出ス夫 より窟 木
のいえによるかしちゃをだすそれよりくぼき
村 と云 を過 て岡 田と云 処 尓至 ル爰 ハ伊東
むらというをすぎておかだというところにいたるここはいとう
侯 能領 地なり藩 中 ノ醫者 熊 谷 連
こうのりょうちなりはんちゅうのいしゃくまがいれん
鱗 と云 者 能処 尓至 り爰 ニて昼 喰 春サウ
りんというもののところにいたりここにてちゅうじきすそう
ザと云 処 ヨリ人 家續 きて中 原 川 を渡
ざというところよりじんかつづきてなかはらかわをわた
里往 来 ニ出ツ此 路 尓吉備公 の墳 アリ
りおうらいにいずこのみちにきびこうのつかあり
矢掛 と云 驛 尓泊 ル
やかけというえきにとまる
(大意)
略
(補足)
「十四日」、天明8年九月十四日。1788年10月13日。
足守を五時(朝八時)に出立して、長田村、窟木村(窪木村?)、岡田村と村名が続きます。
サウザは総社、そこから矢掛という駅で泊。
「伊東侯能領地」、伊東長寛(ながとも)。明和元年(1764)生。一万三百石余。備中岡田に住す。とありました。
一万石以上の領主が大名ですから、この当時でも大まかに260〜270くらいあったので、江漢さんゆく先々は大名だらけというわけです。
「熊谷連鱗」、熊谷連琳(れんりん)。播磨守長寛(ながとも)の時代に、武助というものが奉公に出され、立身して扶持方給人までになった。とありました。
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