P39 東京国立博物館蔵
(読み)
十 五日 天 氣矢掛 を發(ハツシ)て神邊(カンナヘ)ニ至 ル能
じゅうごにちてんきやかけを はっし て かんなべ にいたるの
間 増 山 侯 能臣 春 木文 弥とて文 もあり
あいだましやまこうのしんはるきぶんやとてぶんもあり
画かく此 者 吾 を後 ロより呼ヒ可け之(コレ)も
えかくこのものわれをうしろよりよびかけ これ も
主 人 能命 ニて長 﨑 へ行く者 なり同 道
しゅじんのめいにてながさきへゆくものなりどうどう
して路 十 余里行キて今 津の驛 尓
してみちじゅうよりゆきていまずのえきに
泊 ル此 路 福 山 能の城 見ユ
とまるこのみちふくやまののしろみゆ
十 六 日 天 氣能ク出 立 して二里行キて
じゅうろくにちてんきよくしゅったつしてにりゆきて
小野路 と云フ処 より舩 尓乗(ノ)る爰 ハ能 処
おのみちというところよりふねに の るここはよいところ
尓て冨商 多 し西 能小江戸と云 とぞ東
にてふしょうおおしにしのこえどというとぞこ
風吹キて十 八 里程 走 リて小嶋 尓か〃る
ちふきてじゅうはちりほどはしりてこじまにかかる
(大意)
略
(補足)
「十五日」、天明8年九月十五日。1788年10月14日。
矢掛(画像の右上隅)・神辺・福山・今津(尾道の右上)・「小野路」尾道(画像の左下隅)、
矢掛から今津まで「十余里行キ」とあり、40〜50Kmを一日で歩いたのですから、健脚そのもの。
「増山侯」、増山正賢(ましやま まさかた)、伊勢長島二万石藩主。宝暦四年(1754)〜文政二年(1819)、江戸生、築地で死去。酒造統制違反となり大坂を追われた破産した木村蒹葭堂を自領に招き、窮地を救ったことは有名。風雅を愛でた文人大名で、特に虫類写生図譜『虫豸帖(ちゅうちじょう)』は本草学的にも貴重な資料。
「春木文弥」、南湖とも称し、谷文晁(1763-1840)と並び、「天下の二老」と称された春木南湖(1759-1839)は、伊勢国長島藩主・増山雪斎に抱えられ、その援助で京都、大坂、長崎に遊学、その道中日記「西遊日簿」に江漢との様子が記されています。少々長いですが引用します。
『翌十五日晴矢掛備中七日市ニテ休入口七日市川トテ舟渡シアリ
昼頃カンナベ驛ニ至故鄉ノ人司馬江漢ニ逢夫ヨリ同道ニテ大渡り川
トテ川アリ二十間斗ノ間一枚ノ橋ナリ駕ヨリ下リ渡ル山手ト云フ所ヨ
リ福山城ミエル備中備後境アリ海道/左ニ松永トテ湊アリ此日祭ニテ
角力アリニギヤカナリ此夜ハ國今ツニ泊藤屋源助尤江漢ト同宿ス
翌十六日今津出テホウシ山ヲ越テ山中ニ備後藝州境アリ山中松樹
多シ夫ヨリ尾ノ路ト云所至ル是ヨリ舟ヲカリ乘ル尤江漢同道ニテ九
時頃出帆
尾路ト云所ヨリ廣島ニ海上小島大島多クアリ誠ニ奥州松島ノ風
景如此ナラント思海上八九里ノ間人家ナキ所アリ岸穴ニ盜人今ニ住
居所モアリ其所ノ者夫ヲ其マゝ置トミエ普天ノ下ニモ如是此ナ所
アリケルニソト江漢ト語テ廣島ノ湊賣餘り至シニ俄ニ風起テ船ヲ宇島
ト云所ニ掛ル宮島アサ島眼下ニ望風景甚佳ナリ
翌十七日朝晴五ツ時過廣島ニツクネコヤ橋下ニ着御城下尤繁華ニシ奇
麗ナリ夫ヨリ江漢ト同道ニテ芸州イノロト云所ヨリ乗舟テ宮島エ行
暮七時前厳島着岸ス先明神礼拝ス丁ノ内ニ猿鹿イテ紙合羽ヲ着
シテアルケバ鹿コレヲクハントス奈良丁ノ如シ其風景相州江島/如
クニシテ廣
其夜折ヨク回樓燈明トホリ誠日本無双之勝景ナリ其夜宮島市中イヨヤ
久兵衛方ニ宿
翌十八日雨司馬氏此島ニテ風景フ寫トテ殘ル余用事アリテ別ナス
晚秋與司馬氏暫同道別干嚴島
山川好景暫同遊俱宿海天嚴島秋百八回樓分手處孤舟照見靈燈明
夫ヨリ司馬氏別テ朝六半頃舟ニノリ島々風景ヲ見ルニ太湖ノ如クナル
島アリ秋雨淋シク見ルニ鹿一疋浪打際ニ遊シ景誠ニ絶景言葉不盡此間
海上三リ餘ナリ四ッ時玖波驛ツキ夫ヨリ周防関戸驛ニ至リ岩国錦帯橋
ニ至リ名高橋ナリ』
江漢と二人で観光する様子が映像になって、旅番組を見ているようです。
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