ラベル 江戸生艶氣樺焼 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 江戸生艶氣樺焼 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年10月15日火曜日

江戸生艶氣樺焼 その55

P30 東京都立中央図書館

(読み)

こゝで

ここで


やき

やき


もちを

もちを


や可連てハ

やかれては


大 奈んぎ

おおなんぎ


多゛可ら

だ から


め可けも

めかけも


どこぞへ

どこぞへ


可多付

かたずけ


ませ ふ

ましょう


王多しハ

わたしは


大 きに

おおきに


可ぜをひき

かぜをひき


まし多

ました


北 尾政 演 画

きたおまさのぶが


京  傳 作

きょうでんさく

(大意)

艶二郎「ここで焼きもちを焼かれては、大変にめんどうなことになるから、妾(めかけ)もどこかへ片付けましょう」

浮名「わたしはずいぶんと風邪をひいてしまいました」

(補足)

 浮名が借り着の右袖を口のあたりに持ち上げながら「可ぜをひきまし多」といっているのは、くしゃみをこらえているのか。どこかで二人のことをうわさしているのだろう、という含みの画だろうと手持ちの本にはありました。なるほどね。

 番頭の候兵衛の目が驚きでパッチリになっていますが、これはいたずら書きで持ち主が書き込んだものでしょう。

 さて、上中下三巻の表紙を紹介して 

「江戸生艶氣樺焼」の〆といたします。

 

2024年10月14日月曜日

江戸生艶氣樺焼 その54

P30 東京都立中央図書館蔵

(読み)

王可きときハけつきいま多゛

わかきときはけっきいまだ


さ多まらすいましむる事 いろ\/

さだまらずいましむることいろいろ


ありといふことを志らぬ可春べてあんじ可

ありということをしらぬかすべてあんじが


こうするとミ奈こうし多もの多゛於そろしき

こうずるとみなこうしたものだ おそろしき


とろ

どろ


本゛うと

ぼ うと


までミを

までみを


やつせし

やつせし


王れ\/可

われわれが


くふうの

くふうの


きやう

きょう


げん

げん


いこハ

いごは


きつと

きっと


多し奈ミ

たしなみ


おれ

おれ


きのすけや

きのすけや


王るい

わるい


志あんとも

しあんとも


まう

もう


つきあふ

つきあう


まい可

まいか


そち者゛かりでハ

そちば かりでは


奈いよの中 二多いふ可ういふ

ないよのなかにだいぶこういう


こゝろいきのもの可゛あるて

こころいきのものが あるて

(大意)

弥二右衛門「若いときは血気いまだ定まらず、(色恋は)あれこれ注意せねばならぬことがあるということを知らぬのだ。思いつきが度を過ぎると、すべてがこうなってしまうものなのだ。恐ろしい泥棒の姿にまでなって、われわれが仕組んだ狂言、以後は必ずや自分のおこないに気をつけろ。喜之介や悪い志庵とも、もうつきあうでないぞ。お前ばかりではない、世の中にだいぶこのような性格のものがいるのだよ」。

(補足)

「王可きときハ〜」、論語季氏第十六の七『少之時。血氣未定。戒之在色』

「こゝろいき」、『③ 性格。気性。気質。「世の中に大部かういふ―の者が有るて」〈黄表紙・江戸生艶気樺焼〉

④ なったつもり。また,気どり。「艶二郎は役者・女郎などの―にて」〈黄表紙・江戸生艶気樺焼〉』

 京傳はもともと絵師でした(北尾政演は絵師としての名前)ので、ここの親父殿からの説教の場面もどこかなごやかな雰囲気をかもしだして、描かれています。

 

2024年10月13日日曜日

江戸生艶氣樺焼 その53

P30 個人蔵

(読み)

もとより志ん多゛い二ふそくも奈く

もとよりしんだ いにふそくもなく


春へ者んじやう二さ可へ

すえはんじょうにさかえ


志可し一 生  のうき(奈)の

しかしいっしょうのうき な の


多ち於さめ二今 まで

たちおさめにいままで


の事 をくさぞうし尓して

のことをくさぞうしにして


せけんへひろめ多く

せけんへひろめたく


京  でんを多のミて世上  の

きょうでんをたのみてせじょうの


う王きびとをきやう

うわきびとをきょう


くんしける

くんしける

(大意)

もとよりお金の心配はなく、後々まで繁盛し栄えた。

しかし、生涯色男であった(ありたかった)締めくくりとして、

今までのことを草双紙にして、世間へ広めたく

京傳に頼み込んで、世の中の浮気人の教訓とした

(補足)

 ここまでの文章がこの物語のまとめとなります。それにしても画の隙間いっぱいに文字だらけ。

 艶二郎の顎下に何か袋の表書き見たいのが見えます。ひとつは「興」のようにみえますけど、もうひとつはなんでしょうか。

 

2024年10月12日土曜日

江戸生艶氣樺焼 その52

P30 東京都立中央図書館蔵

P30 個人蔵

(読み)

ゑん二郎 ちやうと

えんじろうちょうど


かん

かん


どう

どう



日のべ

ひのべ


きれ

きれ


けれ

けれ



こり\/としてうちへ可へりてミれバ

ころごろとしてうちへかえりてみれば


ゆ可う二三めぐり尓て者可゛れ多る

いこうにみめぐりにてはが れたる


小袖

こそで


可けてあるゆへふしぎ尓於もう於り可ら一 まより

かけてあるゆえふしぎにおもうおりからひとまより


於や弥二ゑもん者゛んとう候  兵へ多ちいでい个ん春る

おややじえもんば んとうそうろべえたちいでいけんする


ゑん二郎 ハ者じめてよの中 をあきらめ本んとう

えんじろうははじめてよのなかをあきらめほんとう


のひとゝ名りうき奈もおとこの王るいも

のひととなりうきなもおとこのわるいも


ふせ うして本可へゆくきも奈くふう婦と奈り

ふしょうしてほかへゆくきもなくふうふとなり

(大意)

 艶二郎はちょうど勘当の日延もきれたので、さんざんな気分で家へ帰ってみると、衣桁に三囲(神社)で脱がされ奪い取られた小袖がかけてあるので、不思議におもっていると、隣の部屋より親の弥二右衛門と番頭の候兵衛が出てきて、意見をした。

 艶二郎ははじめて世の中のことがはっきりわかり、真面目な人となり、浮名も男(艶二郎)のぶさいく(団子っぱな)は我慢してほかへ嫁く気もなく夫婦となった。

(補足)

「あきらめ」、『あきら・める 4【明らめる】

① 物事の事情・理由をあきらかにする。「創造の神秘を―・めて見なさい」〈肖像画四迷〉

② 心をあかるくする。心を晴らす。「陸奥(みちのく)の小田なる山に金(くがね)ありと申(もう)したまへれ御心を―・め給ひ」〈万葉集4094〉』。「諦める」ではない。

「ふせうして」、『ふしょう ―しやう【不請】

③ 不満足であるが,我慢すること。辛抱すること。「何卒私の心をも察して―してお呉なはい」〈人情本・春色梅美婦禰5〉』

 艶二郎が亀のようになってかぶっているのは例の毛氈、この「毛氈をかぶる」は辞書で調べると『① 〔歌舞伎で,死人になった役者を毛氈で隠し舞台からおろしたところから〕しくじる。放蕩などをして主家や親から追い出される。「親玉へ知れると―・る出入だ」〈浄瑠璃・神霊矢口渡〉② 〔遊女が見世に出ている時,毛氈を敷いたことから〕女郎買いをして金を使う。「それ毛氈かぶるが放蕩息子(どらむすこ)」〈黄表紙・稗史億説年代記〉』とあって、ここでは①の意で、艶二郎の色男ぶる悪企てすべてがしくじったことを示しているとありました。

 辞書にものっているくらいの事柄ですが、何も知らなかったら、裸の艶二郎は寒いのでちょうど持っていた毛氈をかぶっているだけとして、話の真髄にふれることはできませんでした。 

2024年10月11日金曜日

江戸生艶氣樺焼 その51

P29 個人蔵

(読み)

うしハね可゛い可ら者奈を

うしはねが いからはなを


とふ春とゑん二郎 可゛

とうすとえんじろうが


王るあんじの志んぢ う

わるあんじのしんじゅう


此 とき世上  へ者゜つと

このときせじょうへパ ッと


うき奈多ち志ぶうちハの

うきなたちしぶうちはの


ゑ尓まで

えにまで


可いてい多゛しけり

かいていだ しけり


於連ハ本んのすいきやうでし多

おれはほんのすいきょうでした


事 多゛可らぜひ可゛奈い可゛

ことだ からぜひが ないが


そちらハさぞさむ可ろう

そちらはさぞさむかろう


せけんの道 行 ハきものをきて

せけんのみちゆきはきものをきて


さいごの者゛へ行 可゛こつちのハ

さいごのば へゆくが こっちのは


者多゛可でうちへ道 行 とハ

はだ かでうちへみちゆきとは


大 き奈うら者ら多゛

おおきなうらはらだ


ひぢりめんのふんどし可゛

ひじりめんのふんどしが


こゝで者へ多も

ここではえたも


於可しい\/

おかしいおかしい


本んの

ほんの


まき

まき


ぞへ

ぞえ



奈ん

なん



(大意)

「牛は願いから鼻を通す」と。艶二郎のくだらぬおもいつきの心中は、このとき世間へあっという間になまめいた噂がたち、さえない画まで描かれて出されてしまった。

艶二郎「おれはほんの酔狂でしたことだからしかたがないが、おまえはさぞ寒かろう。世間の道行は着物を着て最後の場へ行くが、こっちのは裸でうちへ道行とはまったくあべこべだ。緋縮緬のふんどしがここで目立ったのもゆかいだゆかいだ」

浮名「まったく、まきぞえになって、こまったもんさ」

(補足)

「うしハね可゛い可ら者奈をとふ春」、『牛は願いから鼻を通す

〔牛はその天性によって鼻木を通される意〕自ら望んで災いを受けることのたとえ』

「道行」、このくずし字が何箇所かにあります。「道」、「行」両方とも頻出ですが、意外と(特に単独で出てくると)これなんだっけとなるくずし字です。これを機会にしっかり印象付けたのでもう大丈夫(のはず)。

「者へ多も」、現在の「ばえる」(映える)とまったくおなじ意味。

 文章だけで手一杯なはずですが、鳥居脇の松はとても丁寧だし、傘も骨が一本一本ほんの少しはみ出して描いてあるところなどこだわっています。

 

2024年10月10日木曜日

江戸生艶氣樺焼 その50

P28 個人蔵書

P29 個人蔵書

(読み)

春そもよふゆ可りのいろも七 ツやの奈尓奈可れ

すそもようゆかりのいろもななつやのなにながれ


多るすミ多゛川 多可゛い尓むりをいをざ起の

たるすみだ がわたが いにむりをいおざきの


かねハ四ツ目や長  命 寺きミ尓ハ

かねはよつめやちょうめいじきみには

(P29)

む年をあくる日のま多

むねをあくるひのまた


四ツ過 のひぢりめん

よつすぎのひじりめん


ふんどし

ふんどし


奈可き

ながき


者るの

はるの


日の

ひの


日高

ひだか



てら尓

てらに


あらすして

あらずして


者多゛可のてやい

はだ かのてあい


いそき行 引  三 重

いそぎゆくひきさんじゅう

(大意)

裾模様、それは紫色の碇も流れてしまって、目の前にはあの隅田川が流れてる。互いに無理を云い、長命寺の鐘が四ツ時で、君(浮名)は明日には解き放されて胸もスッキリするだろうけど、まだ四ツ過ぎで作りたての緋縮緬の湯もじ(腰巻)と長い褌姿、ながい春の日は、日高の寺ではあるまいし、はだかの二人は急ぎ行く。ぺぺんぺんぺん。

(補足)

「ゆ可り」、紫色。碇とゆかりのシャレ。

「七ツや」、質屋。流れるの縁語。

「いをざ起」、五百﨑。向島あたりの古称。無理を「云う」に掛けた。

「四ツ目や」、『よつめや【四つ目屋】

江戸両国にあった淫薬・淫具専門の薬屋。主人を四つ目屋忠兵衛といい,四つ目結(ゆい)を紋とした。長命丸が特に知られていた』

「長命寺」、向島五丁目の隅田川にのぞむ天台宗の寺。

「日高のてら」、和歌山県日高郡の日高川そばの道成寺。謡曲「道成寺」の「急ぐ心からまだ暮れぬ日高の寺に着きにけり」をふまえた。日高は長き春日の縁語。

「者多゛可」、「日高」と「はだか」の語呂合わせ。

「引三重」、浄瑠璃の終末部の三味線の手。

 こういった洒落や引掛けや語呂合わせなど手の込んで調子よく語るところを現在の言葉で言い換えることはとても難しいというか、ほとんど無理です。説明するとリズムがすべてこわれるし、全体的な雰囲気をつかんで感じるのが一番だと思います。

 この頁をまたぐ長い語りを大声で発声してリズムよくペペンペンペンとうなると気分がよいです。

 艶之助、毛氈敷物肩にして、長いふんどし(それでも褌の紐に刀をさしている)、浮名は緋縮緬腰巻き姿、こんなになっても相合い傘で土手路歩く二人のポッコリおなかがかわいらしい。傘に手ぬぐい頬かむり刀に敷毛氈と、道行き小道具失わず。

 

2024年10月9日水曜日

江戸生艶氣樺焼 その49

P28P29 東京都立中央図書館蔵

P28 個人蔵書

(読み)

とんと於ち奈バ名や多ゝんどこの女 郎し由可志らミ

とんとおちなばなやたたんどこのじょろしゅかしらみ


ひもむすびの可ミもあちらむ可さん志よ志゛やうゆの

ひもむすびのかみもあちらむかさんしょじ ょうゆの


やき春゛るめびんとひぞるも今 ハ者やむ可しと

やきす るめぴんとひぞるもいまははやむかしと


名りし中 の丁  そと八 もんじもこふ奈れバうち七 もんじ二

なりしなかのちょうそとはちもんじもこうなればうちしちもんじに


多どりゆく奈ミ多゛二ま志゛る水 者゜奈尓ぬらさん

たどりゆくなみだ にまじ るみずば なにぬらさん


さんそでハも多ぬゆへ下多の於びをぞ志本゛りける

さんそではもたぬゆえしたのおびをぞしぼ りける


身に志ミ王多るこち可ぜ尓とり者多゛だちし此 す者多゛

みにしみわたるこちかぜにとりはだ だちしこのすはだ


とのごのか保ハう春ゞミ尓かく多満づさとミる

とのごのかおはうすずみにかくたまづさとみる


かり尓多よりきかんとかくふミのか奈でか奈てこ

かりにたよりきかんとかくふみのかなでかなてこ

(大意)

 どこの女郎衆かしらは知らぬこと、縁結びの神も(虱ときいては)そっぽを向かざんしょ、山椒醤油の焼きスルメ、焼いて焦がれてピンとはったり身悶えしたり、今やはや過去の中ノ町、外八文字で道中したもが、こうとなった今は、格も下がって内七文字の足どりだ。涙にまじる水鼻を、拭う袖ももたぬゆえ、下帯までに、たれてしまった鼻水を、しぼりける。身にしみわたる東風に鳥肌立ってるこの素肌、あなたの顔色は薄墨のように、かく玉づさと見ゆる、雁にたよりをきこうとかくふみの仮名でかくは(裾模様)

(補足)

 浄瑠璃風に七五調子ですので声に出して読むと気分がよいです。この部分も一行一行調べないとよくわかりません。なのでまたながくなりそう。

「志らミひも」、『しらみひも【虱紐】体に締めていれば虱よけになるという紐。江戸時代,江戸芝金杉通りの鍋屋茂兵衛が売り出したもの』。知らないに引っ掛けている。

「う春ゞミ尓かく多満づさとミるかり尓」、『津守国基 つもりのくにもと治安三~康和四(1023-1102)薄墨にかく玉づさと見ゆるかな霞める空にかへる雁がね(後拾遺71)』を引用。【通釈】薄墨色の紙に書いた手紙のように見えるなあ。霞んだ空を、並んで帰ってゆく雁の群は。

【語釈】◇薄墨 薄墨紙の略。◇雁がね もと雁の鳴き声を言ったが、ここでは単に雁のこと。

【補記】曇り空を薄墨紙に、列をなして飛ぶ雁を手紙の文字になぞらえた。古来雁が書信を届ける使者に擬えられたことに因む見立てであって、ただ似て見えるというだけの歌ではない。後世、多くの模倣歌を生んだ、とありました。

「か奈でか奈てこ」、肩に金てこの語呂合わせ。

 大きな鳥居の上部だけ見えていますが、これは(その45)で紹介した三囲神社の画にも描かれていたものです。土手の上からのぞいています。

 

2024年10月8日火曜日

江戸生艶氣樺焼 その48

P28P29 東京都立中央図書館蔵

P28 個人蔵書

(読み)

仇 氣やゑん二郎

あだきやえんじろう


浮 名やうき奈

うきなやうきな


道 行 興    鮫 肌

    きやう可゛さめ者多゛

みちゆききょうが さめはだ


〽朝(あし多)尓色(いろ)をして夕(ゆふべ)尓死(しす)とも可(可)なり

   あした に  いろ をして  ゆうべ に  しす とも  か なり


とハさてもうハき奈ことの者ぞそれハろん

とはさてもうわきなことのはぞそれはろん


ごの可多いもじこれハふんごのや王ら可奈者多゛と

ごのかたいもしこれはぶんごのやわらかなはだ と


者多可のふ多りしてむ春びしひもをひとりして

はだかのふたりしてむずびしひもをひとりして


とくにと可れぬう多がひハふしんの土手のた可ミ可ら

とくにとかれぬうたがいはふしんのどてのたかみから


とんと於ち奈バ名や多ゝんどこの女 郎し由可志らミ

とんとおちなばなやたたんどこのじょろしゅがしらみ

(大意)

仇氣やゑん二郎(色男の艶二郎)

浮名やうき奈(色女のうきな)

道行興鮫肌

「朝に色をして夕に死すとも可なり」とは、ほんとに色恋にぴったりの言葉ではないか。あれは論語のおかたい文句であるが、これは豊後のやらかな、肌とはだかの二人でむすんだ紐を一人でとこうにもほどけずに、不審(普請)な泥棒が出た土手の上から川に落ちたら、どこの女郎かと評判になるだろう。


(補足)

 この部分は、浄瑠璃の道行きの文をまねて、ほぼすべての行にたくさんのもじり(引っ掛け)をいれていて、ほとんどが参考資料のうけうりになります。説明されればう〜んなるほどと、わかったふりができますけど、当時の人でもすぐにわかったかどうかはどうなんでしょうねぇ。

 道行心中を約束通りに止めることがかなわず、泥棒に身ぐるみ剥がされてしまい、そのおもいもよらぬ展開に興がさめ(鮫)、素っ裸にされて寒さで鳥肌になってしまった、というのが題名の意味です。

「朝(あし多)尓色(いろ)をして〜」、『朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり

〔論語里仁〕人としての道を悟ることができれば,すぐに死んでも悔いはない』のもじり。

「ふんごのや王ら可奈多゛と者多可」、当時「河東上下、外記袴、半太羽織に義太股引、豊後かはいや丸裸」と評された軟弱な曲節。それをうけて「やわらかな肌とはだか」とした、とありましたが・・・。よくわからないので、もう少し調べました。

 『其比の流行たとへに、土佐上下に外記袴、半太羽織に義太が股引、豊後可愛や丸裸かと皆人申けり、其比は土佐節、外記節、半太夫節、義太夫、豊後、何も流行たるものなり、(山田桂翁『宝暦現来集』天保二年(1831)自序)』

 土佐(河東)節を上下〔かみしも〕姿に譬えると、外記節は羽織袴、半太夫節は羽織姿であるのに対し、義太夫節は半纏股引で、豊後節に至っては「丸裸か」だという。きっとこれですね。

「ふ多りしてむ春びしひもをひとりして」、伊勢物語三十七段(下紐)。

男から女への歌「我ならで下紐解くな朝顔の 夕影待たぬ花にはありとも」(私以外の人に、下紐を解かないで下さいよ、あなたが朝顔のように夕日を待たない、変わりやすい花であっても)、

女の返歌「ふたりして結びし紐をひとりして あひ見るまでは解かじとぞ思ふ」(二人で一緒に結んだ紐ですから、私一人では、あなたとお逢いするまでは、決して解くつもりは、ないと思っています)

 高校の古文でこのようなのを学びたかったな。

「とんと於ち奈バ名や多ゝん」、 河東節松の内『とんと落ちなば名や立たん、どこの女郎衆の下紐を結ぶの神の下心』とあるのをつかっている、とありました。

 わずか五、六行の文なのに、補足はその何倍にもなってしまいました。

さてまだだ続きます。

 

2024年10月7日月曜日

江戸生艶氣樺焼 その47

P26P27 東京都立中央図書館蔵

(読み)

P26

これ\/

これこれ


者やまるまい

はやまるまい


王れ\/ハ

われわれは


しぬ多めの

しぬための


志んち うてハ

しんじゅうだは


奈いこゝへ

ないここへ


とめて可゛

とめてが


でる者づ多゛

でるはずだ


どふま

どうま


ち可゛つ多可

ちが ったか


志らん

しらん


きものハミん奈

きものはみんな


あげましやう

あげましょう


可らいのちハ

からいのちは


於多すけ\/

おたすけおたすけ


P27

此 いご

これいご


こん奈於もい

こんなおもい


つきハ

つきは


せまい可

せまいか


\/

せまいか


もうこれ尓

もうこれに


こりぬ事 ハ

こりぬことは


ごさり

ござり


ません

ません

P26

どふで

どうで


こん奈ことゝ

こんなことと


於もいんし多

おもいんした

(大意)

艶二郎「コレコレ、はやまるでない。我々は死ぬための心中ではない。ここで止めようとする者が出てくるはずなのだ。どうまちがったかわからん。着物はみんなあげましょうから、命はお助け、おたすけ」

泥棒二「これ以後、こんな思い付きはしないか、しないか」

艶二郎「もうこれで、懲りごりでございます」

浮名「どうせこんなこととおもいんした」

(補足)

 心中の小道具以外、背景は屋外の風景となって、弦月と稲叢(いなむら)ぐらいが時と季節をあらわすぐらいで、あとは小川の流れやちょっとした下草と木々、そんな心中場所を描くのはそれなりに難しいはず。

 

2024年10月6日日曜日

江戸生艶氣樺焼 その46

P26P27 東京都立中央図書館蔵

P27 個人蔵書

(読み)

やくしの

やくしの


あ多り尓て

あたりにて


ミ奈\/尓王可れ

みなみなにわかれ


ゑん二郎 ハ日ごろのね可゛い

えんじろうはひごろのねが い


可奈いしとこゝろうれしく

かないしとこころうれしく


道 行 をしてゆきこゝこそ

みちゆきをしてゆきこここそ


よきさいご者゛と者く於きの

よきさいごば とはくおきの

P7

王きざしをぬいてすで尓

わきざいをぬいてすでに


こふよとミへ

こうよとみえ


奈むあミ多゛ぶつといふを

なむあみだ ぶつというを


あいづ二い奈むらのかげゟ

あいずにいなむらのかげより


くろしやうぞくの

くろしょうぞくの


とろ本゛う

どろぼ う


二 人あら王れ

ふたりあらわれ








まつ

まっ


者゜た可尓

ぱ だかに


して

して


者ぎとる

はぎとる


王いらハ

わいらは


とふで

どうで


志ぬもの多゛

しぬものだ


可ら

から


於いら可゛

おいらが


可いしやく

かいしゃく


して

して


やろう

やろう

(大意)

(多田の)薬師あたりでみんなと別れ、艶二郎は日頃の願いがかなったと心うれしく、心中の場所へ行き、こここそよき最後の場と、箔置きの脇差しをおき、いよいよ最後の時とおもい、南無阿弥陀仏というのを合図に稲叢(いなむら)のかげより、黒装束の泥棒があらわれ出てきて、二人を真っ裸にしてはぎとってしまった。

泥棒一「お前らはどうせ死ぬ者だから、おいらが介錯してやろう」

(補足)

「たゞのやくし」、吾妻橋の川下の東岸、番場(現在の墨田区東駒形)にあった玉島山明星院東江寺。本尊の薬師仏は多田満仲(ただのまんじゅう)こと源満仲(みなもとのみつなか)の持仏という、とありました。ついでに古地図で調べるとありました。

「とふで」、『どうで(副)

いずれにせよ。「どうせ」の古めかしい言い方。「―一日か二日の命」〈色懺悔•紅葉〉』

「まつ者゜た可」、濁点「゛」もついたりつかなかったりしますが、半濁点「゜」はさらにいいかげんなのに、ここではやけにくっきりと大きな「゜」が目立つように付けられています。身ぐるみ剥がされて真っ裸なことを強調したかったのかもしれません。

「い奈むら」、泥棒二人のうしろにある刈り取った稲を重ねたもので、以前は稲刈り後の田圃の風景でありました。

 

2024年10月5日土曜日

江戸生艶氣樺焼 その45

P26P27 東京都立中央図書館蔵

P26 個人蔵書

(読み)

さいごの者゛も

さいごのば も


いき奈者゛つとし多

いきなぱ っとした


ところとの事 尓て

ところとのことにて


三めぐりのどてと

みめぐりのどてと


きめよ可゛ふけてハ

きめよが ふけては


きミ可゛王るい可ら

きみが わるいから


よいのうちの

よいのうちの


つもり尓て

つもりにて


ゑん二郎 尓つとめ

えんじろうにつとめ


多るちややふ奈やど

たるちゃやふなやど


たいこまつしやげい

たいこまっしゃげい


しやども多゛い\/

しゃどもだ いだい


こうのおくりの

こうのおくりの


やふ二者可ま

ようにはかま


者於り尓て

はおりにて


大 川 者゛しまで

おおかわば しまで


於くり申  たゞの

おくりもうすただの

(大意)

 最後の場も粋なパッとしたところにしようと、三囲(稲荷社)の前の土手と決めた。夜がふけては気味が悪いから宵のうちにとのつもりで、艶二郎のためにつくしてきた茶屋・舟宿・太鼓持ちたち・芸者どもが、伊勢太太講の見送りのときのように袴羽織姿で大川橋(吾妻橋)までお見送りした。多田の(薬師の)

(補足)

「三めぐりのどて」、江戸高名会亭尽 三囲之景 絵師 歌川広重。

鳥居の上部が土手越しに見え、市民の遊楽の地であったとありました。

「まつしや」、『まっしゃ【末社】

② 〔大神(大尽)を取り巻く末社,の意から〕遊里で客の機嫌を取り結ぶ人。たいこもち。幇間(ほうかん)。「買手を大神といひ,太鼓を―と名付け」〈浮世草子・元禄太平記〉』

「多゛い\/こう」、『いせだいだいこう ―だいだいかう【伊勢太太講・伊勢代代講】

室町時代以後,無尽のような仕組みで,交代で伊勢参りをして太太神楽(だいだいかぐら)を奉納する費用を積み立てた組合。江戸時代に盛行。伊勢講。太太講』

「大川者゛し」、『あずまばし あづま―【吾妻橋】

隅田川にかかる橋。東京都台東区浅草と墨田区吾妻橋地区を結ぶ。最初の橋は1774年に架橋され,大川橋とも呼ばれた』

 三囲神社の土手を心中場所と決めた艶二郎、その道具立てを確かめると、樒(しきみ)の枝は浮名の腰の後ろにさしてあるよう。数珠はどこだ。小田原提灯はたたんで蝋燭がみえています。辞世の摺物は配らせたのでここにはなし。蛇の目傘は地べたにあります。毛氈(もうせん)の敷物はさてどこに。

 

2024年10月4日金曜日

江戸生艶氣樺焼 その44

P24P25 個人蔵書

(読み)

王可いもの共 ハ

わかいものどもは


御し うぎを

ごしゅうぎを


ちやく本゛くして

ちゃくぼ くして


尓げ多あとで

にげたあとで


本う\゛/

ほうぼ う


いゝふらせ

いいふらせ


とのとの

とのとの


いゝつけ也

いいつけなり

(P24)

二可い可らめぐす

にかいからめぐす


里とハ

りとは


きい多可゛身うけ

きいたが みうけ


とハこれ可゛

とはこれが


者じめてじや

はじめてじゃ

(P25)

於あぶ

おあぶ


奈ふご

のうご


さります

ざります


御しづ可尓

おしずかに


於尓げ

おにげ


奈さりませ

なさりませ


おいらん

おいらん


ごきげん

ごきげn


よふ

よう


於可け於ち

おかけおち


奈さ

なさ


れまし

れまし

(大意)

 若い者どもはご祝儀を手に入れ、逃げたあとで、言いふらせとの言いつけであった。

艶二郎「二階から目薬とは聞いたことがあるが、身請けとはこれがはじめてじゃ」

若い者一「おあぶのうござります。お静かにお逃げなさりませ」

若い者二「花魁ごきげんよう。お駆け落ちなされまし」

(補足)

「ちやく本゛く」、「着服」を「ちゃくぶく」ともいうとあって、それがなまったか。また駆け落ちする客から御祝儀をもらうのも変なので、着服といわせたのかもしれないとありました。

「とのとの」、重複しているのか、何かの言い回しなのか不明です。

 はしごの端両方に縄が巻いてあります。滑り止めのためでしょうが、こんなところまで目が行き届いて描くのですから、恐れ入ります。

 

2024年10月3日木曜日

江戸生艶氣樺焼 その43

P24P25 東京都立中央図書館蔵

(読み)

者し

はし


ごを

ごを


可け

かけ


二可い

にかい


可ら

から


身うけ

みうけ


する

する


内 しやう

ないしょう


でハ

では


どふで

どうで


身うけ

みうけ


奈され多

なされた


女 郎 ゆへ

じょろうゆえ


於こゝろ

おこころ


ま可せ二

まかせに


奈さる可゛

なさるが


いゝ可゛

いいが


れんじの

れんじの


つくろ

つくろ


い代 ハ

いだいは


二百  両 で

にひゃくりょう


まけて

まけて


あけませ う

あげましょう


とよくしんをぞ申  ける

とよくしんをぞもうしける

(大意)

はしごをかけ、二階から身請けする。遊郭の主人は「どうせ身請けされた女郎だから、好きなようにすればよいが、櫺子の修理代は二百両にまけてあげましょう」とがめついことを言っている。

(補足)

「どふで」、『どうで(副)

いずれにせよ。「どうせ」の古めかしい言い方。「―一日か二日の命」〈色懺悔•紅葉〉』

 小田原提灯ぶら下げた艶二郎(袖に「艶」)、あとにつづく浮名(肩に「う」)、二階にかけられたはしごの端が見えています。そしてその右側に見越しの松、松葉もふさふさとふっくら描かれています。

 その上の格子に引っ掛けられた(輪にくるりと通して結んでいるところまで描き、本当に細かい)、丸に十字の入れ物?は何でしょうか。

 

2024年10月2日水曜日

江戸生艶氣樺焼 その42

P24P25 個人蔵書

(読み)

うき奈ハ

うきなは


多とへうそ

たとえうそ


志んぢ う二

しんじゅうに


ても

ても


く王いぶん

が いぶん


王るいと

わるいと


とん多゛ふしやうち奈りし可゛

とんだ ふしょうちなりしが


此 あんじを志由びよくつとめ多あと

このあんじをしゅびよくつとけたあと


でハ春い多於とことそ王せてやろうと

ではすいたおとことそわせてやろうと


ゆらの春け可゛いふやう奈せりふ尓て

ゆらのすけが いうようなせりふにて


よふ\/とく志んさせ此 あききやうげん尓ハ

ようようとくしんさせこのあききょうげんには


ゑん二郎 可゛む利足 尓て金 もとをするやくそく尓て

えんじろうが むりそくにてかねもとをするやくそくにて


ざもとを多のミさくら田尓いゝつけて此 ことを

ざもとをたのみさくらだにいいつけてこのことを


志゛やうるり尓つくらせ多ち可多ハ門 の介 と

じょ うるりにつくらせたちかたはもんのすけと


ろ可う尓てぶ多いでさせるつもり者多き

ろこうにてぶたいでさせるつもりはたき


そう奈志者゛ゐ奈りもとよりす奈を尓

そうなしば いなりもとよりすなおに


身うけしてハいろ於とこで奈いと

みうけしてはいろおとこでないと


かけ

かけ


於ちの

おちの


ぶん

ぶん


尓て

にて


れんじ

れんじ



こハして

こわして

(大意)

 浮名はたとえうそ心中でも外聞が悪いと、とても納得していなかったが、この計画を首尾よくなしとげたあとには、好きな男とそわせてやろうと、(大星)由良之助が言うようなせりふで、よくよくしっかり納得させた。

 また、この秋の歌舞伎興行では艶二郎が無利息で出資するという約束をして、座元に頼み、桜田(治助)にいいつけて、このことを浄瑠璃に作らせ、立方は門之助と路考で、舞台で演じさせるつもりだが、失敗しそうな芝居であった。

 もとより素直に身請けしては色男ではないと、いかにも駆け落ちしているかのように見えるように、櫺子(細い木の格子)を壊して、


(補足)

「く王いぶん王るい」、遊女と客の心中は、死にそこなうと日本橋の南詰めに三日さらされたうえ、男女別々に非人頭に渡される、とありました。なのでうそ心中でもそうはなりたくない。

「ゆらの春け可゛いふやう奈せりふ」、浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」七段目・祇園一力の場で、大星由良之助が遊女お軽に身請けの相談をして、「間夫があるならそわしてやろう・・・侍冥利、三日なりとも囲うたら、それからは勝手次第」というセリフの引用。

「さくら田」、『さくらだじすけ ―ぢすけ【桜田治助】歌舞伎脚本作者。

① (初世)[1734〜1806] 壕越(ほりこし)二三治の弟子。四世松本幸四郎と提携,江戸世話狂言を確立。代表作に「御摂勧進帳(ごひいきかんじんちよう)」「伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)」があり,「戻駕(もどりかご)」など舞踊劇にもすぐれた』。このうそ心中を劇にしてくれるよう頼んで、人々に話題にしてもらいたい一心。

「多ち可多」、舞踏では踊る者を立方、音楽を地方という。

「門の介とろ可う」、二世市川門之助、寛政六(1794)年没。路考は三世瀬川菊之丞の俳名。

「者多きそう奈」、『はた・く 2【叩く】⑥ 失敗する。損失を出す。「―・きさうな芝居なり」〈黄表紙・江戸生艶気樺焼〉』。

 若いもの二人に灯りまでさされ、その後ろには禿までいて駆け落ちの見送り付きとは、なんとも馬鹿げていておかしな場面。しかし、壊された櫺子(れんじ)、細い木の一本一本角をしっかり立てて、とても立体的にしている、をとおして、その奥の見送り衆を重ねて描いていて、その一人は格子の間から手に持つ灯りを差し出しています、手がこんでいます。どうやって彫ったのでしょう?

 この内容のバカバカしさトンチンカンな駆け落ち風景ですが、その一方、画は極めて写実的で正確緻密です。その落差がなんともおかしみを増しています。

 

2024年10月1日火曜日

江戸生艶氣樺焼 その41

P22P23 東京都立中央図書館蔵

(読み)

(P22)

ふ多り可゛

ふたりが


志゛せいの

じ せいの


本つくハ

ほっくは


春りもの二

すりものに


して

して


中 の丁  へ

なかのちょうへ


く者゛

くば


らせる

らせる


花らん可゛

からんが


(P23)

かい多者すのゑを

かいたはすのえを


大 本゛うしよへから

おおぼ うしょへから


ずりとハ

ずりとは


いゝ

いい


於保し

おぼし


めし

めし


つき多゛

つきだ


(P22)

王きさしハ者く於き二

わきざしははくおきに


あつらへ

あつらえ


まし多

ました

(大意)

 二人の辞世の発句は摺物にして中ノ町(の茶屋)へくばらせる。

志庵「花藍(からん)が描いた蓮の画を大奉書へ空摺りとは、いい思いつきだ」

喜之介「脇差しは箔置(銀箔を置いた木刀)にしておきました」

(補足)

「花らん」、『きたおしげまさ きたを―【北尾重政】[1739〜1820]江戸中・後期の浮世絵師。独学で一家をなす。錦絵の美人画をよくし,独自の画風を完成。北尾派の祖。また,能書家でもあった』の俳名。門人に北尾政美や北尾政演((まさのぶ)京傳自身)。

「者すのゑ」、蓮の画は現在でも法事や追悼にはつきもの。ここではまさに一蓮托生、二人の気持ち。

「大本゛うしよ」、『ほうしょがみ【奉書紙】〔多く奉書に用いたことから〕

上質の楮(こうぞ)で漉(す)いた,純白でしわのないきめの美しい和紙。杉原紙に似るが,やや厚手で簾目がある。越前奉書が有名。ほうしょ』の大判。

「からずり」、『からずり【空摺り】

浮世絵版画などで,凸版に絵の具を塗らず,刷り圧だけで,紙面に凹凸模様を作り出す技法。着物の文様などを無色の凹線で表すのに用いた』。今で言うエンボス加工のこと。

 わたしの手持ちの錦絵などにもあって、正面からみると柄にしか見えないものが、斜め方向からの光で見てみると凹凸が浮き出て、画が立体的になり見事です。

 この黄表紙の作者も画も北尾政演(まさのぶ)、つまり山東京傳です。この場面、京傳は微に入り細に入り、気のすむまで描きまくっています。花魁浮名はもちろんのこと、禿二人も手抜き一切なし、見事です。

 京傳は「吉原傾城 新美人合自筆鏡(よしわらけいせい しんびじんあわせじひつかがみ)」という題名通りの錦絵集(天明4年/1784)があって、ここの画に描かれている花魁自身が白居易の詩や唐詩選の一節を自筆でその見事な筆をふるっています。どれも息を呑む美しさであります。

 

2024年9月30日月曜日

江戸生艶氣樺焼 その40

P22P23 東京都立中央図書館蔵

P23

(読み)

志あんを

しあんを


やって於き

やっておき


奈むあミ

なむあみ


多゛ぶつと

だ ぶつと


いふをあいづ二

いうをあいずに


とめさせる

とめさせる


ち うもん尓て

ちゅうもんにて


まづうき奈を

あずうきなを


千 五百  両  尓て

せんごひゃくりょうにて


身うけてをし

みうけてをし


しんぢ うの道 ぐ

しんじゅうのどうぐ


多゛てを可いあつめる

だ てをかいあつめる


ついの小そでの

ついのこそでの


もよふ尓ハか多尓可奈てこ

もようにはかたにかなてこ


すそ尓ハい可り志ち尓

すそにはいかりしちに


於ゐても奈可゛れの

おいてもなが れの


ミといふ古可の

みというこかの


こゝろを

こころを


ま奈者゛れ多り

まなば れたり


これも中 やと

これもなかやと


やまざきの

やまざきの


もうけ

もうけ


もの

もの


奈り

なり

(大意)

志庵をまたせておき、南無阿弥陀仏と言うのを合図にとめさせる手筈で、まず浮名を千五百両で身請けをして、心中の道具立てを買い集めた。

 おそろいの小袖の模様には「肩に金てこ裾には錨、質においても流れの身」という古い歌の雅(みやびな)な和歌からとったようにもったいをつけた。

 これも中屋と山崎からのあつらえものであった。

(補足)

「身うけてをし」、原稿が間違っていたようです。

「中やとやまざき」、ともに吉原出入りの呉服屋。

「しんぢうの道ぐ多゛て」、喜之介が帳面と引き合わせている物で、樒(しきみ)の枝・数珠・小田原提灯・辞世の摺物・蛇の目傘、そして喜之介の後ろに立てかけて巻いてあるものは毛氈(もうせん)とありました。浄瑠璃「心中宵庚申(しんじゅうよいこうしん)」のお千代・半兵衛が毛氈の上で心中したのをまねたのだろうとありました。

「か多尓可奈てこすそ尓ハい可り志ち尓於ゐても奈可゛れのミ」、この唄は「金を拾ふたらゆかたを染めよ、肩にかなてこもすそに碇、質に置いても流れぬように〜」、安永五(1776)年ごろ流行った。そしてその替え歌「金を拾ふたら浴衣を染めよ、肩にかぎざき裾にはつぎよ、質に置いても貸やしよまい〜」ともうたわれたと蜀山人(しょくさんじん)の随筆「半日閑話」にみえ、また安永七年の咄本「春宵一刻」の序にも「浴衣を染めんとおもいたつ、肩にかなてこもすそにいかり〜」とある、とものの本にはありました。

 確かに艶二郎と浮名の小袖はおそろいになっていて、肩に金梃、裾に碇の柄があります。

艶二郎は髪を結わせ終わり、はけ先(男の髷の先)をなおしています。鏡台がまた豪華。髪結いの男は油になった手を拭きながら、まわりの様子に驚くというよりもあきれ(笑い)顔です。

 

2024年9月29日日曜日

江戸生艶氣樺焼 その39

P22P23 東京都立中央図書館

P22

(読み)

ゑん二郎 いよ\/のり可゛きて

えんじろういよいよのりが きて


可れこれとするうち七 十  五日 の

かれこれとするうちしちじゅうごにちの


日ぎり可゛きれうち可多ゟ ハ

ひぎりが きれうちかたよりは


可んどうをゆるさんと

かんどうをゆるさんと


まい日 のさいそく

まいにちのさいそく


奈れども

なれども


いま多゛う王きを

いまだ うわきを


志多りねバ

したりねば


志んるい中  の

しんるいじゅうの


とり奈し尓て

とりなしにて


廿 日の日のへ

はつかのひのべ


をね可゛ひ

をねが い


どふしてもしんぢ う

どうしてもしんじゅう


本どう王

ほどうわ


き奈ものハ

きなものは


あるまいと

あるまいと


てまへハいのちも

てまえはいのちも


すてるき

すてるき


奈れども

なれども


それでハうき奈可

それではうきなが


ふしやうちゆへ

ふしょうちゆえ


うそしんぢ うの

うそしんじゅうの


つもり尓て

つもりにて


さきへきの春けと

さきへきのすけと

(大意)

 艶二郎はいよいよ気分がのってきて、かれこれとするうちに七十五日の期限がきれ、家の方からは勘当を許さんと毎日の催促がきていたが、いまだに浮気をしたりなかったので、親類中のとりなしで二十日の日延べを願った。

 絶対に心中ほど浮気なものはあるまいと、自分の命は捨てる気であったが、それでは浮名が承知しないので、うそ心中ということにしようと、まえもって喜之介と(志庵をまたせておき)

(補足)

「のり可゛きて」、『乗りが◦来る

興味がわいてくる。気分が乗ってくる。乗り気になる。調子に乗る。「艶二郎いよ〱―◦きて,かれこれとするうち」〈黄表紙・江戸生艶気樺焼〉』

 うそ心中の準備に忙しい面々。右から順に、喜之介(左袖に「キ」)・浮名(左袖に「う」)・禿・志庵(右袖に「志」)・髪結い・艶二郎・禿。

 心中の道具立ての詳細は次回。

 

2024年9月28日土曜日

江戸生艶氣樺焼 その38

P21 個人蔵書より

(読み)

ヲヤとばゑのやう奈可保の

おやとばえのようなかおの


ひと可゛とふるミん奈きて

ひとが とうるみんなきて


ミ奈せい

みなせい


そとを

そとを


あるくと日尓

あるくとひに


やけるで

やけるで


あやまる

あやまる



まつ多

まった


もの多゛

ものだ


ま多

また


本れ多

ほれた


そふ多

そうだ


いろ

いろ


於とこも

おとこも


うるさいぞ

うるさいぞ

(大意)

水茶屋娘「おや、鳥羽絵のような顔の人が通る。みんな来てみなせぇ」

艶二郎「そとを歩くと日に焼けるので、よくなかったな。(水茶屋娘がこっちを見て何か言っているのを見て)困ったものだ、(あの娘は)また(おれに)惚れたようだ。色男もわずらわしいものだ」

(補足)

「とばゑ」、『とばえ ―ゑ【鳥羽絵】

① 〔院政末期,鳥羽僧正が始めたという〕江戸時代,簡略軽妙に日常生活を画材として描いた滑稽な戯画』

「うるさい」、『⑤ 面倒くさくて,いやだ。わずらわしい。「―・い問題が起こったものだ」』

 水茶屋の娘が笑いをこらえながら手にしている丸いものは小さな丸盆でしょうか。おかしな地紙賣だと笑いの種にしているのを勘違いしている艶二郎は幸せ者。

 水茶屋の茶碗の入っている小さい棚ダンスは側板に扇状の手を入れるところがあって運べるようになっていて、なかなかの一品。

 その下の箪笥も立派です。そしてその横の長椅子や煙草盆まで随分念入りに描かれています。

 札が立てかけてあって「御富札取次仕候(おとみふだとりつぎつかまつりそうろう)」とあるので、水茶屋で宝くじも販売していたようです。そのすぐ右側の地面にある四角のものは、なんでしょうか?

 

2024年9月27日金曜日

江戸生艶氣樺焼 その37

P21 東京都立中央図書館蔵

P21 個人蔵書より

(読み)

ゑん二郎 ハのぞミのとふり可んどう

えんじろうはのぞみのとうりかんどう


をうけ个れども者ゝの可多より

をうけけれどもははのかたより


金 ハ入 用 次㐧 二於くるゆへ

かねはいりようしだいにおくるゆえ


何 ふそく奈け連

なにふそくなけれ


ども奈んぞ

どもなんぞ


う王き

うわき


奈しやう

なしょう


者゛いをして

ば いをして


ミ多く

みたく


いろ男  の

いろおとこの


するしやう

するしょう


者゛いハぢ可ミ

ば いはじがみ


うり多゛ろう

うりだ ろう


とま多゛奈つ

とまだ なつ


もこぬ尓

もこぬに


ぢ可ミ

じがみ


うりと

うりと


で可け

でかけ


一 日 二

いちにちに


あるい

あるい


て大 キ

ておおき


尓あしへ豆 を

にあしへまめを


で可しこれ二ハ

でかしこれには


こり\/とする

こりこりとする


此 時

このとき


大 キ奈すい

おおきなすい


きやうもの多゛と

きょうものだ と


よ本どうき奈立 个り

よほどうきなたちけり

(大意)

 艶二郎はのぞみ通り勘当を受けたが、母の方より金は必要なだけ送るられてくるので何の不足もなかった。しかし何か浮気な商売をしてみたく、色男のする商売は地紙売りだろうと、まだ夏も来ぬのに地紙売りと出かけ、一日中歩いて大きな豆を足にこしらえてしまい、これにはコリコリとまいってしまった。このときにはずいぶんな酔狂物だとたいそう浮名がたった。

(補足)

「入用次㐧」、「入用」は読めたけど、後半はにらめっこしてもダメでした。

「ぢ可ミうり」、『じがみうり ぢ―【地紙売り】江戸中期,多く若衆姿で扇の地紙を売り歩いた者。初夏の頃から伊達な身なりで箱をかついで市中をまわった』

「世渡風俗圖会一」にちょっと地味ながらも「地紙賣」がありました。

 ついでに「團扇賣」。

 まず目に飛び込んでくるのは水茶屋の葦簀(よしず)。異様に丁寧です。

左端は葦ではなく細い竹で丈夫にして、一番下は横糸を二重してます。

また彫師も微妙に葦の間隔を変えて、少しうねっているように見せ、何よりも摺師が適度に葦簀の表面をかすれさせて自然な感じに仕上げています。さらに、葦簀の左下、葦簀の支えをほんの少し見せているところが、これがあるのとないのとでは(実際に指先でかくしてみればわかります)雲泥の差で、なんともうまい!

 地紙賣も團扇賣も風流だなぁ。

 

2024年9月26日木曜日

江戸生艶氣樺焼 その36

P20 東京都立中央図書館蔵

(読み)


げん

げん


本゛り

ぼ り




ある

ある


げい

げい


しや

しゃ


七 八 人

しちはちにん


ゑん二郎 二

えんじろうに


やと王れ可んどうの

やとわれかんどうの


ゆりるよふ二と

ゆりるようにと


あさくさの

あさくさの


く王んのんへ

か んのんへ


者多゛しまいりを

はだ しまいりを


する奈る本ど

するなるほど


者多゛しまいりと

はだ しまいりと


いふや川可゛大 可多ハ

いうやつが おおかたは


う王き奈もの也

うわきなものなり


ゑゝ可げん二

ええかげんに


奈ぐつて者やく

なぐってはやく


志ま王をねへ

しまわをねへ


十  ど

じゅうど


まいり

まいり


くらひで

くらいで


いゝのさ

いいのさ

(大意)

 薬研堀の有名な芸者七八人が艶二郎に雇われ、勘当が許されるようにと、浅草の観音様へ裸足参りをする。なるほど裸足参りというやつは、ほとんどが浮気なことからのものである。

芸者一「いい加減にうっちゃって早くおしまいにしちまおう」

芸者二「十度参りくらいでいいのさ」

(補足)

「やげん本゛り」、『やげんぼり【薬研堀】

② 江戸時代,現在の東京都中央区東日本橋両国にあった堀の名。江戸中期に埋め立てられた。不動堂があり,また付近は芸者,中条流の医師が多く居住した』

「ゆりる」、『ゆ・りる【許りる】

① ゆるされる。許可される。赦免される。「貴方(あなた)の御勘当が―・りてから」〈怪談牡丹灯籠•円朝〉』

「奈ぐつて」、『なぐ・る【殴る・擲る・撲る】』

③ 投げやりにものをする。「ええかげんに―・つてはやくしまはうねえ」〈黄表紙・江戸生艶気樺焼〉

「やと王れ可んどうの ゆりるよふ二と」、「や」と「ゆ」、よく見れば違いはありますが、ほとんどおなじかたちです。ながれから読んだほうがよさそう。

 浅草観音の境内で裸足参りをする芸者三人。左の芸者は右手に藁の緡(さし)『② 百本のこより,または細い縄を束ねて根元をくくったもの。神仏への百度参りのとき,数を数えるのに用いた。百度緡。「おその下女にてお百度の―を持ち」〈歌舞伎・お染久松色読販〉』を持っている。

 足元には銀杏の葉が散り、うしろの葦簀(よしず)がけの店は目玉のような的印の土弓場(どきゅうば)。その右は「御屋うじ所 柳やすぐ兵衛」の看板、つまり、浅草の奥山の銀杏の木のあたりで、ここには房楊枝や爪楊枝を売る店が多く、それぞれ美人の看板娘をおいていた。土弓場はとくに看板娘目当ての浮気男の集まるところでもありました。

 なかでも明和五(1768)年頃、柳屋のお藤という美人は笹森お仙とならび称され、錦絵や唄にもなり銀杏娘と呼ばれた。

 というような、とても深い背景が(ものの本にあって)この画には描き込まれているのでありますが、当時の人達はこの画をひと目みるなり、ニヤリとしたことでありましょう。