P40 東京国立博物館蔵
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(読み)
誠 尓おそろしき大 浪 なり舟 を押ス者 可け声
まことにおそろしきおおなみなりふねをおすものかけごえ
アリヤ\/ \/ と云ツて軍 舩 の如 し漸 ク日暮 生 月
ありゃありゃありゃといっていくさふねのごとしようやくひぐれいきつき
ニ着(チヤク)岸(カン)春カコ能者 手も足 も皆 鮪 能血(チ)ニ
に ちゃく がん すかこのものてもあしもみなしびの ち に
そミ誠 ニ軍 能如 し二時 者可里能間 おそろしき
そみまことにいくさのごとしにときばかりのあいだおそろしき
め尓逢ふ多り爰 尓鮪 師益 冨 又 左衛門 と云フ
めにあうたりここにしびしますとみまたざえもんという
者者なり其 息(ソク)亦 之助 両 人 畄主故 先
ものなりその そく またのすけりょうにんるすゆえまず
一寸 と見世先 尓あかり火を以 テ衣服 能濡(ヌレ)
ちょっとみせさきにあがりひをもっていふくの ぬれ
多るをか王可春殊 ニ寒 月 故 さ武し程 なくして
たるをかわかすことにかんげつゆえさむしほどなくして
主 人 帰 り又 左衛門 ハ平 戸へ参 リ多るよし倅 亦
しゅじんかえりまたざえもんはひらどへまいりたるよしせがれまた
之助 出て玄 関 様(ヨウ)の処 を開 き坐しきへ通 シ
のすけでてげんかん よう のところをひらきざしきへとおし
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須草 ヨリ
すくさより
生 月 へ渡 ル
いきつきへわたる
(大意)
略
(補足)
「鮪師益冨又左衛門」、享保10年(1725)〜安政6年(1859)までの130年間に21,700頭を捕獲し、平戸藩への納付金も77万両、献金が15万両あった。江戸末期に不漁となり、その後、明治7年(1874)に完全に撤退した。米国を中心とした諸外国の捕鯨船が日本近海に乗り出し、このため日本近海に回遊する鯨が急速に減ったためであった、とありました。
「畄主」、当主ではありません。留守。
鮪船の画。文中の説明どおり、「表の方尓トマを張リ二人坐」していて、「カコ六人」がきちんと描かれています。こんなに小さい船で大荒れの海を渡るのですから、事故は頻繁にあったのだろうとおもいます。奥の船もおなじように描かれています。
「西遊旅譚四」に画があります。
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