ラベル 江漢西遊日記六 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 江漢西遊日記六 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年1月4日日曜日

江漢西遊日記六 その93

P107 東京国立博物館蔵

(読み)

板 本 五冊 世尓行(ヲコナハ)る小  子江 漢 今 隠遁(イントン)シテ

はんぽんごさつよに  おこなわ るしょうしこうかんいま   いんとん して


世用 なし廿   八 年 以前 遊 歴 し多る時 日ゝ記(シルシ)

せようなしにじゅうはちねんいぜんゆうれきしたるときひび  しるし


多るを以 テ爰 尓誌 しぬ文 化乙 亥 三 月 也

たるをもってここにしるしぬぶんかきのといさんがつなり


西 遊 日 記と題 号 春

さいゆうにっきとだいごうす

(大意)

(補足)

「文化乙亥三月」(ぶんかきのといさんがつ)、文化12年3月。1815年4月上旬頃。司馬江漢は延享4年〈1747年〉〜文政元年10月21日〈1818年11月19日〉。

 「廿八年以前遊歴し多る時日ゝ記(シルシ)」、1815 - 28 = 1787 となり、西遊の旅は1788年4月23日から1789年4月13日なので、さて?

 『江漢西遊日記』の旅をはじめたのは2024年11月13日でした。本日まで1年と約2ヶ月弱かかって、この旅を終えることになります。

 楽しい旅路でありました。

 

2026年1月3日土曜日

江漢西遊日記六 その92

P106 東京国立博物館蔵

(読み)

宮 ニ泊 ル爰 より日本 橋 迄 六 里余  と云

みやにとまるここよりにほんばしまでろくりあまりという


四月 十  三 日 天 氣浦 和蕨(ワラヒ)を過 て板 橋

しがつじゅうさんにちてんきうらわ  わらび をすぎていたばし


尓至  追 分ケと云 処  より駕籠ニ能里本 郷

にいたりおいわけというところよりかごにのりほんごう


通 里神 田明  神 の前 より日本 橋 を通  て

どおりかんだみょうじんのまえよりにほんばしをとおりて


三 十 町  芝 神 僊 坐尓著(ツク)八ツ時 過 なり僕

さんじっちょうしばしんせんざに  つく やつどきすぎなりしもべ


弁 㐂ハ駿 州  藤 枝 の者 ニて去 年 歳 十  六 ニて

べんきはすんしゅうふじえだのものにてきょねんとしじゅうろくにて


予(ヨ)可゛後(シリヱ)尓就(ツキ)長 崎 より平 戸生 月 嶋 ニ三 十

  よ が   しりえ に  つき ながさきよりひらどいきつきしまにさんじゅう


日 畄  ツて鯨  漁  を見其 余 京  大 坂 今 亦

にちとどまってくじらりょうをみそのほかきょうおおさかいままた


江 都能繁(ハン)昌  を見る名 馬能尻 ニ居ル

こうとの  はん じょうをみるめいばのしりにいる


蝿 の如 し歟嚮(サキノヒ)西 遊 旅 談 として画を入レ

はえのごとしか  さきのい さいゆうりょだんとしてえをいれ

(大意)

(補足)

「日本橋迄六里余と云」、中山道の大宮〜日本橋は30kmとあって、六里余とはちょっとひらきがあります。

「四月十三日」、寛政1年4月13日、1789年5月7日。もう初夏といってもいいくらいの季節。

「大宮」「浦和」「蕨」「板橋」、

「神田明神」「日本橋」「芝新銭座」、 

「駿州」、駿河国。

「名馬能尻ニ居ル蝿の如し」、とても巻末の最後を飾る言葉とはおもえないセリフ。どうしようもない江漢さんです。

「嚮(サキノヒ)」、キョウ。②さきに。まえに。

「西遊旅談」、『西遊旅譚』全五巻。寛政六(1794)年初版。享和三(1803)年『画図西遊譚』として図を一部変更のうえ再版された。

 「天明戊申四月二十三日 昼過ぎ、江戸芝神僊坐を出立して」から約1年、江戸に戻ったのは四月十三日のやはり昼過ぎ遅く八つ時過ぎでした。

 中山道をとばしすぎて疲れてしまったのでしょうか、「板橋尓至追分ケと云処より駕籠ニ能里」、これまたかなりの距離を駕籠にゆられて自宅に戻ったのでありました。

 

2026年1月2日金曜日

江漢西遊日記六 その91

P105 東京国立博物館蔵

(読み)

射貫 の穴 見ユ松 井田ニ泊 ル

いぬきのあなみゆまついだにとまる


十  一 日 曇 ル後 雨 正  六ツ時 立ツ妙  義山 へ三 十 町

じゅういちにちくもるのちあめしょうむつどきたつみょうぎさんへさんじっちょう


安 中 能宿  なり板 者な高 崎 能キ処  なり

あんなかのしゅくなりいたはなたかさきよきところなり


上  州  絹 を賣ル亦 能キ天 氣となる十  二里十

じょうしゅうきぬをうるまたよきてんきとなるじゅうにりじゅう


九  町  を経て深 谷ニ泊 ル榛(ハル)名山 ヘ五里あるよし

きゅうちょうをへてふかやにとまる  はる なさんへごりあるよし


不行

ゆかず


十  二日 天 氣朝 六 時 深 谷を出て熊  谷宿

じゅうににちてんきあさむつどきふかやをでてくまがやしゅく


を過 レハ熊  谷能土手三 十 町  ありサイカチ

をすぎればくまがやのどてさんじっちょうありさいかち


能木多 し右 ノ方 大 山 冨士を見ル爰 より

のきおおしみぎのほうおおやまふじをみるここより


押(ヲシ)と云フ処  ニ近 し此 日十  一 里二十  八 町  大(ヲゝ)

  おし というところにちかしこのひじゅういちりにじゅうはっちょう  おお

(大意)

(補足)

「松井田」「安中」「板者な(板鼻)」「高崎」「深谷」「熊谷」「押(ヲシ)(忍)」、

「十一日」、寛政1年4月11日、1789年5月5日。

 熊谷をすぎて、丹沢や富士山が見え、ますます一刻もはやく江戸につきたい気持ちは高ぶるばかり。

 天気にも恵まれ、11日12日連日約50kmを一気に江戸へ向かいます。ここまでくれば、街道の道も整備されているし、またほとんど平らなのでどんどん進むことができたのでしょう。


 

2026年1月1日木曜日

江漢西遊日記六 その90

P104 東京国立博物館蔵

(読み)

おとかめ漸(ヨウ)\/王び事 して去りぬ狂  哥一 首 ニ

おとがめ  よう ようわびごとしてさりぬきょうかいっしゅに


お直 クし能の里うちし多とおとか免ハ皆 下(シタ)

おちょくしののりうちしたとおとがめはみな  した


\/能曲 りか袮なり塩 な多゛と云 処  尓泊 ル十  一

したのまがりかねなりしおなだ というところにとまるじゅういち


里余  の路 なり

りあまりのみちなり


十 日曇  雨 なし正  六 時 尓出  立 一 里半 行キ岩

とおかくもりあめなししょうむつどきにしゅったついちりはんゆきいわ


田村 尓て夜明 ル闇 夜野火誠  ニ火事の如 シ

たむらにてよあけるやみよのびまことにかじのごとし


小田井軽 井沢(サハ)坂 本 の間  薄 井峠  七 年

おたいかるい  さわ さかもとのあいだうすいとおげしちねん


以前 浅 間山 焼 る此 邊  小石 降ル山 \/皆

いぜんあさまやまやけるこのあたりこいしふるやまやまみな


小石 ニて埋 ル樹 木 枯レル此 山 路 誠  ニ難 所

こいしにてうまるじゅもくかれるこのやまみちまことになんしょ


なり此 邊  より妙  義山 見得る亦 ユリ若 大 臣

なりこのあたりよりみょうぎさんみえるまたゆりわかだいじん

(大意)

(補足)

「お直クし」、お勅使。

「塩な多゛」、塩名田宿。「十一里余の路なり」とあって、かなりの強行軍です。

「十日」、寛政1年4月10日、1789年5月4日。

「岩田村」、岩村田です。「小田井」、「軽井沢」、「坂本」、「薄井峠」、碓氷峠。 

「七年以前浅間山焼る」、天明大噴火(てんめいだいふんか)は、江戸時代の1783年8月5日(天明3年7月8日)に発生した浅間山の大噴火。

「ユリ若大臣」、百合若大臣。『妙義山の射貫岩は、昔、ここで百合若大臣が松井田の里はずれから弓を射て、その時踏ん張った足跡石が路傍に残り、真正面にある岩には、彼が射通したという穴があいている』といった、怪異妖怪噺。

 

2025年12月31日水曜日

江漢西遊日記六 その89

P103 東京国立博物館蔵

(読み)

亀 屋と云 宿 尓泊 ル八ツ時 比 なり裏 ニ温 泉 アリ

かめやというやどにとまるやつどきころなりうらにおんせんあり


湯尓入 ル一 人吾可僕  弁 㐂尓聞ク見多る人 也

ゆにはいるひとりわがしもべべんきにきくみたるひとなり


と云 弁 㐂性 名 を云ヘハ手を打ツてなる程 と云フ

というべんきせいめいをいえばてをうってなるほどという


毛 利石 見守  臣 と云ヒき諏訪能池 (湖   )ノ向 フ尓城

もうりいわみのかみしんといいきすわのいけ みずうみ のむこうにしろ


見ユ冨士此 日ミへ春゛初 メて田を少 シ見ル

みゆふじこのひみえず はじめてたをすこしみる


九  日天 氣爰 より駕籠ニて出  立 し和田峠

ここのかてんきここよりかごにてしゅったつしわだとうげ


五里あり峠  尓雪 消  残 ル手ニ取 て見ル七 曲  坂

ごりありとうげにゆきすこしのこるてにとりてみるななまがりさか


アリ寒 ウして麦 も不生  能地なり夫 より下 りて

ありさむうしてむぎもふしょうのちなりそれよりくだりて


何 と可云 処  ニて日 光 勅  使御休 ミアリ其 傍  ラ尓

なんとかいうところにてにっこうちょくしおやすみありそのかたわらに


駕籠を下 シ个連ハ下部(シモベ)乗りうちし多るとて

かごをおろしければ   しもべ のりうちしたるとて

(大意)

(補足)

「亀屋」、現在も営業している「聴泉閣かめや」はこの宿と同じででしょうか?中山道で温泉が湧くのはここの下諏訪だけだったようです。

「性名」、姓名。

「九日」、寛政1年4月9日、1789年5月3日。

「和田峠」、標高1600m、中山道最大の. 難所とされた。 

「日光勅使」、日光例幣使。天皇の代理として、朝廷から神への毎年のささげものを指す例幣を納めに派遣された勅使のこと。

「乗りうち」、『のりうち【乗り打ち】馬やかごに乗ったまま,貴人・神社・仏閣などの前を通り過ぎること。下乗(げじよう)の礼を欠く行為。「早馬三騎,門前まで―にして」〈太平記•11〉』

 中山道最大の難所を駕籠で5里(約20km)、駕籠代もさることながら、駕籠かきも二人では無理で、交代するひと二人で交互に運んだのではとおもうのですけど、それにしても重労働です。

 

2025年12月30日火曜日

江漢西遊日記六 その88

P102 東京国立博物館蔵

(読み)

云 物 なりウドニ似多る物 なり竹 なし松 も少 シ

いうものなりうどににたるものなりたけなしまつもすこし


多  ハ杉 なり檜(ヒ)の木ハ切ル事 を禁 ス

おおくはすぎなり  ひ のきはきることをきんず


七 日爰 ヲ出上 松 へ行 間  ニ橋 ニ霜 アリ天 氣よし

なのかここをでうえまつへゆくあいだにはしにしもありてんきよし


夫 より福 嶋 へ行キ昼  喰 春宮 能越シ藪 原 な

それよりふくしまへゆきちゅうじきすみやのこしやぶはらな


らゐ能間  鳥 居峠  アリ十  八 町  登 りて三 十 町  下 ル

らいのあいだとりいとおげありじゅうはっちょうのぼりてさんじっちょうくだる


程 なくならゐなり一 里半 行 て熱 河 尓泊 ル乗り

ほどなくならいなりいちりはんゆきてにえがわにとまるのり


多る馬子能家 なり

たるまごのいえなり


八 日天 氣爰 を立 て二里行 本 山 尓至 ル是

ようかてんきここをたちてにりゆきもとやまにいたるこれ


まて岐曽路ニして誠  尓深 谷 なり爰 ニて尾張

まできそじにしてまことにしんこくなりここにておわり


能領  地尓離 ル此 日七 里廿   四 町  下(シモ)諏訪(スハ)横

のりょうちにはなるこのひしちりにじゅうよんちょう  しも    すわ よこ

(大意)

(補足)

「檜(ヒ)の木ハ切ル事を禁ス」、檜だけでなく、山林の木の伐採は非常に厳しく管理されていて、幕府直轄の天領の樹木を無断で伐採すると死罪相当の刑でした。天領内での薪拾いも重罪でありました。

「七日」、寛政1年4月7日、1789年5月1日。

昨日1789年4月30日は米国初代大統領George Washingtonが就任した記念すべき日でありました。

「上松へ行間ニ」、「間」のくずし字がわかりにく、しかし2行あとに「ならゐ能間」にも「間」があって、おなじ形のくずし字になっています。

「上松」「福嶋」「宮能越シ」「藪原」「ならゐ」「鳥居峠」「熱河」(贄川(にえがわ))「本山」、「下諏訪」、 

 地図を見てもわかるとおり、かなりの距離、それも山路難路、いくら馬にのっての旅路とはいえ、金に糸目もつけずといった感じで江戸へまっしぐらです。

 

2025年12月29日月曜日

江漢西遊日記六 その87

P101 東京国立博物館蔵

(読み)

半 六 町  落 合 へ一 里爰 より坂 を登 ル事 二十

はんろくちょうおちあいへいちりここよりさかをのぼることにじゅう


五町  馬籠 宿  あり泊 ル是 を十 解 峠  と云ふ

ごちょうまごめしゅくありとまるこれをじっこくとおげという


家 ハ古 し柱  ハ皆 ツガの木壁(カヘ)なし板 なり板

いえはふるしはしらはみなつがのき  かべ なしいたなりいた


ハケヤ木テ ウナ目ニてカンナをかけ春゛

はけやきちょうなめにてかんなをかけず


六 日天 氣山 \/を登 ル尓皆 ツゝジ亦 桜  酢桃

むいかてんきやまやまをのぼるにみなつつじまたさくらすもも


ボケ能花 桃 梨 花 盛 りなり駒 ガ嶽 雪 降

ぼけのはなももなしはなざかりなりこまがたけゆきふり


木曽河 ニ傍(ソウ)て上 松 まて不行 して立 町 と

きそがわに  そう てうえまつまでゆかずしてたちまちと


云 処  泊  屋二三 軒 アリ爰 ニ泊 ル前 尓岐曽河

いうところとまりやにさんけんありここにとまるまえにきそがわ


を望 ム所  々  渓 流  往 来 ヘ流 レ流 レの音 誠  尓

をのぞむところどころけいりゅうおうらいへながれながれのおとまことに


雷 鳴 の如 し爰 ニてカテ飯 を喰フギヨウブと

らいめいのごとしここにてかてめしをくうぎょうぶと

(大意)

(補足)

「落合」、「馬籠」、 

「六日」、寛政1年4月6日 1789年4月30日。

「上松まて不行して立町」、

「十解峠」、「解」を「斛」と間違えたか。十斛峠、十国峠。

「テウナ」、手斧(ちょうな)。

「岐曽河」、木曽河。

「ギヨウブ」、シシウド。

 西洋暦ではもう4月も終わりですが、街道沿いの山々は春真っ盛り、桃源郷です。また山菜がたくさんとれるときでもあります。

 

2025年12月28日日曜日

江漢西遊日記六 その86

P100 東京国立博物館蔵

(読み)

おもしろき処  と云 亦 開 帳  あり故 ニ参 ル弁 天 也

おもしろきところというまたかいちょうありゆえにまいるべんてんなり


見せ物 喰  店 あり大 雨 故 参 詣 なし池 ニ

みせものしょくてんありおおあめゆえさんけいなしいけに


橋 を掛ケ瀧 おつる寺内 ニてせ者゛き処  なれど

はしをかけたきおつるじないにてせば きところなれど


能キ処  なり雨 ま春\/降り夫 より河 の邊 りを

よきところなりあめますますふりそれよりかわのあたりを


行く事 なかし漸  く七  時 比 釜 戸と云 宿 ニ泊 ル

ゆくことながしようやくななつどきころかまどというやどにとまる


今 日より十 日を過 シハ江戸へ帰 ルとて指 を屈

きょうよりとおかをすごしばえどへかえるとてゆびをおっ


ていそぐ山 \/花如綿

ていそぐやまやまはなわたのごとし


五 日上  天 氣明 六 時 過 ニ出て追 分 ニ至 り

いつかじょうてんきあけむつどきすぎにでておいわけにいたり


大 井能間  西 行  塚 アリ北 の方 を望 メハ飛弾

おおいのあいださいぎょうづかありきたのほうをのぞめばひだ


の国 御 嶽 千 峰 皆 雪 夫 より中 津ヘニ里

のくにおんたけせんぽうみなゆきそれよりなかつへにり

(大意)

(補足)

「飛弾」、飛騨。

「五日」、寛政1年4月5日 1789年4月29日。

「追分ニ至り大井能間西行塚アリ」、槇ケ根追分(まきがねおいわけ)をすすんで、大湫宿(おおくて)から大井宿の間にあって、『「伝西行塚」とも呼ばれ、この地で西行法師が亡くなり埋葬された、あるいは供養のために建てられた塚だと伝えられています』とありました。

「今日より十日を過シハ江戸へ帰ルとて指を屈ていそぐ」、やはり江戸に近くなるにつれて、先をせく気持ちが強くなってきているようです。

 

2025年12月27日土曜日

江漢西遊日記六 その85

P99 東京国立博物館蔵

(読み)

いなかなり此 所  ハさかなハなしどせ う汁

いなかなりこのところはさかなはなしどじょうじる


をして喰 セけり江戸者 七 八 人 同 宿  春

をしてくわせけりえどものしちはちにんどうしゅくす


江戸辞(コトハ)を久 し婦り尓聞ク尓誠  尓重 ヒ物

えど  ことば をひさしぶりにきくにまことにおもいもの


云 ニて聞キ尓くし

いいにてききにくし


三 日雨 降 爰 より名古屋ニ出テ能 町 續 ク

みっかあめふるここよりなごやにでてよきまちつづく


夫 より大 ゾネと云 所  へ一 里半 かち河 へ

それよりおおぞねというところへいちりはんかちがわへ


一 里坂 下 へニ里半 雨天 故 爰 尓泊 ル宿

いちりさかしたへにりはんうてんゆえここにとまるやど


あしゝ山 々 ツツジ花 さか里

あししやまやまつつじはなざかり


四 日雨天 六 時 過 尓出  立 して内 津と云

よっかうてんむつどきすぎにしゅったつしてうつつという


所  此 邊  ノ者 内 津を宇津ゝと云 虎渓 山 ハ

ところこのあたりのものうつつをうつつというこけいさんは

(大意)

(補足)

「三日」、寛政1年4月3日 1789年4月27日。

「大ゾネ」、大曽根。「かち河」、勝川(かちがわ)。「坂下」。「内津(うつつ)」。この街道を「下街道」といったそうです。『下街道は日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝説のある古くからの道で,名古屋城から大曽根,春日井市に入り,勝川・坂下・内津から,池田(多治見),釜戸(瑞浪市)を経て中山道大井宿の手前,追分(恵那市)で中山道に出た。この経路は現在の県道内津・勝川線とほぼ一致している。下街道は,幕府や尾張藩が指定した街道ではないので,本陣・一里塚はなく,正式な宿場もない脇道であった。下街道は,庶民の道として江戸時代を通じてにぎわった』。

「虎渓山(こけいざん)」、『岐阜県多治見市にある臨済宗の古刹「虎渓山永保寺(こけいざんえいほうじ)」として有名で、特に秋の紅葉が美しい名所です』とありました。

 梅や桜はとっくにおわって、「山々ツツジ花さか里」の時期になってしまいました。

 

2025年12月26日金曜日

江漢西遊日記六 その84

P98 東京国立博物館蔵

(読み)

江戸へ状  を出春

えどへじょうをだす


四月 朔  日曇  予(ワレ)惣 髪 なりしに長 﨑 ニて

しがつついたちくもり  われ そうはつなりしにながさきにて


おらん多唐 人 能館 内 ヘ入 ニハなら春故 ニ頭

おらんだとうじんのかんないへいるにはならずゆえにあたま


を剃(ソリ)江 助 と云 平 戸邊  迄 よりソロ\/髪 を

を  そり こうすけというひらどあたりまでよりそろそろかみを


能者゛し又 爰 ニて落 髪 して坊 主となりぬ

のば しまたここにてらくはつしてぼうずとなりぬ


二 日曇  朝 飯 過 尓日永 を出  立 して亀 六

ふつかくもりあさめしすぎにひながをしゅったつしてかめろく


四 日市 御瀧 川 能橋 の上 迄 送 ル三 英 と亀

よっかいちおたきがわのはしのうえまでおくるさんえいとかめ


石 亭 へより桑 名銭 屋と云 ニ参 里爰 ヨリ

いしていへよりくわなぜにやというにまいりここより


舟 かり切 三 百  文 何 \/風 景 よし佐屋

ふねかりきりさんびゃくもんなかなかふうけいよしさや


尓至 ル舟 よりあか里番 場尓泊 ル一 向 能

にいたるふねよりあがりばんばにとまるいっこうの

(大意)

(補足)

「四月朔日」、寛政1年4月1日 1789年4月25日。

「佐屋」、画像中央。東はすぐ名古屋です。


「番場(ばんば)」、滋賀県米原の東にある中山道の旧宿場町ですけど、ここではありません。なんでしょうか。

 江戸へ手紙を出し、現在地と江戸到着予定日時をしらせたのでしょう。江戸に向かって足早になっているようです。

 

2025年12月25日木曜日

江漢西遊日記六 その83

P97 東京国立博物館蔵

(読み)

ゼネラル能官 ニなり多ると夫 より日野へ行ク孫 三

ぜねらるのかんになりたるとそれよりひのへゆくまごさぶ


郎 助右衛門 ニ逢ヒ昼  喰 して程 なく立 テ山 越へ

ろうすけえもんにあいちゅうじきしてほどなくたちてやまごえ


三 里土 山 宿  へ七 ツ過 ニ出爰 ニ泊 ル

さんりつちやましゅくへななつすぎにでここにとまる


廿   八 日 土 山 を立 て鈴 鹿山 筆 捨(ステ)山 桜

にじゅうはちにちつちやまをたちてすずかやまふで  すて やまさくら


能咲 残 りて天 氣能ク亀 山 庄  野追 分

のさきのこりててんきよくかめやましょうのおいわけ


迄 ハ初 メて通 ル路 故 珍  し追 分 より半 路ニ

までははじめてとおるみちゆえめずらしおいわけよりはんろに


して日永 村 ニ至 ル七 ツ時 前 なり清水 源 兵衛

してひながむらにいたるななつどきまえなりしみずげんべえ


方 なり道 中  能者なし不盡 参 りし時 ハ廿 日ほ

かたなりどうちゅうのはなしつきずまいりしときははつかほ


と畄  リし尓此 度 明後日 出  立 せんと春

どとどまりしにこのたびあさってしゅったつせんとす


廿   九日 朝 少 シ雨 後 ヤム四 日市 三 英 参 ル

にじゅうくにちあさすこしあめのちやむよっかいちさんえいまいる

(大意)

(補足)

「日野」、往路では8月9日〜14日まで滞在しました。

「廿八日」、寛政1年3月28日 1789年4月23日。

「日永村」(ひながむら)、「参りし時ハ廿日ほと畄リし」、来るときに(7.3~15,7.23~8.2)と長く留まりました。ここから四日市まではすぐです。左隅が亀山、右隅に日永村と四日市があります。 

 大津からここまではずっと山道のはずで、季節と天気に恵まれたのか、江漢さん、気分よく難路を東へ歩みます。

 

2025年12月24日水曜日

江漢西遊日記六 その82

P96 東京国立博物館蔵

(読み)

大 津尓至 り草 津ヨリして石 部ニ泊 ル九里

おおつにいたりくさつよりしていしべにとまるくり


半 能路 なり

はんのみちなり


廿   七 日 天 氣石 部を明 六ツ過 ニ出て水 口 ニ

にじゅうしちにちてんきいしべをあけむつすぎにでてみずぐちに


至  おらん多人 江戸より帰 り路 昨 夜爰 ニ

いたるおらんだじんえどよりかえりみちさくやここに


泊 リ出  立 せんと春る処  吉 雄幸 作 ニ逢フ

とまりしゅったつせんとするところよしおこうさくにあう


長 﨑 尓て頼 ミ多る荷物 別 条  なく届  多る

ながさきにてたのみたるにもつべつじょうなくとどきたる


よしを聞キ安 心 春る蘭 人 カスプル。ロンベル

よしをききあんしんするらんじんかすぷる ろんべる


ケ尓逢フゲソンデルセイドト云ツて別  ルロンベ

けにあうげそんでるせいどといってわかれるろんべ


ルハ江戸へ五度来 リ多る人 也 此 上 ハ日本 へ

るはえどへごどきたりたるひとなりこのうえはにほんへ


不来 よし其 後聞 ハ天 竺 ベンカラ国 へ参 り

こざるよしそのごきくはてんじくべんがらこくへまいり

(大意)

(補足)

「大津尓至り草津ヨリして石部ニ泊ル」、 

「廿七日」、寛政1年3月27日 1789年4月22日。

「石部を明六ツ過ニ出て水口ニ至」、

「カスプル。ロンベルケ」、Hendrik Caspar Romberg(11 October 1744 – 15 April 1793)。英語版のウイキペディアに記載されています。

 蘭人一行と出会ったのが偶然のように記されていますが、彼らの日程は厳しく決められていたはずで、あらかじめ江漢さんたちはどのへんですれ違うかはわかっていたと思われます。

 

2025年12月23日火曜日

江漢西遊日記六 その81

P95 東京国立博物館蔵

(読み)

畄主ニて不逢

廿   五日 天 氣禁 裏地行  とて町  家より老 人

にじゅうごにちてんききんりちぎょうとてちょうかよりろうじん


小とも一 町  より二十  六 人 宛 吾 等老 人 の部ニ入り

こどもいっちょうよりにじゅうろくにんずつわれらろうじんのぶにいり


ツイヂ能内 三 町  尓二町  なり紫辰(シシン)殿 廻(クワイ)廊(ロウ)

ついじのうちさんちょうににちょうなり   ししん でん  かい    ろう


月 花門 日 花門 承  明 門 の邊  を諸 人 千 棒 ツキ

げっかもんにっかもんじょうめいもんのあたりをしょにんせんぼうつき


町 々 能印  能付 多る織(ノホリ)を建テキヤリ。ヲンドニて

まちまちのしるしのつけたる  のぼり をたてきやり おんどにて


さて\/珍  しき事 なり帰 り尓小共 ニ銭 五十  文 大

さてさてめずらしきことなりかえりにこどもにぜにごじゅうもんおと


人尓百  文 宛 下 さるおらん多今 日京  著(チヤク)と云

なにひゃくもんずつくださるおらんだきょうきょう  ちゃく という


廿   六 日 天 氣四 時 京  都を出  立 して三 条

にじゅうろくにちてんきよつどききょうとをしゅったつしてさんじょう


の橋 よりケアゲ能茶 ヤニよ里粟 田口 ヲ過キ

のはしよりけあげのちゃやによりあわだぐちをすぎ

(大意)

(補足)

「畄主」、留守。

「廿五日」、寛政1年3月25日 1789年4月20日。

「禁裏地行」、禁裏の周辺で行われるお祭りみたいなものでしょうか。

「ツイヂ」、築地。「紫辰」、紫宸。「織」、幟。「小共」、子供。

「月花門日花門承明門」、以下AIによる概要です。

『月華門、日華門、承明門は、京都御所の正殿である紫宸殿の南庭を囲む回廊に設けられた門です。東の日華門、西の月華門、南の承明門が、それぞれ日(太陽)と月(月)の象徴と、天皇が通る正式な南側通路として機能しています。 

各門の概要

承明門(じょうめいもん)

紫宸殿の南庭の南側に位置する回廊の門です。

格式が高い門であり、かつては天皇や主要な儀式に参加する者のみが通過できました。

日華門(にっかもん)

南庭の回廊の東側(向かって左)にある門です。

太陽を象徴し、東側からの入り口となります。

月華門(げっかもん)

南庭の回廊の西側(向かって右)にある門です。

月を象徴し、西側からの入り口となります。 

これらは、古代中国の思想に基づく「日・月」の対比と、天皇が南(太陽の方向)に向かって座るという形式を反映した重要な構造物です』。

「ケアゲ能茶ヤ」、 

「粟田口」、道順としては蹴上は粟田口のあとですけど。 

 寛政1年3月26日1午前10時、7日から25日までの京都滞在から江戸へ向けて出立しました。次の場所に向かう前は必ずお世話になった方々に暇乞いをしていました。ここでは記されてませんがやはり暇乞いは欠かさずに行っているとおもいます。

 次頁に「大津尓至り草津ヨリして石部ニ泊ル九里半能路なり」とあって、一気に9里半、なんと38kmを歩いています。たっぷり京都で休んだといっても、ほぼ毎日10km以上歩いて観光してますが、元気いっぱいの江漢さんです。

 

2025年12月22日月曜日

江漢西遊日記六 その80

P94 東京国立博物館蔵

(読み)

日暮(クレ)て五 ツ時 前 ニ帰 ル

ひ  くれ ていつつどきまえにかえる


廿   二日 朝 雨 後 ヤム伏 見六 右衛門 来ル生 鯛 漸

にじゅうににちあさあめのちやむふしみろくえ もんくるなまだいようやく


四五寸 位  ニして價  五匁  之(コレ)を吸 物 として酒 を

しごすんくらいにしてあたいごもんめ  これ をすいものとしてさけを


出ス

だす


廿   三 日 曇  冨士の画老 人 の像 出来ル伏 見へ

にじゅうさんにちくもりふじのえろうじんのぞうできるふしみへ


持 行ク良  祐 老 人 ニ渡 春返 り尓桃 山 へ登 ル花

もちゆくりょうすけろうじんにわたすかえりにももやまへのぼるはな


少  々  末 夜 ニ入 帰 り路 新 地と云 処  茶 屋へ上 里

しょうしょうすえよるにいりかえりみちしんちというところちゃやへあがり


妓  一 人呼ヒ大 酒 春る

おんなひとりよびおおざけする


廿   四 日天 氣四条  丸 屋亦 七 方 へ行キビイドロ板

にじゅうよっかてんきしじょうまるやまたしちかたへゆきびいどろいた


吹 様 をおしへる茶 菓子を出ス夫 より荻 野へよる

ふきようをおしえるちゃがしをだすそれよりおぎのへよる

(大意)

(補足)

「廿二日」、寛政1年3月22日 1789年4月17日。

「良祐老人」、(その73)の3月17日に頼まれた画、近江日野商人の中井源左衛門良祐このとき73歳(1716年~1805年)。

「四条丸屋亦七」、(その76)で登場。

「荻野左衛門尉」、(その68)、(その73)に登場してます。

 毎日京都及び周辺の観光で出歩き飲み歩き、夜は夜で茶屋遊び、しかし老人の画はコツコツ描いていたようです。

 

2025年12月21日日曜日

江漢西遊日記六 その79

P93 東京国立博物館蔵

(読み)

去りて橋 を渡 里虚空 蔵 の前 能田 楽 茶 や

さりてはしをわたりこくうぞうのまえのでんがくじゃや


へあかり田 楽 ニて酒 を呑ミ个る尓何ンぞ魚  ハなき

へあがりでんがくにてさけをのみけるになんぞさかなはなき


ヤと問ヘハ者やと云 小魚  ニ大 根 を切リ酢ヲかけて

やととえばはやというこざかなにだいこんをきりすをかけて


出し希れ此 地海 遠 ふして魚  なし夫 より梅

だしけれこのちうみとううしてさかななしそれよりうめ


能宮 と云フ処  を横 尓見て桂  の渡 し千 本 通

のみやというところをよこにみてかつらのわたしせんぼんどおり


嶋 原 を見て東 寺尓至 ル此 日終  日 弘 法 大

しまばらをみてとうじにいたるこのひしゅうじつこうぼうだい


師開 帳  寺内 参 詣 多 シ千 手 観 音 堂 アリ

しかいちょうじないさんけいおおしせんじゅかんのんどうあり


後 ロハ薬 師昔 シハ大 伽羅 ニて消  失 しぬ

うしろはやくしむかしはだいがらんにてしょうしつしぬ


碇(イシツヱ)至  て大 きし羅生  門 の趾 アリ夫 より

  いしずえ いたっておおきしらしょうもんのあとありそれより


して本 願 寺能前 を通 り此 邊  漸  く焼 能こる

してほんがんじのまえをとおりこのあたりようやくやけのこる

(大意)

(補足)

「虚空蔵」、嵐山、虚空蔵法輪寺。

「梅の宮」、梅宮大社。

「伽羅」、伽藍。「碇」、礎。

 嵐山からそのままほぼ真東へ、JR京都駅裏の東寺、そして本願寺着。比較的のんびりした京都観光の1日の様子です。

 

2025年12月20日土曜日

江漢西遊日記六 その78

P92 東京国立博物館蔵

(読み)

なり引 手真紅(シンク)能婦さお多巻 武春び誠  ニ堂

なりひきて   しんく のふさおだまきむすびまことにどう


上  方 能おもむき別 なり爰 を出て二十  余町  行キ

じょうがたのおもむきべつなりここをでてにじゅうよちょうゆき


嵯峨の釈 迦十  九日 より開 帳  亦 七 八 町  過 て

さがのしゃかじゅうくにちよりかいちょうまたしちはちちょうすぎて


嵐  山 桜  松 の木陰 より咲(サキ)出テ前 ハ大 井河 の流 レ

あらしやまさくらまつのこかげより  さき いでまえはおおいがわのながれ


此 比 ハ出張 の茶 屋アリ床(セウ)木(キ)を貸(カス)床  机(キ)の足

このころはでばりのちゃやあり  しょう  ぎ を  かす しょう  ぎ のあし


を流レ 尓ひ多し盃   を持テハ花 ひら飛 来て酒 尓

をながれにひたしさかずきをもてばはなびらとびきてさけに


いる向 フ山 の根ハ水 深 く笩  を丹 波の方 よりおろ春

いるむこうやまのねはみずふかくいかだをたんばのほうよりおろす


然 ル尓吾 等不案 内 ニして酒 肴 を先 ニて

しかるにわれらふあんないにしてしゅこうをさきにて


求 メんと思 ヒし尓茶 屋ニハ茶 能ミ尓して且 テ麁(ソ)

もとめんとおもいしにちゃやにはちゃのみにしてかって  そ


菓もなし故 尓他 の酒 呑 楽 し武を見て爰 を

かもなしゆえにほかのさけのみたのしむをみてここを

(大意)

(補足)

「お多巻武春び」、『おだまき を―【苧環】① つむいだ麻糸を巻いて中空の玉にしたもの。おだま。』

「堂上方」、『どうじょう だうじやう【堂上】〔古くは「とうしょう」「どうしょう」とも〕① 昇殿を許された公卿・殿上人の総称。公家。堂上方。 ↔地下(じげ)』

「嵯峨の釈迦堂」、清凉寺 (嵯峨釈迦堂)、JR嵯峨嵐山駅からすぐ。

「大井河」、大堰川。

「床木」、床几。「床机」、床几。「笩」、筏もありますけど、どちらも読みは(いかだ)。

「麁(ソ)菓」、『そか ―くわ【粗菓】粗末な菓子。人に菓子を勧めたり,贈ったりするとき,謙遜していう語』。『そひん【粗品・麁品】① 粗悪な物。粗物。「御覧に足らぬ―なりとも御収納下され」〈近世紀聞•採菊〉』


 

2025年12月19日金曜日

江漢西遊日記六 その77

P91 東京国立博物館蔵

(読み)

頂  とあり池 尓色 \/能名 石 あり天 井  古法

ちょうとありいけにいろいろのめいせきありてんじょうこほう


眼 の画と云 画ハ見へ春゛柱  の隅ミを見る尓金

げんのえというえはみえず はしらのすみをみるにきん


箔 少 シ残 り多る有 夫 よりお室 尓参 ル二王 門

ぱくすこしのこりたるありそれよりおむろにまいるにおうもん


を入  て堂 の前 桜  さか里京  ハ春 の一 季ハ誠  ニ

をはいりてどうのまえさくらさかりきょうははるのいっきはまことに


都  乃春 ニて風 乃吹 ぬ所  ニて毎 日 能 天(テン)キ

みやこのはるにてかぜのふかぬところにてまいにちよき  てん き


ニて貴賤 皆 花 を見て楽 しむ亦 御所 の

にてきせんみなはなをみてたのしむまたごしょの


お坐しき拝 見 春る襖  金 泥 引 極 彩 色 ニ

おざしきはいけんするふすまきんでいびきごくさいしきに


花 と鳥 を模様 尓散ラし多るあり亦 人 物 或

はなととりをもようにちらしたるありまたじんぶつあるいは


孔雀  御坐間とも云 処  揚ケ多ゝみ屏  風ニて

くじゃくござまともいうところあげたたみびょうぶにて


かこひ其 後 ロ草 花 置 上(アケ)泥 引 砂 子

かこいそのうしろくさばなおき  あげ でいびきすなご

(大意)

(補足)

「古法眼」、『こほうげん ―ほふげん【古法眼】

父子ともに法眼の位を授けられている時,その父の方をいう称。特に,狩野元信をいう』、江漢は狩野元信のことをかならずこの言葉を使っています。

「泥引」、『でいびき【泥引き】刷毛(はけ)などで金泥・銀泥を引くこと』。

「砂子」、『すなご【砂子・沙子】① すな。まさご。

② 金銀の箔(はく)を粉末にしたもの。蒔絵(まきえ)・色紙・襖(ふすま)紙などに吹きつけて装飾とする。「―ノ屛風」〈日葡辞書〉』。

 金閣寺の内部を細かく観察しています。やはり絵師なのでしょうけど、抑えようもなく好奇心がまさるのでしょう。

 

2025年12月18日木曜日

江漢西遊日記六 その76

P90 東京国立博物館蔵

(読み)

入 る四条  栁   馬 場丸 亦 ヘ行ク夫 より清 水 観

いれるしじょうやなぎのばんばまるまたへゆくそれよりきよみずかん


音 開 帳  へ参 ル桜  の盛 里茶店 に休 ミ祇園

のんかいちょうへまいるさくらのさかりさてんにやすみぎおん


へ参 り二軒 茶 屋てん楽 ニて酒 を呑ミ祇園 町

へまいりにけんちゃやでんがくにてさけをのみぎおんまち


四条  へ出て帰 ル京  地ハ婦人 よし神 社 仏 閣

しじょうへでてかえるきょうちはふじんよしじんじゃぶっかく


山 をか多と里景色 よし東 都ニ異  里

やまをかたどりけしきよしとうとにことなり


廿   一 日 天 氣朝 より西 北 の方 へ行ク北 野天 神

にじゅういちにちてんきあさよりせいほくのほうへゆくきたのてんじん


北 の門 を出谷 川 尓二軒 茶 屋あり鯉 の吸 物 う

きたのもんをでたにがわににけんちゃやありこいのすいものう


なき能蒲 焼 アリ夫 より平 野の宮 三 社

なぎのかばやきありそれよりひらののみやさんしゃ


あり桜 花さかり亦 金閣寺(キンカクジノ)寺(テラ)へ行ク十  人

ありおうかさかりまた    きんかくじの   てら へゆくじゅうにん


ニて銀 二匁  出し見 物 春三 階 能額 ニハ究 意

にてぎんにもんめだしけんぶつすさんかいのがくにはくっきょう

(大意)

(補足)

「四条栁馬場丸亦ヘ行ク」、「四条栁馬場」は(しじょうやなぎのばんば)と読み、それにつづく「丸亦ヘ行ク」が意味不明です。(追記)「四条丸屋亦七」のことでした。

「廿一日」、寛政1年3月21日 1789年4月16日。

「平野の宮三社」、江戸時代から夜桜が庶民に開放されて以来、「平野の夜桜」として有名。

「究意頂」、AIによる概要です。

『金閣寺(鹿苑寺)の「究竟頂(くっきょうちょう)」は、舎利殿の最上層(第3層)を指す名称で、中国風の禅宗様仏殿造りを取り入れた究極の極楽浄土を表現した空間です。 仏舎利を安置する場所であり、内部は金箔で覆われ、後小松天皇の筆による「究竟頂」の額がかけられていました』。

 春真っ盛り。春の京都は何度も行きましたが、それでもまた行ってみたい♪

宇治方面もいいなぁ〜。

 

2025年12月17日水曜日

江漢西遊日記六 その75

P89 東京国立博物館蔵

(読み)

とぞ時 の鐘 あり宵(ヨイ)の中(ウチ)二三 町  の間  植(ウヘ)

とぞときのかねあり  よい の  うち にさんちょうのあいだ  うえ


木其 外 喰 物 諸 道 具捅 ざる様 能物

きそのほかくいものしょどうぐおけざるようのもの


小道 具等 を賣る是 ヲ夜市 と云ツて皆

こどうぐとうをうるこれをよいちといってみな


買ヒ尓行 夫 故 昼 ハ野菜 其 外 世代(セタイ)道

かいにゆくそれゆえひるはやさいそのほか   せたい どう


具賣リ歩 く者 なし此 市 所  々  尓あり

ぐうりあるくものなしこのいちところどころにあり


四条  橋 結メの町 ハ毎 夜なり其 外 寺 町

しじょうはしづめのまちはまいよなりそのほかてらまち


の丸 太町  堀 川 立 賣 の邊  なり

のまるたちょうほりかわたちうりのあたりなり


十  九日 天 氣六 右衛門 頼 ミの画認  メる

じゅうくにちてんきろくえ もんたのみのえしたためる


廿 日天 氣暖 色  小袖 一 ツニて宜 し閑院(カンニン)の宮(ミヤ)

はつかてんきだんしょくこそでひとつにてよろし   かんにん の  みや


様 へ銅 版 江戸の圖八 景 能目か年御覧 尓

さまへどうはんえどのずはっけいのめがねごらんに

(大意)

(補足)

「捅」、桶。原文の漢字の読みは(トウ)。「世代」、世帯。「橋結」、橋詰。いつもながら誤字をまったく気にしてない様子。

「十九日」、寛政1年3月19日 1789年4月14日。

「閑院(カンニン)の宮(ミヤ)」、閑院宮(かんいんのみや)。日本の皇室における宮家の一つ。世襲親王家の四宮家の一つ。家領千石。当時の主は第二代典仁親王。他三家は伏見・有栖川・桂(八条・京極)。

 

2025年12月16日火曜日

江漢西遊日記六 その74

P88 東京国立博物館蔵

(読み)

治臺 へ行ク先 日 皆 梅 の花 なりし尓今 ハ皆

じだいへゆくせんじつみなうめのはななりしにいまはみな


桃 の花 となり茶店 あり蜆  の吸 物 でんかく

もものはなとなりさてんありしじみのすいものでんがく


酒 を賣ル見渡 春処  漸  く五六 十  人 皆 京

さけをうるみわたすところようやくごろくじゅうにんみなきょう


邊の人 なり中 に妓 子など連レ来ル者 ハ他国 のい

べのひとなりなかにげいこなどつれくるものはたこくのい


なか者 ニて顔 色 毛風 俗 も違 ヒて見尓くくぞ

なかものにてかおいろもふうぞくもちがいてみにくくぞ


ある晩 景 京  へ帰 ル路 六右衛門 尓逢フ嶋 原

あるばんけいきょうへかえるみちろくえもんにあうしまばら


より文(フミ)参  多るを彼 地の風 ニて初 會 ニて毛

より  ふみ まいりたるをかのちのふうにてしょかいにても


なじミ能如 し

なじみのごとし


十  八 日 天 氣中 井老 人 の像 出来ル宵(ヨイ)六

じゅうはちにちてんきなかいろうじんのぞうできる  よい ろっ


角 堂 観 音 ハ札 所 ニて爰 ハ京  の中  央 なり

かくどうかんのんはふだしょにてここはきょうのちゅうおうなり

(大意)

(補足)

「初會ニて毛なじミ能如し」、すでに何度か説明してきましたが、今回はAIの概要です。

『「花魁 初会(しょかい)」とは、江戸時代の吉原遊廓で初めての客が**花魁(高級遊女)**と対面し、儀礼的な顔合わせや酒宴を行う最初の段階を指します。

初会の流れと特徴

顔合わせ: 客は妓楼(遊女屋)の「張見世」で花魁を選び、手配してもらいます。

引付座敷: 初めての客は「引付座敷」に通され、花魁と対面します。

儀礼: 盃を酌み交わす儀式が行われ、教養や身分が試されました。

「三回目で肌を許す」説: 初会で花魁は口を利かず、2回目(裏)で打ち解け、3回目(馴染み)で初めて肌を許すという説は有名ですが、これは伝説であり、現実には初会から関係を持つことも多かったとされます。

「裏」と「馴染み」: 2度目の来店は「裏を返す(裏)」、3度目は「馴染み」と呼ばれ、馴染みになるとより親密な関係になることが期待されました』。

「十八日」、寛政1年3月18日 1789年4月13日。

「六角堂」、赤印のところ。 


 梅が終わり、桃の花となり、次は桜です。もう西洋暦では4月もなかば。