2025年12月24日水曜日

江漢西遊日記六 その82

P96 東京国立博物館蔵

(読み)

大 津尓至 り草 津ヨリして石 部ニ泊 ル九里

おおつにいたりくさつよりしていしべにとまるくり


半 能路 なり

はんのみちなり


廿   七 日 天 氣石 部を明 六ツ過 ニ出て水 口 ニ

にじゅうしちにちてんきいしべをあけむつすぎにでてみずぐちに


至  おらん多人 江戸より帰 り路 昨 夜爰 ニ

いたるおらんだじんえどよりかえりみちさくやここに


泊 リ出  立 せんと春る処  吉 雄幸 作 ニ逢フ

とまりしゅったつせんとするところよしおこうさくにあう


長 﨑 尓て頼 ミ多る荷物 別 条  なく届  多る

ながさきにてたのみたるにもつべつじょうなくとどきたる


よしを聞キ安 心 春る蘭 人 カスプル。ロンベル

よしをききあんしんするらんじんかすぷる ろんべる


ケ尓逢フゲソンデルセイドト云ツて別  ルロンベ

けにあうげそんでるせいどといってわかれるろんべ


ルハ江戸へ五度来 リ多る人 也 此 上 ハ日本 へ

るはえどへごどきたりたるひとなりこのうえはにほんへ


不来 よし其 後聞 ハ天 竺 ベンカラ国 へ参 り

こざるよしそのごきくはてんじくべんがらこくへまいり

(大意)

(補足)

「大津尓至り草津ヨリして石部ニ泊ル」、 

「廿七日」、寛政1年3月27日 1789年4月22日。

「石部を明六ツ過ニ出て水口ニ至」、

「カスプル。ロンベルケ」、Hendrik Caspar Romberg(11 October 1744 – 15 April 1793)。英語版のウイキペディアに記載されています。

 蘭人一行と出会ったのが偶然のように記されていますが、彼らの日程は厳しく決められていたはずで、あらかじめ江漢さんたちはどのへんですれ違うかはわかっていたと思われます。

 

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