2025年12月2日火曜日

江漢西遊日記六 その60

P71 東京国立博物館蔵

(読み)

なんぎ春る

なんぎする


廿   五日 天 氣昼 時 より天 王 寺へ行ク京  壬(ミ)

にじゅうごにちてんきひるどきよりてんのうじへゆくきょう  み


生寺 開 帳  壬生狂  言 を見ル夫 より清 水

ぶでらかいちょうみぶきょうげんをみるそれよりきよみず


寺 へ行キ帰 り尓十一 屋五郎兵衛へ参 ル蕎麦を

でらへゆきかえりにといちやごろべえへまいるそばを


出春尼 五同 道 なり

だすあまごどうどうなり


廿   六 日 曇 ル尼 五より丸 清 ヘ行 蒹 葭堂

にじゅうろくにちくもるあまごよりまるせいへゆくけんかどう


へ暇  乞 参 ル酒 出て唐 墨 唐 扇 を餞 別

へいとまごいまいるさけでてからすみとうせんをせんべつ


ニ贈 ル明  朝  奈良ノ方 へ出  立 せんと思 フ

におくるみょうちょうならのほうへしゅったつせんとおもう


ナマナヤ治兵衛参 ル酒 肴 を出し夜 四 時

なまなやじへえまいるしゅこうをだしよるよつどき


過 帰 ル甚  タ別 レをおし武

すぎかえるはなはだわかれをおしむ

(大意)

(補足)

「廿五日」、寛政1年2月25日 1789年3月20日。

「十一屋五郎兵衛」、間 重富(はざま しげとみ、宝暦6年3月8日(1756年4月7日〜文化13年3月24日(1816年4月21日))は、江戸期の天文学者。寛政の改暦に功績があった。質屋を営む羽間屋の第六子として生まれる。蔵が11あったことからも「十一屋(といちや)」と呼ばれた裕福な家業を継ぎ、通称は十一屋五郎兵衛(7代目)、以上Wikipediaより。

「尼五」、これは以前にもでてきていてなんのことかわかりませんでしたが、尼崎屋五兵衛(木村兼葭堂とは特に親しかった)のことでした。

 

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