2025年12月15日月曜日

江漢西遊日記六 その73

P87 東京国立博物館蔵

(読み)

昼 八ツ時 比 より荻 野左衛門  尉  方 へ行ク蘭 説 ヲ

ひるやつどきころよりおぎのさえもんのじょうかたへゆくらんせつを


話 春甚  タ奇と春酒 肴 を出し馳走 春夜

はなすはなはだきとすしゅこうをだしちそうすよる


能九  ツ時 過 尓帰 る京  住  せんと云 ヘハ甚  タよろ

のここのつどきすぎにかえるきょうずまいせんとつたえばはなはだよろ


こ婦

こぶ


十  六 日 天 氣よし暖 色  を催  ス祇園 邊  へ

じゅうろくにちてんきよしだんしょくをもよおすぎおんあたりへ


行キ大 雅堂 へ尋  る玉  瀾(ラン)も四五年 以前 ニ

ゆきたいがどうへたずねるぎょく  らん もしごねんいぜんに


死して今 ハ其 跡 ニ知らぬ名の人 居 个り

ししていまはそのあとにしらぬなのひとおりけり


十  七 日 天 氣日野中 井能婦人 来 ル中

じゅうしちにちてんきひのなかいのふじんきたるなか


井老 人 能像 を被頼  老 人 伏 見尓居ルよし

いろうじんのぞうをたのまるろうじんふしみにいるよし


伏 見ヘ行キ老 人 を寫春(ス)夫 より桃 山 宇

ふしみへゆきろうじんをうつ す それよりももやまう

(大意)

(補足)

「昼八ツ時比」、お昼の2時頃。おやつの時間はこの「八ツ」 からきてます。

「荻野左衛門尉」、荻野元凱(おぎの げんがい)だろうか?『加賀の金沢に生まれる。後に上洛し、奥村良筑の門人となり古法医学を学んだ。その後は江戸幕府からの招聘により、朝廷からの許可をもらった。これにより1794年(寛政6年)に典薬寮にて、当時の天皇だった光格天皇の皇太子の診療にあたった。1798年(寛政10年)には再度幕府からの招聘により漢方医学の教育を取り入れていた医学館で教鞭を執った。しかし元凱はその漢方に蘭方医学を用いた医学を教育を取り入れる事を希望した事が理由とされる事により、後に同学館から離れ京都に戻る。これによって「漢蘭折衷家」と呼ばれるようになった。その後は再度皇太子の診療にあたり、解剖学を学び晩年は河内国司としても活動した』。

「京住せんと云ヘハ甚タよろこ婦」、江漢はこの後、文化9(1812)年4月1日から11月21日まで京都に在住した。『江漢西遊日記三その8』でもそのことにふれています。

「大雅堂へ尋る玉瀾(ラン)も四五年以前ニ死して」、3月5日にも訪れています。玉蘭は池大雅の奥様、天明4年9月28日(1784年11月10日)に病没なので「四五年以前ニ死して」は正確です。

「中井老人」、『江漢西遊日記二その44』にはじめてでてきました。当時日本一の商店主。

 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十八号、KEIZAI SHIRYOKAN KIYO_038_001-015Z.pdfに詳しく論じられています。

 中井老人の肖像画を往路復路でそれぞれ1枚ずつ描いたことになります。それら肖像画は個人像となっていて残念ながらネットで鑑賞することができません。

 とてもとても残念😢 

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