2025年12月23日火曜日

江漢西遊日記六 その81

P95 東京国立博物館蔵

(読み)

畄主ニて不逢

廿   五日 天 氣禁 裏地行  とて町  家より老 人

にじゅうごにちてんききんりちぎょうとてちょうかよりろうじん


小とも一 町  より二十  六 人 宛 吾 等老 人 の部ニ入り

こどもいっちょうよりにじゅうろくにんずつわれらろうじんのぶにいり


ツイヂ能内 三 町  尓二町  なり紫辰(シシン)殿 廻(クワイ)廊(ロウ)

ついじのうちさんちょうににちょうなり   ししん でん  かい    ろう


月 花門 日 花門 承  明 門 の邊  を諸 人 千 棒 ツキ

げっかもんにっかもんじょうめいもんのあたりをしょにんせんぼうつき


町 々 能印  能付 多る織(ノホリ)を建テキヤリ。ヲンドニて

まちまちのしるしのつけたる  のぼり をたてきやり おんどにて


さて\/珍  しき事 なり帰 り尓小共 ニ銭 五十  文 大

さてさてめずらしきことなりかえりにこどもにぜにごじゅうもんおと


人尓百  文 宛 下 さるおらん多今 日京  著(チヤク)と云

なにひゃくもんずつくださるおらんだきょうきょう  ちゃく という


廿   六 日 天 氣四 時 京  都を出  立 して三 条

にじゅうろくにちてんきよつどききょうとをしゅったつしてさんじょう


の橋 よりケアゲ能茶 ヤニよ里粟 田口 ヲ過キ

のはしよりけあげのちゃやによりあわだぐちをすぎ

(大意)

(補足)

「畄主」、留守。

「廿五日」、寛政1年3月25日 1789年4月20日。

「禁裏地行」、禁裏の周辺で行われるお祭りみたいなものでしょうか。

「ツイヂ」、築地。「紫辰」、紫宸。「織」、幟。「小共」、子供。

「月花門日花門承明門」、以下AIによる概要です。

『月華門、日華門、承明門は、京都御所の正殿である紫宸殿の南庭を囲む回廊に設けられた門です。東の日華門、西の月華門、南の承明門が、それぞれ日(太陽)と月(月)の象徴と、天皇が通る正式な南側通路として機能しています。 

各門の概要

承明門(じょうめいもん)

紫宸殿の南庭の南側に位置する回廊の門です。

格式が高い門であり、かつては天皇や主要な儀式に参加する者のみが通過できました。

日華門(にっかもん)

南庭の回廊の東側(向かって左)にある門です。

太陽を象徴し、東側からの入り口となります。

月華門(げっかもん)

南庭の回廊の西側(向かって右)にある門です。

月を象徴し、西側からの入り口となります。 

これらは、古代中国の思想に基づく「日・月」の対比と、天皇が南(太陽の方向)に向かって座るという形式を反映した重要な構造物です』。

「ケアゲ能茶ヤ」、 

「粟田口」、道順としては蹴上は粟田口のあとですけど。 

 寛政1年3月26日1午前10時、7日から25日までの京都滞在から江戸へ向けて出立しました。次の場所に向かう前は必ずお世話になった方々に暇乞いをしていました。ここでは記されてませんがやはり暇乞いは欠かさずに行っているとおもいます。

 次頁に「大津尓至り草津ヨリして石部ニ泊ル九里半能路なり」とあって、一気に9里半、なんと38kmを歩いています。たっぷり京都で休んだといっても、ほぼ毎日10km以上歩いて観光してますが、元気いっぱいの江漢さんです。

 

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