2025年12月7日日曜日

江漢西遊日記六 その65

P76 東京国立博物館蔵

(読み)

此 時 大 和廻 里をせ春゛亦 小倉 堤  へ出て

このときやまとめぐりをせず またおぐらつつみへでて


伏 見京  町 ニ帰 ル

ふしみきょうまちにかえる


二 日雨天 四ツ時 より京  の方 へ行ク深 草 と云

ふつかうてんよつどきよりきょうのほうへゆくふかくさという


処  焼 物 アリ東 福 寺の前 を過 て三 十  三

ところやきものありとうふくじのまえをすぎてさんじゅうさん


軒 堂 大 佛 殿 夫 より五条  橋 へ出寺 町

げんどうだいぶつでんそれよりごじょうばしへでてらまち


通 りを行キ四条  より三 条  芝 居の前 へ出て

とおりをゆきしじょうよりさんじょうしばいのまえへでて


麩(フ)屋町  へ行 路 ニて文 束 と云 人 ニ逢ヒ同 道 して

  ふ やちょうへゆくみちにてぶんさくというひとにあいどうどうして


知音 院 へ参  祇園 清 水 へ参 り亦 伏 見ニ返 ル

ちおんいんへまいるぎおんきよみずへまいりまたふしみにかえる


三 日天 氣寒  日野孫 三 郎 頼 ミの画八部の

みっかてんきさむしひのまごさぶろうたのみのえやべの


冨士を描ク昼 比 より隣  九  兵衛方 ひゐな祭 り

ふじをかくひるごろよりとなりきゅうべえかたひいなまつり

(大意)

(補足)

「二日」、寛政1年3月2日 1789年3月28日。

「深草と云処焼物アリ」、現在では京都の焼き物といえば「清水焼」となりますが、当時はこの「深草焼き」のようでした。AIの概要では次のようにありました。

『深草の焼き物について

深草(現在の京都市伏見区深草)一帯は良質な粘土が豊富に産出したため、奈良時代には既に土師部(はじべ)が埴輪や土器、瓦などを制作していました。 

深草焼(ふかくさやき): 京焼のルーツの一つとされ、江戸時代後期から明治初期にかけて活躍した作陶家もいました。当初は素朴な締焼(しめやき)でしたが、室町時代以降に釉薬を使った陶器も生まれています。

深草土器(ふかくさかわらけ): 神社などで使用される素焼きの土器も深草で作られていました』。

「大佛殿」、方広寺にあった大仏のこと。江漢さんが見た大仏は寛政10年(1798年)に落雷によって焼失。

「文束」、文策。

「ひゐな」、『ひいな ひひな 【雛】ひな人形。ひな。季春「うつくしきもの,…―の調度」〈枕草子•151〉』

「三十三軒堂」、三十三間堂。「知音院」、知恩院。

 この日の観光コースは修学旅行生のものとほぼ同じです。


 

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