P76 東京国立博物館蔵
(読み)
此 時 大 和廻 里をせ春゛亦 小倉 堤 へ出て
このときやまとめぐりをせず またおぐらつつみへでて
伏 見京 町 ニ帰 ル
ふしみきょうまちにかえる
二 日雨天 四ツ時 より京 の方 へ行ク深 草 と云
ふつかうてんよつどきよりきょうのほうへゆくふかくさという
処 焼 物 アリ東 福 寺の前 を過 て三 十 三
ところやきものありとうふくじのまえをすぎてさんじゅうさん
軒 堂 大 佛 殿 夫 より五条 橋 へ出寺 町
げんどうだいぶつでんそれよりごじょうばしへでてらまち
通 りを行キ四条 より三 条 芝 居の前 へ出て
とおりをゆきしじょうよりさんじょうしばいのまえへでて
麩(フ)屋町 へ行 路 ニて文 束 と云 人 ニ逢ヒ同 道 して
ふ やちょうへゆくみちにてぶんさくというひとにあいどうどうして
知音 院 へ参 祇園 清 水 へ参 り亦 伏 見ニ返 ル
ちおんいんへまいるぎおんきよみずへまいりまたふしみにかえる
三 日天 氣寒 日野孫 三 郎 頼 ミの画八部の
みっかてんきさむしひのまごさぶろうたのみのえやべの
冨士を描ク昼 比 より隣 九 兵衛方 ひゐな祭 り
ふじをかくひるごろよりとなりきゅうべえかたひいなまつり
(大意)
略
(補足)
「二日」、寛政1年3月2日 1789年3月28日。
「深草と云処焼物アリ」、現在では京都の焼き物といえば「清水焼」となりますが、当時はこの「深草焼き」のようでした。AIの概要では次のようにありました。
『深草の焼き物について
深草(現在の京都市伏見区深草)一帯は良質な粘土が豊富に産出したため、奈良時代には既に土師部(はじべ)が埴輪や土器、瓦などを制作していました。
深草焼(ふかくさやき): 京焼のルーツの一つとされ、江戸時代後期から明治初期にかけて活躍した作陶家もいました。当初は素朴な締焼(しめやき)でしたが、室町時代以降に釉薬を使った陶器も生まれています。
深草土器(ふかくさかわらけ): 神社などで使用される素焼きの土器も深草で作られていました』。
「大佛殿」、方広寺にあった大仏のこと。江漢さんが見た大仏は寛政10年(1798年)に落雷によって焼失。
「文束」、文策。
「ひゐな」、『ひいな ひひな 【雛】ひな人形。ひな。季春「うつくしきもの,…―の調度」〈枕草子•151〉』
「三十三軒堂」、三十三間堂。「知音院」、知恩院。
この日の観光コースは修学旅行生のものとほぼ同じです。

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