2026年4月22日水曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その17

P32 国文学研究資料館蔵

(読み)

尾張 大 根

お者り多いこん

おわりだいこん


大 根 甚  多大 き尓して風 味かろく大 上  品 也

              ふうミ

だいこんはなはだおおきにしてふうみかろくだいじょうひんなり


日本 尓天大 根 の㐧 一 奈るへし江戸ねりま

にほんにてだいこんのだいいちなるべしえどねりま


大 根 大 きさ尾張 大 根 尓おとら須゛然  共 風 味ハ尾張 より毛

だいこんおおきさおわりだいこんにおとらず しかれどもふうみはおわりよりも


者る可尓於とれり江 州  伊吹 大 根 又 名 物 なり尾張 大 根 尓

はるかにおとれりこうしゅういぶきだいこんまためいぶつなりおわりだいこんに


おとら須゛摂 州  倉 橋 江口 木津等 より出る大 根 又 名 物 奈り

          くら者し

おとらず せっしゅうくらはしえぐちきづとうよりでるだいこんまためいぶつなり

(大意)

(補足)

「江州」、『近江国』。

「摂州」、『摂津国。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部』。

 練馬大根がこの当時から、名前があがるほど有名とは知りませんでした。

それにしても、この尾張大根、いくらなんでも大きさ強調しすぎ!かついでいる人の2,3倍はある。この大きさ二本を2人でかつげるわけがありません。

 幕末に海外からいろいろな人たちが日本にやってくるようになって、日本の春画が他の浮世絵や錦絵とともに人気となりました。そしてそこに描かれている日本人の男根(大根ではありません)の巨大さに、一時は日本人ものはこれほどにすばらしく大きいのだと信じられたという話があります。

 前頁のでかいかぶらも強調したいあまりに大きく描かれていそうです。

 

2026年4月21日火曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その16

P30P31 国文学研究資料館蔵

(読み)

近江蔓菁

あふミかふら

おおみかぶら


近 江かぶら甚  多゛大イ奈り至  て大 奈るハ壱 荷尓

                          可

おおみかぶらはなはだ だいなりいたってだいなるはいっかに


五 ツ六 ツ奈りでハ荷ひ可゛多し初  て古ゝに来て

いつつむっつなりではかいが たしはじめてここにきて


見る人 ハきもを徒ぶ須こと也 余国 より出るものハこれ本ど尓

みるひとはきもをつぶすことなりよこくよりでるものはこれほどに


大 奈るハなし又 摂 州  天 王 寺可ぶら名 産 也 近 江可ぶら能

だいなるはなしまたせっしゅうてんのうじかぶらめいさんなりおおみかぶらの


古゛とく大 きくハ阿ら袮ども其 味 すぐれて美奈り本し

ご とくおおきくはあらねどもそのあじすぐれてびなりほし


可ぶらとなして三 ケ 津へ出須人 のあま年く志り多る名 物 也

かぶらとなしてさんがのつへだすひとのあまねくしりたるめいぶつなり

(大意)

(補足)

「壱荷」、『か【荷】(接尾)助数詞。(一人が肩で担ぐほどの量の)荷物を数えるのに用いる。「酒樽三―」〔天秤棒で担ぐ二つの荷物を一組とし,それを一荷と称したことに由来する〕』

「三ケ津」、『さんがのつ 【三箇の津】→三津(さんしん)』『さんしん【三津】古く,内外航路の重要な港であった筑前の博多津(はかたのつ),薩摩の坊の津,伊勢の安濃津(あのつ)の三つの港をいう。三箇(さんが)の津(つ)』、ここでは『江戸時代には京・大坂・江戸の「三都(さんと)」や、役者の番付などで使われる表現としても知られてた』。

 本当に、こんなに巨大なかぶらがあったのかどうかちょっと信じられませんけど、どうなんでしょう?

 縄をまとめている母親のそばで遊ぶ子どもたち、風車に馬のおもちゃ。こちらの農家は裕福だったのかもしれません。

 通りがかりの旅人のような二人、こちらをむいて笠をかぶっている人の胸に数枚の札みたいのがぶら下がっています。なんでしょうねぇ?

 

2026年4月20日月曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その15

P28P29 国文学研究資料館蔵

(読み)

江戸四 日市 ノ蜜柑 市

えどよっかいちのみかんいち


江戸の市中  尓賣 ハお本く駿 河ゟ

えどのしちゅうにうるはおおくするがより


出紀州  み可んも大 坂 より舟 廻 し

できしゅうみかんもおおさかよりふなまわし


尓て下 る也 江戸四 日市 の廣 小 路尓籠 入 のみ可ん山 のごとく

にてくだるなりえどよっかいちのひろこうじにかごいりのみかんやまのごとく


尓高 くつミて毎 日 \/  賣 買 の商  人 群 集 春江戸ハ日本

にたかくつみてまいにちまいにちうりかいのしょうにんぐんじゅすえどはにほん


㐧 一 の都 會 尓て繁 昌  の津奈れバ京  大 坂 尓まさりて賑 ハへ里

     とくハい  者んしやう                 尓ぎ

だいいちのと かいにてはんじょうのつなればきょうおおさかにまさりてにぎわえり

(大意)

(補足)

「江戸四日市」、『古くは日本橋と江戸橋の間、川より南の大路をいい、毎月四の日に市がたつ町でした。明暦(めいれき)の大火(1657年)の後、町屋(まちや)を移転させ、川沿いに二町半(約272.5m)にわたり石を積んで、高さ4間(約7.2~7.8m)の土手蔵(どてぐら)を築いて防火壁としました。その後、この地を元四日市町(もとよっかいちちょう)、川沿いを四日市河岸(よっかいちがし)と呼び、様々な市が立つなど、繁盛(はんじょう)の地となりました』。 

 江戸名所図会四日市長谷川雪旦(はせがわせったん)画 天保5~7年(1834~1836)。

 この本は宝暦4(1754)年に出版されているので、ここの画は四日市河岸。

 すべて籠で運搬したのですから、いったいどれくらいの籠が使われたことか!河岸のあわただしい賑やかさが伝わってきます。

 

2026年4月19日日曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その14

P26P27 国文学研究資料館蔵

(読み)

紀伊 國 蜜柑

きいのく尓ミ可ん

きいのくにみかん


紀州  駿 河肥後ノ八 代 より出るみ可ん皆 名 物 奈り

          やつしろ

きしゅうするがひごのやつしろよりでるみかんみなめいぶつなり


中 尓も紀州  尤   すぐれ多り皮 あつくして其 味 あまし

                        そのあぢ

なかにもきしゅうもっともすぐれたりかわあつくしてそのあじあまし


京  大 坂 の市中  尓賣 毛のお本くハ紀州  奈り山 より出春尓籠 尓

きょうおおさかのしちゅうにうりものおおくはきしゅうなりやまよりだすにかごに


入 て風 のあ多らぬやう尓認  めて来る也 

いれてかぜのあたらぬようにしたためてくるなり


一 籠 尓百  入 二百  入 三 百  入

ひとかごにひゃくいりにひゃくいりさんびゃくいり


阿り籠 の大 きさハ何 連も同 しこと也 み可んの大 き奈るハ数 春く奈し

ありかごのおおきさはいずれもおなじことなりみかんのおおきなるはかずすくなし


其 外 餘國 尓も少  々  ハ有 加賀越 前 等 の雪 國 尓ハみ可んの木なし

そのほかよこくにもしょうしょうはありかがえちぜんとうのゆきぐににはみかんのきなし

(大意)

(補足)

 ここでは柿のときと同じようにみかんの木にはしごをかけてとっています。現在ではこれほどには大きくせず収穫しやすいように大きさをととのえています。

 蜜柑の大きな木を製材した材木の表面はとてもすべすべしてなめらかです。そして硬い。

 黒羽織を着た現場責任者のような人、むいた蜜柑を左手に、右手には一房持って、味見しているように見えます。

 蜜柑収穫まっさかりです。

 

2026年4月18日土曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その13

P24P25 国文学研究資料館蔵

(読み)

焙 籠

本いろ

ほいろ


上 の繪尓見え多る茶 の葉を湯出て日尓本し多るを

              由で

うえのえにみえたるちゃのはをゆでてひにほしたるを


本いろ尓可けてあぶる也 此 後 ハ煎 春る時 のほいろ尓ハ阿ら須

ほいろにかけてあぶるなりこののちはせんずるときのほいろにはあらず


宇治御茶 師御通  御用 凡  三 十  三 人 上林味卜 上林春松

うじおちゃしおとおりごようおよそさんじゅうさんにん


上林平入 上林三入 長井貞甫 酒多宗有 尾崎有庵


星野宗以 堀真朔 長茶宗味 辻善徳


茶 ノ保育炉 保育 又 ハ雪 洞 共 云 俗 尓助 炭 と云

   本いろ 本いろ   せつとう       じよたん

ちゃのほいろ ほいろまたはせつどうともいうぞくにじょたんという


抹 茶 臼  図

ひきちやうすのづ


(大意)

(補足)

「宇治御茶師御通御用」、『江戸幕府の制度で、宇治の茶師(碾茶生産者)が将軍家へ献上する新茶の運搬・御用を務める「御茶師」のうち、江戸城で用いる雑用や、西の丸用などの日常的なお茶を調達・納入した下位の茶師階級、またはその役割を指す』。

「凡三十三人」、『御茶師の人数は増減がありますが、18世紀頃の記録では御物御茶師が11家、御袋御茶師が 9 家、御通御茶師 13 家とされています』。なるほど33になります。

 絵に動きがあっておもしろい。臼でゴリゴリした挽茶の細かいものがつぶつぶで描かれていますけど、彫師・摺師泣かせかもしれません。

 わたしの育った街の商店街にお茶屋さんが数軒ありました。そのうちの一軒がいつもドラム缶を横にしたような器具でほうじ茶を炒っていたのですが、その香りがあたりにただよっていて、あれはたまりませんでした。なんどもなんどもスーハースーハーしたものでありました♫

 詳しい内容が「学習院大学学術成果リポジトリhttps://glim-re.repo.nii.ac.jp › shigaku_8_47_70『江戸時代の宇治茶師』」にあります。 

2026年4月17日金曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その12

P22P23 国文学研究資料館蔵

(読み)

茶 名 物 大概

          可い

ちゃめいぶつたいがい


宇治莖 茶  近 江滋賀  来 筑 前 岩 上  大 和吉 野川 上

  くき      し可゛らき     いハ可ミ

うじくきちゃ おおみしが らき ちくぜんいわがみ やまとよしのがわかみ


駿河ノ安倍 美濃ノ虎渓  近 江越 渓  播 州  粟 賀  仙 霊

   あべ    こけい    ゑつけい      あハ可゛のせんれい

するがのあべみののこけい おおみえっけい ばんしゅうあわがののせんれい


山 城 高 雄 本 葉  同 薄 葉 丹 後ノ草 山

    た可をの本ん者    うす者

やましろたかおのほんば  どううすば たんごのくさやま


同 高 泉 寺 同 明 石 伊勢川 俣  

          あけし   可王者多

どうこうせんじ どうあけし いせかわはた


伊予ノ金 甑   美濃輪違   江 州  一  山  同 厂 音  

   可奈こしき   王ち可ひ      ひとつやま   可り可゛年

いよのかなこしき みのわちがい こうしゅうひとやま  どうかりが ね


同 山吹  同 初 緑

   ふき   者川ミとり

どうやまぶきどうはつみどり


同 春 風 同 㐂撰  駿 河足 久保 日  向茶 数 品 阿り

        きせん    あしく本  

どうはるかぜどうきせん するがあしくぼ ひゅうがちゃすうひんあり


志め木尓て志めて水 氣をとり日尓本すてい

しめきにてしめてみずけをとりひにほすてい


ゆで阿げ多る葉を志め木尓て志める所

ゆであげたるはをしめぎにてしめるところ


(大意)

(補足)

 有名なお茶どころの国と茶銘柄を列記しています。現在でも引き続き生産しているところもあれば、完全に消滅しているところもあるようです。

 老婆は重いものは持てないので、茶葉を日に干す仕事です。他の3人の御婦人の着物の線が今までとはことなって、どこかやわらかくなっているようにみえるのは気のせいでしょうか。

 左隅「志め木尓て志め」て、水が桶からふた筋流れているところのつもりなのでしょうけど、紐のように見えなくもない。

 

2026年4月16日木曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その11

 

P20P21 国文学研究資料館蔵
(読み)
茶 製 法
ちやこしらえ

茶 の葉を徒ミて是 を折敷 尓いれ箸 尓てち里
ちゃのはをつみてこれをおしきにいれはしにてちり

赤 葉くもの春奈どよくゑりて後 釜 尓て由で阿げ
あ可者
あかはくものすなどよくえりてのちかまにてゆであげ

それを桶 尓いれて志め木尓て志め水 氣をとりて日耳
それをおけにいれてしめぎにてしめみずけをとりてひに

本春なり次 の絵と合せ見るべし 凡  茶 つミ茶 よりハ皆 女  能
ほすなりつぎのえとあわせみるべしおよそちゃつみちゃよりはみなおんなの

所 作奈り宇治能茶 つミとて遠 国 までも其 名高 し故 尓
しょさなりうじのちゃつみとておんごくまでもそのなたかしゆえに

他国 の人 ハ可奈ら須゛見 物 尓来 りていと尓ぎや可奈ること奈り
たこくのひとはかならず けんぶつにきたりていとにぎやかなることなり
(大意)
(補足)
 母は埼玉県北部の農家の生まれで、2022年に102歳で亡くなりましたが、よくお茶の話をしてくれました。母の家でも近所の農家でも、自分の家で飲むお茶は自分の畑で作るのが当たり前だったそうで、実家からはなれてはじめて茶葉を買ったそうです。わたしは小さい頃よく母の実家に何か月もあずけられたことがたびたびあって、祖母からこれがうちのお茶の木だよといわれたのをおぼえています。一坪くらいの所に数本お茶の木が植わっているだけでした。
 折敷(四角いお盆)でゴミなどとりながらおしゃべりの声が聞こえてきそうです。

2026年4月15日水曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その10

P18P19 国文学研究資料館蔵

(読み)

宇治茶 摘

うじちやつミ

うじちゃつみ


日本 尓茶 をう由ることハ人 王 八 十  二代 後鳥羽院 の御 宇

                                 う

にほんにちゃをうゆることはにんのうはちじゅうにだいごとばいんのぎょう


に始 まる京  建 仁 寺の開 山 栄 西 和尚  渡唐 の時

        けん尓んじ     ゑゝさい

にはじまるきょうけんにんじのかいざんえいさいおしょうととうのとき


茶 の種 を毛ろこしゟ 取 可へ里て筑 前  国 脊振 山 に植 らる是 を岩

                         せふり

ちゃのたねをもろこしよりとりかえりてちくぜんのくにせふりやまにうえらるこれをいわ


上 茶 と云 又 栂   尾明 恵上  人 尓其 種 を

可ミ       と可゛のをめいゑ

かみちゃというまたとが のをめいえしょうにんにそのたねを


まいらせられ多るを上  人

まいらせられたるをしょうにん


山 城 の宇治と梶  尾と尓植 らる今 梶 ノ尾尓ハ茶 多えて宇治の

やましろのうじととがのおとにうえらるいまとがのおにはちゃたえてうじの


茶 甚  多゛者びこ連り四月 尓葉を徒ミて煎 茶 を製 須

ちゃはなはだ はびこれりしがつにはをつみてせんちゃをせいす


(大意)

(補足)

「人王」、『にん-わう 【人皇・人王】神代に対し、人代になってからの天皇のこと。神武天皇以後の天皇』

「後鳥羽院」、『ごとばてんのう ―てんわう 【後鳥羽天皇】[1180〜1239]第八二代天皇(在位[1183〜1198])。名は尊成(たかひら)。高倉天皇の皇子。土御門(つちみかど)天皇に譲位後,三代にわたって院政を行う。1221年(承久3)北条義時追討の院宣を発して鎌倉幕府打倒を試みたが失敗(承久の乱)。隠岐(おき)に配流され,その地で没した』

「御宇」、『ぎょう 1【御宇】〔宇内(うだい)を統御するの意〕

天子の治世の期間。御代(みよ)。「宇多天皇の―」』

「栄西」、『えいさい 【栄西】〔「ようさい」とも〕[1141〜1215]鎌倉初期の禅僧。日本の臨済宗の開祖。備中の人。字(あざな)は明庵。葉上房・千光国師と号す。比叡山で天台の教義を学び,二度入宋し,臨済禅を伝え帰る。幕府の帰依をうけ鎌倉に寿福寺を建立。京に建仁寺を創建して天台・真言・禅の三宗兼学の道場とし禅宗の拡大に努めた。また,茶を宋より移入し「喫茶養生記」を著した。著「興禅護国論」など』

「煎茶」、文中では「前」+「火」です。「㷙」のフォントはあるのですが。

「栂尾」、漢字変換「とがのお」ででてきます。「栂」の読み「つが」がなまったものでしょうか。

 現在の茶摘み風景とはまったくことなります。お茶の木の育て方も果実を育てているみたい。椅子に腰掛けてなんとなく優美。女性の仕事だったんですね。お茶をするお盆を頭にのせてます。茶摘みの葉は胸の前の小さな籠に入れてます。

 日よけの葦簀(よしず)が大きな屋根になってます。質感が出ていて上手です。

 

2026年4月14日火曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その9

P16P17 国文学研究資料館蔵

(読み)

摂 州  木津 干 瓢

     きつの可んへう

せっしゅうきつのかんぴょう


む可しハ大 坂 三津寺 前 より於本く干 瓢  を出

むかしはおおさかみつでらまえよりおおくかんぴょうをだ


須今 ハ其 地町  家と奈りぬ其 南  能一 村 を

すいまはそのちちょうかとなりぬそのみなみのいっそんを


木津と云 里 人 これを作 り実の里多る時 取 て輪切 尓し皮 を

               ミ         王

きつというさとびとこれをつくりみのりたるときとりてわぎりにしかわを


去 て細 くむきあげ竿 尓可けて日尓本須其 白 きこと雪

          さ本

さりてほそくむきあげさおにかけてにひほすそのしろきことゆき


のことし木津ハ可ん飛やうの名 物 也 凡  こ連をむく尓ハ剃 刀

                   およそ       可ミそり

のごとしきつはかんぴょうのめいぶつなりおよそこれをむくにはかみそり


を左  の手尓持 右 の手尓て輪切 の可んひやうをまハしてむく也

をひだりのてにもちみぎのてにてわぎりのかんぴょうをまわしてむくなり

(大意)

(補足)

「大坂三津寺」、『大阪市中央区心斎橋筋にある真言宗御室派の準別格本山の寺院。山号は七宝山。本尊は十一面観音菩薩。御堂筋に面しており、地元では「みってらさん」あるいは「ミナミの観音さん」の通称で親しまれている』。

 絵の構図がどこかでみたなとおもって数頁戻ってみたら、「美濃釣柿」でした。ピッタリ重ね合わせられるくらいそっくりです。

 輪切りにむいた干瓢を干す場所、竿につるしてあるものや、地面の筵(むしろ)の上のものなど、とても丁寧に(干す竿を引っ張り上げる綱にはちゃんとより目がはいってる)描かれています。こういったものは得意としているようですけど、干している右側の職人さんの脚の構えが逆ハの字になっていて、痛そう。

 おんぶされている赤ちゃん、アップにしてみると笑ってます。

 

2026年4月13日月曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その8

P14P15 国文学研究資料館蔵

(読み)

材 木 流 し能圖

ざいもくながしのず


山 より材 木 を切 出須尓ハ谷 川 へ落 して

やまよりざいもくをきりだすにはたにがわへおとして


奈可゛れ尓乗  して運 び出須杣 人 鳶 口 を

         しやう  者こ

なが れにじょうじてはこびだすそまびととびぐちを


も川てこれを引 まハし山 川 の早 起流  をとびまハること其

もってこれをひきまわしやまかわのはやきながれをとびまわることその


軽捷  あ多可も猿 のごとし或  ハ高 き可゛けより下 へ木を徒き

可る王ざ    さる

かるわざあたかもさるのごとしあるいはたかきが けよりしたへきをつき


おとし阿るひハ谷 川 の瀧 つせを自由 尓引 まハしてそ能

            多き

おとしあるいはたにがわのたきつせをじゆうにひきまわしてその


材 木 を筏   として乗 まハ須よく修 練 したる者多ら起也

     い可多゛          し由連ん

ざいもくをいかだ としてのりまわすよくしゅれんしたるはたらきなり

(大意)

(補足)

「瀧つせ」、『たきつせ 【滝つ瀬】〔「つ」は「の」の意の格助詞〕滝のように急な流れ。滝。「夕立の―うくる元の谷川」〈拾遺愚草〉』

「軽捷」、「軽」の偏「車」は「忄」や「丩」のようなかたち。

 わたしの住居のすぐ近所は、江戸時代江戸の町へ西川材(江戸の西の方からきた材木)という材木(杉・松・檜など)を名栗川、入間川を流して運んでいました。市立博物館にはそれらに関する詳しい史料・物品が展示されています。

 上流から下流に流すにあたって、川幅も広くなり、また天候の状況によってはおもいどおりにあやつれなかったりして、川岸の土手を壊してしまったり、農地に流木が入ってあらしてしまったりと、たくさん揉め事があったようです。それら裁判の記録が古文書として残っています。

 流れの速い川の中で丸太一本に乗っている人が二人描かれています。こんなことをしたら命がいくつあってもたりません。貯木場や川岸の静かなところで丸太をそろえるときにはこのようにのることもあったでしょうけど、材木を流すときは筏を組んで行うのがほとんどのようでした。または大雨を待ち、増水するときをねらっていっきに丸太を流すこともあったようです。

 

2026年4月12日日曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その7

P12P13 国文学研究資料館蔵

(読み)

杣 人

そまびと


山 中  尓て木を切 て渡世春る者 を杣 といふおよそ奥 山 尓てハ

さんちゅうにてきをきりてとせするものをそまというおよそおくやまにては


い可奈る大 木 を切 たを須とても枝 奈ど打 ことハなく只

いかなるたいぼくをきりたおすとてもえだなどうつことはなくただ


者しめより根の所  をまさ可り尓て切 たを春奈り和哥尓ハ木曽能

はじめよりねのところをまさかりにてきりたおすなりわかにはきその


杣 人 を専 尓よ免り木曽ハ信 濃 国 尓て奥 ふ可起大 山 奈り杣 人 の

     せん

そまびとをせんによめりきそはしなののくににておくふかきおおやまなりそまびとの


分 入 山 の道 志るべ尓ハ小木 を切 可けて目印  と須古れ枝折 といふ

王けいる                           しおり

わけいるやまのみちしるべにはこぼくをきりかけてめじるしとすこれしおりという


和哥尓もよめり栞 の字杣 人 の道 志るべの事 奈る由 設 文 尓見え多り

       可ん

わかにもよめりかんのじそまびとのみちしるべのことなるよしせつぶんにみえたり

(大意)

(補足)

「」、『しおり しをり【栞・枝折り】〔動詞「枝折る」の連用形から〕

① 本の読みかけのところに挟んでしるしとする,細幅の紙片やひも。

③ 山道などで,木の枝を折っておいて道しるべとすること。また,その道しるべ。「―を尋ねつつも登り給ひなまし」〈今昔物語集28〉』

 なるほど、「栞」は「枝折り」からきているのですね、ひとつ賢くなりました。

 二人一組で横挽鋸を使い切り倒した木を切っています。裸足でこの作業はしなかったとおもいます。また左上、斧で松を切り倒そうとしてますが、切り口をこんなふうにすることはありません。絵師は実際に見てなかったようです。

 

2026年4月11日土曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その6

P10P11 国文学研究資料館蔵

(読み)

炭 焼  圖

春ミやきのづ

すみやきのず


炭 諸 国 より多 く出る中 尓日  向 國 ト紀州  熊 野より

すみしょこくよりおおくでるなかにひゅうがのくにときしゅうくまのより


出る毛の其 性  よろし摂 州  池 田奥 山 より出る毛の炭 の

でるものそのしょうよろしせっしゅういけだおくやまよりでるものすみの


名 物 也 又 和泉 の横 山 炭 名 品 也 

めいぶつなりまたいずみのよこやますみめいひんなり


是 ハ枝 炭 也 い徒゛連も山 尓炭 竈 を

                   可ま

これはえだすみなりいず れもやまにすみがまを


春えてやく也 春ミ可゛満ハ木薪 の出シ入 勝 手よ起所  尓す由る也

すえてやくなりすみが まはきまきのだしいれかってよきところにすゆるなり


哥 尓ハ小野能すミ可゛満をよめり小野ハ山 城 の国 愛宕 郡 なり

                          をたぎ

うたにはおののすみが まをよめりおのはやましろのくにおたぎぐんなり


此 穴 を四ツめと云  可まへすミ木をくべこむてい せいらう石

このあなをよつめという かまへすみぎをくべこむてい せいろうせき


炭 木を出須てい うハ屋

すみぎをだすてい うわや

(大意)

(補足)

 この説明文でも「品」と「所」のくずし字が使われています。やはりそっくりでまぎらわしいです。

「哥尓ハ」の歌を検索するとAIの概要が得られました。

『山城国愛宕郡小野(現在の京都市左京区上高野・八瀬周辺)は、平安時代から炭の産地(炭竈の里)として知られ、和歌や物語にその風景が詠まれています。代表的な歌は、曾禰好忠(そねのよしただ)が『新古今和歌集』などで詠んだものです。

「おのの原 たなびくくもは 炭かまの けぶりならね けふもふる雪」

(小野の原にたなびく雲は、炭竈の煙ではない、今日も降る雪よ)』。

「此穴を四ツめと云」、どこに穴があるか探してしまいますが、軒の下にある煙の出ている四つの穴。

 

2026年4月10日金曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その5

P8P9 国文学研究資料館蔵

(読み)

美濃釣  柿

ミの徒るし

みのつるしかき


志ぶ柿 のいま多゛熟  せぬうち尓取 て皮 をむき糸 を付

              じ由く

しぶがきのいまだ じゅくせぬうちにとりてかわをむきいとをつけ


て竿 尓可け日尓本春也 安藝 国 西 条  きおん坊 其味

 さ本         あき              あち

てさおにかけひにほすなりあきのくにさいじょうぎおんぼうそのあじ


春ぐれ多りといへと毛美濃徒゛るしよりちいさし美濃ハ味 ハひよき

                         あち

すぐれたりといえどもみのづ るしよりちいさしみのはあじわいよき


のミ尓阿ら須其 形  甚  多大 奈り本し上ケて三 寸 者゛可りの長 さなる

                     あ

のみにあらずそのかたちはなはだだいなりほしあげてさんすんば かりのながさなる


柿 あり其 生 の時 の大  さ思 ひやるへし◯くし柿 ころ柿 も皆 志ぶ柿 を

      奈ま    おゝき

かきありそのなまのときのおおきさおもいやるべし くしがきころがきもみなしぶがきを


以 て拵  由る也 串 柿 ハ丹 波よりお本く出 古ろ柿 ハ山 城

   こしら    くし

もってこしらゆるなりくしがきはたんばよりおおくでるころがきはやましろ


宇治名 物 也

うじめいぶつなり

(大意)

(補足)

「美濃」、「美」のくずし字は「る」+「欠」のようなかたち。

「糸を付て竿尓可け」、挿絵では糸ではなく縄のようなものを、螺旋にして柿のヘタをくくりつけています。うまい付け方です。付けおわった竿を二人で掛けている絵で、右側の男の人の脚の描き方がこの絵師の特徴で、上手ではありません。

「大さ思ひやるへし」、干しあがって三寸(約9cm)ぐらいですから、手のひらいっぱいくらいの大きさで、生でしたらもっと大きい。確かにでかいです。絵の中の柿も手のひらより大きく描かれています。

 柿の皮むき作業場は4本柱の壁なし藁葺き屋根の小屋ですが、屋根の妻部分に空気抜き(風で屋根が持ち上がらないように)があります。ここの部分といい、柿のザル、踏み台などこのようなところはとても丁寧です。

 

2026年4月9日木曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その4

P6P7 国文学研究資料館蔵

(読み)

大 和御所 柿

やまとごしよ可き

やまとごしょがき


和州  御所 村 より出 柿 の極 品 奈り餘国 尓も此 種

                             た年

わしゅうごしょむらよりでるかきのごくひんなりよこくにもこのたね


ひろまりて多 し御所 より出る物 名 物 奈る故 尓御所 柿 といふ

ひろまりておおしごしょよりでるものめいぶつなるゆえにごしょがきという


京  木練 柿

   こ袮り

きょうこねりかき


山 城 の国 より出 これ柿 の上  品 なり其 外 諸 国 尓毛木練

やましろのくによりでるこれかきのじょうひんなりそのほかしょこくにもこねり


有 近 江美濃甲斐信 濃殊 尓お本し九  州  の地

                         

ありおおみみのかいしなのことにおおしきゅうしゅうのち


柿 の熟  春ること上 方 ゟ

          可ミ可多

かきのじゅくすることかみかたより


も早 し渋 柿 尓上  品 阿りさハし柿 と奈して甚  多よ起風 味なり

もはやししぶがきにじょうひんありさわしがきとなしてはなはだよきふうみなり


大 和椑

   志ふかき

やまとしぶがき


小柿 なり臼 尓て徒きて柿漆を取 て紙 ざいく尓用 由

            しぶ

こがきなりうすにてつきてしぶをとりてかみざいくにもちゆ

(大意)

(補足)

「御所柿」、『ごしょがき【御所柿・五所柿】カキの品種の一。奈良県御所(ごせ)の原産という。果実は扁球形で,種が少なく,甘みが強い。大和(やまと)柿』

「木練」、『こねり 【木練り】① 木になったまま熟すこと。② 「木練り柿(がき)」の略』

「さハし柿」、『さわしがき さはし―【醂し柿】渋を抜いた柿。湯や焼酎(しようちゆう)につけて渋を取り去る。たるがき』

「渋柿」、『しぶがき【渋柿】柿の品種のうち,実が熟しても甘くならず,味の渋いもの。醂(さわ)したり干したりして渋を抜いて食用とする。また,柿渋を採る原料とする。季秋』

 柿の種類が辞書にこんなにのっているとは驚きました。それほど日本ではたくさんの種類の柿が実り、食されていたということなのでしょう。最近では高値ですっかり高級品となって早々簡単に買うことができなくなってしまいました。

 柿の木に二人登って収穫しています。柿の木はゴルフのヘッドになるくらい緻密で硬い樹木で、粘りもそこそこあり何人かが登っても折れることはありません。

 

2026年4月8日水曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その3

P4P5 国文学研究資料館蔵

(読み)

黐    製 方

とりもちのせい者う

とりもちのせいほう


細葉冬青樹と云 木の皮 をけづりて池 水 尓徒け置

奈ゝミのき

ななみのきというきのかわをけずりていけみずにつけおき


久 しくして取 出し湯尓たきて黐   と春る也 本 薬

               とりもち

ひさしくしてとりだしゆにたきてとりもちとするなりほんやく


必 読 尓其 事 見え多り紀州  熊 野山 尓此 木お本し土人 取 てとり

ひつとく

ひつどくにそのことみえたりきしゅうくまのさんにこのきおおしどじんとりてとり


もちを製 し家 業 と春る也 其 木の者細  柔   にして青 く其 実ハ赤

   せい 可 けう          本そくやハら可        ミ

もちをせいしかぎょうとするなりそのきのはほそくやわらかにしてあおくそのみはあか


くして南 天 の子尓似多り木立 うるハしくして籬 奈ど尓して見事 也

        ミ    こ多ち       可き

くしてなんてんのみににたりこだちうるわしくしてかきなどにしてみごとなり


木の皮 を者ぐ所   とりもちの木池 尓つける所

きのかわをはぐところ とりもちのきいけにつけるところ

(大意)

(補足)

「黐」、『とりもちのき【鳥黐の木】① モチノキの別名。② ヤマグルマの別名』『とりもち【鳥黐】小鳥や昆虫を捕らえるため竿の先などに塗って用いる粘り気の強いもの。モチノキ・クロガネモチ・ヤマグルマなどの樹皮から採る』

「熊野山」、ここの「野」は「埜」になっています。

「籬」、『まがき【籬】① 竹・柴などを粗く編んで作った垣。ませ。ませがき』

 小学校6年生の時の思い出です。学年中いや学校中から嫌われている中年の女の音楽教師の授業のこと。歌の練習のとき(卒業式で歌う歌の練習だったようにおもいます)、ピアノの上においてある指揮棒を必ず使うのが癖でした。

 指揮棒の端をとって振ろうとしたそのとき、なんかおかしいことに先生は気づきました。反対の手で指揮棒の先をつかんで、もう一方の握っている手から指揮棒をはなそうとするのですが、とれません。だんだん取り乱してきて激しく振るようにして指揮棒がはなれたのはいいものの、右手のネバネバが今度はとれません。

 先生いらいらして、振り乱れた髪の毛をすくためにその右手をつい使ってしまいました。髪の毛から右手をはなそうとするのですが、離れるわけがありません。手ぐしのようにして髪の毛のなかに指を突っ込んでしまっているのですから。

 大声で何かわめきながら音楽室を出ていってしまいました。われら悪童たちは大声で気持ちよく卒業式で歌う歌を自分たちだけで歌ったのでした。

 とりもちというと、このことをどうしても思い出してしまいます。わたしの世代がとりもちを子どもの頃に使ったのが最後であるような気がします。蝉とりや、他の昆虫・小鳥など捕まえるのによく使いました。

 とりもちを産業として生産者がいたことに驚いています。使う人がそのたびに自分で作るものだとおもっていました。

 

2026年4月7日火曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その2

P2P3 国文学研究資料館蔵

(読み)

綠 礬製 法

ろう者せい本う

ろうはせいほう


礬  石 白 きハ明  者゛んと奈りあお起ハろう者と奈る

者゛んせき

ば んせきしろきはみょうば んとなりあおきはろうはとなる


山 より堀 出し多る石 をく多゛起小屋能中 尓て水 を可け

    本り

やまよりほりだしたるいしをくだ きこやのなかにてみずをかけ


くさら可してこれを釜 尓てたき其 あ王を本しふ多尓入 て本春也 中 尓毛

くさらかしてこれをかまにてたきそのあわをほしふたにいれてほすなりなかにも


性  のよ起を紺 手といふ丹 礬 の色 のごとし

       こんで   多ん者ん

しょうのよきをこんでというたんはんのいろのごとし


其 次 をあさぎ手と云 色 真青

              まあを

そのつぎをあさぎてといういろまあお


奈り下品 ハくろミなり紺 出浅 黄出のろう者ハ外科 の膏 薬 尓用 由る也 下

           こんであさぎで     げくハ

なりげひんはくろみなりこんであさぎでのろうははげか のこうやくにもちゆるなりげ


品 のろう者ハ染 物 尓用 由染 汁 尓是 を加  連ハくろミを出須といへども

ひんのろうははそめものにもちゆそめしるにこれをくわえればくろみをだすといえども


染 地よハるなり

そめぢ

そめじよわるなり

(大意)

(補足)

「綠礬」、『りょくばん【緑礬】硫酸鉄(Ⅱ)の七水和物の通称。硫酸鉄のこと』。『硫酸鉄、天然には緑礬(りよくばん)として産出。媒染剤・還元剤・防腐剤として用いるほか,青色顔料(紺青)・インクの原料に用いる』

「丹礬」、『たんばん【胆礬】〔「たんぱん」とも〕銅の硫酸塩鉱物。三斜晶系に属し,青色,半透明。化学的には,結晶水を五分子もった硫酸銅の結晶。板状または塊状・葡萄(ぶどう)状などを呈する。銅鉱山などに産する』

 緑礬(りょくばん)は薄緑色の半透明なきれいな色の鉱石です。石なのに水に溶けるのですね。顔料・外科の膏薬・染料と幅広く使われていたことがわかります。

女性が4人いて、うち3人が前帯、1人は後帯でこの方は歳が若そうです。江戸中期頃、未婚女性は後ろ結び、既婚女性は前結びとなっていたようで、後期になると区別なく後ろ結びが主流になったとありました。


 

2026年4月6日月曜日

日本山海名物圖繪巻之二 その1

P1 国文学研究資料館蔵

(読み)

紺 青  緑 青 製 法

こんしやうろくせ うせい本う

こんじょうろくしょうせいほう


銀 山 銅 山 の精 氣より出  生  春る也 慶 長  年 中

         せいき

ぎんざんどうさんのせいきよりしゅっしょうするなりけいちょうねんじゅう


摂 州  多田の銀 山 より

せっしゅうただのぎんざんより


本り出須それよりして諸 国 尓お本く本り出須也 其 以前 ハ唐 より

ほりだすそれよりしてしょこくにおおくほりだすなりそれいぜんはとうより


王多る者゛可り尓て日本 尓ハ堀 出須事 なし

わたるば かりにてにほんにはほりだすことなし


然 シ元 明 天 皇 和銅 六 年

しかしげんめいてんのうわどうろくねん


上野  国 より紺 青  を献 上  し朱 雀院 長  久  二年 尓

かずさのくによりこんじょうをけんじょうしすざくいんちょうきゅうにねんに


摂 津 国 より紺 青  を献 上  春ること

せっつのくによりこんじょうをけんじょうすること


扶桑 略  記尓見え多れハ昔  より我 国 尓あること知 べし製 法 ハ山 より

ふそう里やくき

ふそうりゃくきにみえたればむかしよりわがくににあることしるべしせいほうはやまより 


掘 出し多るをうす尓てつきく多゛起水 飛春る也

ほりだしたるをうすにてつきくだ きすいひするなり

(大意)

(補足)

「紺青」、『① 鮮やかな明るい藍(あい)色。濃く深みのある青色。② 青色顔料の一。。日光や酸に強い。ベルリン青。ベレンス。プルシアン-ブルー。』

「元明天皇」、『げんめいてんのう ―てんわう 【元明天皇】[661〜721]第四三代天皇(在位[707〜715])。名は安閇(あべ)。天智天皇の皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘。草壁皇子の妃。文武・元正両天皇の母。在位中に,和同開珎鋳造,平城遷都や「古事記」「風土記」の編纂が行われた』

「朱雀院」、『すざくいん ―ゐん 【朱雀院】平安時代の後院の一。嵯峨天皇以後,代々の天皇が譲位後に住んだ御所。朱雀大路の西,三条の南に八町を占めていた』

「扶桑略記」、『ふそうりゃっき ふさうりやくき 【扶桑略記】歴史書。三〇巻,うち一六巻分と抄本とが現存。皇円著。平安末期成立。神武天皇から堀河天皇までを漢文・編年体で記す。六国史以下の国史・記録類,諸寺の僧伝・縁起などを抄録する。仏教関係の記事が多い』

「水飛」、『すいひ【水簸】土粒子の大きさによって水中での沈降速度が異なるのを利用して,大きさの違う土粒子群に分ける操作。陶土を細粉と粗粉に分けたり,砂金を採集する場合などに用いる』

 おもに日本画に用いられている紺青の製法についての説明です。

しかし、18世紀中頃に輸入されたベルリン藍ことベロ藍、歌川広重をはじめ北斎や同時代の絵師たちがさかんに使いました。

 

2026年4月5日日曜日

日本山海名物圖繪巻之一 その23

P37 国文学研究資料館蔵

(読み)

銅 山 ふ起金 渡 し方

可奈やま  可ね

かねやまふきがねわたしかた


ふ起あげ多る金 をこり尓作 りて荷物 とし京  大 坂

            つく

ふきあげたるかねをこりにつくりてにもつとしきょうおおさか


等 へ出春也 銅 鉄 皆 同 し◯鋼鉄 ハ鉄 をよくきたひ

                 者可ね

とうへだすなりどうてつみなおなじ はがねはてつをよくきたい


多る也 五車 韻 瑞 尓鋼  ハ堅 鉄 なりとあり刀 釼 をつくるゆえ耳

たるなりごしゃいんずいにはがねはけんてつなりとありとうじんをつくるゆえに


刃金 といふ

はがねという


むしろ包  便  る所

むしろつつみべんずるところ

(大意)

(補足)

「五車韻瑞」、『ごしゃいんずい ―ゐんずい 【五車韻瑞】

中国の韻書。一六〇巻。明の凌稚隆の撰。「韻府群玉」にならって経・史・子・集・賦の五部に分け,熟語と出典を示す』

「むしろ包便る所」、便は使のようにもみえますが、おくりがなが「る」なのでどうかと。

 ずいぶん大きな竿天秤です。ちゃんと目盛りが手を抜くことなく刻んであります。

 第一巻はこれで終わりです。

ことあるごとに絵師の人物等が稚拙であることを述べてきましたが、これはこのBlogの直前の「繪本寶能縷」の絵がきわめて美しかったからでもあります。

この絵師の役割は、鉱山で働く人々や職人さんたちがどのように協働しているのか、諸道具をどのように使っているのかがわかるように描き記したものと考えれば、充分にその役割ははたされているようにおもわれます。

 さて、第二巻は農林系加工品となります。

 

2026年4月4日土曜日

日本山海名物圖繪巻之一 その22

P35 国文学研究資料館蔵

(読み)

灰 吹

者いぶき

はいぶき


灰 吹 ハ竿 銅   を南 蛮 吹 尓して銀 を志本る也 灰 をこねて

     さをあ可ゝね

はいぶきはさおあかがねをなんばんぶきにしてぎんをしぼるなりはいをこねて


ふいごの口 へ土手をつきてふく也 故 尓灰 吹 といふ銀 の上  品 を南

                                    奈ん

ふいごのくちへどてをつきてふくなりゆえにはいぶきというぎんのじょうひんをなん


鐐  と云 又 軟 挺 とも云 尒雅 尓い者く白 金 古連を鈷といふ其 美なる

里やう     なんてい    じ可゛

りょうというまたなんていともいうじが にいわくしろがねこれをこというそのびなる


毛のを鐐  と云 云ゝ  又 印 子と云 ハ

               いんす   

ものをりょうといううんぬんまたいんすというは


准 南 王 劉  安 上  金 の上 尓劉  の字を

王い奈ん王う里 うあん

わいなんおうりゅうあんじょうきんのうえにりゅうのじを


き佐満せられ多る金 なり続 博 物 志尓見へ多り

            ぞく者くふ川し

きざませられたるきんなりぞくはくぶつしにみえたり


たゝら可べ 水 本゛うき尓てミづう川所   春者゛い 春者゛いおけ

たたらかべ みずぼ うきにてみずうつところ すば い すば いおけ


たてつち者゛

たてつちば

(大意)

(補足)

「灰吹」、『はいふきほう はひ―はふ 【灰吹き法】

金・銀などを精錬する方法。炉(反射炉の一種)の下面にくぼみをつけて灰を詰め,その上に載せた金・銀と鉛との混合物を加熱して鉛を溶かし出して灰に吸収させ,金・銀を採取する』。『はいふきぎん はひ― 【灰吹き銀】

灰吹き法で精錬した銀。室町中期以降,銀地金(ぎんじがね)として用いられた』

「南鐐」、『なんりょう ―れう【南鐐】

① 上質の銀。精錬された美しい銀。南挺(なんてい)。「―を以て作りたる金の菊形」〈義経記•6〉

② 二朱銀の通称。表面に「以南鐐八片換小判一両」と刻まれていた。南挺』

「尒雅」、『じが 【爾雅】

中国最古の辞書。三巻。経書,特に詩経の訓詁解釈の古典用語を収集整理したもの。紀元前二世紀頃成立。現存の書は釈詁・釈言・釈訓など一九編に分類されている。十三経の一』

「准南王劉安」、『りゅうあん りう―【劉安】

[前178頃〜前122]中国,前漢の学者。漢の高祖の孫。淮南王(わいなんおう)に封ぜられ,「淮南子(えなんじ)」を撰し,武帝から尊重されたが,のちに謀反が発覚し自殺した』

「続博物誌」、『はくぶつし 【博物志】

① 中国,晋(しん)代の民俗風物誌。一〇巻。張華著。山川・物産・外国・異人・異俗・獣鳥虫魚・薬物・服飾・器名などについて記した書。宋代の「続博物志」はこの書にならって李石が著したもの』

 右から2番目の職人さんが左手で、くじを引かせるような仕草をしています。これは説明文にあるように、小さな箒(ほうき)で水をうっているところなのでした。

 

2026年4月3日金曜日

日本山海名物圖繪巻之一 その21

P33 国文学研究資料館蔵

(読み)

鉄  蹈鞴

てつのたたら

てつのたたら


鉄 をふく尓ハふいご尓てハ湯尓奈り尓くし故 尓たゝら尓か

てつをふくにはふいごにてはゆになりのくしゆえにたたらにか


けて湯尓和可春なり

けてゆにわかすなり


哥 飛とすぢ尓者げむ心  の力  奈里満可゛ねもつゐ尓湯とぞ奈り个る

うたひとすじにはげむこころのちからなりまが ねもついにゆとぞなりける


満可゛ねふく志川゛のいとなミいと満なや身能い多づきも思 ひ志らずて

まが ねふくし ずのいとなみいとまなやみのいたずきもおもいしらずて

(大意)

(補足)

 大きな白い壁はもちろんたたら壁。こんなにおおきなふいごを使っていたのですね。

 左の三人はまぁ力をいれて踏んでいるように描かれています。この絵師は人物をうしろからとらえるのがとても苦手なようで(いままで見てきた絵でも同じです)、右側三人のとくにその左端の黒い半纏の職人の脚の構えがちとおそまつであります。

 

2026年4月2日木曜日

日本山海名物圖繪巻之一 その20

P31 国文学研究資料館蔵

(読み)

鉄 山 の繪

てつさんのえ


鉄 ハ掘 出し多る土 な可゛らに水 尓奈可゛して鉄 を取ルなり

てつはほりだしたるつちなが らにみずになが しててつをとるなり


あさき流  川 尓むしろを志起その上 ヘ本り多゛したる山 土 を

あさきながれかわにむしろをしきそのうえへほりだ したるやまつちを


奈可゛しかくれバ鉄 ハむしろの上 尓と満り土ハ皆 な可゛れ行 奈り◯

なが しかくればてつはむしろのうえにとまりつちはみなが れゆくなり


石 見備 中

いわみびっちゅう


備 後の三 ケ国 お本く鉄 あり備 中  に真金 ふくことといへる哥 あり古今

びんごのさんかこくおおくてつありびっちゅうにまがねふくことといえるうたありこきん


集  尓のせ多り延 㐂天 皇 の御 時 すで尓備 中  尓お本く可ねを堀 多ると

しゅうにのせたりえんぎてんのうのおんときすでにびっちゅうにおおくかねをほりたると


見へ多り可ねハ金 銀 銅 鉄 の惣 名  尓て鉄 ハ黒 金 奈り

みえたりかねはきんぎんどうてつのそうみょうにててつはくろがねなり


ゐごや

いごや

(大意)

(補足)

 説明文にふりがながまったくありません。表題「鉄山」の読みは、目次にあって「て川さん」。

「鉄」の旁が「失」のような「矢」のような、調べてみると俗字で「鉃」でも「てつ」でした。

「掘出し」、「堀」の旁は「屈」で、その中は「出」です。ちゃんと「出」のくずし字になっています。

「延㐂天皇」、『醍醐(だいご)天皇のこと。えんぎ【延喜】年号(901年7月15日〜923.閏4.11)。昌泰の後,延長の前』

 土砂に交じる砂鉄の取り出し方の説明です。日本全国各地に「たたら浜」というような地名がありますがみな砂鉄の砂でした。その地域では刀や鉄製品が作られていました。

 砂鉄から鉄を精製するのに大量の樹木が伐採されて森が破壊されてしまい、そこに住まう様々な生き物たちが抗議に立ち上がるというアニメがありました。

 

2026年4月1日水曜日

日本山海名物圖繪巻之一 その19

P29 国文学研究資料館蔵

(読み)

南 蛮 鞴(革匍)

奈ん者んふき

なんばんぶき


奈ん者゛んぶきハたゝら可べ尓つけ者ぐちをして二て うふいごにて

なんば んぶきはたたらかべにつけはぐちをしてにちょうふいごにて


ふく也 銅 よりな満里を志本゛り取 尓用 由る也 又 銅 より銀 を

ふくなりどうよりなまりをしぼ りとるにもちゆるなりまたどうよりぎんを


志本゛り取 尓もこれを用 由る也◯金 山 の下財 辛 苦して宝  を本り

                 可奈やま げさい志んく

しぼ りとるにもこれをもちゆるなりかなやまのげざいしんくしてたからをほり


出しての世和多り唯 おの連可゛口 を養  ふのミ多分 の利ハ皆 金 山 司乃

                        たふん

だしてのよわたりただおのれが くちをやしなうのみたぶんのりはみなかなやましの


徳 用 となれ里唐 の羅隠 可詩尓採 得 百  花  成 密 後 不知 

        とう らいん   とりゑてひゃくくハを?てミつのちす志ら

とくようとなれりとうのらいんがしに


辛 苦 為  誰   甘     といへる蜂 の身能上 と同 しかるへし

志ん??ため尓多れ可゛あま可らしむ    者ち

                 といえるはちのみのうえとおなじかるべし


つけ者ぐち たゝらかべ 二て うふいご

つけはぐち たたらけべ にちょうふいご

(大意)

(補足)

 その17の「真鞴大工所作」のフイゴと異なる漢字が使われています。フォントがありませんが偏と旁は「革」+「匍」。

「採得百花成密後不知辛苦為誰甘」、『百花を摘み集めて蜜を作り、その苦労が誰のためなのかも知らず、ただ甘く味わう』。百花を集めて蜜を作り上げた後、いったい誰のために苦労し、誰のために甘い蜜を造っているのか?

 著者はここまで淡々と職人たちの働く様子や諸道具について述べてきましたが、ここでは彼らの過酷な現場と生活の辛苦にふれています。唐の羅隠の詩が胸にしみます。

 つけ者ぐちから流れ出る金属の細かな様子が上手に描かれています。