P.37 6行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」
(読み)
太次郎 殿 ・松 太郎 殿 同 道 二而柏 屋江寄 、
たじろうどの・まつたろうどのどうどうにてかしわやへより、
新 立 江参 り、昨 十 六 日 晩 始末
にったちへまいり、さくじゅうろくにちばんしまつ
滝 之助 殿 江小前 一 同 惣 代 ヲ以
たきのすけどのへこまえいちどうそうだいをもって
侘 入 、施 し之儀者思 召 ヲ請
わびいれ、ほどこしのぎはおぼしめしをうけ
被下 候 事
くだされそうろうこと
(大意)
太次郎殿と松太郎殿が一緒に柏屋へ寄り、
新立へ行った。昨日16日夜の一部始終について
小前一同の代表が滝之助殿へ
お詫びをした。施しの儀についてはありがたく受け入れたいく
していただけるようお願いしたいとのことであった。
(補足)
この頁に「侘言」「侘入」と「侘」が2度でてきます。
「名栗村史研究1」の翻刻では「託」と「訁」になっているのですが、原文通り「亻」だとおもいます。意味は同じです。
「同道」、2文字セットで形で覚えておく。頻出。
滝之助さんはあれだけの剣幕で、ちょっとやそっとの謝罪だけでは怒りは収まらないとおもうのですが、どうだったのでしょう。それにこれから名主である村役人たちから施しをしなければならないのですから、なおさらその胸中はまだまだ煮えていたはずです。
この投稿でも何度かふれていますが、この変事に関して滝之助さんが江戸にいる父親へ出した手紙があり、その翻刻すべてがネットにあります。変事の内容を伝える部分がよくまとまられてます。また父親に対しての丁寧さを通り越したへつらうような文面がとても目に付きました。
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