2025年7月25日金曜日

江漢西遊日記四 その68

P78 東京国立博物館蔵

(読み)

管弦(クワンゲン)能氣取 なり寺 能門 ニ至 ルと止メる也

   か んげん のきどりなりてらのもんにいたるととめるなり


誠  尓飴 賣 能如 し唐 人 下官 ノ者 多 し其

まことにあめうりのごとしとうじんげかんのものおおしその


内 能キ人 ハ十  人 之(コレ)を船 頭 と呼フ宋 敬 庭

うちよきひとはじゅうにん  これ をせんどうとよぶそうけいてい


と云 人 尓知己(シルヒト)ニなる是 ハ五十  位  尓見へ髭(ヒケ)少々

というひとに   ひるひと になるこれはごじゅうくらいにみえ  ひげ ショウショウ


あり其 餘 ハひげなし亦 西 湖と云 人 ハ四十  位

ありそのほかはひげなしまたせいこというひとはしじゅうくらい


ニして是 は肥(コヘ)多る人 なり顔 色 利口 そふ尓見

にしてこれは  こえ たるひとなりかおいろりこうそうにみ


由予カ製 春る銅 版 画能覗(ノソキ)目か年を見セ

ゆよがせいするどうはんがの  のぞき めがねをみせ


けれハ皆 々 感 心 春るシツポコ臺 四人 結(ツメ)ニて

ければみなみなかんしんするしっぽこだいよにん  つめ にて


吾 も共 尓喰ヒ个り住  僧 唐 人 尓無心 を申  故

われもともにくいけりじゅうそうとうじんにむしんをもうすゆえ


数 十  人 呼(ヨヒ)多り唐 人 の云フニハ寺 も大 破ニ及 べ里

すうじゅうにん  よび たりとうじんのいうにはてらもたいはにおよべり

(大意)

(補足)

「宋敬庭」、宋敬亭。南京船主。平賀源内が明和元(1764)年に秩父で石綿を発見し、すぐに火浣布(かかんふ)をつくった。宋敬亭はこれを非常に珍しがり、注文したが、まだ小片しかつくれず源内を困らせた、とありました。

「西湖」、費 晴湖(ひ せいこ、生没年不詳)は清の商人・画家。江戸時代中期、日本に渡来し南宗画様式の画技を伝える。わが国の画壇に寄与すること甚だ大きかった、とありました。

「結(ツメ」、詰め。

 

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