2025年7月24日木曜日

江漢西遊日記四 その67

P77 東京国立博物館蔵

(読み)

済マぬうちハ舩 を神 崎 能沖 尓掛 十  一 月 ニ至

すまぬうちはふねをこうさきのおきにかけじゅういちがつにいた


里おらん多かひ多ん乗 切 して東風を待

りおらんだかぴたんのりきりしてこちをまち


て出  舩 春

てしゅっこうす


廿   八 日 朝 曇  五  時 より唐 人 通 詞清 川

にじゅうはちにちあさくもりいつつどきよりとうじんつうじきよかわ


榮 左衛門 下通 詞吉 嶋 佐十  良 と共  大 波

えいざえもんげつうじきちじまさじゅうろうとともにおおなみ


戸より屋根舟 ニ能里稲 作 悟真 寺へ唐 人

どよりやねふねにのりいなさくごしんじへとうじん


六 十  人 程 佛 参 春舟 向  地能岸 尓着(ツク)と

ろくじゅうにんほどぶっさんすふねむかうちのきしに  つく と


寺 より笛 太 鞁を打ツ者 をやとゐて唐 人

てらよりふえたいこをうつものをやといてとうじん


能先 ヘ立チ笛 多ゐこをなら春此 者 一 向 尓

のさきへたちふえたいこをならすこのものいっこうに


下人 ニて羽織 もき春゛埒 もなき体(テイ)ニて林(ハヤス)

げにんにてはおりもきず らちもなき  てい にて  はやす

(大意)

(補足)

「済」のくずし字、読めませんでした。

「廿八日」、天明8年10月28日。西暦1788年11月25日。

「唐人通詞」、職務は世襲で、ほとんどが明末清初の日本への政治的亡命者か、海寇(かいこう。海上から侵入する賊。海賊)のながれであったといわれる、とありました。ウィキペディアに詳説あり。

「唐人六十人程佛参」、唐人は、当時長崎の人からアチャサンとよばれ、仏参は「阿茶さんの寺参り」といわれていた。それは、唐人屋敷に閉じ込められた彼らの数少ないレクリエーションでもあり、しばしば黙許された。辮髪異装の行列は、まことに豪華でかつ悠長なもだったらしい。彼らはお詣りのあと、市中の茶屋で遊興した。とありました。

 江漢さんはこの行列を見たものとおもわれます。

「林(ハヤス)」、囃す。


0 件のコメント:

コメントを投稿