P52 東京国立博物館蔵
(読み)
ナシ
なし
十 九日 天 氣ニて小袖 綿 入 一 ツ着(キ)てよし昼
じゅうくにちてんきにてこそでわたいれひとつ き てよしひる
ヨリ酒 屋町 鉅鹿(キヨロク)裕 五良 方 ヘ参 ル主 人 出て
よりさかやちょう きょろく ゆうごろうかたへまいるしゅじんでて
云フ私 の祖父ハ支那明(カラミン)の世の者 ニて外 国 ヨリ
いうわたしのそふは からみん のよのものにてがいこくより
亂 を起 シ明 亡 ル能時 亂 避ケて此 日本 長
らんをおこしみんほろぶるのときらんさけてこのにほんなが
崎 ヘ来 リて今 爰 尓住 居 春性 ハ魏鉅 鹿 と云
さきへきたりていまここにじゅうきょすせいはぎきょろくという
処 能者 也 其 比 ハ持 来 リし物 も有 家居 も
ところのものなりそのころはもちきたりしものもありかきょも
彼 国 能風 尓造 里お目尓かけ度 物 もありし尓
かのくにのふうにつくりおめにかけたくものもありしに
火災 にて失 ひ如此 能体(テイ)なりとなミ多を浮
かさいにてうしないかくのごとくの てい なりとなみだをうか
へ古と和里を申 シきなる程 一 向 能貧 乏 人 とハなりぬ
べことわりをもうしきなるほどいっこうのびんぼうにんとはなりぬ
(大意)
略
(補足)
「十九日」、天明8年10月19日。西暦1788年11月16日。
「魏鉅鹿」、『鉅鹿家(おうがけ)の祖先魏之琰(ぎしえん)と兄の魏琰禎(六官)は明朝滅亡後、長崎に来航し安南貿易に従事し、巨商となり、崇福寺の大(おお)檀(だん)那(な)として活躍した。鉅鹿家は明の遺臣魏之琰(九官)を祖とする長崎在住の中国人の名門である。鉅鹿の姓は之琰が徳川家光から中国の魏の発祥地、河北省鉅鹿の地名を賜わったものという。 元禄2年(1689)之琰が死去して、子供たちが父と伯父を立派な純中国式の墓で合葬した。之琰は死去するまで鉅鹿姓を名乗らず魏であったが、子供から鉅鹿と日本姓を名乗った』と、長崎県学芸文化課のHPにありました。
もう小寒いのか、「小袖綿入一ツ着(キ)てよし」とあります。
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