2025年7月10日木曜日

江漢西遊日記四 その53

P60 東京国立博物館蔵

P61

(読み)

者 二 人来 ル門 を入  所  ニて婦ところ袂(タモト)を

ものふたりきたるもんをはいるところにてふところ  たもと を


改  ム何 物 尓ても持チ入ル事 を禁 春暫  く行 と

あらたむなにものにてももちいることをきんずしばらくゆくと


去 年 江戸石 町  長 崎 屋と云 おらん多゛宿

きょねんえどいしちょうながさきやというおらんだ やど


ニて逢(アヒ)多るおらん多外科ストッツルと云 者 也

にて  あい たるおらんだげかすとっつるというものなり


吾 長 崎 ヘ参 ル事 ハ兼 て江戸ニて約 束 して置

われながさきへまいることはかねてえどにてやくそくしておき


ぬ夫 故 吾 を見ると先 ヱ立チ人 能居ぬ牛

ぬそれゆえわれをみるとさきえたちひとのいぬうし


部屋能方 へ行ク路 \/何 ヤラ話 ス尓一 向 不

へやのほうへゆくみちみちなにやらはなすにいっこうつうぜ


通只 テイケネン\/   と云 事 能ミ是 ハ江戸能

ずただていけねんていけねんということのみこれはえどの


丸 の内 見付 \/  を圖引 てもらゐ多しと云フ事

まるのうちみつけなどなどをずひいてもらいたしということ


なり夫 よりしてミネール。コム。カーモル\/  と

なりそれよりしてみねーる。こむ。かーもるかーもると

P61

蘭人ストツツル

イキ カーモル コム\/

我  部屋   来レ


(大意)

(補足)

「江戸石町長崎屋」、江戸参府中の商館長(カピタン)をはじめ随員のための定宿。日本橋本石町三丁目、長崎屋源右衛門方。

 宿をのぞく画があります。『浅草庵作 葛飾北斎画 享和2(1802)序刊』

 江戸におけるオランダ人の定宿であった日本橋本石町三丁目の長崎屋の情景。窓外に見物人が集まっている。オランダ人たちは江戸滞在中も自由に外出はできなかった、とありました。

「外科ストッツル」、Johan Arnold Stützer (1763–1821)。『MIchel-J-A-Stuetzer-in-the-East-Indies-2015.pdf』に詳しく記されています。

「テイケネン」、tekening.オランダ語で図面、地図。

 

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