2018年12月31日月曜日

変事出来二付心得覚記 その46




 P.14 8行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
全  く左様 之事 ニ御座候   哉、
まったくさようのことにござそうろうや

新 立 様 江参 り承    り候  ハヽ、御触 下
しんだてさまへまいりうけたまわりそうらわば、おふれか

の事 二付 如何 哉様 子相 訳 り可申   と
のことにつきいかがかようすあいわかりもうすべくと

存  、一 同 参 上  仕    候   、右 二付 候   而者、
ぞんじ、いちどうさんじょうつかまつりそうろう、みぎにつきそうらいては、

御当 村 杯 ハ夫 々 物 持 衆  多分
ごとうそんなどはそれぞれものもちしゅうたぶん

之事 ゆへ御差 支  二者有之  間敷( 候  得共)
のことゆへおさしつかえにはこれあるまじく(そうらえども)


(大意)
事情はまったくそのようなことだったのでございましょうか。
新立様へ行きお聞きしようと、お触れが出ている
状況のなかで、もっと詳しいことがわかるだろうと
おもい、全員で参上した次第でした。そこでのお話は、
こちらの村などでは村民に金持ちが多いでしょうから
特段もめごとがあることはないでしょうが、


(補足)
 さらに詳しい情報を知ろうと、平沼源左衛門はじめ村役人たちは新立様のところへうかがいます。

「左様」と「新立様」の「様」が異なっています。
「御触」、「触」の「虫」のくずし字は初めてか。

「如何」、2文字セットです。
「様子」、この「様」は「左様」と同じです。
「可申」、「予」のように見えてしまいますが、2文字セットで覚えます。

「右二付候而者」、(そのようにしたところ)(新立様でお話を伺ったところ)ということだとおもいます。

「抔」(など)
「物持衆」、豊かな人たち、金持ちたち。「衆」の字は独特なので覚えやすい。
「多分」、「タ」の2つ目が下まで伸びてます、「分」の「八」の左側部分ではありません。
「分」のくずし字は「彡」+「、」です。

「間敷」(まじく)、2文字セットで頻出です。
「者」(は)、助詞の「は」。ここでは2度使われてます。


2018年12月30日日曜日

変事出来二付心得覚記 その45




 P.14 3〜7行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
扨 此 度 之儀、我 等村 方 からも皆 夫 々
さてこのたびのぎ、われらむらかたからもみなそれぞれ

罷  出満した帰宅 之者 尋  候   處、
まかりでましたきたくのものたずねそうろうところ

名栗 邊  ゟ 段 々 に可出  由 、若 又
なぐりあたりよりだんだんにでるべくよし、もしまた

出向 ざるものハ帰 り二毀  焼 拂
でむかざるものはかえりにこわしやきはらう

杯 と申  二付 、一 同 罷  出候   趣   申  候   、
などともうすにつき、いちどうまかりでそうろうおもむきもうしそうろう、


(大意)
さて、このたびの件、我らの村からもそれぞれに
加わって帰村した者に尋問したところ、
名栗近辺から徐々に参加しろとの指示が伝わってきたので、もし
参加しない者は帰りに家を壊し焼き払う
などと言われ、皆参加したようなことを言っていました。


(補足)
 3行目から行下げをして、5,6頁この状態が続きます。
これまでの、村役人が一揆衆を追いかけた状況の話から、この数日間の出来事を振り返り、今後の対応などを模索します。

「扨」(さて)、現代の「さて」と同意です。漢字1字での訓読みは知らないとまず読めません。
いくつか例をあげておきます。
 「殊に」(ことに)、迚も(とても)、「俄に」(にわかに)、「砌」(みぎり)、
 「慥か」(たしか)、「忝し」(かたじけなし)、「弥」(いよいよ)、「縦令」(たとい)、
 「拵え」(こしらえ)、「廉」(かど)、「偏に」(ひとえに)、「抔」(など)
「此度」、頻出です。
「我等」、既出ですが見やすいくずし字です。

「満」(ま)変体仮名だとおもいます。
「處」、「処」の旧字。

「邊」、「辺」の旧字ですが、丁寧に書いている。
「由」がどうも「里」に見えてしまいます。




2018年12月29日土曜日

変事出来二付心得覚記 その44




 P.14 最初〜2行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
御同 道 と申  事 二付 、茶 内 才 次郎 ・紋 二郎・
ごどうどうともうすことにつき、ちゃないさいじろう・もんじろう

茂左衛門 ・新 左衛門 ・唐 竹 者 と壱 人心  得申  候
もざえもん・しんざえもん・からたけものとひとりこころえもうしそうろう


(大意)
一緒にと言うので、茶内の才次郎・紋二郎・
茂左衛門・新左衛門・唐竹者ともうひとりのものたちとであった。


(補足)
この頁もきれいです。

 いよいよ下名栗村まで押し寄せてきそうだとの知らせをきき、
村役人たち10名以上で鍛冶屋橋近辺で見張ることになりました。

「才次郎」の「才」が難しい。「郎」は次の「紋次郎」の「郎」とは異なっています。

「茂左衛門」「新左衛門」はきれいでわかりやすい。「唐竹」が読めません。「竹」は右側に「、」がないのですが、くずし字にはしっかりとある。楷書で書くとないのにくずすと点がつく字が多いです。

「心得申候」、ここは自身をもって読めます。

「茶内」「かじや橋」「唐竹」の位置は以前の投稿の地図で示してあります。


2018年12月28日金曜日

変事出来二付心得覚記 その43




 P.13 9行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
夫 ゟ
それより

下 名栗 江十  六 日 、只 今 下 筋 与り
しもなぐりへじゅうろくにち、ただいましもすじより

掛 合 参 り候   由 申  来 り、槙 下 森 太郎
かけあいまいりそうろうよしもうしきたり、まきしたりんたろう

下拙 宅 へ参 り、軍 蔵 殿 ・清 八 殿 も下モヘ
げせつたくへまいり、ぐんぞうどの・せいはちどのもしもへ

参 り、下拙 二も出向 様 二と事 二付 、かじや橋
まいり、げせつにもでむきようにとことにつき、かじやばし

迄 参 り候   処  、以づ連新 立 迄 参 り候   間  、
までまいりそうろうところ、いずれにったちまでまいりそうろうあいだ、


(大意)
それから、
下名栗へ16日、今下筋より掛け合いに来るだろうとのことを、槙下森太郎が
拙宅へ来て伝えた。軍蔵殿・清八殿も下へ
行き、わたしも一緒に行くようにとのことで、かじや橋
まで行ったところ、いずれ新立まで来るだろうから


(補足)
「下筋」、「筋」が「竹」冠が離れているので2文字にみえる。
「与り」、ここは合字「ゟ」ではない。変体仮名とひらがな。

「参り候由申来り」、「由申」が読みづらい。
「槙下森太郎」、ここで読めたのは「太郎」だけで、他は?。「森」ってこんなふうになるのですね。

「候処」、「処」はほとんど「m」。
「以づ連」(いずれ)、「以」は「竹」冠ににてます。


軍蔵殿・清八殿は何度か出てきましたが、槙下森太郎ははじめてです。


2018年12月27日木曜日

変事出来二付心得覚記 その42




 P.13 7〜9行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
あまり支度 面 白 しゆへ笑  申  候   、
あまりしたくおもしろしゆへわらいもうしそうろう、

夫 ゟ 段 々 二参 り、只 今 浅 海 戸へ
それよりだんだんにまいり、ただいまあさかいどへ

参 り掛 合 最 中  と申  者 も有之
まいりかけあいさいちゅうともうすものもこれあり


(大意)
(一揆勢の)おおげさな姿がおかしく笑っていました。
それより徐々に押し寄せ、現在は浅海戸へ
来て交渉中というものもいた。


(補足)
「笑」、「竹」冠はいつもながら控えめです。

「段々」、頻出。
「参」、何度も出てきてますが、このくずし字はみやすい。

「浅海戸」は鍛冶屋橋から数百メートル南の場所。現在同名のバス停があります。
鍛冶屋橋のもう少し北にのぼったところの左側が平沼源左衛門さんのお宅です。



2018年12月26日水曜日

変事出来二付心得覚記 その41




 P.13 最初〜6行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
茶 内 江大 勢 参 り掛 合 最 中  と
ちゃないへおおぜいまいりかけあいさいちゅうと

申  来  者 も有之  、村 方 政 吉 参 り、
もうしきたるものもこれあり、むらかたまさきちまいり、

只 今 三 王 峠  越片 附 可被成  趣
ただいまさんのうとうげをかたづけなさるべくおもむき

申  来 り、赤 根色 頭巾 之様 二巻
もうしきたり、あかねいろずきんのようにまき

白 布 ハチ巻 二帝白 布 タスキ
しろぬのはちまきにてしろぬのたすき

大 音 ヲ上ケ参 り、女  共 飛 上  候
だいおんをあげまいり、おんなどもとびあがりそうろう


(大意)
茶内へ大勢押しかけ掛け合い中と伝えたものもあります。
当村の政吉が来て言うには、
今山王峠をこちらへ向けて戻ってきているそうだとききます。
茜色の布を頭巾のように巻き、
白布のはちまき、白布のタスキをし、
大きな音をたてながらやってきて、女たちは飛び上がるほど驚いてます。


(補足)
昨日に引き続き、
「只今三王峠越片附可被成趣申来り」がよくわかりません。
ただ下記の昨日のその箇所を並べると、同じ言い回しであることがわかります。
「大切品方附可被成候趣申来り」。
うーん、いろいろ考えますが、とりあえず宿題にします。

「三王峠」はいまの「山王峠」、下記略図を参照のこと。「茶内」も。



「政吉」、「政」のくずし字が「致」と似て区別ができません。
「峠越」、「峠」の「山」偏は独特で覚えやすい。「越」(を)変体仮名なのですが、
ここはもしかしたら、(峠を越える)の意味かもしれません。よくわからないところです。

「片附可被成趣」、この「片附」はどのような意味なのかわかりません。

「頭巾」、「豆」偏のくずし字も独特で区別しやすい。

「帝」(て)変体仮名、たまにでてきます。

「飛上候」、「飛」は形からこの字しかなさそうとわかる。

 昨日今日と同じような言い回しの表現でつまずいています。
なんとかしなくちゃ。


2018年12月25日火曜日

変事出来二付心得覚記 その40




 P.12 11行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
昼 七 ツ頃
ひるななつごろ

帰宅 以多し候   、中 指 周  吉 大 工申  様 、
きたくいたしそうろう、なかざすしゅうきちだいくもうすさま、

只 今 大 川 原金 借 毀  名栗 へ参 る趣   、
ただいまおおかわらかねかしこわしなぐりへまいるおもむき、

大 切 品 方    附 可被成  候   趣   申  来 り、其 外
たいせつしなかた(に)つきなさるべくそうろうおもむきもうしきたり、そのほか

三、四人 右 の趣   申  志らせ亦 々 申  様 、
さんよにんみぎのおもむきもうししらせまたまたもうすさま、


(大意)
昼七ツ頃(夕方4時頃)
(上名栗村へ)帰宅した。中指の大工周吉が言うには、
只今大川原の金貸しを打ち壊し、名栗へ向かっているそうで、
大切な品々は(避難)なさっておいたほうがよさそうだとのことです。
他にも3,4人の者たちが同様のことを知らせ、次々と言うには、


(補足)
「大切品方附可被成候」が今ひとつ、わかりません。
全然見当違いなことを訳してしまった気もします。お恥ずかしい。

 慌ただしく一揆勢を追いかけ回し、疲れ果てて
平沼源左衛門は下名栗の自宅に帰宅しました。
そこでも、次から次へと新しい情報が伝えられます。

「以多し」(いたし)、変体仮名。
「申様」が3回でてきます。これだけ連続して現れると、すんなり読めます。
「名栗へ参る趣」、行末につめて書かれています。「参」が上書きしたようににじんでます。少し書き損じてごまかしたのか。
「大切」の「大」もなんか変です。
「可被成候」、4文字セット。
「趣」が何度も使われてます。人づてに聞いたことを書きとめているからでしょう。

「右」、これもどこか変。出だしの筆を誤り、上書きしているようです。
「亦〃」(またまた)、頻出です。


 今回のように、わからないところがあると、高校の古文の授業を思い出します。
定期テストや小テストで、古文の訳を書く問題です。
ほぼ全文を理解して、またはわからない箇所が少なく前後の関係で推測しての訳のときなどは
Very Good!と赤鉛筆で朱書きされて返されてきました。
しかし、わかるところよりもわからないところのほうが多いときにはパズルのようなもので
ひたすら想像力を駆使します。
結果は fiction!! と、でかでかと朱書きされ返却されました。
試験問題とは全く別の物語になっているわけで、友人たちにはこちらのほう断然面白いと好評でした。


2018年12月24日月曜日

変事出来二付心得覚記 その39




 P.12 6〜10行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
                                      打 古王し
             うちこわし

名栗 江出向 と申  事 二付 、中 二者大 川 原
なぐりへでむきともうすことにつき、なかにはおおかわら

金 借 ヲ手始  とし天畑 の渡  戸吉 沢 文 蔵
かねかしをてはじめとしてはたのわたりどよしざわぶんぞう

古王し、其 手二而名栗 へ早 速 参り 
こわし、そのてにてなぐりへさっそくまいり

風 聞 我 毛ヽ  と申  聞
ふうぶんわれもわれもともうしきき


(大意)
打ち壊しの一揆勢は
名栗へ向かったと言う。その者たちの中には大川原
の金貸しを手始めに、畑の渡戸吉澤文蔵を
打ち壊し、そのまますぐに名栗へ押しかける
噂を誰もが聞いていた。


(補足)
ようやく6月15日昼頃の様子です。
まだまるまる2日もたってはいません。

「古王し」、変体仮名が2箇所でてきます。最初のは修飾的な「し」ですが、他方はふつうのものです。こういった違いは気分的なものなのかなんなのか不思議です。数行で気分が変わるなんてあるんだろうか。

助詞の「江」(へ、え)と「登」(と)のくずし字は明らかに異なるのですが、ときたま読み違えたりします。よくみるとにてなくもない。

「金借」、きれいに書かれているが、ウーン、初心者は悩みます。
「畑」、これはすぐに読めたが、もっとくずされると読みにくい字です。

「風聞」、もう何度も出てきているので読めます。「聞」のくずし字も特徴的ですが確実に読める側の字に入りました。
「我毛ヽ」(われもわれも)、「我」は形で覚えるしかありません。「毛」(も)は変体仮名ですが、初見では?でした。


2018年12月23日日曜日

変事出来二付心得覚記 その38




 P.12 最初〜5行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
村々  訳 り候   間  、村 役 人 衆  之言 二随  ウかも
むらむらわかりそうろうあいだ、むらやくにんしゅうのげんにしたがうかも

志連不申  と申  事 ゆへ、又々  途中  迄 出向
しれもうさずともうすことゆへ、またまたとちゅうまででむき

候  得共 、迚 も此 大 勢 二而ハ及  兼 候   間  、黒 須
そうらえども、とてもこのおおぜいにてはおよびかねそうろうあいだ、くろす

迄 引 返 し黒 須湊  屋二泊 り、十  五日
までひきかえしくろすみなとやにとまり、じゅうごにち

昼 頃 飯 能 へ戻 り承    り候  ハヽ
ひるごろはんのうへもどりうけたわまりそうらはば


(大意)
村人たちは納得して、村役人たちの説得を聞き入れるかも
しれないというので、再度途中まで出かけた。
しかし、とても大勢で(われわれ村役人の力の)及ばぬことなので、黒須
まで引き返し黒須湊屋に泊まった。15日
昼頃、飯能へ戻り(状況を)うかがったところ、


(補足)
「村役人衆」、「衆」が独特。「血」の下部分が「m」になる。
「随ウ」、右に小さく送り仮名の「ウ」がある。「随」は「阝」+「を」。

「志連」(しれ)、変体仮名。

「昼頃」、何度か出てきているが改めて確認しながら読んでます。


 PDF資料として、「武州一揆関係資料」がダウンロードできます。
『―上名栗村名主町田瀧之助より江戸で材木問屋を営む父への書状―
丸山  美季』
一揆勢を追いかけ、平沼源左衛門と同道しているわけですが、
同じ変事を滝之助が父親へその概略を知らせている内容になります。
要領よく書かれているようにおもわれます。



2018年12月22日土曜日

変事出来二付心得覚記 その37




 P.11 11行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
          皆 々 申  二者、
          みなみなもうすには、

折 角 是 迄 御苦労 被下  御出 之事 ゆへ
せっかくこれまでごくろうくだされおいでのことゆえ

所  沢 迄 御出 被下  、今 晩 所  沢 之臺 二而
ところざわまでおいでくだされ、こんばんところざわのだいにて

野宿  致  、是 ハ村 々 王かり野宿  致 春
のじゅくいたし、これはむらむらわかりのじゅくいたす

相 談 二御座候   間  、是 迄 御出 被下  候  ハヽ
そうだんにござそうろうあいだ、これまでおいでくだされそうらわば


(大意)
皆が言うには
せっかくここまでご苦労して来てくださったのですから、
所沢まで脚をお運び下さい。今晩所沢の台というところで
村民たちが分かれて野宿をしようと相談していますので、
そこまでお出かけなされば、


(補足)
「皆々申二者」とありますが、この「皆々」とは誰のことなのでしょうか。黒須名主の話から続いていますから、その周りにいた人たちのことでしょうか。
「村々王かり」、ここの大意も間違ってるかもしれません。(村民たちが分かれて)としましたが
他にもっとぴったりな訳があるかもしれません。初心者の限界です。

「御苦労被下」「御出被下」「御出被下候ハヽ」と「被下」が3箇所出てきます。
最初のは「被」が少し原型を留めてますが、他2つは著しく簡略化されてます。

「今晩」、「今」は形で覚える。
「臺」、既出だが一瞬、何の字だっけと悩みます。

「野宿」が同じ行に2度。最初のは「里」の一画目を縦方向に筆を運んでしまったので、この字になってしまった感じです。2つ目は最初から「野」のくずし字を書くつもりで筆運びしています。

助詞の「春」は(す)、「者」は(は)の変体仮名ですが、ちょっと見た目が似ているので間違えることがあります。前後の文章のつながりから気づきはするのですが。

「相談」、「相」が悩む。
「御座候」は3点セット。



2018年12月21日金曜日

変事出来二付心得覚記 その36




 P.11 6〜10行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
是 も手訳ケニ而扇  町  屋穀 屋ヲ毀 し
これもてわけにておおぎちょうやこくやをこわし

所  沢 江参 り候   趣   、黒 須名主 殿 二出合
ところざわへまいりそうろうおもむき、くろすなぬしどのにであい

申  様 、金 毘羅坂 迄 御出 被下  候   趣   申  二 付、
もうすさま、こんぴらさかまでおいでくだされそうろうおもむきもうすにつき、

迚 も多人 数 二而ハ及  可年候   間  、旅 屋二而
とてもたにんずうにてはおよびかねそうろうあいだ、たびやにて

喰  事致 し可帰   と存  候   処  、
しょくじいたしかえるべきとぞんじそうろうところ、


(大意)
(がしかし一揆勢は)ここでも手分けして扇町屋の穀物商を壊し
所沢へ向かっていったようだった。(途中)黒須名主殿に出会い
お話を伺うと、金毘羅坂まで出かけていって下さればどうでしょうか、と申されたが
(一揆勢は)とても大人数で力の及ぶところではないので、旅屋にて
食事してから帰えろとした。しかし、


(補足)
「名栗の歴史」2008 P.29 に武蔵国の一揆勢の7日間の動きが詳細に図で示されています。
「6月13日に上名栗村から発生した一揆はまたたく間に関東各地に広がった。鎮圧されるまでのわずか7日間で、打ちこわしの被害にあった村は202ヶ村、参加・結集した民衆は10万人にのぼったと言われる」とあります。

 ここの頁は全体に字が潰れることもなくきれいに書かれています。

「所沢」「黒須」、地名も名前と同じで、知っているから読めることが多いです。

「金毘羅坂」、前頁の「無拠次第登」と同じで、画数の多い漢字などを丁寧に書こうとするときなのでしょうか、左手を添えて筆の先で注意しながら書いている感じが伝わってきます。筆跡が細くなります。
「御出被下候」、頻出の言い回しはかなり省略してくずされるので原型を留めません。「御出」は原型が残っているが、「被下」はこのまま形で覚えるしかなさそうです。「候」にいたっては「、」になってます。

「多人数」、「多」のくずし字に「亠」が冠のようにあります。
「及可年候間」、「年」のくずし字は「○」のようになります。手のくずし字に似ることがありますがこちらは○にならない。

「可帰」、「帰」がわかりにくがよく出てきます。
「処」、くずし字は「m」のようになります。「故」とにてます。


2018年12月20日木曜日

変事出来二付心得覚記 その35




 P.11 最初〜5行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
牛 沢 下 二而手間取 候  ハヽ引 留メ引
うしざわしもにててまどりそうらわばひきとめひき

戻 し可申   と、跡 ヲ急 き追 欠 候  得共 、
もどしもうしべくと、あとをいそぎおいかけそうらえども

間二合 不申 候   、黒 須と承    り黒 須湊  屋江
まにあいもさずそうろう、くろすとうけたまわりくろすみなとやへ

昼 飯 頼  候   処  、只 今 臺 上 と申  事  二付、
ひるめしたよりそうろうところ、ただいまだいかみともうすことにつき、

是非共 引 留 戻  り可申  と参 り候  ハヽ、
ぜひともひきとめもどりもうすべくとまいりそうらわば、


(大意)
牛沢下で手間取ってしまい、(一揆勢を)引き止め
引き戻そうと後を急ぎ追いかけたのだが、
間に合わなかった。黒須に現れたとのことで黒須湊屋へ
昼飯をお願いしようとしたところ、(一揆勢は)今、台の上にいるというので
(今度こそばかりは)必ず引き止め連れ戻すぞと向かった。


(補足)
 6月13日の夕刻に一揆勢の後を右往左往し、黒須湊屋で昼飯を頼もうとしたのが
翌日の14日です。この覚記の書き手平沼源左衛門はこのとき52歳で、もう20キロ以上を
睡眠もろくに取らずに歩き通しています。そろそろ限界のはずです。

「戻し」、「戸」の上部が分離していて読みづらい。
「跡」、「𧾷」+「亦」だが読めない。
「急」、形でおぼえるしかなさそう。

「昼飯」、朝昼夜のくずし字は重要。「昼」は冠と脚のように分かれる。「飯」は飯能と同じ。
「臺」、「吉」「冖」「至」だが読めません。

「是非」、頻出で2文字セットで覚える。

候ハヽ(そうらわば)、候得共(そうらえども)、候処(そうろうところ) など
当時は分かち書きはありましたが句読点などありませんでしたので、こうした表現を用いてひたすら文章を連ねてゆきます。
また、時制の文法的な表現も明確ではなく出来事の前後関係が不明瞭に感じます。
慣れるしかなさそうです。

「臺」(台)という地名が出てきます。現在でも所沢に「台」というバス停があります。
早稲田大学競走部合宿所のあるあたりですが、このあたりのことなのでしょうか。
黒須湊屋からは南へ6キロくらいのところです。


2018年12月19日水曜日

変事出来二付心得覚記 その34




 P.10 8〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
                     飯 能
                     はんのう

酒 や八左衛門 手始  とし天、堺  屋・板 半 ・
さかややざえもんてはじめとして、さかいや・いたはん・

中 屋穀 屋四 軒 打 毀  候   趣   、最 早
なかやこくやよんけんうちこわしそうろうおもむき、も はや

無拠     次第 と飯 能 宿  へ見舞 立 寄 、
よんどころなきしだいとはんのうしゅくへみまいたちより、

原 名主 利八 殿 迄 立 寄 、夫 ゟ 出向 候   而
はらなぬしりはちどのまでたちより、それよりでむきそうろうて

風 聞 承     候  ハヽ、牛 沢 下 か王ら二而一 同
ふうぶんうけたまわりそうらわば、うしざわしもかわらにていちどう

人 数 取 調  書 留る、夫 ゟ 下 筋 江押 出し
にんずうとりしらべかきとる、それよりしもすじへおしだし

候   趣   風 聞 二承    り驚   入 、又 々 追 欠
そうろうおもむきふうぶんにうけたまわりおどろきいり、またまたおいかけ


(大意)
飯能の酒屋八左衛門を手始として、堺屋・板半
中屋穀屋4軒が打ち壊されたそうだという。もはや
どうしようもない事態と、飯能宿へ見舞いに立ち寄った。
原名主利八殿のところまで立ち寄り、それから出向いたところで
噂を聞き集めた。牛沢下河原で村人農民の人数を調べ書き留めた。
それより、農民集団がさらに押し進んでいるとの
噂を聞きつけ驚き、すぐにまた追いかけはじめた。


(補足)
堺屋、堺屋又右衛門。板半、板屋半兵衛。中屋穀屋、中屋清兵衛。
飯能市立博物館展示ガイドブックP.47に打ち壊された商家4軒の位置が載っています。
また酒屋八左衛門の店の写真も同頁にあります。

この頁は村役人たちの動きをおって、地名がたくさん続きます。
下名栗・久林・茶内・中屋敷・新寺(にってら)・牛沢、
次頁へと進んで
黒須・扇町屋・金毘羅坂・所沢などです。

 入間川(名栗川)にそって地名を記入した地図を参照して下さい。
けっこうな距離がありますが、当然歩いて追いかけているわけです。




「最早」、この上の「趣」の「取」と「最」の「取」が同じです。

「見舞」、「舞」が二文字のように見えます。

「下筋」、「筋」の「竹」と「助」が離れて、先の「舞」と同じで二文字のように見える。

「驚入」、「驚」も二文字のよう。

飯能の商家4軒を打ち壊す前に、一揆勢たちはすぐそばの飯能河原に集まりました。
今では川遊びや、バーベキューなど観光地のひとつとなってます。



飯能市立博物館のバルコニーから眺めた秋の飯能河原です。




2018年12月18日火曜日

変事出来二付心得覚記 その33




 P.10 最初〜7行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
夫 ゟ 下 名栗 村 名主 半 兵衛殿 江立 寄 、
それよりしもなぐりむらなぬしはんべえどのへたちより、

下 名栗 村 二而も小前 ハ不残  罷  出候   趣   、
しもなぐりむらにてもこまえはのこらずまかりでそうろうおもむき、

安 五郎 殿 是 ヲ申  候   、夫 ゟ 久林  万 次郎 殿 へ
やすごろうどのこれをもうしそうろう、それよりくばやしまんじろうどのへ

立 寄 候   処  、是 も村 方 不残  罷  出候   趣   、茶 内 江ハ
たちよりそうろうところ、これもむらかたのこらずまかりでそうろうおもむき、ちゃないへは

小殿 并  和助 殿 立 寄 、中 屋敷 角 太郎 殿 江
こどのならびわすけどのたちより、なかやしきかくたろうどのへ

立 寄 、夫 ゟ 新 寺 二而承     候   処  、新 寺 之
たちより、それよりにってらにてうけたまわりそうろうところ、にってらの

豆 腐屋亭 主 二出合 承     候  ハヽ、
とうふやていしゅにであいうけたまわりそうらわば、


(大意)
それから下名栗村名主半兵衛殿へ立ち寄り、
下名栗村でも小前は残らず出かけてしまっているようだと
安五郎殿が話していた。それから久林の万次郎殿へ
立ち寄ったところ、ここの村でも全員が出かけてしまっているようだった。茶内へは
小殿並びに和助殿が立ち寄り、中屋敷の角太郎殿へも立ち寄った。
それから新寺で聞いたところでは、新寺の豆腐屋亭主の話によると、


(補足)
さて、飯能村へ村役人たちが追いかける途中、名主半兵衛殿へ立ち寄ります。
また、村役人たちの慌ただしい行動の様子の記録が再開します。

「立寄」が何度も記されますが、4行目行頭の細い字が一番わかりやすいです。
「夫ゟ」は3回あらわれますが、これらはみな同じ筆跡。
「不残罷出候趣」、同じ表現が2回。「不」が異なってます。

「豆腐屋」、「腐」は「肉」が「广」の中ではなく、脚の部分にきてます。

名前も多数あらわれます。読めそうで読めません、難しいです。

しかし、何度も同じくずし字が現れますから、学習にはもってこいです。


2018年12月17日月曜日

変事出来二付心得覚記 その32




 P.9 8行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
武州  秩 父郡 上 名栗 村 新 古両  組
ぶしゅうちちぶぐんかみなぐりむらしんこりょうぐみ

役 人 惣 代
やくにんそうだい

名主 太次郎 忰   寅 次郎
なぬしたじろうせがれ とらじろう

組 頭  見習    徳 三 郎
くみがしらみならい  とくさぶろう

慶 応 二寅 年
けいおうにとらどし  

 六 月 十  五日
 ろくがつじゅうごにち    

岩 鼻
いわはな

 御役 所
 おやくしょ


(大意)


(補足)
日付が6月15日になってます。
変事出来は6月13日の夕方6時頃ですから、実質1両日で事の概略を役所へ届けています。
届けると言っても、役所は現在の高崎ですから、秩父の険しい山道を越えてゆかねばなりませんでした。役人たちの対応の速さに驚かされます。

 この部分に出てくる文字はすべて既出で、きれいに書かれています。


 慶応2年6月15日は現在では1866年7月26日です。
この年の前後は天候不順で農作物も育たず、また世情も不安定で混乱し米穀物の価格も上がり
飯能村でも同様の状況でした。

 平沼源左衛門さんのもうひとつの日記「古今稀成年代記」の中に、物価の値上がりや天候不順の様子が詳しく記されています。
飯能市立図書館、『名栗村史研究2「那栗郷」名栗村教育委員会』で読むことができます。
幕末から明治前半の名栗村という山村から激動の日本を見た記録が大変に興味深いです。


2018年12月16日日曜日

変事出来二付心得覚記 その31




 P.9 4行目〜7行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
右 飯 能 村 迄 ハ道 法 四里余  も有之
みぎはんのうむらまではみちのりしりあまりもこれあり

場所 二付 、先 方 之様 子如何 罷  成 候   哉
ばしょにつき、せんぽうのようすいかがまかりなりそうろうか

相 弁  不申  、右 者不容易   儀と存
あいわかりもうさず、みぎはよういならずぎとぞんじ

候   間  、此 段 不取敢  御訴   奉申上候、          以上
そうろうあいだ、このだんとりあえずおうったえもうしあげたてまつりそうろう、いじょう


(大意)
飯能村までの道のりは4里以上もある場所ですので、
現在の状況がどのようになっているのか
わかりません。簡単に解決することができない出来事と存じますので
この件についてとりあえずはお届け申し上げます。以上


(補足)
「飯能」と知っているから、すぐに読めるが、初見では無理だとおもいます。
「道法」、「道」のくずし字は形で覚える筆頭の字。

「場所」、ここの「所」は楷書に近い。
「如何」、2文字セットで覚える。

この行の「不」と次行の「不」の使い分けは何なのでしょうか。

「此段」、くっきりとくずし字が楷書のように書かれています。


2018年12月15日土曜日

変事出来二付心得覚記 その30




 P.9 最初〜3行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
候   故 、銘 々 家内 探 索 仕    候   処  、多
そうろうゆへ、めいめいかないたんさくつかまつりそうろうところ、た

人 数 在 宿  不仕    候   間  、驚   入 直 様 役 人 共
にんずうざいしゅくつかまつらずそうろうあいだ、おどろきいりじきさまやくにんども

不残  差 留 として追 欠 罷  越 候  得共 、
のこらずさしとめとしておいかけまかりこしそうらえども、


(大意)
それぞれが家のなかを探したのですが、多くの
農民たちが村内にはいなかったので驚き、すぐに役人たちは
全員で彼らを押し止めようと追いかけました。しかし


(補足)
「候故」、「故」とわかるとなるほどと読めますが、これだけ見ると?。候の次にきていることから類推しました。
「銘々」、「釒」が読めない。
「探索」、「索」が難しい。

「在宿」、「在」が読めません。
「驚」、「敬」と「馬」の二文字のように見える。「驚入」は頻出で「入」が読めるのでそれをもとに読めます。
「直様」、「直」は部品としても頻出です。「ホ」+「一」。

「不残」、ここの「不」と前行の「不仕」が異なります。
「として」、正確には「登し天」でしょうか。
「罷越」、「越」が「誠」に見えてしまいます。


2018年12月14日金曜日

変事出来二付心得覚記 その29




 P.8 11行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
村 方 立 出 候   趣   風 聞 承    り候   間  、役 人
むらかたたちいでそうろうおもむきふうぶんうけたまわりそうろうあいだ、やくにん

共 儀可差留   と存  候  得共 、夜中 之
どもぎさしとめべくとぞんじそうらえども、よなかの

儀二付 、何 連二挙り居 候   哉不相分   (候   故 )
ぎにつき、いずれにゆりおりそうろうかあいわからず(そうろうゆへ)


(大意)
われわれの村でも農民たちが押しかけるのではないかという噂がありましたので
それならば村役人たちで押し止めようとしたのですが、夜中のこと
でしたので、農民たちがどこに集まっているのかがわからなかったため


(補足)
「候趣風聞承り候間」、もう何度もでてきた定型文です。字も読みやすくきれいです。

「候得共」、これも定型文。確実に読める部分を拠点に読み取りが怪しい部分をつぶしてゆきます。
「夜中」、「夜」の「亠」と「亻」が一つの部品になって偏に見えます。

「何連」、「連」(れ)変体仮名。
「挙」(ユリ)と振り仮名があります。辞書で調べてもその読みはありません。
意味はもちろん「挙兵」の「挙」です。

2018年12月13日木曜日

変事出来二付心得覚記 その28




 P.8 7行目〜11行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
                      追々  米 穀
                      おいおいべいこく

其 外 格 別 高 直二相 成 候   二付 、営 方 も
そのほかかくべつたかねにあいなりそうろうにつき、えいかたも

難出来  候   間  、高麗郡 飯 能 村 穀 屋共 方 へ
できがたくそうろうあいだ、こまぐんはんのうむらこくやどもがたへ

罷  越 、穀 物 下落 相 成 候   迄 無心 致 し候
まかりこし、こくもつげらくあいなりそうろうまでむしんいたしそうろう

由 二而、
よしにて、


(大意)
引き続き米穀やそのほかのものの価格が非常に高くなり、村役人も
どうすることも出来ない中、高麗郡飯能村の穀屋へ
押しかけ、穀物の価格を下げるまで要求し続けるとの
状況でした

(補足)
「営方も難出来」、上記のような文章に置き換えましたが、間違っているかもしれません。
「高直」、「直」が「値」に使われることは既出です。2文字のくずし字は頻出でしっかり覚える。
「営方」、「営」の「呂」のくずし字に注意です。

「難出来候間」、「候」が読めません。
「高麗郡」、ジッと見ていると、確かに高麗郡と書いてある。

「下落」、「落」がきれいにくずされているのに、読めませんでした。
「無心」、2文字セットで覚える。


2018年12月12日水曜日

変事出来二付心得覚記 その27




 P.8 最初〜7行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
御届 ケ罷  出候
おとどけまかりでそうろう

  其 文 言
  そのもんごん

   乍恐    以書付     奉申上       侯
   おそれながらかきつけをもってもうしあげたてまつりそうろう

武州  秩 父郡 上 名栗 村 新 古両  組 役 人 惣 代
ぶしゅうちちぶぐんかみなぐりむらしんこりょうぐみやくにんそうだい

当 名主 太次郎 代  忰  寅 次郎 ・組 頭  見 習
とうなぬしたじろうかわりせがれとらじろう・くみがしらみならい

徳 三 郎 奉申上候          、当 月 十  三 日 暮 六ツ時
とくさぶろうもうしあげたてまつりそうろう、とうげつじゅうさんにちくれむつどき

頃 、村 内 小前 困 窮  之者 共
ころ、そんないこまえこんきゅうのものども


(大意)
(書付)を届けるべく出かけた。
その内容は以下の通り。

 恐れながら書付をもって申し上げさせていただきます。
武州秩父郡上名栗村新古両組役人惣代、
当村の名主太次郎に代り忰の寅次郎と組頭見習
徳三郎が申し上げます。今月(6月)13日夕方6時頃
村内の百姓・困窮の者どもが


(補足)
 この頁から、はっきりと文面の雰囲気が変わり、最初の感じに戻りました。
筆や墨を変えても、この文書の場合筆跡が大きく変わることのほどはありませんから、
口述筆記、あるいは下書きを清書するよう誰かに頼んだという可能性がありそうな気がします。

「其文言」、初心者のわたしにすぐわかるのは「文」のみ。しばらくしてあっそうかと読める次第。

「乍恐以書付奉申上侯」、典型的な書付の表題部分。このまま覚えてしまうのがベスト。
下から返って読む部分が3箇所あるが、当時の人はそんなことは意識しなかったはずです。
「書」のくずし字はいろいろあって難しいが、ここのはとてもわかりやすい。

「新古両組」、上名栗村は1724(亨保9)年に年貢の税制上のいざこざがあり2つの組に分裂して村運営してきた。新組は年番名主制、古組は町田家の名主世襲制。村方文書については亨保10年からは古組名主の町田家が作成・保管してきた。新組組頭の平沼源左衛門のこの覚書は約20年前に発見された資料で、新組からの史料として貴重なものとされている。

「当名主」、「当」が読めないが、次の名主は読めるので類推して読む。次の行の「当月」はきれいで読みやすい。

「六ツ時頃」とわたしなら、「頃」を小さい字で行末に押し込めるが、源左衛門さんは改行して
「頃」が行頭に。みなさんはどちら派ですか。

「小前」、百姓・小作人。
「困窮し者共」、ほとんど楷書でわかりやすい。

2018年12月11日火曜日

変事出来二付心得覚記 その26




 P.7 8行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
名主 滝 之助 殿 ・名主 太次郎 殿 ・軍 蔵 ・
なぬしたきのすけどの・なぬしたじろうどの・ぐんぞう・

組 頭  見習  清 八 ・組 頭  源 左衛門 ・同 伴 次郎 ・
くみがしらみならいせいはち・くみがしらげんざえもん・どうはんじろう・

組 頭  栄 太郎 ・名郷 和助 并  順  蔵
くみがしらえいたろう・なごうわすけならびじゅんぞう


一 太次郎忰寅次郎・組頭見習徳三郎
ひとつ たじろうせがれとらじろう・くみがしらみならいとくさぶろう

両  人 之儀者、御支配 岩 鼻 御役 所 へ
りょうにんのぎは、ごしはいいわはなおやくしょへ


(大意)
名主滝之助殿・名主太次郎殿・軍蔵・
組頭見習清八・組頭源左衛門・同伴次郎・
組頭栄太郎・名郷和助并順蔵
がその全員である。

太次郎の忰(せがれ)寅次郎と組頭見習徳三郎の
両人は岩鼻代官所へ出かけた。


(補足)
「組頭」、くずし字をじっと見ていると、元の字に見えてきます。
「見習」、「習」=「羽」+「日」、「羽」がこんな形にくずされるんですね。
「源左衛門」はこの覚書の書き手。

「名郷」(なごう)、地名です。現在でもバスの終点名にあります。

「両人」、「両」のくずし字は、「ち」のあとに蝶々結びみたいに筆をクルクルっと運ぶ。


2018年12月10日月曜日

変事出来二付心得覚記 その25




 P.7 4行目〜7行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
飯 能 出向 村 役 人 不残  、尤
はんのうでむきむらやくにんのこらず、もっとも

仙 太郎 儀何 様 之御用 向 有之  哉
せんたろうぎなにようのごようむきこれあるか

新 立 二扣  居 遍し、正  覚 寺并
しんだてにひかえおるべし、しょうかくじならび

醫王 寺・円 正  寺・龍  泉 寺・洞 雲 寺五ケ寺
いおうじ・えんしょうじ・りゅうせんじ・どううんじごかでら


(大意)
飯能には村役人全員で出かけたが、
仙太郎は何か御用があるかもしれないので、新立にとどまった。
正覚寺並びに、醫王寺、円正寺、龍泉寺、洞雲寺の五ケ寺


(補足)
「不残」、頻出。ここの「不」はひらがな「ふ」のように見えます。「残」の旁は「お」のよう。
「尤」、頻出。元の字と書き順が同じで覚えやすい。

「有之哉」、「有之」は常套句。「哉」もよく出てくるので、
極端に略されてほぼ「|」二本に点「、」。

寺院名が5つ続きます。地理的には北から南へ順に記されてます。



「円」の旧字は「圓」ですが、くずし字はそれらからもはなれて特徴的です。
「五ケ寺」の「五」がつぶれてしまっていて読めません。「ケ寺」からの類推でしょう。

 お寺の名前のところから筆の太さが変わっています。こんな中途半端なところから書き手が変わることはないとおもいますが・・・。この次の頁では、元に戻ったと言うか、ここ数頁とは明らかに字が変わります。

 ところで、どうして急にこれら五ヶ寺の名前が記されたのでしょうか。
前後のつながりは特にないようにおもわれます。この寺院名のあとに村役人の名前が列挙されています。これは仙太郎を除いて、飯能に出向いた村役人全員の名前でしょう。
 では、お寺は?
下名栗、上名栗にある寺はこの5つです。それらをあずかる僧侶とも連絡をとったということでしょうか。もう少し考えてみることにします。



2018年12月9日日曜日

変事出来二付心得覚記 その24




 P.7 最初〜4行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
新 立 江戻り 、名主 瀧 之助 殿
しんだてへもどり、なぬしたきのすけどの

外 村 役 人 一 同 評  議、是 ゟ 飯 能 迄
ほかむらやくにんいちどうひょうぎ、これよりはんのうまで

出向 差 留 引 戻 し可申   談 事二
でむきさしとめひきもどしもうしべくだんじに

相 成 候   、
あいなりそうろう、


(大意)
新立(町田家)へ戻り、名主の瀧之助殿
ほか村役人全員で話し合った。これから飯能まで
出かけ彼らを押し止め引き戻そうという結論になった。


(補足)
 鍛冶屋橋あたりで途方にくれている村役人達、
気を取り直して、夜道を約2km、新立(町田家)まで戻ります。

 この4行も、大変に読みやすくきれいなくずし字が続きます。
どの字もすでに何度か出てきているようにおもいます。


2018年12月8日土曜日

変事出来二付心得覚記 その23




 P.6 9行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
と満り居 候   事 難成   と申
とまりおりそうろうことなしがたしともうし

候   間  、鍛冶屋橋 追 欠 候  得ども、
そうろうあいだ、かじやばしおいかけそうらえども

最早 無拠     次第 二付 、夫 ゟ
もはやよんどころなくしだいにつき、それより


(大意)
(ここに)とどまっていることはできないと
いうので、鍛治屋橋まで追いかけたが
もはや、どうにも抑えがきかない状況になってしまい、それから


(補足)
 不動渕で農民たちと押し問答をしながらも、振り払われて彼らを
追うように鍛治屋橋まで南下します。夜道約5、6kmの道のりでした。

 


「満」(ま)変体仮名。
この行は特に筆跡が細く読みやすいです。

「鍛冶屋橋」、画数の多い字もありますが、丁寧に書かれています。
「追欠」(おいかけ)、「懸け」や「掛け」もありますが音の同じ適当な漢字をもってくることは普通のようです。
「候得ども」、「ども」がひらがなです。

「最早」(もはや)、「最」がなかなか読めませんが、下部の「取」のくずし字がヒントになります。2文字セットで形で覚えます。
「無拠」(よんどころなく)、頻出。きれいな字です。



2018年12月7日金曜日

変事出来二付心得覚記 その22




 P.6 5〜8行目まで。。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
耳 二も不聞入  拂 抜 奈可゛ら
みみにもききいらずふりぬきなが ら

申  様 、我 野谷ツ江も王かり候   而
もうすさま、あがのやつへもわかりそうろうて

餘程 参 り候   間  、我野 谷ツ下 り
よほどまいりそうろうあいだ、あがのやつくだり

候   者 差 留 な者゛我 等計 り
そうろうものさしとめなば われらばかり


(大意)
 耳も貸さず聞くこともなく、(われわれを)振り払いながら
言うには、吾野谷つからも行くものが
多数あることはわかっているので、吾野谷つ下るもの
たちを止めなければ、我らだけ


(補足)
 村役人たちが押し止めようとするも、殺気立った農民たちは
口々に叫びながら、彼らの脇を払い抜けるようにして通りすぎてゆきます。。

「王」(わ)変体仮名。

「耳」、くずされてません。そのあとの「聞」の中の「耳」は「夕」or「又」のようになってます。

「餘程」、「餘」が読めません。「程」は頻出なので、大丈夫。

「差留」、このくずし字がよく見る感じ。
「な者゛」、ここの「な」はひらがなの「な」でしょうか、変体仮名の「奈」でしょうか。3行前の行末「奈可゛ら」の「奈」とまったく筆跡が同じですが、筆の太さ加減が異なるだけで印象がだいぶ変わります。
「我等」、この「我」は、「我野谷ツ」のくずし字と異なってます。
「等」のくずし字はほとんど「ホ」。

2018年12月6日木曜日

変事出来二付心得覚記 その21




 P.6 最初〜4行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
濱 下 落 る者 も有之  、又 立 帰 り、
はましたおちるものもこれあり、またたちかえり、

跡 ゟ 追 懸 壱 人引 留メ、跡 二居 候
あとよりおいかけひとりひきとめ、あとにおりそうろう

もの先 江颿  抜 候   間  、一先  村 役 人 の
ものさきへはしりぬけそうろうあいだ、ひとまずむらやくにんの

申  事 承    り遍゛く登申  候  得共 、
もうすことうけたまわりべ くともうしそうらえども、


(大意)
川岸に落ちる者もあった。再び元の道に戻り
あとを追いかけ一人を引き止めた。まだ残っていたものが
先へ走り抜けようとしたものもいたなか、まずは村役人の
言うことを聞きなさいと伝えたのだが、


(補足)
 この頁も大きめの字で見やすくはっきりとしてます。
同じような字が再度登場していますので、見返しながら読み進めます。

「跡ゟ」。「跡」、「𧾷」のくずし字が「訁」に似てます。偏の「亦」のくずし字は「月」に似てます。くずし字の偏がみなこの形と大同小異な感じがするのは乱暴でしょうか。「ゟ」(より)、合字ですが、ひらがなで「より」と縦書きでつなげて書くとそのままの字であることがわかります。
「追懸」、「懸」のくずし字が「然」ではないことはすぐにわかりますが、「追」から類推して読むしかなさそうです。

「登」(と)変体仮名。
「候得共」(そうらえども)、3点セット。


2018年12月5日水曜日

変事出来二付心得覚記 その20




 P.5 9〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
難知連方   申  候   二付 、夫 ゟ 不動渕へ
しれかたがたくもうしそうろうにつき、それより不動渕へ

近 附 候   ハヽ、灯燈   之明  ヲ見帝大 勢
ちかずきそうろうわば、ちょうちんのあかりをみておおぜい

一 同 に押 出し候   間  、一同  扣   遍しと申  候   ハヽ、
いちどうにおしだしそうろうあいだ、いちどうひかえるべしともうしそうろうわば、

道 せま二而大 勢 に押 落 左連
みちせまにておおぜいにおしおとされ


(大意)
(新しい様子を)知ることができずということであった。そのあと不動渕へ
近づいてゆくと、提灯の明かりを見て大勢が
われわれを押し出してきたので、一同の者、控えよと言ったのだが
狭い道のところに大勢が押し寄せてきたため、道脇へ落とされた。


(補足)
「難」、頻出で下から返って読むことが多い。「隹」のくずし方が独特です。
「連」(れ)変体仮名。

「候ハヽ」(そうろうわば)、次の行の末にもあります。3文字セットで覚えます。
「灯燈」(ちょうちん)としましたが、大きな辞書にのっていません。提灯は下に明かりがきますが、台の上にろうそくを挿した(燭台)ような簡単なものかもしれません。2文字とも「火」偏でわかりやすいはずなのですが、わたしはちょっと苦手です。「燈」の旁「登」のくずし字に注意。
「明」、「月」のくずし字も頻出。
「帝」(て)変体仮名。「巾」のような部品を持つ漢字のくずし字は、ここのようにクルクルっとなります。「帰」など。

「押」、「甲」を「日」をかいて「|」のようには書いていません。
「候間」、何度も出てきたのでもう読めます。

「道」、くずし字は、右側は「月」、左側は「遍」の辶部分になってます。いずれにしろ形で覚えます。
「大勢」、「勢」が2行前のものと異なっています。
「押落」、前行の「押」の「甲」ははっきりしませんでしたが、ここでは明らかに「日」の次に「十」を重ねています。


 米吉の尋問?の次にはとうとう大勢の農民との小競り合いが起こってしまいました。
一同、静かにしなさい!控えなさい!と大声で叫ぶ村役人たちにとっては、提灯の薄明かりに浮かぶ殺気立った農民たちの表情に怖気づいたに違いありません。


2018年12月4日火曜日

変事出来二付心得覚記 その19




 P.5 5〜8行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
(申候二付、)然 ら者゛不動 渕 迄 帰 る
       しからば ふどうぶちまでかえる

遍゛し登引 戻 し候   、人 見市 五郎 方 へ
べ しとひきもどしそうろう、ひとみいちごろうかたへ

立 寄 様 子承     候   処  、御支配 岩 鼻
たちよりようすうけたまわりそうろうところ、ごしはいいわはな

御役 所 江忰  武 助 罷  出留守中  二而
おやくしょへせがれたけすけまかりでるすちゅうにて


(大意)
ならば、不動渕まで帰れ
と(米吉)を引き戻した。人見市五郎宅へ
よって様子を伺ったところ、せがれの武助が(この地域の管轄支配担当の)岩鼻役所へ
出向かせ留守中なので、


(補足)
 米吉を引き止めている場所はこのあたりです。



 不動渕の手前の人見市五郎宅で更に詳しい情報を集めようとしましたが、
武助が岩鼻役所へ変事を知らせにでかけてしまっているので詳しいことはわからないと
次の行へ続きます。

 岩鼻役所とは「岩鼻陣屋(群馬県高崎市岩鼻町田陣)」



 名栗村から高崎までの道中は、正丸峠を越えねばならなく険しい山道でした。
途中一泊して、二日間弱かかったのではないでしょうか。もしかしたら緊急時でしたので泊もせず籠に馬にと急いだかもしれません。

「然ら者゛」、「然」は頻出。この字は形からわかりやすい。
「帰る」、くずし字をよく見ると偏「リ」の一画目があるのがわかります。

「戻」、わかってしまうとあぁ「戻」と納得しますが、ぱっと見た目は「戸」が2つに分かれて見えて最初の部分が冠のようです。
「市五郎方へ」、「五」のくずし字はこんな感じ。「方」、わかりずらいです。

「立寄」、「立」という漢字は単純なのに、くずし字は迷う。
「支配」、頻出です。
「岩鼻」、「鼻」が二文字のようです。

「罷」、頻出ですでに何度かでてきてますが、この頁では筆使いがとてもよく判別できて、書き順もわかります。
「留守」、「留」は俗字の「畄」になってます。「守」、「寸」を部品に持つ漢字は、「ち」や
「る」のようにくずされることが多いように感じます。


2018年12月3日月曜日

変事出来二付心得覚記 その18




 P.5 1〜5行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
下直 無心 二罷  出候   趣   風 聞 二承    り、
ねさげむしんにまかりでそうろうおもむきふうぶんにうけたまわり、

定  而仲 間二可有之   、遣  ス事 ハ
さだめてなかまにこれありべく、つかわすことは

不相成  、外 之者 ハ如何 登相 尋  个れハ、
あいならず、ほかのものはいかがとあいたずねければ、

不動 渕 二少  々  人 罷  居 候   与之
ふどうぶちにしょうしょうひとまかりおりそうろうとの

申  候   二付
もうしそうろうにつき


(大意)
の値段を下げるよう要求しに行くらしい噂をきいた。(と答えた)
きっと仲間にもこのことを知らせようとしているので、そこへやることは
させてはならず、他の者はどんな様子なのだと尋ねたところ、
(米吉が)不動渕に数人集まっていると言うので、

(補足)
「下直」、2文字の間にレ点があります。下から返って読めという漢文の記号。「直」のくずし字は特徴的です。「ホ」+「一」。
「無心」、「心」のくずし字のほうがわかりにくいが、「心得」で覚えていればおもいだせます。
「罷」、上下2文字のようになってしまっているので?とおもいますが、次が「出候趣」と続くので「罷」と予想できます。この3行後に「罷居候」とあり、この「罷」はわかりやすい。2文字を比べてみると、上下の途中が切れているかいないかの差だけであとは全く同じでした。
「風聞」、きれいなわかりやすいくずし字です。
「承」、この前後の行に何度も出てくるので、覚えやすい。

「定而」、「定」の「宀」がハッキリです。
「仲間」、「間」が現在のものと全く同じ。
「遣ス」、きれいなくずし字です。辶の名残が見えます。

「如何」、2文字セットでおぼえます。「女」の最初の2画をきっかけにわたしは印象づけてます。
「尋」、このくずし字は、「ヨ」「エ」のあと、「ロ」と「寸」をまとめて「月」のくずし字(前行の「有」参照)のようにしています。
「个」(け)変体仮名。「个」は一本足のからかさ小僧。つぎのひらがな「れ」がこれ一文字だけだと?です。

「少々」、「少」のくずし字は書き順どおり。
「与」(と)変体仮名。

 ろうそくとわらじを用意したとありましたから、少しの明かりはあったのでしょうが、暗がりでの尋問?は緊迫していたに違いありません。

 この頁も前頁と同じように大変にきれいな文字で記されています。
左上の隅がまくれてしまってます。紙の薄さがわかります。

2018年12月2日日曜日

変事出来二付心得覚記 その17




 P.4 9行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
(候由申候二付)見請 候   得者゛、手笠 ヲ持
        みうけそうら えば 、てがさをもち

着、御座を脊 以候   間  、皆 不審 二
き、ござをせおいそうろうあいだ、みなふしんに

思 ひ承    り連者゛、正  覚 寺旦 中  之者
おもいうけたまわりれば 、しょうかくじだんちゅうのもの

徒黨 致  、今 晩 飯 能 村 江穀 物
ととういたし、こんばんはんのうむらへこくもつ


(大意)
(米吉を)みてみれば、手笠を持ち
ゴザを背負っていたので、皆不審に
おもい問い詰めると、正覚寺檀中の者が
集団となって、今晩飯能村へ穀物


(補足)
「候得者゛」、3点セット。「者゛」、(ば)変体仮名。次の次の行にも出てきます。
「手笠」、「手」が「年」のくずし字に似てるが、「年」のくずし字はもっと丸のような形になる。
「笠」が2文字のように見えます。

「着」がわかりません。
「脊」、背です。
「候間」、「間」のくずし字には慣れたでしょうか。門のなかに日が入るのではなくて、それぞれが冠と脚の関係になります。

「連者゛」、「連」(れ)変体仮名。下部のしっぽみたいのが辶ですが、読めませんでした。
「旦中之者」、「旦中」は既出ですが読みづらい。変体仮名の「者」ではないので、字体が異なってます。

「徒黨」、「黨」が大きく2文字みたい。
「飯能」、「飯」の偏の「ハ」の左側が下に流れているだけで、この字は?とおもってしまいます。


「皆不審ニ思ひ承り連者゛」、「承る」は謙譲語です。当時の社会は厳格な身分の上下関係がすべてに反映されてましたから、文章にも必ずあらわれます。「皆」の中には源左衛門より上位の名主が二人いましたから、そのことを気遣ったのでしょうか。万吉の様子を見て同道している各人が不審におもったわけで、名主さんがおもったので、そのための謙譲語としてもなんかしっくりきません。

 新暦では1866年7月24日の夕方6時を過ぎての山奥です。雨天の様子はなく満月の4日前で漆黒ではないでしょうが、山間の道から万吉が現れたときは一同ドキリとしたはずです。
噺はいよいよ差し迫ってきます。

2018年12月1日土曜日

変事出来二付心得覚記 その16




 P.4 5〜9行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
万 治郎 承  知之趣   申  二付 、夫 ゟ 人 見江
まんじろうしょうちのおもむきもうすにつき、それよりひとみへ

移  候   処  二而、湯野沢 山 下 多吉 忰  米 吉
うつりそうろうところにて、ゆのさわやましたたきちせがれよねきち

出合 通 り抜 候   を差 留 、何 方 江罷  出候   と
であいとおりぬけそうろうをさしとめ、いずかたへまかりでそうろうと

相 尋  候  得者゛、下 筋 江用 向 有之  参 り
あいたずねそうらえば 、しもすじへようむきこれありまいり

候   由 申  候   二付
そうろうよしもうしそうろうにつき


(大意)
万次郎は承知したような様子であった。それから人見へ
移動しているところに、湯野沢の山下多吉の忰、米吉と
すれ違い通り抜けようとしたので立ち止まらせて、どこへ行くところなのかと
尋ねたところ、下筋(飯能方向)へ用事があるので行くところです
とのことを言っていたが、

(補足)
「万」、くずし字が「一」+「刀」のように見えます。「郎」は今までは「戸」+「巾」のようでしたが、ここではちょっと異なってます。

「移」、すでに何度か出てきてますが、「禾」でないので、迷います。
「野」、これも既出ですが、ここのくずし字は鮮明で「那」+「○」+「一」に見える。
「忰」、正字の「悴」。

「抜」、先程の「移」が「禾」ではないのに、ここでは「扌」が「禾」になっている。混乱しますがどうしようもありません。
行末の「候と」の「と」は変体仮名「登」でしょうか。

「相」、今までにもたくさん出てきてますが、特に意味はありません。「接頭語」。
「下筋」、「筋」の「竹」冠がわかりにくい。「助」は1行目の「滝之助」と全く同じ。
「有之」(これあり)頻出、「不相成」と同じように下から返って読む。

 一行一行がが本当にきれいなわかりやすい字で書かれています。くずし字ではありますが、
筆の太さや墨で文字がつぶれたりするところも全くありません。
こんな字を書いてみたいものです。

 人見と湯野沢の位置は下図を参照してください。



2018年11月30日金曜日

変事出来二付心得覚記 その15




 P.4 1〜5行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
御座候   、滝 之助 殿 ・太次郎 殿 外 村 役 人
ござそうろう、たきのすけどの・たじろうどのほかむらやくにん

申  様 、何 様 之事 申  来 り候   共 、決  而出向
もうすさま、なにようのこともうしきたりそうろうども、けっしてでむき

候   而者不相成  、隣 家栄 左衛門 ・同 寅 次郎
そうろうてはあいならず、りんかえいざえもん・どうとらじろう

江も右 の段 申  聞 セ控  遍く由 申  候  得ば、
へもみぎのだんもうしきかせひかえべくよしもうしそうらえば、


(大意)
滝之助殿、太次郎殿やほかの村役人が
言うには、どのようなことを言ってきても、
決してこちらから出向くことをしてはならず、隣の栄左衛門や寅次郎へも
同様のことを説明し控えているようにすべきことを申し伝えると、


(補足)
 この頁は前頁までとは墨の濃さや筆の太さが異なります。このあと数頁後にまた戻ります。
この覚記のところどころで、書き手が変わったのではないかと思われるところが何箇所かあります。
口述筆記か下書きを渡し書いておくように命じたのかわかりませんが、源左衛門さんがすべてをご自身で記してないような気がします。

 書かれている筆跡はたいへんに明瞭できれいで読みやすい。行末になって文字が詰まり小さくなることもなく全体のバランスもとれています。

「殿」が2度出てきますが、字体が異なります。

「決」、くずし字は漢字の部品の配置が変わってしまっています。元の字の右下の「人」部分が、くずし字では下部にきて「又」のようになってます。

「候而者」、「者」(は)変体仮名。
「不相成」(あいならず)、下から返っての読み方はごく普通に使われます。当時の人達はいちいちレ点で下から返って読むのだなんていうこは意識せずに、スラスラと筆を進めたはずです。


2018年11月29日木曜日

変事出来二付心得覚記 その14




 P.3 13行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
私  し共 儀ハ附 合 場ニハ候  得共 医王 寺之
わたくしどもぎはつきあいばにはそうらえどもいおうじの

旦 家二而御座候  得共 、附 合 場ゆへ噺 し(御座候)
だんかにてござそうらえども、つきあいばゆへはなし


(大意)
 私たちは、医王寺の檀家であり宗派がことなるとはいえ、
お互いが日常付き合い行き来する立場なので誘われたということだ。


(補足)
「附合場」が???です。全体の流れからは文章の理解はできますが、
「お付き合すること」の意でしょうか。

「私し」、古文書では一人称の「私」という表現はめったに見ません。この時代くらいから使われる表現になってきたのでしょうか。
「共」、頻出です。このあとに「候得共」が2度でてきますが、そこの「共」とは異なってます。
「儀」、これも頻出でここのくずし字はわかりやすい。
「附合場」、「阝」が切れてしまってます。

「候得共」、ここの「候」は「ゝ」のようになってしまってます。
「ゆへ」、ひらがなですがすぐには読めませんでした。


2018年11月28日水曜日

変事出来二付心得覚記 その13




 P.3 10〜12行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
今 者゛ん出向 から上ミゟ 参 る二付 支度 致
こんば んでむきからかみよりまいるにつきしたくいた

し天扣  居 様 二と申  継 候   、何 物 哉と尋
してひかえおりようにともうしつぎそうろう、なにものかとたずね

候  得者、正  覚 寺旦 中  不残  と申  事 二候   、
そうらえば、しょうかくじだんちゅうのこらずともうすことにそうろう、


(大意)
(万次郎は)今晩村奥より移動してやってくるから、支度して
待機しているようにと申し継がれた。(さらに村役人が)何者かと尋ね
たところ、(万次郎は)正覚寺の檀家全員であるとのことである。


(補足)
 「出向から」が?です。源左衛門達5人と其外で数キロを急ぎ足で濱井場まで万次郎のところへやってきました。「上ミゟ」とは、濱井場のさらに北、檜渕・不動渕・正覚寺方面よりでしょう。
万次郎から最新情報を聞き、今後の対応を相談しています。

 「上ミゟ」、「上」の字が上書きしたのか、字が重なっています。
「支度致」、「支」のくずし字の右側に点がある。くずし字の運筆リズミみたいなのか、多くのくずし字に元にはないこの点が付いている。「度」、頻出。「支」のくずし字が、「度」「致」の右側の部品とほぼ同じ。

「天」(て)、変体仮名。
「継ぐ」、旁の「∟」の部分は「∠」のようにみえるところ。
「哉」、頻出。教えてもらわないと読めません。頻出なのでここまで単純化されたみたい。

「不残と」(のこらずと)、頻出です。2文字セット。「と」ですが変体仮名の「与」でしょうか。
「申事ニ候」、「ニ」なのか「と」なのか?ですが、文章の流れから判断します。「事」は「る」のような形。


2018年11月27日火曜日

変事出来二付心得覚記 その12




 P.3 6〜9行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
円 正  寺・醫王 寺・正  覚 寺ハ森 川 原迄
えんしょうじ・いおうじ・しょうかくじはもりかわらまで

頼  二罷  出同 道 致  、浜 井場江参 り万 次郎
たよりにまかりでどうどういたし、はまいばへまいりまんじろう

宅 江寄 噂  承     、今 者゛ん上ミゟ 徒黨 致 し
たくへよりうわさうけたまわり、こんば んかみよりととういたし

飯 能 村 へ出向 趣   承    り候   処  如何 登尋  候  得ば、
はんのうむらへでむきおもむきうけたまわりそうろうところいかにとたずねそうらえば、


(大意)
円正寺・医王寺・正覚寺をめざし森川原迄
一緒に移動し、浜井場の万次郎
宅に立ち寄り噂を聞いた。(村役人が)今晩村奥より百姓の徒党が
飯能村を目指してやってくるとのことだが、
どうしたらよいかと尋ねれば、


(補足)
 慌ただしさと緊張が高まります。
また、村役人たちが情報を細かく収拾している様もよくわかります。

「円」、くずし字はとても立派。
「醫」、旧字体を楷書のように書いています。
「覚」、この頁の最初の「覚五郎」と比べると、ほとんど同じように書いているのですが、こちらのほうがわかりやす。「覚五郎」のほうは字が大きいがちょっとわかりずらい。
「迄」、頻出で「辶」は「と」のような部分。

「頼」、偏「束」がこんな形になる。
「罷出同道致」、このまままとめて覚えてもよいくらいです。どれも特徴的なぶん覚えやすい。

「寄」、「宀」が「巾」、その下部へ残りがくる。
「噂」、「口」偏は点2つ、「尊」は「そ」をそのままつなげる感じで「る」をかく。
旁が「寺」「尊」など「寸」を部品として含んでいるくずし字は、「ち」や「る」のようなくずし字になることが多いような気がします。
「今者゛ん」(こんばん)、「者」(は)の変体仮名。それに「゛」が付いている。
「徒黨」、「徒」偏の判別は難しいです。前行の「場」の「土」もそう。「黨」、旧字体なので複雑。

「飯能」、「飯」の偏「食」が原型をとどめない。
「趣」、もう何度も出てきました。偏「走」はこれも原型を留めず。旁の「取」を頼りにします。
「候処」、運筆がとてもよくわかります。
「如何」、2文字セットで覚えます。
「登」(と)、変体仮名。「癶」が「小」に「、」が目印。
「尋」、「ヨ」「エ」「ロ」「寸」で原型が残ってます。
「候得者゛」(そうらえば)、3文字セットで覚える。頻出です。

 簡単な地元地図です。縮尺は下部の有間ダムの横幅が約1300mです。



飯能市立博物館展示ガイドブック¥500円にこの変事が2頁にわたって記されています。




2018年11月26日月曜日

変事出来二付心得覚記 その11




 P.3 1〜5行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
覚 五郎 も可罷 居   間  、是 江も御噺 し被下
かくごろうもまかりおりべくあいだ、これへもおはなしくだされ

差 留 遍くと御噺 し被下  、夫 ゟ 夕 六ツ頃、
さしとめべくとおはなしくだされ、それよりゆうむつごろ

森 川原 松 五郎 宅 二而ろうそく・王らじ
もりかわらまつごろうたくにてろうそく・わらじ

用 意致  、名主 滝 之助 殿 ・当 名主 太二郎 殿 ・
よういいたし、なぬしたきのすけどの・とうなぬしたじろうどの・

源 左衛門 ・軍 蔵 ・伴 次郎 ・其 外
げんざえもん・ぐんぞう・はんじろう・そのほか


(大意)
覚五郎もここにいるうちに、彼にも説明して下さり
押し止めると話して下さって、それより夕方の六ツ頃(6時頃)
森川原松五郎宅でろうそくとワラジを
用意した。名主滝之助殿・この村の名主太ニ郎殿・
源左衛門・軍蔵・伴次郎そのほか


(補足)
 ろうそく・ワラジを準備していよいよ百姓が集合しているところへと移動し始めるわけですが
どうも人の動きをうまく表現できません。解釈が間違っているのかもしれません。

 「覚五郎」、「覚」がでかい。古文書では字の大きさがそろってません。なぜなのかといつもおもいます。「五」のくずし字を確実に読めるようになるとなんか自信がつきます。「郎」、くずし字は「ら」です。
「可罷居間」、「可」のくずし字は「う」に見えることがほとんどですが、ここでは「て」です。
「罷」、頻出です。これは形で覚える。頻繁にでてくるのですぐに読めるようになるはず。
「是」、一番下の「辶」みたいのが「一」になる。
「被下」、2点セット。行末で小さい。

「差留」、「留」のくずし字が、2行先の「当」のくずし字と似ている。
「被下」、前行のは小さかったが、ここのはわかりやすい。「被」はほとんど「ヒ」。

「森」、「木」が3つだが、下部の2つが変、「成」にみえます。
「ろうそく」、漢字は「蠟燭」だが、読めてもすぐには書けなかったのだろう。
「王らじ」、「王」(わ)の変体仮名。ひらがなの「ら」だが「郎」のくずし字と同じです。

「名主」、「主」に注意。
「殿」、偏がなく、旁の「殳」だけだがそれもけっこうくずしている。
「当」、前頁のくずし字とは異なっている。
「太ニ郎」、「太」がいつも最初に「左」に見えてしまいます。

「伴次郎」、旁の「半」や「津」の旁は現在では最後に縦棒ですが、くずし字は上部を書いてから縦棒で次に下部の「ニ」です。この形の字はほとんどこの順です。
「郎」、ここでは「ら」ではなく、「戸」+「巾」。
「其外」、2点セット。頻出です。

 登場人物が多いです。
覚五郎へ話しているのは、前頁からの続きで太次郎殿。
太次郎殿は名主で、平沼源左衛門の組頭より役職は上なので丁寧語を使っている。
なお、原文では太次郎と太ニ郎が混在してます。
滝之助殿は町田滝之助、名主です。
軍蔵は年寄、伴次郎は組合の役職。


2018年11月25日日曜日

変事出来二付心得覚記 その10




 P.2 10〜12行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
仙 太郎 殿 ・寅 二郎 同 道 二而下 名栗 村 役 人 二届、
せんたろうどの・とらじろうどうどうにてしもなぐりむらやくにんにとどけ、

太次郎 殿 申  口 、手紙 一 通 遣  し候   間  忰  江遣  し
たじろうどのもうしぐち、てがみいっつうつかわしそうろうあいだせがれへつかわし

被下  、近 所 之者 四、五人 も馬頭 堂 当 り扣  居り、
くだされ、きんじょのものし、ごにんもばとうどうあたりひかえおり、


(大意)
仙太郎殿・寅二郎と一緒に下名栗村役人へ連絡し、
太次郎殿が申すには、手紙を一通書いたので、忰(寅次郎)を使いに出して
くださった。(また)近所の4、5人の者も馬頭堂あたりに控えさせ、


(補足)
 すでに何度か出てきたので、やや読みにくい太次郎殿・寅二郎もわかります。
ふたつの「郎」のくずし字が異なっています。最初のが「戸」+「巾」、次のが「ら」。
「同道」、「道」のくずし字が特徴的なだけあって、かえってわかりやすくなってきます。
「届」、「由」が「里」に見えます。

この行に「遣」が二度出てきます。「キ」+「と」に見えませんか。
「候間」、頻出です。「間」のくずし字も重要。「門」は「冖」(わかんむり)のようになり、中に収まるべき「日」は下部にきます。

「被下」(くだされ)、「被」がほとんど「5」です。ここまでくずされると読めるわけがないので2点セットで形で覚えます。
「五」、ここの「五」はあまりくずされていません。
「馬頭堂」、「馬」、教えられればなんとなくわかりますが、初めて見ると?。
「当」、「ヨ」には縦棒がないのに、くずし字にはしっかりあります。運筆を見ると、最初に縦棒を、次にそれに重なるように「ろ」、その書き終わりに筆を返して「一」という順でしょうか、
まぁ、形で覚えましょう。
「扣」、「控」です。


2018年11月24日土曜日

変事出来二付心得覚記 その9




 P.2 貼紙部分の3行。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
我 野村 役 人 江毛早 速 此 趣   ヲ通 達 二及、
あがのむらやくにんへもさっそくこのおもむきをつうたつにおよび

右 之族 通 行 致  候  ハヽ、御差 留 可被下   候
みぎのぞくつうこういたしそうらわば、おさしとめくださるべくそうろう

申  遣  し候
もうしつかわしそうろう


(大意)
吾野村役人へも早速(われわれの)この対処を知らせ
例の集合している百姓たちが現れたら、押し留めておいて下さるよう
連絡しておいた。


(補足)
 貼紙部分です。貼紙は今で言う付箋ですが、きれいで上手につかわれるものだなと感心します。
接着してありますが、ご飯粒を潰したノリでしょう。虫たちはここは大好物のはず。

「毛」(も)、変体仮名。
「早速」、頻出です。「日」の部分は「一」、「十」の部分は縦棒を書いてそのまま筆を左上にもってゆき、「一」の書き終わりで次の文字につなげるので、丸くなってしまう。
「此趣」、「此」は前回は「此段」で出てきました。「趣」も既出ですが「取」をきっかけにすると読みやすい。
「通達及」、行末なのに字がデカイ。運筆しながらまだ余裕があるぞとおもったようだ。

「通行」、「行」がわかりにくい。
「致」、既出。読めない字が続いて、途中にわかる字があるときがあります。そこを拠点に前後を読んでゆくと、意味が通じてゆくときがあります。
「候ハバ」(そうらわば)、3点セット。
「差留」、この「差」がよくみるくずし字。
「可被下候」、4点セット。(くださるべくそうろう)。
「申遣し候」、3点セットか4点セットで覚えたほうが良さそうです。「申」、書き手の癖は縦棒の最後が左に流れるところでしたが、ここではまっすぐ、次の文字へのつながりのためか。
「遣し」、ひらがなのややつぶれた「い」に見えるのが「辶」。

 貼紙は全部書いてから、読み返したら、あっそうだったと気づいて書き加えたものです。
下名栗に連絡しましたが、吾野への連絡もしたのだったとおもいだして貼紙で書き加えたのでしょう。

2018年11月23日金曜日

変事出来二付心得覚記 その8




 P.2 7〜9行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
相 談 極  り、左二候   而ハ下 名栗 江も此 段 ヲ
そうだんきわまり、さにそうらいてはしもなぐりへもこのだんを

通 達 二およひ、村 方 二而差 留 候  得共 、萬 一 隠 連
つうたつにおよび、むらかたにてさしとめそうらえども、まんいちかくれ

出 抜 二其 御 地江参  候  ハヽ御差 留 置 可被下   候
だしぬきにそのおんちへまいりそうらわばおさしとめおきくださるべくそうろう


(大意)
相談がまとまり、今後の対処を下名栗へも連絡した。村で押し止めることをするとしても、
万一隠れて抜け出し御地へ向かうことがあれば、押し留めてくださるようにした。


(補足)
 話の流れは理解できるのですが、文書を正確に現代文にすることが難しいです。
初心者の悲しいところであります。
行頭の文字は大きく、次第に小さくなりながら行末では小さくなる傾向にあります。

「相談」、この「相」がよく見るくずし字。
「候而ハ」、3文字セット。(そうらいては)としましたが(そうろうては)では間違いなのかどうかわかりません。
下名栗、地名。
「此段」、まとめて覚えます。「段」、遍は縦棒2本、旁は「頁」と同じような感じのくずし字。

「およひ」、ひらがなですが、変体仮名もいろいろ出てくるので、迷うこともあります。
「差留」、この行のすぐ左隣りも出てきます。何度も出てくると覚えやすい。
「候得共」(そうらえども)、最頻出。3文字セットで覚える。
「萬一」、「萬」頻出です。
「隠連」(かくれ)、「隠」が「阝」「ノ」「ツ」「ヨ」「心」だが、ジッと見ても、うーん難しい。「連」(れ)変体仮名。

「出抜」、「出」はわかりますが「抜」の「扌」がくずすとどうして「禾」なのでしょう。と文句を言っても始まりません。諦めて形で覚える。
「其」、頻出。短く「一」、「を」をくずした感じのように書く。
「候ハゝ」(そうらわば)、3文字セット。
「置」、既出。
「可被下候」、頻繁に使われる表現なので、著しく簡略化される4文字です。このまま形で覚えます。

「御地」となっているのは、下名栗や吾野周辺は幕府の天領があちこちにあったためでしょうか。



2018年11月22日木曜日

変事出来二付心得覚記 その7




 P.2 4〜6行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
越 ニハ穴 沢 計 り可と承     候   処  、我 野へ盤
こすにはあなざわばかりかとうけたまわりそうろうところ、あがのへは

新 田山 越 候  得者゛我 野谷ツニ御座候   、夫 二而ハ
にったやまごえそうらへば あがのやつにござそうろう、それにては

難計    、清 揃  之場所 参 り差 留 遍くと
はかりがたく、せいぞろいのばしょまいりさしとめべくと


(大意)
越すには穴沢からだけと聞いていたが、吾野へは
新田を山越えすれば吾野の谷戸へ出られる。ですから
どちらの道を選ぶかはわからないので、(百姓が)勢揃いしている場所へ行き押し止めるべくと


(補足)
「越ニハ」、「走」の最後の右に伸びる部分が短く右上につながってます。
「穴沢」、地名。「穴」が読めません。
「斗り可と」、「計」⇒「斗」。「可」、変体仮名で「う」のようにみえます。「う」のようにみえたら大抵は「か」と、わたしは判断してます。
「承候処」、既出の3文字セットです。
「盤」(は)、変体仮名。

「新田山越」、ほぼ楷書です。新田は地名
「候得者゛」(そうらえば)、「候」「得」は既出。「者」(は)、変体仮名で濁点「゛」がついて(ば)。〜したところ、〜したら。
「我野」、ここの(あがの)が一番読みやすい。「我」、点を上部に打って、その下に「了」、それをまたいで「ハ」みたいに書く。「野」、「み」みたいに書き、その下へコチョコチョっていう感じ。
「谷」、簡単なんだけど、もう少し崩されると?になってしまう。
「御座候」、既出3文字セット。

「難斗」、「難」、結構よく出てきます。形でしっかり覚える。「隹」はこんなふうに崩す。
「清揃」、既出。
「場所」、これは読みやすい方です。
「差留」、「差」の下部の「ノ」をやたらと大きく長く書くのがくずしの特徴。
「留」、上部が「ク」、下部は四角を丸っこく書いて、中は「メ」。
「遍」(へ)、変体仮名。「戸」の「ノ」の字をしっかり書き、「冊」は適当に、
最後に下部に「辶」の「」横棒を書く。


2018年11月21日水曜日

変事出来二付心得覚記 その6




 P.2 最初〜3行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
申  様 、今 晩 と申噂    御座候   、私  し共 江ハ志らせ
もうすさま、こんばんとうわさもうしござそうろう、わたくしどもへはしらせ

不申  候   、風 聞 承    り候   二、不動 渕 と可檜  渕 と可
もうさずそうろう、ふうぶんうけたまわりそうろうに、ふどうぶちとかひのきぶちとか

清 揃  致  出 向様 之風 説 も有 之 、我 野へ
せいぞろいいたしでむきようのふうせつもこれあり、あがのへ


(大意)
申すには、今晩という噂があります。われわれ村役人へは知らせるつもり
はなく、伝え聞きするところによると、不動渕とか檜淵とかに
勢揃いしてやってくるとのうわさもある。吾野へ


(補足)
「申様」、既出ですが、これからもたくさん出てきますので、ふたつまとめてこの形で覚えると簡単です。
「今晩と」、「と」は「与」の変体仮名。「晩」、ちょっとわかりにくいが、ジッと見ていると「晩」です。それにしても「今」の字がでかくてくっきりはっきり。
「噂」、形で覚えるしかなさそう。
「私」、古文書を読んでいて意外と出てこないのがこの「私」です。前頁では「下拙」とありました。「私」と「共」の間にある字がわかりません。(「名栗村史研究 那栗郷 1」20000331  名栗村教育委員会発行 を頼りに読み進めているのですが、ここには「し」と記載されています)
「不申候」、前行にある「御座候」と同じく、3文字まとめて覚える。「不」のくずし字体はたくさんありますが、源左衛門さんのは特徴的かな。
「風聞」、また出てきました。きれいな字です。
「承り候ニ」、右脇に小さく「り」「ニ」があります。送り仮名や助詞の書き方。ひらがなや変体仮名は普通に行の真ん中に書いています。
「と可」、今風の言い方の「〜とか」と同じです。この時代にも普通に使われていたのでしょう。というか、今でも使われている表現であることに驚きます。
「不動渕」「檜渕」、地名。
「清揃」、「清」=「氵」+「青」。「揃」=「扌」+「前」。両方ともにそれぞれの部首のくずし字になっています。
「致」、頻出。わたし自身の見分け方は、旁のくずし字が「支」のような形を目安にしています。
「出向様」、ここの「様」は筆が細く、くずし字の書き順がよくわかります。
「風説」、「説」の「訁」はこんな形。中国語の簡体字と同じです。
「有之」、最頻出。まとめて覚える。「有」=「メ」+「月」、「月」のくずし字はとても大切ですが、ここのくずし字はちょっと変わっているかな。
「我野へ」、読めません。地名で現在は「吾野」です。「我」のくずし字は形で覚える。「野」は特徴的で、偏の「里」は上部に位置して、「予」の上半分が「里」の右側にきて、下半分が全体の「脚」部分にきているような感じに見えます。この行のすぐ左隣の行のほぼ同位置に、もっと筆先が細い見やすい「我野」があります。

 既に投稿した(補足)の内容は省略するようにする方針なのですが、まだ始まったばかりでどうしても、長い(補足)になてしまいます。申し訳ないことです。