P.4 9行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」
(読み)
(候由申候二付)見請 候 得者゛、手笠 ヲ持
みうけそうら えば 、てがさをもち
着、御座を脊 以候 間 、皆 不審 二
き、ござをせおいそうろうあいだ、みなふしんに
思 ひ承 り連者゛、正 覚 寺旦 中 之者
おもいうけたまわりれば 、しょうかくじだんちゅうのもの
徒黨 致 、今 晩 飯 能 村 江穀 物
ととういたし、こんばんはんのうむらへこくもつ
(大意)
(米吉を)みてみれば、手笠を持ち
ゴザを背負っていたので、皆不審に
おもい問い詰めると、正覚寺檀中の者が
集団となって、今晩飯能村へ穀物
(補足)
「候得者゛」、3点セット。「者゛」、(ば)変体仮名。次の次の行にも出てきます。
「手笠」、「手」が「年」のくずし字に似てるが、「年」のくずし字はもっと丸のような形になる。
「笠」が2文字のように見えます。
「着」がわかりません。
「脊」、背です。
「候間」、「間」のくずし字には慣れたでしょうか。門のなかに日が入るのではなくて、それぞれが冠と脚の関係になります。
「連者゛」、「連」(れ)変体仮名。下部のしっぽみたいのが辶ですが、読めませんでした。
「旦中之者」、「旦中」は既出ですが読みづらい。変体仮名の「者」ではないので、字体が異なってます。
「徒黨」、「黨」が大きく2文字みたい。
「飯能」、「飯」の偏の「ハ」の左側が下に流れているだけで、この字は?とおもってしまいます。
「皆不審ニ思ひ承り連者゛」、「承る」は謙譲語です。当時の社会は厳格な身分の上下関係がすべてに反映されてましたから、文章にも必ずあらわれます。「皆」の中には源左衛門より上位の名主が二人いましたから、そのことを気遣ったのでしょうか。万吉の様子を見て同道している各人が不審におもったわけで、名主さんがおもったので、そのための謙譲語としてもなんかしっくりきません。
新暦では1866年7月24日の夕方6時を過ぎての山奥です。雨天の様子はなく満月の4日前で漆黒ではないでしょうが、山間の道から万吉が現れたときは一同ドキリとしたはずです。
噺はいよいよ差し迫ってきます。
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