P.9 8行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」
(読み)
武州 秩 父郡 上 名栗 村 新 古両 組
ぶしゅうちちぶぐんかみなぐりむらしんこりょうぐみ
役 人 惣 代
やくにんそうだい
名主 太次郎 忰 寅 次郎
なぬしたじろうせがれ とらじろう
組 頭 見習 徳 三 郎
くみがしらみならい とくさぶろう
慶 応 二寅 年
けいおうにとらどし
六 月 十 五日
ろくがつじゅうごにち
岩 鼻
いわはな
御役 所
おやくしょ
(大意)
略
(補足)
日付が6月15日になってます。
変事出来は6月13日の夕方6時頃ですから、実質1両日で事の概略を役所へ届けています。
届けると言っても、役所は現在の高崎ですから、秩父の険しい山道を越えてゆかねばなりませんでした。役人たちの対応の速さに驚かされます。
この部分に出てくる文字はすべて既出で、きれいに書かれています。
慶応2年6月15日は現在では1866年7月26日です。
この年の前後は天候不順で農作物も育たず、また世情も不安定で混乱し米穀物の価格も上がり
飯能村でも同様の状況でした。
平沼源左衛門さんのもうひとつの日記「古今稀成年代記」の中に、物価の値上がりや天候不順の様子が詳しく記されています。
飯能市立図書館、『名栗村史研究2「那栗郷」名栗村教育委員会』で読むことができます。
幕末から明治前半の名栗村という山村から激動の日本を見た記録が大変に興味深いです。
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