2018年12月21日金曜日

変事出来二付心得覚記 その36




 P.11 6〜10行目まで。「飯能市立博物館所蔵」「平沼家文書」

(読み)
是 も手訳ケニ而扇  町  屋穀 屋ヲ毀 し
これもてわけにておおぎちょうやこくやをこわし

所  沢 江参 り候   趣   、黒 須名主 殿 二出合
ところざわへまいりそうろうおもむき、くろすなぬしどのにであい

申  様 、金 毘羅坂 迄 御出 被下  候   趣   申  二 付、
もうすさま、こんぴらさかまでおいでくだされそうろうおもむきもうすにつき、

迚 も多人 数 二而ハ及  可年候   間  、旅 屋二而
とてもたにんずうにてはおよびかねそうろうあいだ、たびやにて

喰  事致 し可帰   と存  候   処  、
しょくじいたしかえるべきとぞんじそうろうところ、


(大意)
(がしかし一揆勢は)ここでも手分けして扇町屋の穀物商を壊し
所沢へ向かっていったようだった。(途中)黒須名主殿に出会い
お話を伺うと、金毘羅坂まで出かけていって下さればどうでしょうか、と申されたが
(一揆勢は)とても大人数で力の及ぶところではないので、旅屋にて
食事してから帰えろとした。しかし、


(補足)
「名栗の歴史」2008 P.29 に武蔵国の一揆勢の7日間の動きが詳細に図で示されています。
「6月13日に上名栗村から発生した一揆はまたたく間に関東各地に広がった。鎮圧されるまでのわずか7日間で、打ちこわしの被害にあった村は202ヶ村、参加・結集した民衆は10万人にのぼったと言われる」とあります。

 ここの頁は全体に字が潰れることもなくきれいに書かれています。

「所沢」「黒須」、地名も名前と同じで、知っているから読めることが多いです。

「金毘羅坂」、前頁の「無拠次第登」と同じで、画数の多い漢字などを丁寧に書こうとするときなのでしょうか、左手を添えて筆の先で注意しながら書いている感じが伝わってきます。筆跡が細くなります。
「御出被下候」、頻出の言い回しはかなり省略してくずされるので原型を留めません。「御出」は原型が残っているが、「被下」はこのまま形で覚えるしかなさそうです。「候」にいたっては「、」になってます。

「多人数」、「多」のくずし字に「亠」が冠のようにあります。
「及可年候間」、「年」のくずし字は「○」のようになります。手のくずし字に似ることがありますがこちらは○にならない。

「可帰」、「帰」がわかりにくがよく出てきます。
「処」、くずし字は「m」のようになります。「故」とにてます。


0 件のコメント:

コメントを投稿