2025年6月30日月曜日

江漢西遊日記四 その43

P50 東京国立博物館蔵

(読み)

多る事 也 夫 より白 眠 と云 人 印 能上  手ニて

たることなりそれよりはくみんというひといんのじょうずにて


名高 キ人 なり之 へ参  知ル人 ニなる倅  ハ醫

なだかきひとなりこれへまいるしるひとになるせがれはい


者 ニて槐 庵 と云 爰 を去 て丸 山 寄 合

しゃにてかいあんというここをさりてまるやまよりあい


町  夜見世を見 物 春見世尓郡 内 嶋 能如 キ

ちょうよみせをけんぶつすみせにぐんないじまのごとき


衣服 ニて客  を取れハ衣装  を改  ムと云 價(アタ)へ

いふくにてきゃくをとればいしょうをあらたむという  あた へ


揚 代 十  匁  雑 用 共 亦 太夫 あり揚 屋二軒

あげだいじゅうもんめざつようともまたたゆうありあげやにけん


あり之 ハ揚 屋ヘ呼フ事 なり揚 代 廿   七 匁  内

ありこれはあげやへよぶことなりあげだいにじゅうななもんめうち


十  匁  ハ雑 用 なり漸  く太夫 六 七 人 とぞ此

じゅうもんめはざつようなりようやくたゆうろくしちにんとぞこの


節 夜 芝 居アリ亦 それへ行キ芝 居を見ル尓

せつよるしばいありまたそれへゆきしばいをみるに


砂糖(サトウ)よし能こもニて張リ多る小屋ニて狂  言

   さとう よしのこもにてはりたるこやにてきょうげん

(大意)

(補足)

「郡内嶋」、『ぐんないじま【郡内縞】』。『ぐんないおり【郡内織】山梨県郡内地方で産する絹織物。甲斐絹(かいき)の一種。太い格子縞のものが多く,夜具地。郡内縞』。

「砂糖(サトウ)よし」、きっとサトウキビのような葦(あし)のことでしょうか。

 江漢さんは揚屋については一家言の持ち主でありますので、どこへいってもその鑑識眼を最大限に発揮して、事細かく記しています。

 ウィキペディアの「丸山遊女」に、非常に詳しく様々な事柄が記されています。

 

2025年6月29日日曜日

江漢西遊日記四 その42

P49 東京国立博物館蔵

(読み)

唐 人 がゝ里の者 なり此 人 能話  尓程 赤 城

とうじんかかりのものなりこのひとのはなしにていせきじょう


ハ浙 江 のうち乍(サ)浦と云 処  能人 なり少 シ書

はせっこうのうち  さ ほというところのひとなりすこししょ


を能ク春然  共 無学 人 ニて皆 商  人 の手代

をよくすしかれどもむがくじんにてみなしょうにんのてだい


なり方 西 園 ハ福 建 能近 邊 ニて舩 を仕出ス

なりほうせいえんはふっけんのきんぺんにてふねをしだす


者 ノ親 類 ニて之 も商  人 ニて交易(コウヱキ)ニ疎(ウトク)して

もののしんるいにてこれもしょうにんにて   こうえき に  うとく して


画など描キ能らくら者 なり皆 学 文 亦

えなどかきのらくらものなりみながくもんまた


ハ詩なと作 ル事 ハ一 向 尓知ら春゛となり

はしなどつくることはいっこうにしらず となり


十  六 日 天 氣朝 飯 後より勝 木利助 と云 人

じゅうろくにちてんきあさめしごよりかちきりすけというひと


能方 へ参 り昼 頃 より木 庵 開 基能南 京

のかたへまいりひるごろよりもくあんかいきのなんきん


寺 ヘ行キ見ル尓寺 ハ山 ニアリ誠  ニ唐 めき

でらへゆきみるにてらはやまにありまことにとうめき

(大意)

(補足)

「程赤城」、『享保20年(1735)生~180?歿

 名は霞生、字は赤城、号を柏塘と称し、一般的には字の赤城を以て知られた文人で、江南の人。明の船主で、医者でもあり、中国と長崎を往来して長崎の唐館に住し、書画を善くして日本の文化人と交流した清人で、日本語に通じて和歌も詠んだ。天明8年(1788)には春木南湖(江漢より二週間ほどはやく長崎に到着している)が会談しているし、文化元年(1804)には福山藩の儒医伊沢蘭軒も交流を持っている』、とありました。

「方西園」、『初来日は明和元年(1764年)とも安永元年(1772年)ともいう。安永3年(1774年)の来日記録ははっきりしている。安永9年(1780年)、45歳の時、元順号の副船主として渡海したが5月2日に房総沖で難破し安房国朝夷郡千倉に漂着。乗組員78名は全員無事だったが岩槻藩の唐人への待遇が悪く問題となった。

 日本船にて長崎に移送される途中、富士山を実見。西園は「目睹して実に大観なり」と感激して絵筆を走らせたという。このほかにも日本各地を写生。後に谷文晁により「漂客奇賞図」として模刻される。その遠近法が当時大いに注目される』、とウィキペディアにありました。

「南京寺」、『興福寺は、長崎県長崎市寺町にある、日本最古の黄檗宗の寺院。山号は東明山。山門が朱塗りであるため、あか寺とも呼ばれ、仏殿を建てたので、南京寺とも呼ばれる』。

「能らくら者」、『のらくらもの のらくら者】のらくらして役に立たない人。なまけ者。のら者』。のらくろではありませんでした。

「十六日」、天明8年10月16日。西暦1788年11月13日。

 ここでは程赤城、方西園にたいしてですけど、きっと唐人にたいして、江漢の彼らの蔑視・差別感が顕著にあらわれています。一方で西欧人や彼らの書物や物品・画などはペコペコとありがたがり、西欧のものならなんでも興味をもち、収集・研究をしています。

  しかしながら、西遊旅譚三では支那人の風俗・船などについて冷静に画人としての目で観察し「総て支那人は日本人にかわる事なし。志(ココロザシ)はなはだ似より。雅もあり俗もあり。又顔面(ガンショク)日本人の如し。只衣装の違いあるのみなり」とあって、数ページをさいて詳しく記しています。 

2025年6月28日土曜日

江漢西遊日記四 その41

P48 東京国立博物館蔵

(読み)

なり此 邊 能土民 瑠  球  イモを常  喰  と春

なりこのへんのどみんりゅうきゅういもをじょうしょくとす


長 崎 ニてハ芋 カイを喰  春芋 至  て甘 し

ながさきにてはいもがゆをしょくすいもいたってあまし


白 赤 の二品(ヒン)アリ

しろあかのに  ひん あり


十  四 日曇  丈  助 と云 人 松 十  郎 近 所 の人 なり

じゅうよっかくもりじょうすけというひとまつじゅうろうきんじょのひとなり


管生(スコー)山 尓居多る出  家を同 道 春菅生 山

   すごう さんにいたるしゅっけをどうどうすすごうさん


ハ西 国 札 所 ニて伊豫能国 なり階(ハシコ)ニて山 尓

はさいごくふだしょにていよのくになり  はしご にてやまに


登 り春る処  至  て妙 なる所  と云 不行 此 出

のぼりするところいたってたえなるところというゆかずこのしゅっ


家ニ聞ク

けにきく


十  五日 天 氣此 長 崎 へ入 口 を西 坂 と云 爰 ヨリ

じゅうごにちてんきこのながさきへいりぐちをにしさかというここより


見多るを圖春昼 比 爰 能親 類 の人 参 ル之(コレ)ハ

みたるをずすひるころここのしんるいのひとまいる  これ は

(大意)

(補足)

「瑠球」、琉球。

「十四日」、天明8年10月14日。西暦1788年11月11日。

「管生山」、愛媛県菅生山大宝寺、四国八十八箇所霊場の44番札所となる寺院。最初の管は「竹」冠、次のは「艹」冠になっています。

「出家」、『僧侶。僧』

「十五日」、天明8年10月15日。西暦1788年11月12日。

「西坂と云爰ヨリ見多るを圖春」、西遊旅譚三に「西坂より長崎を望む」があって、これがその画のようです。


 

 

2025年6月27日金曜日

江漢西遊日記四 その40

P47 東京国立博物館蔵

(読み)

脇 津深 堀 戸町 など云 処  あり二里半 参  山

わきつふかぼりとまちなどいうところありにりはんまいるやま


能うへを通 ル所  左右 海 也 脇 津ニ三崎 観

のうえをとおるところさゆううみなりわきつにみさきかん


音(オン)堂 アリ爰 ニ泊 ル

  おん どうありここにとまる


十  三 日 曇 ル時雨 尓て折 \/雨 降ル連レの者 ハ

じゅうさんにちくもるしぐれにておりおりあめふるつれのものは


途中  尓滞 畄  春我 等ハ帰 ルおらん多舩 亦

とちゅうにたいりゅうすわれらはかえるおらんだせんまた


唐 舩 沖 尓かゝ里居ル唐 人 下官(クワン)の者

からふねおきにかかりいるとうじんげ  かん  のもの


七 八 人 陸 へ水 を扱ミ尓あかる皆 鼡  色 能

しちはちにんりくへみずをくみにあがるみなねずみいろの


木綿 能着(キ)物 頭  ニハダツ帽 をか武り多り

もめんの  き ものあたまにはだつぼうをかむりたり


初 メて唐 人 を見多り路 \/ハマヲモトコンノ

はじめてとうじんをみたりみちみちはまおもとこんの


菊 野尓あり脇 津ハ亦 長 崎 より亦 暖 土

きくのにありわきつはまたながさきよりまただんど

(大意)

(補足)

「脇津」、ウィキペディアには『「脇岬」の由来について、脇津と岬の2つの地名を合わせたものとする説がある。中世には「肥御崎(ひのみさき)」、近世は「脇御岬」または「御岬」とも表記された』とありました。深堀村は地図の右上。 

「十三日」、天明8年10月13日。西暦1788年11月10日。

「下官(クワン)」、官のくずし字は学んでいないと読めません。次の行の「水」も同様。

「扱ミ」、汲む。

「ダツ帽」、いろいろ調べても不明。

「ハマヲモト」、浜木綿(ハマユウ)の別名。「コンノ菊」、ノコンギクのことか。

「脇津ニ三崎観音(オン)堂アリ爰ニ泊ル」、観音堂に泊まったのでしょうか?いつもなら宿の様子をあれこれ記してますけど、まったくありません。


 

2025年6月26日木曜日

江漢西遊日記四 その39

P46 東京国立博物館蔵

(読み)

蘭 物 ヲかざり酒 肴 を出し夜 能九   時 過

らんものをかざりしゅこうをだしよるのここのつどきすぎ


尓帰 ル

にかえる


十  二日 天 氣ニて朝 早 く御﨑 観 音 皆 \/

じゅうににちてんきにてあさはやくみさきかんのんみなみな


参 ルとて吾 も行 ンとて爰 より七 里ノ路 ナリ

まいるとてわれもゆかんとてここよりしちりのみちなり


松 十  郎 夫 婦外 ニかきやと云 家 能女  房

まつじゅうろうふうふほかにかぎやといういえのにょうぼう


亦 壱 人男 子五人 ニして参 ル此 地生  涯

またひとりだんしごにんにしてまいるこのちしょうがい


ま由をそら春゛夫 故 王かく亦 き里 うも

まゆをそらず それゆえわかくまたきりょうも


能く見ユ鍵(カキ)や婦ハ者゛多゛し参 リ皆 路 山

よくみゆ  かぎ やふはは だ しまいりみなみちやま


坂 ニして平 地なし西 南 を武ゐて行ク右

さかにしてへいちなしせいなんをむいてゆくみぎ


ハ五嶋 遥 カニ見ユ左  ハあまくさ嶋 原 見ヘ

はごとうはるかにみゆひだりはあまくさしまばらみへ

(大意)

(補足)

「夜能九時過」、深夜0時。

「十二日」、天明8年10月12日。西暦1788年11月9日。

「御﨑観音」、円通寺観音寺。地図で探すと似たようなお寺がたくさんあって迷います。「爰より七里ノ路」というのと、「西南を武ゐて行ク右ハ五嶋遥カニ見ユ左ハあまくさ嶋原見ヘ」るのは岬の先端にある「肥之御崎観音寺」だとおもいます。 

 そのお寺をもう少し詳しく調べると

『昔から長崎からの参詣者も多く、唐人屋敷跡に隣接する十人町(じゅうにんまち)から観音様へと続く約28kmの「御崎道(みさきみち)」という道があり、この道にそって観音様詣りをしました。今も「みさきみち」と標された石碑が残っています』

とあって、ここで間違いないようです。

 十人前後の人数で片道約30kmの小旅行、ピクニックとはとても言えません。

車でなら行ってみたい。いい眺めだろうなぁ〜。

 

2025年6月25日水曜日

江漢西遊日記四 その38

P45 東京国立博物館蔵

(読み)

吉 参 ル話(ハナス)唐 人 八 月 十  五日 月 餅 と云 を

きちまいる  はなす とうじんはちがつじゅうごにちげっぺいというを


造(ツク)り夫 をも羅ゐ喰ヒし尓小麦 能粉 ニて製

  つく りそれをもらいくいしにこむぎのこなにてせい


し油  尓て揚 多る物 至  て甘(アマシ)彼 国 糯 米 アル

しあぶらにてあげたるものいたって  あまし かのくにもちごめある


と雖  モ吾 日本 能米 能如 くなら春゛故 尓

といえどもわがにほんのこめのごとくならず ゆえに


日本 能餅 なし

にほんのもちなし


十  一 日 天 氣嶋 原 屋しきへ行ク晩 方 風

じゅういちにちてんきしまばらやしきへゆくばんがたふ


呂屋へ行ク居ヘ風呂也 夜 ニ入 平 戸町  幸

ろやへゆくすへぶろなりよるにいりひらどちょうこう


作 処  ヘ行ク二階 おらん多坐しきを見 物 ス

さくところへゆくにかいおらんだざしきをけんぶつす


イキリス細 工のヒイドロ額 蘭間(ランマ)下 ニ掛ケ

いぎりすさいくのびいどろがく   らんま したにかけ


ならべ下 ニハ椅(イ)スを並  其 外 奇妙  なる

ならべしたには  い すをならべそのほかきみょうなる

(大意)

(補足)

 前々回のブログで「おらん多舩 唐人舩」の画がありました。記録に、この年天明8年(1788)には、唐船は13隻、オランダ船は2隻来航したとあるので、江漢さんはちょうどこれからそれら船が帰国するところに出会ったようです。

「も羅ゐ」、この変体仮名「羅」(ら)はあまりみなかったような気がします。

「甘」、調べてみるとここにあるような「耳」に似たくずし字もあることがわかりました。

「十一日」、天明8年10月11日。西暦1788年11月8日。

「おらん多坐しき」、吉雄幸作はオランダ人と接する中で異国の書物・絵画・器具など珍品を収集し、それらを自宅の二階をオランダ風にした部屋に飾った。食事会なども催し、当時人々はこの二階を『吉雄の阿蘭陀座敷』と呼んで珍しがった、とありました。

 

2025年6月24日火曜日

江漢西遊日記四 その37

P44 東京国立博物館蔵

(読み)

なり多る前 ハ長 崎 甚 左衛門 と云 人 能領  地也

なりたるまえはながさきじんざえもんというひとのりょうちなり


此 日本 へ異国 ヨリ舩 を着(ツク)ルハ伊勢能大湊(ミナト)

このにほんへいこくよりふねを  つく るはいせのおお みなと


と云 所  さダかなら春゛夫 より泉 州  堺  の濱 ナリ

というところさだかならず それよりせんしゅうさかいのはまなり


亦 筑 前 博多 者か多より肥前 平 戸嶋 尓

またちくぜんはかたはかたよりひぜんひらどしまに


渡海 して寛 永 辛  巳の年 今 能長 崎 尓

とかいしてかんえいかのとみのとしいまのながさきに


なるさておらん多大 通 詞吉 雄(ヲ)幸 作 同  ク

なるさておらんだだいつうじよし  お こうさくおなじく


本 木榮 之進 両  人 未 タ役 所 より不返  夫 故

もときえいのしんりょうにんいまだやくしょよりかえらずそれゆえ


か者゛嶋 町  稲 部松 十  郎 へ行ク此 者 ハおらん多゛

かば しまちょういなべまつじゅうろうへゆくこのものはおらんだ


部屋付 役 ノ者 なり先ツ是 ニ暫  ク滞 畄  春日

べやつきやくのものなりまずこれにしばらくたいりゅうすひ


暮レて吉 雄本 木能二 人参 ル亦 本 木の息 元

ぐれてよしおもときのふたりまいるまたもときのそくもとよし

(大意)

(補足)

「長崎甚左衛門」、『長崎 甚左衛門純景(ながさき じんざえもん すみかげ、天文17年(1548年)? - 元和7年12月22日(1622年1月25日))は戦国時代・安土桃山時代の城主。深江浦(長崎)を領す。キリシタン大名』

「寛永辛巳(かのとみ)の年」、寛永十八1641)年

「大通詞」、明暦二(1656)年以後、大通詞・小通詞・小通詞並・小通詞末席・稽古通詞・内通詞と階級がもうけられていた。

「吉雄(ヲ)幸作」、享保九(1724)年〜寛政十二(1800)年。51年間も大通詞職で活躍。解体新書初版に序文をよせている、とありました。

「本木榮之進」、享保二十(1735)年〜寛政六(1794)年。オランダ通詞、蘭学者。

 江漢は天文学方面のこの大先達に直接会って啓発されることが多かったようで、この旅が終えてから、もっぱら天文・地理をはじめとする西洋自然科学の研究と啓蒙書著述に没頭していった、とありました。

「本木の息元吉」、元吉ではなく茂吉。明和二(1767)年生まれ。