2025年6月27日金曜日

江漢西遊日記四 その40

P47 東京国立博物館蔵

(読み)

脇 津深 堀 戸町 など云 処  あり二里半 参  山

わきつふかぼりとまちなどいうところありにりはんまいるやま


能うへを通 ル所  左右 海 也 脇 津ニ三崎 観

のうえをとおるところさゆううみなりわきつにみさきかん


音(オン)堂 アリ爰 ニ泊 ル

  おん どうありここにとまる


十  三 日 曇 ル時雨 尓て折 \/雨 降ル連レの者 ハ

じゅうさんにちくもるしぐれにておりおりあめふるつれのものは


途中  尓滞 畄  春我 等ハ帰 ルおらん多舩 亦

とちゅうにたいりゅうすわれらはかえるおらんだせんまた


唐 舩 沖 尓かゝ里居ル唐 人 下官(クワン)の者

からふねおきにかかりいるとうじんげ  かん  のもの


七 八 人 陸 へ水 を扱ミ尓あかる皆 鼡  色 能

しちはちにんりくへみずをくみにあがるみなねずみいろの


木綿 能着(キ)物 頭  ニハダツ帽 をか武り多り

もめんの  き ものあたまにはだつぼうをかむりたり


初 メて唐 人 を見多り路 \/ハマヲモトコンノ

はじめてとうじんをみたりみちみちはまおもとこんの


菊 野尓あり脇 津ハ亦 長 崎 より亦 暖 土

きくのにありわきつはまたながさきよりまただんど

(大意)

(補足)

「脇津」、ウィキペディアには『「脇岬」の由来について、脇津と岬の2つの地名を合わせたものとする説がある。中世には「肥御崎(ひのみさき)」、近世は「脇御岬」または「御岬」とも表記された』とありました。深堀村は地図の右上。 

「十三日」、天明8年10月13日。西暦1788年11月10日。

「下官(クワン)」、官のくずし字は学んでいないと読めません。次の行の「水」も同様。

「扱ミ」、汲む。

「ダツ帽」、いろいろ調べても不明。

「ハマヲモト」、浜木綿(ハマユウ)の別名。「コンノ菊」、ノコンギクのことか。

「脇津ニ三崎観音(オン)堂アリ爰ニ泊ル」、観音堂に泊まったのでしょうか?いつもなら宿の様子をあれこれ記してますけど、まったくありません。


 

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