P47 東京国立博物館蔵
(読み)
脇 津深 堀 戸町 など云 処 あり二里半 参 山
わきつふかぼりとまちなどいうところありにりはんまいるやま
能うへを通 ル所 左右 海 也 脇 津ニ三崎 観
のうえをとおるところさゆううみなりわきつにみさきかん
音(オン)堂 アリ爰 ニ泊 ル
おん どうありここにとまる
十 三 日 曇 ル時雨 尓て折 \/雨 降ル連レの者 ハ
じゅうさんにちくもるしぐれにておりおりあめふるつれのものは
途中 尓滞 畄 春我 等ハ帰 ルおらん多舩 亦
とちゅうにたいりゅうすわれらはかえるおらんだせんまた
唐 舩 沖 尓かゝ里居ル唐 人 下官(クワン)の者
からふねおきにかかりいるとうじんげ かん のもの
七 八 人 陸 へ水 を扱ミ尓あかる皆 鼡 色 能
しちはちにんりくへみずをくみにあがるみなねずみいろの
木綿 能着(キ)物 頭 ニハダツ帽 をか武り多り
もめんの き ものあたまにはだつぼうをかむりたり
初 メて唐 人 を見多り路 \/ハマヲモトコンノ
はじめてとうじんをみたりみちみちはまおもとこんの
菊 野尓あり脇 津ハ亦 長 崎 より亦 暖 土
きくのにありわきつはまたながさきよりまただんど
(大意)
略
(補足)
「脇津」、ウィキペディアには『「脇岬」の由来について、脇津と岬の2つの地名を合わせたものとする説がある。中世には「肥御崎(ひのみさき)」、近世は「脇御岬」または「御岬」とも表記された』とありました。深堀村は地図の右上。
「十三日」、天明8年10月13日。西暦1788年11月10日。
「下官(クワン)」、官のくずし字は学んでいないと読めません。次の行の「水」も同様。
「扱ミ」、汲む。
「ダツ帽」、いろいろ調べても不明。
「ハマヲモト」、浜木綿(ハマユウ)の別名。「コンノ菊」、ノコンギクのことか。
「脇津ニ三崎観音(オン)堂アリ爰ニ泊ル」、観音堂に泊まったのでしょうか?いつもなら宿の様子をあれこれ記してますけど、まったくありません。
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