P28 東京国立博物館蔵
(読み)
馬 ニ乗里往 来 春るとぞ亦 爰 よりニ里程
うまにのりおうらいするとぞまたここよりにりほど
行キ石 羅漢 あり本 堂 も半 分 ハ石 ニて作
ゆきいしらかんありほんどうもはんぶんはいしにてつく
里多る者 と云 路 隔 りし故 ニ不行 此 日ミゾレ
りたるものというみちへだたりしゆえにゆかずこのひみぞれ
なと降り寒 し此 邊 ハ十 月 雪 降 とぞ申
などふりさむしこのへんはじゅうがつゆきふるとぞもうす
五 日曇 テ寒 し此 キタナキ宿 を朝 六 時 比
いつかくもりてさむしこのきたなきやどをあさむつどきころ
出 立 して飯 塚 と内 野能間 三 里半 アリ路
しゅったつしていいづかとうちののあいださんりはんありみち
尓生 なる志ゐ茸 を喰フ之 ハ初 メてなり爰 より
になまなるしいたけをくうこれははじめてなりここより
少 し往 て右 ノ方 田路 ニ入 太宰 府ヘ行ク路 なり
すこしゆきてみぎのほうたみちにはいるだざいふへゆくみちなり
夫 より多゛ん\/山 坂 路 ニて大 石 二十 間 三 十 間
それよりだ んだんやまさかみちにておおいしにじっけんさんじっけん
ある者 行 路 ニアリ飛 越し行 事 也 四里(ヨリ)を過 て
あるものゆくみちにありとびこしゆくことなり より をすぎて
(大意)
略
(補足)
「五日」、天明8年10月5日。西暦1788年11月2日。
「飯塚と内野」、飯塚は右上、内野は左下にあります。
「太宰府ヘ行ク路」、地図左側に宰府村があり、そのあたりに太宰府天満宮があるはず。
地図でも山間の路をぬうようにして街道があるのがわかります。
「山坂路ニて大石二十間三十間ある者行路ニアリ」、二十間は約36m、三十間は約54mですから、50mプールに入るくらいのでかいでかい石となります。いくらなんでもこんな大きな石がゴロゴロあって飛び越して行くなんて、大げさに記したのではと。
「西遊旅譚三」の同じあたりを確かめると、「山中尓し天大石道路(ドウロ)を塞(フサ)ぎ十間(ケン)又は五六間なる毛能阿り」とありました。これなら18mくらいのもの、10m前後の石となりますから、いくらか納得です。
途中、雪に降られたりして、やはり天明年間は世界的な異常気象の只中であったようです。
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