P24 東京国立博物館蔵
(読み)
仰 られ候 何 分 不案 内 の事 故 なりと爰 を
おおせられそうろうなにぶんふあんないのことゆえなりとここを
去リて爰 よりハ海 を右 ニ見て左 ハ山 なり
さりてここよりはうみをみぎにみてひだりはやまなり
一 里半 波 打チ濱 を通 り漸 ク小倉 なり十
いちりはんなみうちはまをとおりようやくこくらなりじゅう
万 石 小笠 原 侯 能城 下なり人 家續(ツゝ)き
まんごくおがさわらこうのじょうかなりじんか つづ き
てあると雖 モ淋ムしき所 なり吾カ僕(ホク)能云フニハ
てあるといえどもさむしきところなりわが ぼく のいうには
爰 ハ最(モ)早 唐 能地へ参 リ多るやと問ヒ个り小倉
ここは も はやからのちへまいりたるやとといけりこくら
問 屋場なしと云 夫 より比ロも七 時 なれハいそぎ
といやばなしというそれよりころもななつどきなればいそぎ
黒 崎 までハ三 里能路 ナリさて此 邊 ノ人 アミ笠
くろさきまではさんりのみちなりさてこのあたりのひとあみがさ
をか武リ農 夫ハ口 ノ処 ヲ手拭 ニて包 ミほう可武
をかむりのうふはくちのところをてぬぐいにてつつみほおかむ
里して歩(アルク)者 多 し日も暮れ闇(クラ)く山 路 ニして
りして あるく ものおおしひもくれ くら くやまみちにして
(大意)
略
(補足)
「小笠原侯」、当時は藩主小笠原忠総。享保九(1724)年〜寛政二(1790)年。豊前小倉15万石、とありました。
「仰」、頻繁に出てくるくずし字です。3つの部品でできていますが、一番右の部品は真ん中の下にきます。
「候」、これも最頻出くずし字。あまりにたくさん使われるので「丶」で省略することが多い。
「黒崎」、右上に黒崎、下端中央に木屋瀬村があります。小倉より西に向かっています。
「暮」のくずし字はほとんど「苦」の形。
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