2025年6月6日金曜日

江漢西遊日記四 その19

P24 東京国立博物館蔵

(読み)

仰  られ候   何 分 不案 内 の事 故 なりと爰 を

おおせられそうろうなにぶんふあんないのことゆえなりとここを


去リて爰 よりハ海 を右 ニ見て左  ハ山 なり

さりてここよりはうみをみぎにみてひだりはやまなり


一 里半 波 打チ濱 を通 り漸  ク小倉 なり十

いちりはんなみうちはまをとおりようやくこくらなりじゅう


万 石 小笠 原 侯 能城  下なり人 家續(ツゝ)き

まんごくおがさわらこうのじょうかなりじんか  つづ き


てあると雖  モ淋ムしき所  なり吾カ僕(ホク)能云フニハ

てあるといえどもさむしきところなりわが  ぼく のいうには


爰 ハ最(モ)早 唐 能地へ参 リ多るやと問ヒ个り小倉

ここは  も はやからのちへまいりたるやとといけりこくら


問 屋場なしと云 夫 より比ロも七  時 なれハいそぎ

といやばなしというそれよりころもななつどきなればいそぎ


黒 崎 までハ三 里能路 ナリさて此 邊  ノ人 アミ笠

くろさきまではさんりのみちなりさてこのあたりのひとあみがさ


をか武リ農 夫ハ口 ノ処  ヲ手拭  ニて包 ミほう可武

をかむりのうふはくちのところをてぬぐいにてつつみほおかむ


里して歩(アルク)者 多 し日も暮れ闇(クラ)く山 路 ニして

りして  あるく ものおおしひもくれ  くら くやまみちにして

(大意)

(補足)

「小笠原侯」、当時は藩主小笠原忠総。享保九(1724)年〜寛政二(1790)年。豊前小倉15万石、とありました。

「仰」、頻繁に出てくるくずし字です。3つの部品でできていますが、一番右の部品は真ん中の下にきます。

「候」、これも最頻出くずし字。あまりにたくさん使われるので「丶」で省略することが多い。

「黒崎」、右上に黒崎、下端中央に木屋瀬村があります。小倉より西に向かっています。 

「暮」のくずし字はほとんど「苦」の形。

 

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