P49 東京国立博物館蔵
(読み)
唐 人 がゝ里の者 なり此 人 能話 尓程 赤 城
とうじんかかりのものなりこのひとのはなしにていせきじょう
ハ浙 江 のうち乍(サ)浦と云 処 能人 なり少 シ書
はせっこうのうち さ ほというところのひとなりすこししょ
を能ク春然 共 無学 人 ニて皆 商 人 の手代
をよくすしかれどもむがくじんにてみなしょうにんのてだい
なり方 西 園 ハ福 建 能近 邊 ニて舩 を仕出ス
なりほうせいえんはふっけんのきんぺんにてふねをしだす
者 ノ親 類 ニて之 も商 人 ニて交易(コウヱキ)ニ疎(ウトク)して
もののしんるいにてこれもしょうにんにて こうえき に うとく して
画など描キ能らくら者 なり皆 学 文 亦
えなどかきのらくらものなりみながくもんまた
ハ詩なと作 ル事 ハ一 向 尓知ら春゛となり
はしなどつくることはいっこうにしらず となり
十 六 日 天 氣朝 飯 後より勝 木利助 と云 人
じゅうろくにちてんきあさめしごよりかちきりすけというひと
能方 へ参 り昼 頃 より木 庵 開 基能南 京
のかたへまいりひるごろよりもくあんかいきのなんきん
寺 ヘ行キ見ル尓寺 ハ山 ニアリ誠 ニ唐 めき
でらへゆきみるにてらはやまにありまことにとうめき
(大意)
略
(補足)
「程赤城」、『享保20年(1735)生~180?歿
名は霞生、字は赤城、号を柏塘と称し、一般的には字の赤城を以て知られた文人で、江南の人。明の船主で、医者でもあり、中国と長崎を往来して長崎の唐館に住し、書画を善くして日本の文化人と交流した清人で、日本語に通じて和歌も詠んだ。天明8年(1788)には春木南湖(江漢より二週間ほどはやく長崎に到着している)が会談しているし、文化元年(1804)には福山藩の儒医伊沢蘭軒も交流を持っている』、とありました。
「方西園」、『初来日は明和元年(1764年)とも安永元年(1772年)ともいう。安永3年(1774年)の来日記録ははっきりしている。安永9年(1780年)、45歳の時、元順号の副船主として渡海したが5月2日に房総沖で難破し安房国朝夷郡千倉に漂着。乗組員78名は全員無事だったが岩槻藩の唐人への待遇が悪く問題となった。
日本船にて長崎に移送される途中、富士山を実見。西園は「目睹して実に大観なり」と感激して絵筆を走らせたという。このほかにも日本各地を写生。後に谷文晁により「漂客奇賞図」として模刻される。その遠近法が当時大いに注目される』、とウィキペディアにありました。
「南京寺」、『興福寺は、長崎県長崎市寺町にある、日本最古の黄檗宗の寺院。山号は東明山。山門が朱塗りであるため、あか寺とも呼ばれ、仏殿を建てたので、南京寺とも呼ばれる』。
「能らくら者」、『のらくらもの のらくら者】のらくらして役に立たない人。なまけ者。のら者』。のらくろではありませんでした。
「十六日」、天明8年10月16日。西暦1788年11月13日。
ここでは程赤城、方西園にたいしてですけど、きっと唐人にたいして、江漢の彼らの蔑視・差別感が顕著にあらわれています。一方で西欧人や彼らの書物や物品・画などはペコペコとありがたがり、西欧のものならなんでも興味をもち、収集・研究をしています。
しかしながら、西遊旅譚三では支那人の風俗・船などについて冷静に画人としての目で観察し「総て支那人は日本人にかわる事なし。志(ココロザシ)はなはだ似より。雅もあり俗もあり。又顔面(ガンショク)日本人の如し。只衣装の違いあるのみなり」とあって、数ページをさいて詳しく記しています。
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