P33 東京国立博物館蔵
(読み)
へ行く路 あり十 六 里あるよし亦 久留目(クルメ)
へゆくみちありじゅうろくりあるよしまた くるめ
能城(シロ)見ユ此 間 より兎角(トカク)寒 ク此 旅 舎
の しろ みゆこのあいだより とかく さむくこのりょしゃ
あしく風邪なり此 中(ナカ)者゛るニ泊 ル七 時 過 ニ也
あしくかぜなりこの なか ば るにとまるななつどきすぎになり
埒 もなき家 なれど近 比 家作 してあら可べ
らちもなきいえなれどちかごろかさくしてあらかべ
ニハあれどたゝみもきれいなり飯 を出タ春
にはあれどたたみもきれいなりめしをいだす
さ以ハ平 さら尓十春じ程(ホト)こん婦を入 コンニヤ
さいはひらざらにとすじ ほど こんぶをいれこんにゃ
ク一 切 塩 魚 切 身一 切 誠 尓奇妙 なる
くひときれしおざかなきりみひときれまことにきみょうなる
料 理なりキタナキ田 婦能小児 をい多゛き
りょうりなりきたなきでんぷのこどもをいだ き
てき うじ春る
てきゅうじする
七 日時雨 ニて雨 降 又 ヤム神埼(カンサキ)と云 処 此 ニ
なのかしぐれにてあめふりまたやむ かんざき というところここに
(大意)
略
(補足)
太宰府から下って、原田・田代と過ぎ、そのあたりで西に曲がるのですが、どうも迷子になったみたいで、中原を探すのに全然違う山路の街道を何度も往復しました。
中原は地図の中央にあり、神崎は左隅にあります。大宰府はこの地図からはみだしてずっと右上になります。
これならば、途中で確かに「久留目(クルメ)能城(シロ)」が見えます。地図には久留米、有馬玄蕃頭居城とあります。
「七時」、午後4時で秋でありまた山路なのでもう暗かったはずです。
「埒もなき家」の晩飯は、細く切った昆布が10切れとコンニャク一切れ、それに塩魚一切れが一皿にのったもの。このあたりは天明の大飢饉の影響はあまりなかったのかもしれません。
「七日」、天明8年10月7日。西暦1788年11月4日。
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