2025年6月24日火曜日

江漢西遊日記四 その37

P44 東京国立博物館蔵

(読み)

なり多る前 ハ長 崎 甚 左衛門 と云 人 能領  地也

なりたるまえはながさきじんざえもんというひとのりょうちなり


此 日本 へ異国 ヨリ舩 を着(ツク)ルハ伊勢能大湊(ミナト)

このにほんへいこくよりふねを  つく るはいせのおお みなと


と云 所  さダかなら春゛夫 より泉 州  堺  の濱 ナリ

というところさだかならず それよりせんしゅうさかいのはまなり


亦 筑 前 博多 者か多より肥前 平 戸嶋 尓

またちくぜんはかたはかたよりひぜんひらどしまに


渡海 して寛 永 辛  巳の年 今 能長 崎 尓

とかいしてかんえいかのとみのとしいまのながさきに


なるさておらん多大 通 詞吉 雄(ヲ)幸 作 同  ク

なるさておらんだだいつうじよし  お こうさくおなじく


本 木榮 之進 両  人 未 タ役 所 より不返  夫 故

もときえいのしんりょうにんいまだやくしょよりかえらずそれゆえ


か者゛嶋 町  稲 部松 十  郎 へ行ク此 者 ハおらん多゛

かば しまちょういなべまつじゅうろうへゆくこのものはおらんだ


部屋付 役 ノ者 なり先ツ是 ニ暫  ク滞 畄  春日

べやつきやくのものなりまずこれにしばらくたいりゅうすひ


暮レて吉 雄本 木能二 人参 ル亦 本 木の息 元

ぐれてよしおもときのふたりまいるまたもときのそくもとよし

(大意)

(補足)

「長崎甚左衛門」、『長崎 甚左衛門純景(ながさき じんざえもん すみかげ、天文17年(1548年)? - 元和7年12月22日(1622年1月25日))は戦国時代・安土桃山時代の城主。深江浦(長崎)を領す。キリシタン大名』

「寛永辛巳(かのとみ)の年」、寛永十八1641)年

「大通詞」、明暦二(1656)年以後、大通詞・小通詞・小通詞並・小通詞末席・稽古通詞・内通詞と階級がもうけられていた。

「吉雄(ヲ)幸作」、享保九(1724)年〜寛政十二(1800)年。51年間も大通詞職で活躍。解体新書初版に序文をよせている、とありました。

「本木榮之進」、享保二十(1735)年〜寛政六(1794)年。オランダ通詞、蘭学者。

 江漢は天文学方面のこの大先達に直接会って啓発されることが多かったようで、この旅が終えてから、もっぱら天文・地理をはじめとする西洋自然科学の研究と啓蒙書著述に没頭していった、とありました。

「本木の息元吉」、元吉ではなく茂吉。明和二(1767)年生まれ。

 

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