2025年8月7日木曜日
江漢西遊日記五 その12
2025年8月6日水曜日
江漢西遊日記五 その11
P11 東京国立博物館蔵
(読み)
亦 何 ヤラ魚 尓タイ\/能酢を入 又 梅 干 能肉 尓
またなにやらさかなにだいだいのすをいれまたうめぼしのにくに
ニンニクをあしらへ味噌ニて幸 作 朝 ヨリ酒
にんにくをあしらえみそにてこうさくあさよりさけ
を呑 吾 等尓進 メルさて\/困 入ル夫 よりして
をのみわれらにすすめるさてさてこまりいるそれよりして
サツマ芋 能粥(カユ)を喰フサツマ能国 能醫者 幸
さつまいもの かゆ をくうさつまのくにのいしゃこう
作 能弟子となり居ル此 者 申 ニハ在 所 ヘ舩 中 七
さくのでしとなりおるこのものもうすにはざいしょへせんちゅうなな
十 里近 日 爰 元 を出 立 見 物 なからお出デ
じゅうりきんじつここもとをしゅったつけんぶつながらおいで
あらん歟と申 个連と竟 いか春゛此 者 サツマ
あらんかともうしけれどついにいかず このものさつま
琵琶(ヒワ)を弾 个り古風 なる物 なり夫 よりして
びわ をひきけりこふうなるものなりそれよりして
猪能又 と云 鉄 細 工人 の処 へ参 ル細 工道 具等(トフ)
いのまたというてつざいくじんのところへまいるさいくどうぐ とう
砥(ト)車 など皆 おらん多風 ニて日本 の鍛冶能
と くるまなどみなおらんだふうにてにほんのかじの
(大意)
略
(補足)
「幸作能弟子」、吉雄幸作は通詞職のかたわら、数名の蘭館医師より直接医術の伝習をうけ、蘭方医術をみにつけ、自宅に成秀館を開塾し、多くの門弟を教え導いた。入門を請うものはひきをきらなかったという。
前野良沢・杉田玄白らとの交流は深く、2人が携わった『解体新書』に幸作は序文を寄せている。
ヌタもうまそうですが、ダイダイの酢味噌に梅肉とニンニクを入れて食している魚もきっと刺し身かやはりヌタのようなものじゃないかとおもいます。これもうまそう。
2025年8月5日火曜日
江漢西遊日記五 その10
P10 東京国立博物館蔵
(読み)
十 日天 氣晩 七 時 比 役 所 ヨリ幸 作 を呼ヒ尓参
とおかてんきばんななつどきころやくしょよりこうさくをよびにまいる
帰 りて承 レバ紅 毛 舩 能小舟 鍋 嶌 領 地ヘ吹 流
かえりてうけたまわればこうもうせんのこぶねなべしまりょうちへふきなが
され多るを漂 流 と云 立 し故 尓表 向 となる
されたるをひょうりゅうといいたてしゆえにおもてむきとなる
昼 比ロより大 徳 寺ヘ行ク方 丈 ニ逢 十 四 日尓出
ひるごろよりだいとくじへゆくほうじょうにあいじゅうよっかにしゅっ
立 せん事 を云 酒 吸 物 を出し唐 人 書 外 ニ
たつせんことをいうさけすいものをだしとうじんしょほかに
おらん多指 輪鉄 ニて作 ルタバコ入 餞 別 尓贈 ラ
おらんだゆびわてつにてつくるたばこいれせんべつにおくら
る此 方 からも紙 の画三 枚 絹 地画一 枚 遣 ス
るこのほうからもかみのえさんまいきぬじえいちまいつかわす
平 戸屋しきより飛脚 舟 参 り十 三 日 尓出 舩
ひらどやしきよりひきゃくふねまいりじゅうさんにちにしゅっこう
と申 来 ル
ともうしきたる
十 一 日 雨 天朝 鰯(イワシ)のヌタ尓蕃菽(トウカラシ)ネギを入 シ
じゅういちにちうてんあさ いわし のぬたに とうがらし ねぎをいれし
(大意)
略
(補足)
「十日」、天明8年11月10日。西暦1788年12月7日。
「承」、このくずし字は一度見れば特徴的なので覚えられそう。
「嶌」、普通は「嶋」ですが、「嶌」や「㠀」もあっていろいろです。
「方丈」、『② 〔インドの維摩(ゆいま)居士の居室が一丈四方であったという故事から〕寺の住職の居室。また,住職の俗称。維摩の方丈』
「贈ラる」、江漢さんは人から贈られたときも贈るときも、この日記の中では「贈る」としてますが、ここでは「贈らる」と受け身になっています。
2025年8月4日月曜日
江漢西遊日記五 その9
P9 東京国立博物館蔵
(読み)
八 日曇 四 時 より平 戸屋しきへ参 ツイ立 ニ墨(ホク)
ようかくもりよつどきよりひらどやしきへまいりついたてに ぼく
梅(ハイ)を認 メ其 外 画色 \/描(カキ)酒 を呑 帰 ル夫
ばい をしたためそのほかえいろいろ かき さけをのみかえるそれ
より大 村 町 定 之助 へ参 ルブタを煮て夜
よりおおむらちょうさだのすけへまいるぶたをにてや
喰 を出春至(イタッテ)うまし
しょくをだす いたって うまし
九 日曇 て大 西 風 寒 し頼(タノ)れまれ多る画を
ここのかくもりておおにしかぜさむし たの れまれたるえを
所 々 へ遣 春幸 作 をおぢ様 と云フ四 歳 位
しょしょへつかわすこうさくをおじさまというよんさいくらい
能小童 あり實 ハ妾(セ ウ)腹 能子と云 蘭 語ヲ
のこどもありじつは しょう ばらのこというらんごを
能ク覚 へて牛 肉 をクウベイスと云 馬 をパー
よくおぼえてぎゅうにくをくうべいすといううまをぱー
ルドと云 サツマ芋 を与(ヤレ)ハレツケル\/ とて喰ひ
るどというさつまいもを やれ ばれっけるれっけるとてくい
个り今 幸 作 跡 ハ此 童 なり。レツケルハ美味ノ事
けりいまこうさくあとはこのわらわなり れっけるはびみのこと
(大意)
略
(補足)
「八日」、天明8年11月8日。西暦1788年12月5日。
「四歳位能小童」、後の吉雄権之助、天明5(1785)年〜天保(1831)2年。オランダ語は非常に巧みで、英・仏語にも通じ、蘭医レッケより外科を学んだ。シーボルトとも親交があり、その門下の日本人にオランダ語を教えた。著作も多数ある。
「實ハ妾(セウ)腹能子と云」、吉雄耕牛(幸作)(享保9(1724)年〜寛政12(1800)年)の妾の子で、耕牛62歳のときの子なので幼名を六二郎とよんだ。
「クウベイス」、オランダ語kooesvlees(コウエスヴレス)を調べると牛の肉とありました。
「パールド」、paard。「レツケル」、lekker。
歴史上の人物の普段の姿が出てきています。
2025年8月3日日曜日
江漢西遊日記五 その8
P8 東京国立博物館蔵
(読み)
見 物 春土間ニしてろくロ挽キ鍛冶道 具
けんぶつすどまにしてろくろひきかじどうぐ
其 餘 奇妙 なる形 チの物 数 々 あり
そのほかきみょうなるかたちのものかずかずあり
幸 作 細 工ハせ袮と好 事ニ色 \/あ川め
こうさくさいくはせねどこうずにいろいろあつめ
多る者 なり此 日田舎(イナカ)者 病 氣とて薬
たるものなりこのひ いなか ものびょうきとてくすり
をもろふ幸 作 の云フシヤンスを\/ と云ふ
をもらうこうさくのいうしゃんすをしゃんすをという
何(ナン)能事 歟と思 ヒし尓相思(シヤンス)とて唐 音 ニ
なん のことかとおもいしに しゃんす とてとうおんに
て色 情 を云フ事 とぞ
てしきじょうをいうこととぞ
七 日天 氣風 立 おらん多正 月 十 五日 立 色 \/
なのかてんきかぜたつおたんだしょうがつじゅうごにちたついろいろ
調 求 多る物 荷こしらへし此 便 ニ江戸へ遣 春
しらべもとめたるものにごしらへしこのびんにえどへつかわす
べしとて頼 ム
べしとてたのむ
(大意)
略
(補足)
「相思(シヤンス)」、発音を調べると、シャンスーときこえます。しかし意味は色情ではなく、漢字二文字そのままでお互いに思い合うでありました。
「七日」、天明8年11月7日。西暦1788年12月4日。
お土産をいっぱいかっているので、どう運ぶのかとおもっていたら、船便で江戸へおくるとは、送料けっこう高いはず。宅配はこの時代から当たり前のようでした。
2025年8月2日土曜日
江漢西遊日記五 その7
P7 東京国立博物館蔵
(読み)
ヤギ豕(ブタ)ニハ鳥 を飼(カイ)賣ルなり夫 より幸
やぎ ぶた にわとりを かい うるなりそれよりこう
作 方 へ返 り枕(マクラ)元(モト)へ火者゛ち二 ツ置キドンス
さくかたへかえり まくら もと へひば ちふたつおきどんす
縮 面 能夜具を着(キ)て彼ノおらん多二階 ニ
ちりめんのやぐを き てかのおらんだにかいに
休 ミ个る
やすみける
六 日曇 ル寒 し朝 起キ勝 手ノ方 を見ル尓皆
むいかくもるさむしあさおきかってのほうをみるにみな
何尓毛かもおらん多風 なり夫 より二階 尓
なにもかもおらんだふうなりそれよりにかいに
登 り倚子(イス)尓よりヤギ小鳥 を焼 てボウ
のぼり いす によりやぎことりをやきてぼう
トルを付 喰フ飯 のさ以ヤギ尓油 醤(セウ ユ)ヲ付 焼ク
とるをつけくうめしのさいやぎにあぶら しょうゆ をつけやく
晩 甲 子祭 小豆 飯 出来ル幸 作 悴 定
ばんきのえねまつりあずきめしできるこうさくせがれさだ
之助 定 五良 参 ル亦 細 工場と云 処 あり
のすけさだごろうまいるまたさいくばというところあり
(大意)
略
(補足)
「六日」、天明8年11月6日。西暦1788年12月3日。
「ボウトル」、boter。オランダ語でバター。
「甲子祭」、『きのえねまつり【甲子祭り】、きのえねまち【甲子待ち】に同じ。甲子の日の前夜,子の刻(午前零時頃)まで起きていて,二股大根・黒豆などを供え,大黒天をまつる風習。江戸時代,商家で行われた。きのえね祭り』
江漢さん、絵の修業よりも、オランダ船に乗船したり唐船をまじかでみて写生したり、ヤギや鶏、また豚も食ったり、それもバターを付けてと、こちらのほうの修行に忙しそうです。文字通り血となり肉となる修行。
2025年8月1日金曜日
江漢西遊日記五 その6
P6 東京国立博物館蔵
(読み)
べしと云 夫 尓決 春
べしというそれにけっす
五 日天 氣亦 \/平 戸屋しき三平 次方 へ
いつかてんきまたまたひらどやしきさへいじかたへ
参 ル酒 吸 物 を出ス亦 鶏肉(ケイニク)を喰フ皮(カワ)骨(ホネ)
まいるさけすいものをだすまた けいにく をくう かわ ほね
共 尓切 タル者 なり江戸能鶏 肉 ハ皮 武き
ともにきりたるものなりえどのけいにくはかわむき
皮 至 てコハシ骨(ホネ)至 てか多し肉 も筋 多 く
かわいたってこわし ほね いたってかたしにくもすじおおく
して剛(コワシ)爰 ニて喰ヒ多るハ魚 能煮タル如 く箸(ハシ)ニテ
して こわし ここにてくいたるはさかなのにたるごとく はし にて
肉 骨 を能ク離(ハナ)ル肉 至 てや王らかなり帰 リ
にくほねをよく はな るにくいたってやわらかなりかえり
て幸 作 ニ話(ハナシ)个連ハ何ンぞ鶏 尓か王る事 なし
てこうさくに はなし ければなんぞとりにかわることなし
酒 ニて半 時 煮多る者 と云 浦 上 ニて賣ルなり
さけにてはんときにたるものといううらがみにてうるなり
五文 銭 を出セハ羽(ケ)を引 テうる此 浦 上 ト云 処 ハ
ごもんぜにをだせば け をひきてうるここうらがみというところは
(大意)
略
(補足)
「五日」、天明8年11月5日。西暦1788年12月2日。
江戸の鶏肉の食べ方や、皮や骨が硬いこと、肉も筋が多くこれまた固いこと、興味深いはなしであります。







