2025年11月22日土曜日

江漢西遊日記六 その50

P60 東京国立博物館蔵

(読み)

あり楠 の碑を石 摺 ニして賣ル亦  清盛 ノ石

ありくすのひをいしずりにしてうるまたきよもりのいし


塔(ハカ)アリ布 引 の瀧 ハ摩耶山 ノ下 ニアリ山 ノ中  腹

  はか ありぬのびきのたきはまやさんのしたにありやまのちゅうふく


より望  て能キ瀧 ナリ岡 本 と云 処  其 比 梅 さか

よりのぞみてよきたきなりおかもとというところそのころうめさか


里兵  庫の者 梅 見ニ行ク夫 より西 の宮 ニ泊 ル

りひょうごのものうめみにゆくそれよりにしのみやにとまる


以上  十  里の路 也

いじょうじゅうりのみちなり


十  七 日 雨 大 降 大 坂 迄 五里駕籠ニ能る

じゅうしちにちあめおおぶりおおさかまでごりかごにのる


晩 七 ツ時 比 丸 清 方 ニ著ク宿 元 の状  正  月 二 日

ばんななつどきころまるせいかたにつくやどもとのじょうしょうがつふつか


出無事ナルヨシ安心(アンシン)春る

でぶじなるよし   あんしん する


十  八 日 天 氣北 堀 江蒹 葭堂 ヘ行ク色\/

じゅうはちにちてんききたほりえけんかどうへゆくいろいろ


談 話春昼 過 帰 ル晩 方 丸 庄。 治兵衛。扇 久。

だんわすひるすぎかえるばんがたまるしょうじへえ せんきゅう

(大意)

(補足)

「布引の瀧ハ摩耶山ノ下ニアリ」、日記では「耶」が「邪」。 

 古地図の左下の神戸村をでてすぐ左上が布引の滝、その右上に摩耶山があります。そのまま街道に沿って中央辺りが岡本村になり、さらにすすんで古地図の右側が西宮宿です。

「以上十里の路也」ですから、40kmすすんだことになります。

「十七日」、寛政1年2月17日 1789年3月13日。

「大坂迄五里駕籠ニ能る」、20kmを二人でかつぎとおすのは難しいでしょうから、きっと交代のかつぎ手がふたりいたとおもいます。

「北堀江蒹葭堂ヘ行ク」、長崎へ行くときも何度か立ち寄ってます。

 帰りは駕籠をよく使ってます。一刻も早く江戸へ帰りたい気持ちでいっぱいなようです。

 

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