P59 東京国立博物館蔵
(読み)
屋庄 左衛門 方 へより丹 波福 知山 ヘ行ク尓ハ
やしょうざえもんかたへよりたんばふくちやまへゆくには
市能河 尓付 て山 尓ニ入 ルよし此 節 雪 も
しのかわにつきてやまににはいるよしこのせつゆきも
あり亦 路 難 所 なれハ不行 加古川 ヘ四里
ありまたみちなんしょなればゆかずかこがわへしり
大 久保へ三 里半 五十 町 又 一 里程 行キ明
おおくぼへさんりはんごじっちょうまたいちりほどゆきあか
石川 者゛多尓泊 ル大 倉 谷 本 宿 なり爰 ヨリ
しかわば たにとまるおおくらだにほんしゅくなりここより
淡 路嶋 見へ大 坂 ニ近カより多る心 持 春る
あわじしまみえおおさかにちかよりたるこころもちする
十 六 日 天 氣六 時 過 尓明 石を發 足 して
じゅうろくにちてんきむつどきすぎにあかしをほっそくして
舞 子カ濱 風 景 よし敦盛(アツモリ)の石 塔 の
まいこがはまふうけいよし あつもり のせきとうの
前 ニて蕎麦を喰ヒ程 なく兵 庫ニ至 楠
まえにてそばをくいほどなくひょうごにいたるくす
能碑(ヒ)あり少 シ山 ニ入 て廣 厳 寺ニ宝 物
の ひ ありすこしやまにいりてこうごんじにほうもつ
(大意)
略
(補足)
地名がたくさんでてきます。
「姫路」より「加古川」へ、
「大久保(大窪)」より「明石」で泊、
「大倉谷(大蔵谷)」より「敦盛(アツモリ)の石塔」へ、
「敦盛墓兵庫津神戸」、
「廣厳寺(こうごんじ)」、『神戸市中央区楠町七丁目にある臨済宗の仏教寺院。別名の楠寺として広く知られる』
「十六日」、寛政1年2月16日 1789年3月12日。
「敦盛(アツモリ)の石塔の前ニて蕎麦を喰ヒ」、古地図を見ても風光明媚な浜がずっとつづき、淡路島などの島々が見えて、そばもさぞかしうまかったことでありましょう。





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