2025年11月21日金曜日

江漢西遊日記六 その49

P59 東京国立博物館蔵

(読み)

屋庄  左衛門 方 へより丹 波福 知山 ヘ行ク尓ハ

やしょうざえもんかたへよりたんばふくちやまへゆくには


市能河 尓付 て山 尓ニ入 ルよし此 節 雪 も

しのかわにつきてやまににはいるよしこのせつゆきも


あり亦 路 難 所 なれハ不行 加古川 ヘ四里

ありまたみちなんしょなればゆかずかこがわへしり


大 久保へ三 里半 五十 町  又 一 里程 行キ明

おおくぼへさんりはんごじっちょうまたいちりほどゆきあか


石川 者゛多尓泊 ル大 倉 谷 本 宿  なり爰 ヨリ

しかわば たにとまるおおくらだにほんしゅくなりここより


淡 路嶋 見へ大 坂 ニ近カより多る心  持 春る

あわじしまみえおおさかにちかよりたるこころもちする


十  六 日 天 氣六 時 過 尓明 石を發 足 して

じゅうろくにちてんきむつどきすぎにあかしをほっそくして


舞 子カ濱 風 景 よし敦盛(アツモリ)の石 塔 の

まいこがはまふうけいよし   あつもり のせきとうの


前 ニて蕎麦を喰ヒ程 なく兵  庫ニ至  楠

まえにてそばをくいほどなくひょうごにいたるくす


能碑(ヒ)あり少 シ山 ニ入 て廣 厳 寺ニ宝 物

の  ひ ありすこしやまにいりてこうごんじにほうもつ

(大意)

(補足)

地名がたくさんでてきます。

「姫路」より「加古川」へ、

「大久保(大窪)」より「明石」で泊、

「大倉谷(大蔵谷)」より「敦盛(アツモリ)の石塔」へ、

「敦盛墓兵庫津神戸」、

「廣厳寺(こうごんじ)」、『神戸市中央区楠町七丁目にある臨済宗の仏教寺院。別名の楠寺として広く知られる』

「十六日」、寛政1年2月16日 1789年3月12日。

「敦盛(アツモリ)の石塔の前ニて蕎麦を喰ヒ」、古地図を見ても風光明媚な浜がずっとつづき、淡路島などの島々が見えて、そばもさぞかしうまかったことでありましょう。

 

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