P51 東京国立博物館蔵
(読み)
个連ハ田夫田畑 の間 へタイ松 を持チ数 \/出シ
ければたふたはたのあいだへたいまつをもちかずかずだし
路 を照 し田夫の家 ニハあんどんを門(カト)口 ニ出シ
みちをてらしたふのいえにはあんどんを かど ぐちにだし
又 タヒ松 を持 セ城 下迄テ連(ツレ)行 ハ尚 \/あり
またたいまつをもたせじょうかまで つれ ゆくはなおなおあり
か多く思 フよし老 人 ハ数 珠を以 テ拝(ヲカム)なり
がたくおもうよしろうじんはじゅずをもって おがむ なり
誠 尓愚直(クチヨク)なる者 ニて上ミ尓居ル者 之 を憐(アハレム)
まことに ぐちょく なるものにてかみにいるものこれを あわれむ
べし
べし
五 日雨 昼 より天 氣昼 過 御殿 へ出テ小襖
いつかあめひるよりてんきひるすぎごてんへでてこふすま
二組(クミ)桜 尓小鳥 流 尓鮎 の画なり明日出 立ツ
に くみ さくらにことりながれにあゆのえなりあすしゅったつ
せんと申 上ケ个連ハ初 午 見 物 して八 日ニ出 立
せんともうしあげければはつうまけんぶつしてようかにしゅったつ
スべしと鹿 の肉 鴨 一 羽を下タさる
すべしとしかのにくかもいちわをくださる
(大意)
略
(補足)
「五日」、寛政1年2月5日 1789年3月1日。
「鹿の肉鴨一羽を下タさる」、鹿肉鴨肉を頂いたものの、江漢さんが料理をするわけではなく、この日記にも料理人が困っている様子がかかれています。春波楼筆記にはこのようにあります。
江漢が鹿の生血をすすりのんだいきさつは、この日記と春波楼筆記ではことなって記されていますが、どちらにしろこれらのことは事実であったようです。



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