P68 東京国立博物館蔵
(読み)
五郎兵衛方 ニ泊 ル此 近 く尓銀 山 アリ
ごろべえかたにとまるこのちかくにぎんざんあり
廿 四 日曇 ル後 天 氣爰 ヨリ三 里を行キて
にじゅうよっかくもるのちてんきここよりさんりをゆきて
深 山 尓入 ル瀧 アリ箕 尾の瀧 と云 能き
しんざんにはいるたきありみのおのたきというよき
瀧 なり右 ノ方 岩 石 を踏(フン)て攀(ヨシ)能ほり
たきなりみぎのほうがんせきを ふん で よじ のぼり
勝 尾 寺ニ至 り観 音 能札 所 也 大 坂 の城
かつおうじにいたりかんのんのふだしょなりおおざかのしろ
見ユ爰 ヨリ五里アリ山 上 より望 ム尓山 なし
みゆここよりごりありさんじょうよりのぞむにやまなし
平 地尓見へ山 を下 レハ皆 山 路 なり河 二 ツ
へいちにみえやまをくだればみなやまみちなりかわふたつ
を越へ一 ツハナカラ能渡 しと云フ北 堀 江三 町
をこえひとつはながらのわたしというきたほりえさんちょう
目尼 崎 屋五兵衛方 ニ夜 の四 時 過 ニ参 ルサテ
めあまざきやごへえかたによるのよつどきすぎにまいるさて
其 路 喰 物 なし暗夜(アンヤ)田のあぜ路 ニテ
そのみちくいものなし あんや たのあぜみちにて
(大意)
略
(補足)
「五郎兵衛」、漢数字では「五」のくずし字が一番わかりにくいのですけど、ここのは楷書です。
「廿四日」、寛政1年2月24日 1789年3月19日。
「箕尾の瀧」、箕面です。画像の中央付近。勝尾寺はその右斜め上。
「北堀江三町目」、AIの概要では、
『江戸時代の北堀江三丁目周辺
堀江新地の開発: 元禄11年(1698年)に河村瑞賢によって西横堀川と木津川を結ぶ堀江川が開削され、その周辺が開発されました。この新しく開かれた土地が「堀江新地」と呼ばれました。
遊郭と芝居: 堀江新地は遊郭として発展し、幕府公認の新町遊廓に匹敵するほどの賑わいを見せました。また、歌舞伎座や人形浄瑠璃の小屋も開かれ、道頓堀に負けない芝居街としても知られていました。多くの人形浄瑠璃や浮世草子といった小説の舞台にもなっています。「橘通」という町名: 江戸時代、この辺りは「橘通(たちばなどおり)」という町名でした。
文化人の交流: 南堀江三丁目には、文人や勤王の志士であった藤井藍田の学塾「玉生堂」跡の碑があるなど、文化的な側面も持っていました。
このように、江戸時代の北堀江三丁目は、大阪の「天下の台所」と呼ばれる経済的な中心地とは異なる、華やかな娯楽と文化の中心地として機能していました』、とありました。
AIは平気でとんでもない間違いをしますけど、江漢さんが訪れた2年後、『寛政3年(1791)10月10日「堀江・島之内大火」南堀江伏見屋四郎兵衛町より出火 南北堀江、島之内を焼き尽くし町数87ヶ所を消失』は事実のようであります。


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