2025年1月7日火曜日

江漢西遊日記二 その7

P11 東京国立博物館蔵

(読み)

せけれハあき連て誠  なりとせ春゛吾(ワレ)た王

せければあきれてまことなりとせず   われ たわ


武れ尓曰  之 ハたゞ見セてハならぬ一 人三 十  二文

むれにいわくこれはただみせではならぬひとりさんじゅうにもん


宛 出春へしと云ヘハまことニして各 \/銭 を

ずつだすべしといえばまことにしておのおのぜにを


出し希り山 中  能人 質(シツ)朴(ボク)なる事 かく能如 し

だしけりさんちゅうのひと  しつ   ぼく なることかくのごとし


巣(ス)山 へ一 里カウレ峠  亦 坐頭 轉  シ四十  四曲  坂

  す やまへいちりかうれとうげまたざとうころがししじゅうしまがりさか


を下 リ三河 遠 州  堺  能峠  一 里半 五十 町  一 里ニ

をくだりみかわえんしゅうさかいのとうげいちりはんごじっちょういちりに


して大 難 所 也 殊  尓炎 暑 にしてあせを絞(シホリ)

してだいなんしょなりまことにえんしょにしてあせを  しぼり


个る程 なく大 野と云 へ出テ人 家津ゞけり

けるほどなくおおのというへでてじんかつづけり


爰 能問 屋ハ醫者(イシヤ)なり其 ゐ者 の云フ尓ハあ

ここのとんやは   いしゃ なりそのいしゃのいうにはあ


なタハさし付 多る申  分ンニハ候  得共 何ニを好 ミ

なたはさしつけたるもうしぶんにはそうらえどもなにをこのみ

(大意)

略

(補足)

「巣山、大野」、大雑把な地図ですけど、参考までに。

「あなタハさし付多る申分ンニハ候得共」、不躾(ぶしつけ)なことをお聞きしますが、のような意味でしょうか。候得共は3文字セットで覚えるくずし字重要語句です。

 江漢さんも人が悪い。「た王武れ」とはいえ「一人三十二文宛出春へし」は、江戸ではかけそば二杯程度の銭でも、この山奥でその貧しさを見てきてわかっているだろうに、しかし「まことニして各\/銭を出し」たのだから、「山中能人質(シツ)朴(ボク)なる事かく能如し」なんて感心してないでくださいな。

 こんな辺鄙な山奥でも銭が流通していたのは、秋葉街道付近は多くの人たちでにぎわっていたからでしょうか。


 

2025年1月6日月曜日

江漢西遊日記二 その6

P10 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   九日 天 氣ニて明 方 熊 村 庄  屋孫 右衛門方

にじゅうくにちてんきにてあけがたくまむらしょうやまごえもんかた


を出  立 春四面 能山 より霧(キリ)モヤを起 シ

をしゅったつすしめんのやまより  きり もやをおこし


山 中  能景色 なり人 足 能者 話(ハナシ)尓去 年

さんちゅうのけしきなりにんそくのもの  はなし にきょねん


能事 ニて此 山 中  尓て小童 草を刈(カリ)し尓

のことにてこのさんちゅうにてこどもくさを かり しに


何 ヤラ獣  出て飛 かゝ里个連ハ一 人ハ尓げ

なにやらけものでてとびかかりければひとりはにげ


多り跡 行 見れハ頭  ばかり残 シてあり当 年

たりあとゆきみればあたまばかりのこしてありとうねん


毛大 能男  お和れ个る何 ニと云 獣  ヤラ色 ハ赤 ク

もだいのおとこおわれけるなににというけものやらいろはあかく


覚(ヲホヘ)多るトヤ亦 江戸と申  処  ハと能様 なる処  と聞ク

  おぼえ たるとやまたえどともうすところはどのようなるところときく


故 尓荷の内 ニ我 等造 リ多る覗(ノソキ)目か年を所

ゆえににのうちにわれらつくりたる  のぞき めがねをしょ


持春両  国 橋 の圖江戸橋 能づあり之(コレ)を見(ミ)

じすりょうごくばしのずえどばしのずあり  これ を  み

(大意)

略

(補足)

「廿九日」、天明8年六月廿九日。西暦1788年8月1日。

「覗(ノソキ)目か年」、18世紀ヨーロッパに各地名所絵とともに流行し、これがまもなく中国、日本に伝来した。円山応挙が1750年代に京都名所の眼鏡絵を制作したのは有名。江漢はこの器具を自作銅版画の眼鏡絵数点とともに携行していた。反射式覗き眼鏡は神戸市立博物館のHPで見ることが出来ます。

「両国橋の圖」、もとの画は反射式眼鏡絵として制作されたので左右反対の構図となってますので、ここではそれを反転させています(題名が鏡文字になっています)。

 手前の出店は両国橋の西岸のにぎわい、両国橋の上にはたくさんの人々が細かく描かれています。隅田川の上流に見える橋は吾妻(東)橋。その左側に大きな屋根は浅草寺でしょう。

「江戸橋能づ」、もと画は色付き。 


 


 

2025年1月5日日曜日

江漢西遊日記二 その5

P7 東京国立博物館蔵

P8P9

(読み)

誠  尓深 山 ニして渓 水 飛ヒ流  ル日も晩 景 ニなり

まことにしんざんにしてけいすいとびながるるひもばんけいになり


け連ハ庄  屋の家 尓泊 ル此 家 障  子なし夜 ニ

ければしょうやのいえにとまるこのいえしょうじなしよるに


なれとも燈 火なし松 の婦しをともしびと春

なれどもとうかなしまつのふしをともしびとす


寝入りて夜更(フケ)猪(シゝ)を追(ヲ)フ聞(コヱ)をきく江戸

ねいりてよ  ふけ   しし を  お う  こえ をきくえど


尓産 れて此 山 中  ニ至 ル事 初 メなりハ奇妙

にうまれてこのさんちゅうにいたることはじめなりばきみょう


尓珍ツラしく思 ヒぬ爰 迄 来ル路 より人 をや

にめずらしくおもいぬここまでくるみちよりひとをや


とゐ荷物 を為持 し尓廿   二三 能女  なり

といにもつをもたせしににじゅうにさんのおんななり


ひ多ゐニて背(セ)負(ヲゝ)なり顔 色 を見れハ相(ソヲ)

ひたいにて  せ   おう なりかおいろをみれば  そう


應 尓見ヘ衣(イ)装(セ ウ)を能くし化粧(ケセ ウ)春るならハ

おうにみえ  い   しょう をよくし   けしょう するならば


美人 とも云 へし可゛かゝる山 家尓産(ウマ)れて

びじんともいうべしが かかるさんかに  うま れて

P8

かゝる王ざを春る事 哉 とて感 じ个連

かかるわざをすることかなとてかんじけれ


熊 村 の圖

くまむらのず

P9

鳳(ホウ)来(ライ)寺ノ方

  ほう   らい じのほう


重  山 かきりなく

ちょうざんかぎりなく


見ヘル

みへる

(大意)

略

(補足)

「松の婦しをともしび」、松は油分が多いので松明などに使われますが、大きな節の部分は製材するときに除かれて捨てられてしまいます。貧しい庄屋ではそれらも燃やして灯火としたのかもしれません。

「猪(シゝ)を追(ヲ)フ」、山深い地域、獣のほうが優勢でしょうから、夜更けでもなんでもいつでも、作物を守らなければ食べていけなかった。

「ひ多ゐニて背(セ)負(ヲゝ)なり」、「庵原深山の婦人(西遊旅譚一)」の画。「廿二三能女」には見えませんが・・・ 

 熊村の図はなるほど険しい。江漢の手になると、どこかのどかな雰囲気になってしまいますけど。P9の下の方をよく見ると、天秤棒をかついでいる人が小さく描かれています。これはきっと下僕の弁喜に違いありません。

 また囲いのようなものがいたるところにありますが、これが獣よけの柵なのでしょう。

街道の一里とは全く異なり、山路・渓谷・川など乗り越え渡らなければならぬものがたくさんあって、その大変さはちょっと想像がつきません。がんばれ弁喜!


 

2025年1月4日土曜日

江漢西遊日記二 その4

P6 東京国立博物館蔵

(読み)

サイ河 ハ天 龍  河 能源(ミナモト)なり川 原ヒヨ\/

さいかわはてんりゅうがわの  みなもと なりかわらひよひよ


と廣 く此 河 舟 渡 シ何(イツ)くを見ても渡 し

とひろくこのかわふなわたし  いづ くをみてもわたし


舟 見得春゛人 の足 跡 あるを見て行 ハ渡 し

ふねみえず ひとのあしあとあるをみてゆけばわたし


場なりと思 ひし尓人 能足 跡 ニハあら春゛獣

ばなりとおもいしにひとのあしあとにはあらず けもの


の足 跡 なり夫 より大 音 ニて舟 よ\/ と

のあしあとなりそれよりだいおんにてふねよふねよと


呼ヒ个連ハどこかゝら舟 出テ个連ハ其 舟 尓

よびければごこかからふねでてければそのふねに


能里渡 里个る六 月 能炎 暑 なれハ往 来 ノ

のりわたりけるろくがつのえんしょなればおうらいの


人 且 てなき故 なり渡 シ守 一 人二 人を渡 シ

ひとかってなきゆえなりわたしもりひとりふたりをわたし


てハ賃(チン)銭 不取  可故 なりとぞ爰 より石 打チと云フ

ては  ちん せんとれざるがゆえなりとぞここよりいしうちという


処  ヘ出 亦 二里を過 て熊(クマ)村 と云フ処 ロ山 の中  段

ところへいでまたにりをすぎて  くま むらというところやまのちゅうだん

(大意)

略

(補足)

「ヒヨ\/」、辞書にあるのですけど意味は『① (赤ん坊のひよめきなどが)弱々しく動くさま。ひくひく。② ひな鳥などの鳴き声を表す語。ぴよぴよ』とあって、広くにはつながりません。ヒロビロと広いとしても意味が重なってしまうけど、とても広い河原という意味なら通じそうです。

「此河舟渡シ」、「舟よ\/」、ここの「舟」のくずし字は独特、たびたび出てきています。

「六月能炎暑」にもかかわらず、ニギリ飯を食う場面の江漢さんはやや厚着の旅装束。

「石打」、「熊」の場所はこのあたり。 

 掛川から森・三倉・一ノ瀬宿と北上し、秋葉山で西へ、戸倉・石打・熊宿まできました。

 

2025年1月3日金曜日

江漢西遊日記二 その3

P3 東京国立博物館蔵

P4P5

(読み)

御卦(クワ)保うなる事 かなお江戸ハ能ヒ処  と承    リま

ご  か  ほうなることかなおえどはよいところとうけたまわりま


春爰 ハまあお聞キなされまし米 とてハ一 粒

すここはあまおききなされましこめとてはひとつぶ


もなしヒヱ麦 尓芋(イモ)能食  尓い多しま春其 上

もなしひえむぎに  いも のしょくにいたしますそのうえ


塩可拂(フツ)底(テイ)味噌など得か多く生(ナマ)魚(サカナ)とてハ

しお  ふっ   てい みそなどえがたく  なま   さかな とては


見多者 一 人もごさらぬ昼 ハ猿(サル)の者゛んをい多し

みたものひとりもござらぬひるは  さる のば んをいたし


夜 ハ猪(シゝ)を追(ヲイ)ま春ご覧 の通 リ畑  の廻(メク)りニ

よるは  しし を  おい ますごらんのとおりはたけの  めぐ りに


かこひをい多しま春猿 ハ其 かこひを飛 越して

かこいをいたしますさるはそのかこいをとびこして


麦 ヤヒヱをあらしま春と話(ハナシ)个る握(ニキリ)飯シ能

むぎやひえをあらしますと  はなし ける  にぎり めしの


喰ひ残 リを四 ツ五 ツ能小童(コトモ)尓遣  シ个連ハ誠  ニ

くいのこりをよっついつつの   こども につかわしければまことに


まんぢ うでももろふ多様 尓よろこび个る也

まんじゅうでももろうたようによろこびけるなり

P4P5

サイ川 へ休 ミ多る図

さいかわへやすみたるず

(大意)

略

(補足)

「卦(クワ)保う」、果報。

 麦やヒエの畑を、昼は猿を夜は猪を追い払い、寝ずの番をしているとあります。鹿の被害もあったことでしょう。

 わたしの住んでいる少し山奥の村では今でも同様で、年寄りたちが育てた農作物を収穫できる時になるときまって猿・猪など獣が食い荒らして台無しにしてしまいます。丹精込めて育てた年寄りたちはがっかりして落ち込みそのままそのまま寝込んでしまう人もいます。そしてそのようなことを繰り返すと楽しみであった農作物の世話をする気力もなくなってしまいます。

 猿は鳥獣保護法で守られていて、捕まえることを禁じられていますから、やりたい放題で、住民が気力をなくしそのまま寝たきりになってしまう人たちも少なくないというのに、役所は知っていても何もしません。

 山の動物達とは共存共栄が一番ではありますが、でしゃばってくる獣には断固、対処しないと彼らもまずいことであると気づくわけがありません。

 捕まえてこらしめて、孫悟空がされたように体のどこかに輪っかをはめて、山奥に放すのがよさそうです。

 図は優しいまなざしが感じられます。子どもの表情がちっとも子どもらしくありません。食べているのはもらったばかりの握り飯でしょう。

 江漢とボクの弁喜の旅姿が詳しくわかって興味深い。天秤棒でかついで、山道を何十キロも歩いたかとおもうと、たしかまだ16歳だった弁喜のたくましさに頭が下がります。

 江漢は左手に箸をもっていますが、右手には竹皮に包んだニギリ飯、左利きだったのでしょうか。

 

2025年1月2日木曜日

江漢西遊日記二 その2

P2 東京国立博物館蔵

(読み)

大 登山 月 丹 の筆 なり堂 ハ南 面 本 尊

だいとざんげったんのふでなりどうはなんめんほんぞん


観 音 を安 置春鎮 守 南 向 権 現 の社  アリ

かんのんをあんちすちんじゅなんこうごんげんのやしろあり


寺 ハ禅 宗  秋 葉寺 と云 是 ヨリ三河 の国 の

てらはぜんしゅうあきばでらというこれよりみかわのくにの


鳳(ホウ)来(ライ)寺ヘ行ク路 也 即  チ寺 の後  ロ より坂 を

  ほう   らい じへゆくみちなりすなわちてらのうしろくちよりさかを


下 ル事 五十  町  戸倉 と云 処  ニ至 ル山 坂 多(ヲゝ)シ

くだることごじゅっちょうとくらというところにいたるやまさか  おお し


半 里過 てサイ河 なり爰 ニて休 ミ昼  食キ

はんりすぎてさいかわなりここにてやすみちゅうじき


せんとて腰 なるコリを取 出しニギリ飯 を喰 ン

せんとてこしなるこりをとりだしにぎりめしをくわん


とて当 リを見し尓老 婆一 人居テ云 ニハあな多(タ)ど

とてあたりをみしにろうばひとりいていうにはあな  た ど


ちら能お国 のお方 でござると申  故 尓吾(ワレ)等ハ

ちらのおくにのおかたでござるともうすゆえに  われ らは


江戸の者 と云イ个連ハ者゛ゞ能云フ様 ハ夫 ハ\/

えどのものといいければば ばのいうさまはそれはそれは

(大意)

略

(補足)

 前頁に続いて、鳥居の額には「金明嶺」とあり、山門に「最勝関」そして本堂には「大登山」とあって、月丹の筆とあった。堂は南に面していて、本尊は観音様を安置している。鎮守に南向権現の社がある。寺は禅宗秋葉寺という。

「秋葉寺」、大登山秋葉寺、曹洞宗、秋葉権現があり、鎮火・防火の大神として信仰をあつめた。

「鳳来寺」、三河第一の寺。仁王門と東照宮は江戸初期の建物で重要文化財。

「サイ河」、犀川。秋葉路が通るこの遠江から三河にかけての山間部一帯は天領で中泉代官所の支配、とありました。

「コリ」、行李(こうり)に同じ。『こうり かう―行李・梱】

① 竹または柳などで編み,衣類や旅行用の荷物などを入れるのに用いるかぶせ蓋(ぶた)つきの入れもの。こり。』

「当り」、🎯ではなくて「辺り」。

 この頁の次の次にこの話の部分が画に描かれています。 

2025年1月1日水曜日

江漢西遊日記二 その1

P1 東京国立博物館蔵

(読み)

麓  の前 尓瑞 雲 坂 下 り瑞 雲 寺あり夫 よりして

ふもとのまえにずいうんさかくだりずいうんじありそれよりして


小  天 龍  と云 川 亦 乾  川 舟 渡 し乾  村 アリ

しょうてんりゅうというかわまたいぬいかわふなわたしいぬいむらあり


人 家津々く又 麓  迄 ニ坂 アリ爰 まて掛

じんかつづくまたふもとまでにさかありここまでかけ


川 より五十  町  九  里の路 なり山 々 高 く杉 松 の

がわよりごじゅっちょうきゅうりのみちなりやまやまたかくすぎまつの


木茂 ル秋 葉参 詣 能往 来 なれハ山 中  と

きしげるあきはさんけいのおうらいなればさんちゅうと


いえど酒 等 アリ泊 リをスル家 モアリ樵  婦も

いえどさけなどありとまりをするいえもありしょうふも


田婦も山 中  といえとひんさしを入 髪 を結ウ

たふもさんちゅうといえどびんさしをいれかみをゆう


なり麓  より山 尓登 る事 五十  町  なり先

なりふもとよりやまにのぼることごじゅっちょうなりまず


唐 か年能鳥 居尓額 アリ金 明 嶺  とあり

からかねのとりいにがくありきんめいりょうとあり


三 十  町  過 て山 門 尓最 勝  関 とアリ本 堂 ニ

さんじゅっちょうすぎてさんもんにさいしょうかんとありほんどうに

(大意)

略

(補足)

 あけましておめでとうございます。

本年もよろしくおねがいします。

青空快晴の元旦です。気持ちいいね♪

 本日から、(江漢西遊日記二)のはじまりです。

最初の一文字目から、「林」+「廉」のようなくずし字です。「麓」でした。

「乾川」、「乾村」、ともに「乾」は「犬居」。

 秋葉街道のにぎわいは険しい山路にもかかわらず、かなりなものだったようで、ネットのコトバンクから引用ですが、このようにありました。

『南から登る道が表参道。東海道掛川宿の西にある秋葉鳥居をくぐって秋葉街道に入る。この鳥居は「東海道名所図会」をはじめ各種の浮世絵に描かれ、シーボルトもケンペルも記録している。ここから秋葉山までの間で人馬継立ができるところは森もりと三倉みくら(ともに現森町)、堀之内ほりのうち村の小奈良安こならやすと犬居いぬい(ともに現春野町)であった。森の町は遠州の小京都といわれ、旅籠屋や茶店・商店が並んでいたので「遠州森町なぜ日がささぬ、秋葉道者の笠の蔭」と歌われるほど秋葉道者で賑わっていた。ここから三倉川に沿って進み、曲がりくねった川には橋も渡船もないから川の中を何度も渡って行かなくてはならなかった。このことから三倉川を四十八瀬しじゆうはつせ川とか伊呂波いろは川といった。滝沢馬琴は「いろはにほへとほつあふみや仮名の数四十八瀬も越えていつ京」と歌っている(羇旅漫録)。たくさんの川を渡り終えて一いちノ瀬せ(現森町)に着くと「川祝」の酒を飲む人もいた』。

「ひんさし」、『びんさし鬢差し】

女子の結髪用具の一つ。鬢の髪を振り出させるために,その中へ挿入する具。鯨のひげまたは銅線をまげて弓のような形にしたもの。江戸中期に流行した。上方では「鬢張り」と称した』。

「五十町九里の路なり」、一町は六十間、約109m。一里は36町、約3927.3m。この距離を求めると、なんと約40.796km。平坦な道ではなくて、急峻な山坂に幾筋もの川があるところでのこの距離です。昔の人達はまったく恐ろしいほどに健脚なことかとおもいます。そしてたくさんの人たちで秋葉参詣の街道はにぎわったのですから、うーん、すごい!