2019年7月31日水曜日

変事出来二付心得覚記 その258




 P.163 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
村 方 村 役 人 平 日 不清意
むらかたむらやくにんへいじつせいいせず

不取締   之故 右 様 之次第
とりしまらずのゆえみぎようのしだい

名主 者急 度御叱 り年 寄
なぬしはきっとおしかりとしより

組 頭  叱 り置 御裁 許
くみがしらしかりおきごさいきょ

済 二相 成 左二可相心趣被
すみにあいなりさにあいこころおもむくべく

申渡候
もうしわたされそうろう

太次郎 殿 廿   三 日 岩 鼻 出  立
たじろうどのにじゅうさんにちいわはなしゅったつ

廿   四 日帰 り
にじゅうよっかかえり

廿   五日 御出役 田中 佐与太郎 様
にじゅうごにちごでやくたなかさよたろうさま


(大意)
村役人たちが普段から誠意をもって
取り締まらなかったから、このようなことになってしまった。
名主は急度御叱り、年寄
組頭は叱り、のお裁きと
なりました。以上のことしっかりと心に留め置くよう
申し渡されました。
太次郎殿23日に岩鼻を出発し
24日に着
25日御出役田中佐与太郎様


(補足)
 ところどころ上書きしたり、筆圧が乱れたり、筆の調子が良くないのでしょうか。
「清意」、誠意としました。
「右様之次第」、決まり文句のようで、「右様之儀」みたいにも使われる。
「済」のくずし字は何度か出てきてますが、やはり難しい。
「趣」「渡」の偏のくずし字が同じです。
「心」、「心得」として頻出ですが、他の字と組み合わさらないと読むのが難しい。たくさんの古文書を読んで使われ方を把握しておくことがやはり大切そう。
最後の2行文頭「廿」のくずし字が気になります。


2019年7月30日火曜日

変事出来二付心得覚記 その257




 P.162 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
右 二付 新 組 二而太次郎 殿
みぎにつきしんぐみにてたじろうどの

古組 二而啓 之助 殿 両  人 罷  出
こぐみにてけいのすけどのりょうにんまかりで

  被仰渡    候   次第
  おおせわたされそうろうしだい

太次郎 殿 申  口 留 置  候  紋 二郎
たじろうどのもうしぐちとめおきそうろうもんじろう

豊 五郎 儀昨 年 六 月 打 毀  二付
とよごろうぎさくねんろくがつうちこわしにつき

頭 取 罷  出候   趣   於府中宿二
とうどりまかりでそうろうおもむきふちゅうしゅくにおいて

申  立 二依而 御奉行  所 江差 立
もうしたてによりておぶぎょうしょへさしたて

相 成 夫 二相 違  ハないか太二郎 殿
あいなりそれにあいちがいはないかたじろうどの

相 違  無之  趣   申之 然 ル依 而
あいちがいこれなくおもむきもうししかるよりて


(大意)
(御用状に)したがって新組では太次郎殿
古組では啓之助殿の両人がでかけました。
 次のように仰せ渡されました。
太次郎殿の話。留め置いている紋二郎
豊五郎は、昨年6月打ち壊しの
首謀者としてでかけたようである。府中宿で
出頭要請により、お奉行所へ連れてくることに
なった。それに違いはないか(との尋ねに)太次郎殿
相違はございませんと答えた。それでは(申し渡す)、


(補足)
 源左衛門さんの手跡のようです。
濃い墨汁で筆致に元気がある。体調が戻ったかな。

「太次郎」、終わりから2行目行末では「太二郎」となってます。やはり間違いやすいんですね。
「太次郎殿」「啓之助殿」、「殿」のくずし字が異なってます。また「啓」の「口」が旁の方にいってます。
「昨年」、「年」のくずし字はほとんど丸印。
「於」このくずし字はわかりやすい。

「依而」、この頁に2回でてきてます。全文検索してみるとP.84とこの頁だけです、計3回。
読みは(よって)(よりて)だとおもいますが、さて。


2019年7月29日月曜日

変事出来二付心得覚記 その256




 P.161 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
もの也
ものなり

 岩鼻
 いわはな

卯八月 御役所
うはちがつ おやくしょ  

      上名栗村
      かみなぐりむら

       名主
       なぬし

       村役人
       むらやくにん


(大意)
略

(補足)
 はじめからこれだけの文章量とわかっていたためか、字がデカイ。
日付は「卯八月」です。
「もの也」、「也」だけを素直にみると「や」。

 この御用状が来るまでに約1年弱かかってます。
この翌年は明治元年になります。激動の時代真っ只中でした。
岩鼻お役所に出向き、名主に言い渡された内容が次頁になります。


2019年7月28日日曜日

変事出来二付心得覚記 その255




 P.160 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
御支配 岩 鼻  従 
ごしはいいわはな じゅう
 
御役 所 卯八 月 十  九日 夕
おやくしょうはちがつじゅうくにちゆう

御用 状
ごようじょう

 尋  儀有之  候   間  来 ル
 たずねぎこれありそうろうあいだきたる

 廿   二日 四ツ時 迄 名主 組 頭
 にじゅうににちよつどきまでなぬしくみがしら

 罷 出 可相届    若 不参
 まかりであいとどけべくもしまいらず

 於ゐてハ可為曲事
 おいてはくせごとたるべき(ものなり)


(大意)
ご支配
お役所より卯八月十九日夕
御用状が来る

尋ねたいことがあるので、来る
22日4ツ時(10時頃)までに名主と組頭
出頭すること。もし出頭しないときは
法にそむいたと判断する。


(補足)
 P.157〜P.159の3頁が空白ですので、頁がとんでP.160からです。
空白ページになんらかの理由があったのかどうか、気になります。

 日付が「卯八月十九日」とあります。いままでは「寅」でしたから「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」に従って、翌年の慶応3年(1867年)になります。歎願書を出したり、府中へ出かけたりしていた約1年後の書状の控えになります。

「従」、くずし字が読めそうで読めません。
「来ル」、この「ル」って変体仮名「流」でしょうか?
「廿二日」、「廿」は頻出ですが、字体がいろいろあって難しい。

「若不参於ゐ天ハ可為曲事もの也」、お役所御用状の決まり文句のようです。
「於」は変体仮名の「お」ですが、この一文字だけを見つめていても読めません、「於ゐ天ハ」とつながってようやくです。初心者から抜け出せません。


2019年7月27日土曜日

変事出来二付心得覚記 その254




 P.156 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
宿 江帰宅 以多し候
やどへきたくいたしそうろう

十  六 日  太次郎 殿 湯嶋
じゅうろくにち たじろうどのゆしま

    小川 や喜太郎 殿 宅
    おがわやきたろうどのたく

    出  立 十  七 日 帰宅
    しゅったつじゅうしちにちきたく

          以多し趣
          いたしおもむき


(大意)
宿へ戻りました。
16日 太次郎殿湯嶋
   小川や喜太郎殿宅
   出立し17日に帰宅
   したようです

(補足)
 この頁でこの形式の記述は終わります。およそ4頁ありました。
どうもとらえどころのない、わからない内容です。
まぁ、もっとも、この覚記をまとめた人(たち)にとっては必要なものだったのかもしれません。

「嶋」、このくずし字が意外とわかりにくい。


2019年7月26日金曜日

変事出来二付心得覚記 その253




 P.155 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
九日 寅次郎殿新立江行、
ここのか とらじろうどのにったちへゆく

   半次郎殿歎願惣代
   はんじろうどのたんがんそうだい

十日 名主太次郎殿 
とおか なぬしたじろうどの

   組頭半次郎殿 歎願
   くみがしらはんじろうどの たんがん

   右両人罷出候
   みぎりょうにんまかりでそうろう

十一日
じゅういちにち

十二日 直次郎殿帰宅致し
じゅうににち なおしろうどのきたくいたいし

十三日 江戸江出立、十四日着致、
じゅうさんにち えどへしゅったつじゅうよっかちゃくち

太次郎 殿 筋 谷 橋 二而合 廿   一 日 二
たじろうどのすじたにばしにてあいにじゅういちにちに



(大意)
9日 寅次郎殿新立へ行く
   半次郎殿歎願惣代
10日 名主太次郎殿
   組頭半次郎殿 歎願
   右両人が出かけた
11日
12日 直次郎殿が帰宅して
13日 江戸へ出かけ、14日に到着
太次郎殿と筋谷橋で会い、21日に

(補足)
この頁もサラサラさらっと手控えに記しているよう。

13日に江戸へ向けて旅立ってますが、翌日14日にもう到着しています。
速い。
川越から船を使ったのかもしれません。


2019年7月25日木曜日

変事出来二付心得覚記 その252




 P.154 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
夜 二入   福松  間  地江行  巳代松 ら
よるにはいり ふくまつはざまちへゆく みよまつら

大 嵐  我野 江行  巳代松 村 方 へ
おおかぜ あがのへゆく みよまつむらかたへ

    廻 文 を以  廻 ル
    かいぶんをもってまわる

八 日 源左衛門  義ハ太二郎 殿 相 頼  置
ようか げんざえもんぎはたじろうどのあいたよりおき

    川 又 江行、
    かわまたへゆく

五 ツ 秋 津五両  貸し、横 王ん
いつつ あきつごりょうかし よこわん

朝 迄  弐両  弐分、平  下 弐両  也
あさまで にりょうにぶ たいらしもにりょうなり 

    原 松 弐分、〆  拾  両  也
    はらまつにぶ しめてじゅうりょうなり

大 風  小殿 之儀者一 日 ゟ 病  気二而
おおかぜ こどののぎはついたちよりびょうきにて

   御座候   間、  組 下 者 遣  し候   間、
   ござそうろうあいだ くみしたものつかわしそうろうあいだ

   宣 敷 相 頼  と申  事 二而不参
   よろしくあいたよりともうすことにてまいらず


(大意)
[上段]
夜に入り
大嵐

八日

朝五ツ迄
大嵐

[下段]
福松間地へ行く。巳代松たちは
我野江へ行く。巳代松は村方へ
廻文をもって廻る。

源左衛門は太二郎殿を頼り
川又へ行く。
秋津五両、横王ん
二両二分、平下弐両也。
原松弐分〆拾両也。
小殿は1日より病気で
ある。組の使いのものを手配したので
宜しく頼むとのことで来ず。


(補足)
 この頁はいっそう乱暴で投げやりな手跡で下書きのようです。
「秋津五両貸し横王ん」の部分はまだなんとかなりますが、「弐両弐分」となると難しい。
「原松弐分」もおなじく乱暴。

「遣し候間」、「遣」=「キみたいな感じ」+「一」。その「一」につながって「し」。

「〆拾両也」の内訳が秋津、横王ん、平下、原松の四名に貸したのでしょう。
確かに五両+二両二分+二両+二分で拾両です。

小殿は吉田伴次郎(36才)。

 前頁と同様で、日付とその日の主だったことのメモのようでいまひとつ?です。