P7頭注 東京国立博物館蔵
P8頭注
(読み)
P7
其 後尓
そのごに
京 ヘ上 リシ時
きょうへのぼりしとき
唐 崎 の松
からさきのまつ
を見て志
をみてし
賀能山 中
がのさんちゅう
を越ヘ白 川
をこえしらかわ
へ出夫 ヨリ
へでそれより
二条 へ出ル
にじょうへでる
又 文 化壬
またぶんかみずのえ
申 ノ十 月 備
さるのじゅうがつびっ
仲 ノ人 と共 ニ
ちゅうのひととともに
京 より白 川
きょうよりしらかわ
山 中 越して
さんちゅうこして
峠 ヨリ左 ニ下 リ
とうげよりひだりにくだり
松 ヲ見る湖
まつをみるみずうみ
P8
能傍 ヲ通
のわきをとお
里石 山 ニ泊 ル
りいしやまにとまる
三井寺 ニ参 リ
みいでらにまいり
小関 越 ト云
こぜきごえという
処 ヲ通 リて
ところをとおりて
京 ニ返 りぬ
きょうにかえりぬ
(大意)
略
(補足)
「其後尓京ヘ上リシ時」、江漢晩年65歳の文化9年(1812)2月、芝新銭座の居宅を売り、京に移住しようと旅立ったときのことをさす。4月1日に京都に落ち着き、同年11月21日突然江戸旧宅に帰るまでの間在京し、吉野の花見などを楽しんだ。このときの道中記録が「吉野紀行」である。とありました。
「志賀」、滋賀?の山中を越えて、追分で右の街道を進み二条へむかったのでしょう。
「文化壬申ノ十月」、文化9年(1812)10月。
「備仲」、備中。
「小関越(こぜきごえ)」、この道は、長等地区の小関町から小関峠を越え、藤尾地区の横木まで続く道。東海道を大関越と呼んだのに対して付けられた名称で、京都から大津の町中を通らずに北陸へ向かうための近道(間道)として利用された。また観音巡礼の札所三井寺から京都の今熊野への巡礼道でもあった。道の両方の登り口に、江戸時代の道標が立っている。
65歳にもなって京都へ移住とは、またその体力にも驚きますが、やはりどこか変人ぶりを発揮しているような・・・
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