P7 東京国立博物館蔵
(読み)
中 ハ初 メテ故 不案 内 にしてカラサキノ松 を不見
(どう)ちゅうははじめてゆえふあんないにしてからさきのまつをみず
十 六 日 曇 て不雨暑 シ五時爰 を出 立 シ
じゅうろくにちくもりてふうあつしごじここをしゅったつし
大 津の方 へ行ク膳所能城 ギハを行キ矢波
おおつのほうへゆくぜぜのしろぎわをゆきやば
瀬と云 尓出 夫 より三井寺 観 音 山 へ登 る
せというにでるそれよりみいでらかんのんさんへのぼる
湖中 目 下ニ見ヘ爰 ヨリ 裏能坂 を下 り又 坂
こちゅうがんかにみえここよりうらのさかをくだりまたさか
路 を行 爰 ニて追 分 を聞 ニ跡 なりと云フ何
みちをゆくここにておいわけをきくにあとなりというなに
分 先 伏 見へいて京 へハ出奴量 个ん故 ニ
ぶんまずふしみへいできょうへはでぬりょうけんゆえに
大 まわ里をし多里夫 故 何 ヤラ一 向 能田
おおまわりをしたりそれゆえなにやらいっこうのい
舎 ニ入 音 羽と云 処 ノよし東 西 も王からぬ
なかにいるおとわというところのよしとうざいもわからぬ
畑 ノ間 ヘ出て川 あり音 羽川 と云 よし川 を渡 リ
はたけのあいだへでてかわありおとわがわというよしかわをわたり
(大意)
略
(補足)
「十六日」、天明8年八月十六日。1788年9月15日。
石山寺そばの山下旅館より、大津・膳所・三井寺・追分・音羽・大塚・黒染・伏見と順に地図でたどることができます。
山路が途中で分かれるところが追分になって右は京都、左は伏見となります。膳所の城ギハを行ったところで「矢波瀬」(矢橋(やばせ))が出てきますが、これは大津の対岸にあって近江八景のひとつ、江漢さんの勘違いでしょう。
「跡なり」、後なり。分かれ道はもっと先ですよと教わった。
「出奴量个ん」、なんと読むかハタと悩む。料簡とわかって、それはないでしょ江漢さんとぐずりました。
地図で街道を見るだけでも、方向がわからなくなるくらいの山路であります。
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