2025年6月28日土曜日

江漢西遊日記四 その41

P48 東京国立博物館蔵

(読み)

なり此 邊 能土民 瑠  球  イモを常  喰  と春

なりこのへんのどみんりゅうきゅういもをじょうしょくとす


長 崎 ニてハ芋 カイを喰  春芋 至  て甘 し

ながさきにてはいもがゆをしょくすいもいたってあまし


白 赤 の二品(ヒン)アリ

しろあかのに  ひん あり


十  四 日曇  丈  助 と云 人 松 十  郎 近 所 の人 なり

じゅうよっかくもりじょうすけというひとまつじゅうろうきんじょのひとなり


管生(スコー)山 尓居多る出  家を同 道 春菅生 山

   すごう さんにいたるしゅっけをどうどうすすごうさん


ハ西 国 札 所 ニて伊豫能国 なり階(ハシコ)ニて山 尓

はさいごくふだしょにていよのくになり  はしご にてやまに


登 り春る処  至  て妙 なる所  と云 不行 此 出

のぼりするところいたってたえなるところというゆかずこのしゅっ


家ニ聞ク

けにきく


十  五日 天 氣此 長 崎 へ入 口 を西 坂 と云 爰 ヨリ

じゅうごにちてんきこのながさきへいりぐちをにしさかというここより


見多るを圖春昼 比 爰 能親 類 の人 参 ル之(コレ)ハ

みたるをずすひるころここのしんるいのひとまいる  これ は

(大意)

(補足)

「瑠球」、琉球。

「十四日」、天明8年10月14日。西暦1788年11月11日。

「管生山」、愛媛県菅生山大宝寺、四国八十八箇所霊場の44番札所となる寺院。最初の管は「竹」冠、次のは「艹」冠になっています。

「出家」、『僧侶。僧』

「十五日」、天明8年10月15日。西暦1788年11月12日。

「西坂と云爰ヨリ見多るを圖春」、西遊旅譚三に「西坂より長崎を望む」があって、これがその画のようです。


 

 

2025年6月27日金曜日

江漢西遊日記四 その40

P47 東京国立博物館蔵

(読み)

脇 津深 堀 戸町 など云 処  あり二里半 参  山

わきつふかぼりとまちなどいうところありにりはんまいるやま


能うへを通 ル所  左右 海 也 脇 津ニ三崎 観

のうえをとおるところさゆううみなりわきつにみさきかん


音(オン)堂 アリ爰 ニ泊 ル

  おん どうありここにとまる


十  三 日 曇 ル時雨 尓て折 \/雨 降ル連レの者 ハ

じゅうさんにちくもるしぐれにておりおりあめふるつれのものは


途中  尓滞 畄  春我 等ハ帰 ルおらん多舩 亦

とちゅうにたいりゅうすわれらはかえるおらんだせんまた


唐 舩 沖 尓かゝ里居ル唐 人 下官(クワン)の者

からふねおきにかかりいるとうじんげ  かん  のもの


七 八 人 陸 へ水 を扱ミ尓あかる皆 鼡  色 能

しちはちにんりくへみずをくみにあがるみなねずみいろの


木綿 能着(キ)物 頭  ニハダツ帽 をか武り多り

もめんの  き ものあたまにはだつぼうをかむりたり


初 メて唐 人 を見多り路 \/ハマヲモトコンノ

はじめてとうじんをみたりみちみちはまおもとこんの


菊 野尓あり脇 津ハ亦 長 崎 より亦 暖 土

きくのにありわきつはまたながさきよりまただんど

(大意)

(補足)

「脇津」、ウィキペディアには『「脇岬」の由来について、脇津と岬の2つの地名を合わせたものとする説がある。中世には「肥御崎(ひのみさき)」、近世は「脇御岬」または「御岬」とも表記された』とありました。深堀村は地図の右上。 

「十三日」、天明8年10月13日。西暦1788年11月10日。

「下官(クワン)」、官のくずし字は学んでいないと読めません。次の行の「水」も同様。

「扱ミ」、汲む。

「ダツ帽」、いろいろ調べても不明。

「ハマヲモト」、浜木綿(ハマユウ)の別名。「コンノ菊」、ノコンギクのことか。

「脇津ニ三崎観音(オン)堂アリ爰ニ泊ル」、観音堂に泊まったのでしょうか?いつもなら宿の様子をあれこれ記してますけど、まったくありません。


 

2025年6月26日木曜日

江漢西遊日記四 その39

P46 東京国立博物館蔵

(読み)

蘭 物 ヲかざり酒 肴 を出し夜 能九   時 過

らんものをかざりしゅこうをだしよるのここのつどきすぎ


尓帰 ル

にかえる


十  二日 天 氣ニて朝 早 く御﨑 観 音 皆 \/

じゅうににちてんきにてあさはやくみさきかんのんみなみな


参 ルとて吾 も行 ンとて爰 より七 里ノ路 ナリ

まいるとてわれもゆかんとてここよりしちりのみちなり


松 十  郎 夫 婦外 ニかきやと云 家 能女  房

まつじゅうろうふうふほかにかぎやといういえのにょうぼう


亦 壱 人男 子五人 ニして参 ル此 地生  涯

またひとりだんしごにんにしてまいるこのちしょうがい


ま由をそら春゛夫 故 王かく亦 き里 うも

まゆをそらず それゆえわかくまたきりょうも


能く見ユ鍵(カキ)や婦ハ者゛多゛し参 リ皆 路 山

よくみゆ  かぎ やふはは だ しまいりみなみちやま


坂 ニして平 地なし西 南 を武ゐて行ク右

さかにしてへいちなしせいなんをむいてゆくみぎ


ハ五嶋 遥 カニ見ユ左  ハあまくさ嶋 原 見ヘ

はごとうはるかにみゆひだりはあまくさしまばらみへ

(大意)

(補足)

「夜能九時過」、深夜0時。

「十二日」、天明8年10月12日。西暦1788年11月9日。

「御﨑観音」、円通寺観音寺。地図で探すと似たようなお寺がたくさんあって迷います。「爰より七里ノ路」というのと、「西南を武ゐて行ク右ハ五嶋遥カニ見ユ左ハあまくさ嶋原見ヘ」るのは岬の先端にある「肥之御崎観音寺」だとおもいます。 

 そのお寺をもう少し詳しく調べると

『昔から長崎からの参詣者も多く、唐人屋敷跡に隣接する十人町(じゅうにんまち)から観音様へと続く約28kmの「御崎道(みさきみち)」という道があり、この道にそって観音様詣りをしました。今も「みさきみち」と標された石碑が残っています』

とあって、ここで間違いないようです。

 十人前後の人数で片道約30kmの小旅行、ピクニックとはとても言えません。

車でなら行ってみたい。いい眺めだろうなぁ〜。

 

2025年6月25日水曜日

江漢西遊日記四 その38

P45 東京国立博物館蔵

(読み)

吉 参 ル話(ハナス)唐 人 八 月 十  五日 月 餅 と云 を

きちまいる  はなす とうじんはちがつじゅうごにちげっぺいというを


造(ツク)り夫 をも羅ゐ喰ヒし尓小麦 能粉 ニて製

  つく りそれをもらいくいしにこむぎのこなにてせい


し油  尓て揚 多る物 至  て甘(アマシ)彼 国 糯 米 アル

しあぶらにてあげたるものいたって  あまし かのくにもちごめある


と雖  モ吾 日本 能米 能如 くなら春゛故 尓

といえどもわがにほんのこめのごとくならず ゆえに


日本 能餅 なし

にほんのもちなし


十  一 日 天 氣嶋 原 屋しきへ行ク晩 方 風

じゅういちにちてんきしまばらやしきへゆくばんがたふ


呂屋へ行ク居ヘ風呂也 夜 ニ入 平 戸町  幸

ろやへゆくすへぶろなりよるにいりひらどちょうこう


作 処  ヘ行ク二階 おらん多坐しきを見 物 ス

さくところへゆくにかいおらんだざしきをけんぶつす


イキリス細 工のヒイドロ額 蘭間(ランマ)下 ニ掛ケ

いぎりすさいくのびいどろがく   らんま したにかけ


ならべ下 ニハ椅(イ)スを並  其 外 奇妙  なる

ならべしたには  い すをならべそのほかきみょうなる

(大意)

(補足)

 前々回のブログで「おらん多舩 唐人舩」の画がありました。記録に、この年天明8年(1788)には、唐船は13隻、オランダ船は2隻来航したとあるので、江漢さんはちょうどこれからそれら船が帰国するところに出会ったようです。

「も羅ゐ」、この変体仮名「羅」(ら)はあまりみなかったような気がします。

「甘」、調べてみるとここにあるような「耳」に似たくずし字もあることがわかりました。

「十一日」、天明8年10月11日。西暦1788年11月8日。

「おらん多坐しき」、吉雄幸作はオランダ人と接する中で異国の書物・絵画・器具など珍品を収集し、それらを自宅の二階をオランダ風にした部屋に飾った。食事会なども催し、当時人々はこの二階を『吉雄の阿蘭陀座敷』と呼んで珍しがった、とありました。

 

2025年6月24日火曜日

江漢西遊日記四 その37

P44 東京国立博物館蔵

(読み)

なり多る前 ハ長 崎 甚 左衛門 と云 人 能領  地也

なりたるまえはながさきじんざえもんというひとのりょうちなり


此 日本 へ異国 ヨリ舩 を着(ツク)ルハ伊勢能大湊(ミナト)

このにほんへいこくよりふねを  つく るはいせのおお みなと


と云 所  さダかなら春゛夫 より泉 州  堺  の濱 ナリ

というところさだかならず それよりせんしゅうさかいのはまなり


亦 筑 前 博多 者か多より肥前 平 戸嶋 尓

またちくぜんはかたはかたよりひぜんひらどしまに


渡海 して寛 永 辛  巳の年 今 能長 崎 尓

とかいしてかんえいかのとみのとしいまのながさきに


なるさておらん多大 通 詞吉 雄(ヲ)幸 作 同  ク

なるさておらんだだいつうじよし  お こうさくおなじく


本 木榮 之進 両  人 未 タ役 所 より不返  夫 故

もときえいのしんりょうにんいまだやくしょよりかえらずそれゆえ


か者゛嶋 町  稲 部松 十  郎 へ行ク此 者 ハおらん多゛

かば しまちょういなべまつじゅうろうへゆくこのものはおらんだ


部屋付 役 ノ者 なり先ツ是 ニ暫  ク滞 畄  春日

べやつきやくのものなりまずこれにしばらくたいりゅうすひ


暮レて吉 雄本 木能二 人参 ル亦 本 木の息 元

ぐれてよしおもときのふたりまいるまたもときのそくもとよし

(大意)

(補足)

「長崎甚左衛門」、『長崎 甚左衛門純景(ながさき じんざえもん すみかげ、天文17年(1548年)? - 元和7年12月22日(1622年1月25日))は戦国時代・安土桃山時代の城主。深江浦(長崎)を領す。キリシタン大名』

「寛永辛巳(かのとみ)の年」、寛永十八1641)年

「大通詞」、明暦二(1656)年以後、大通詞・小通詞・小通詞並・小通詞末席・稽古通詞・内通詞と階級がもうけられていた。

「吉雄(ヲ)幸作」、享保九(1724)年〜寛政十二(1800)年。51年間も大通詞職で活躍。解体新書初版に序文をよせている、とありました。

「本木榮之進」、享保二十(1735)年〜寛政六(1794)年。オランダ通詞、蘭学者。

 江漢は天文学方面のこの大先達に直接会って啓発されることが多かったようで、この旅が終えてから、もっぱら天文・地理をはじめとする西洋自然科学の研究と啓蒙書著述に没頭していった、とありました。

「本木の息元吉」、元吉ではなく茂吉。明和二(1767)年生まれ。

 

2025年6月23日月曜日

江漢西遊日記四 その36

P42 東京国立博物館蔵

P43

(読み)

おらん多舩

おらんだふね


唐 人 舩

とうじんふね

P43

屋しきハ十  善 寺と云 処  ニして低(ヒクキ)所  故 見得

やしきはじゅうぜんじというところにして  ひくき ところゆえみえ


春゛唐 舩 ハ七 八 艘 白 キ幡 を立 大 者とト

ず からふねはしちはっそうしろきはたをたておおはとと


云 処  尓かゝ里ておらん多゛舩 ハ其 比 十  月

いうところにかかりておらんだ ふねはそのころじゅうがつ


なれハ大 者とを出 神(カウ)さきと云 処  ハ一 里ヲ

なればおおはとをでて  こう さきというところはいちりを


隔 ツ爰 に一 艘 今 一 艘 ハ山 尓かくれて見

へだつここにいっそういまいっそうはやまにかくれてみ


え春゛向 フ所  ハ西 ニて沖 なり爰 より向

えず むかうところはにしにておきなりここよりむかい


地ハ稲 佐と云 処  なり山 ニ登 り此 景色

ちはいなさというところなりやまにのぼりこのけしき


を寫 春長 崎(サキ)町  数 九  十  六 町  と云 一 躰

をうつすなが  さき ちょうすうきゅうじゅうろくちょうといういったい


海 き王山 ニして町 中 石階(サカ)多 し旅 館 ハ

うみぎわやまにしてまちなかいし さか おおしりょかんは


なし旅 人 滞 畄  を禁 春゛今 能長 崎 尓

なしたびびとたいりゅうをきんず いまのながさきに

(大意)

(補足)

「十善寺」は長崎村と記してある左に十善寺郷とあり、「神(カウ)さき」は地図の左下に神崎臺場、「稲佐」は左端やや上に稲佐山とあります。 

「大者と」、大波止(場)。

「おらん多゛舩ハ其比十月なれハ」、オランダ船は季節風を利用して7~9月ごろにやってきて貿易業務を行い、10月に出航していました。出島には代々カピタンを引き継いだ商館長の日記が豊富にあり、翻訳されてるものも多数あるので、当時の様子がとても詳しくわかります。

 阿蘭陀船出帆之図です。右の山に神嵜とあります。 

 長崎の街なか見物よりも、まず全体を見渡せる稲佐山にのぼり(調べると333mもあります)、写生をするのはいかにも江漢さんらしい。

 

2025年6月22日日曜日

江漢西遊日記四 その35

P40 東京国立博物館蔵

P41

(読み)

夫 より一  方ハ畑  一 方 ハ山 能根を行ク処  ニして

それよりいっぽうははたけいっぽうはやまのねをゆくところにして


岩 尓佛  のか多ちを彫 付 てあり皆 面 部

いわにほとけのかたちをほりつけてありみなめんぶ


手足 を打 かきてあり之 ハ古  へイギリス

てあしをうちかきてありこれはいにしえいぎりす


人 渡 り多る時 能し王ざなりとぞ爰 より長

じんわたりたるときのしわざなりとぞここよりなが


崎 能入 口 なり是 ハ本 道 ニ非  本 道 ハ大

さきのいりぐちなりこれはほんどうにあらずほんどうはおお


村 よりいさ者ヤ四里矢上 ヘ一 里日見へ一 里

むらよりいさはやよりやがみへいちりひみへいちり


長 崎 へニ里なり長 崎 入 口 能町 を桜  の馬場

ながさきへにりなりながさきいりぐちのまちをさくらのばば


と云フ夫 よりして浦 上 と云 処  ニ至 ル高 キ処  ニて山

というそれよりしてうらがみというところにいたるたかきところにてやま


なり爰 も長 崎 へ入 口 人 家續 く長 崎 能

なりここもながさきへいりぐちじんかつづくながさきの


町 中 見ヘおらん多屋しきニハ幡(ハタ)を建て唐 人

まちなかみえおらんだやしきには  はた をたてとうじん

P41

鯖(サハ)腐(クサラカシ)石

  さば   くさらかし いし


数 丈  ニして上 ノ石 危  くかゝる

すうじょうにしてうえのいしあやうくかかる


さバと云 魚  ハくされや春し夫 を

さばというさかなはくされやすしそれを


持(モチ)行く者 此 石 能落 ン事 を恐 れ

  もち ゆくものこのいしのおちんことをおそれ


とヤかくヤと云 うち鯖 くされ多り

とやかくやといううちさばくされたり

(大意)

(補足)

「大村よりいさ者ヤ四里矢上ヘ一里日見へ一里」、諫早は右上、矢上、日見は下中央の入江のところ。

「幡(ハタ)」、旗。

「鯖(サハ)腐(クサラカシ)石」、時津の奇岩として有名なようです。『西遊旅譚三』にも画があります。また「岩尓佛のか多ちを彫付てあり」の画もあります。 

 人家が続く長崎の町中が見え、旗を建てたオランダ屋敷をのぞみ、遠目から長崎に着いたと静かに感じ入っているようであります。

 

2025年6月21日土曜日

江漢西遊日記四 その34

P39 東京国立博物館蔵

(読み)

てさゞゐあ王びなと取 て程 なく長 井尓

てさざえあわびなどとりてほどなくながいに


津く長 井より十  余町  過 て時 津と云

つくながいよりじゅうよちょうすぎてときづという


処  是 ハ彼 木より舩 の着ク処  と云フ爰 尓

ところこれはそのぎよりふねのつくところというここに


埒 もなき所  尓宿 を取ル爰 より長 崎 へ三 里

らちもなきところにやどをとるここよりながさきへさんり


と云

という


十 日時 津を朝 出  立 して中 野村 平 野村

とおかときづをあさしゅったつしてなかのむらひらのむら


なと云 所  を過 て行ク尓此 邊 能犬 地犬 尓

などいうところをすぎてゆくにこのへんのいぬじいぬに


チン能交(マシリ)て出来多る者 也 小童 能遊 ヒ話 シ

ちんの  まじり てできたるものなりこどものあそびはなし


能うち尓夫 ハおらん多能様 しやと云フ時 津ヨリ

のうちにそれはおらんだのようじゃというときづより


十  余町  長 崎 能方 サバ腐(クサラカ)しと云 石 アリ

じゅうよちょうながさきのほうさば  くさらか しといういしあり

(大意)

(補足)

「是ハ」、このくずし字も頻出ですけど、読めませんでした。

「彼木」、彼杵。大村から時津よりも、彼杵から時津のほうが大村湾をたて移動するので、大変そうです。 

「十日」、天明8年10月10日。西暦1788年11月7日。

「中野村平野村」、もうほとんど長崎村です。

「此邊能犬地犬尓」、犬という漢字がどうも犬にみえません。

 眼の前は長崎なのに、どうも急ぐ様子もなく、いつもどおり。

 

2025年6月20日金曜日

江漢西遊日記四 その33

P38 東京国立博物館蔵

(読み)

城  と云 処  舩 能着(ツク)処  なり夫 より大 村 尓

じょうというところふねの  つく ところなりそれよりおおむらに


入ル城  下家 ゴト尓志めを張り入 口 ニ香 を多き

いるじょうかいえごとにしめをはりいりぐちにこうをたき


あるを見て甚  タ怪  ミ問 屋場尓て之 を聞く

あるをみてはなはだあやしみといやばにてこれをきく


尓此 地疱 瘡 をきろふ此 節 長 崎

にこのちほうそうをきろうこのせつながさき


邊 流  行 春夫 故 尓かく能如 しと云フ夫

へんりゅうこうすそれゆえにかくのごとしというそれ


故 可婦人 甚  タよし大 村 より舩 ニ能里

ゆえかふじんはなはだよしおおむらよりふねにのり


長 井と云 処  へ七 里舩 頭 何 ヤラ話(ハナシ)をス

ながいというところへしちりせんどうなにやら  はなし をす


ル一 向 尓王から春゛者なし能仕舞 尓ドウド

るいっこうにわからず はなしのしまいにどうど


となけ多りと云 之 ニて角力(スマウ)能事 と知連り

となげたりというこれにて   すもう のこととしれり


其 日天 氣能ク三 四月 能如 し山 能岸 ニ

そのひてんきよくさんしがつのごとしやまのきしに

(大意)

(補足)

「大村尓入ル」、お城のところには、大村上総介居城久嶋とあります。 

「大村より舩ニ能里長井と云処へ七里」、長井というところが長崎の玄関口「時津」です。彼杵より大村湾を右廻りに浜伝いにたどっています。 

「疱瘡」、天然痘。英国人ジェンナーが牛痘種痘法を確立したのが1798年、日本での種痘の研究は19世紀初頭からですから、当時はここにあるようにしめや札を張ったり香をたいたりと神頼みでありました。

 

2025年6月19日木曜日

江漢西遊日記四 その32

P37 東京国立博物館蔵

(読み)

とぞ塩 田より嬉  野ヘ二里余  嬉  野より彼(ソノ)

とぞしおだよりうれしのへにりあまりうれしのより  その


木能間  誠  尓大 山 坂 路 なり漸  ク夜 ニ入 て

ぎのあいだまことにおおやまさかみちなりようやくよるにいりて


彼 木ニ泊 ル此 邊  人 を泊(トメル)事 を商  買 ニ春

そのぎにとまるこのあたりひとを  とめる ことをしょうばいにす


る家 なし皆 草履(サウリ)ヤラ。王らじやら賣

るいえなしみな   ぞうり やら わらしやらう


る至  てキタナキ家 能ミ夫 故 尓坐しきと云

るいたってきたなきいえのみそれゆえにざしきという


ハなし家内 の者 能寝伏し春る処  尓此

はなしかないのもののねふしするところにこの


方 も一 所 尓袮る事 也

ほうもいっしょにねることなり


九  日天 氣彼 木を六 時 過 ニ出  立 して三 里

ここのかてんきそのぎをむつどきすぎにしゅったつしてさんり


行キ松 原 と云 処  を過 て大 村 ニ入  処  五六 町

ゆきまつばらというところをすぎておおむらにはいるところごろくちょう


能間 タきれいなる処  半(ナカハ)尓桜  木を植(ウユ)亦新(シン)

のあいだきれいなるところ  なかば にさくらぎを  うゆ また しん

(大意)

(補足)

「彼木」、彼杵。

「商買」、商売。となりの左の行に「賣」の漢字があります。

「九日」、天明8年10月9日。西暦1788年11月6日。

「松原と云処を過て大村ニ入」、左上が彼杵、下端中央が大村、お城の画があります。中央に松原。

 北は北海道、南は沖縄と、旅行や仕事で全国を渡り歩いたといいたいところですけど、九州には行ったことがありません。大分や熊本、長崎、鹿児島に友人やそのツテで1年くらい遊びに行こうと思っていたのですけど、大分の友人が亡くなったり、その他もろもろの事情でダメになってしまいました。とってもとっても残念であります。しかし、フェリーで九州にわたり、そのまま九州周遊の旅はまだ断念していません。

 

2025年6月18日水曜日

江漢西遊日記四 その31

P36 東京国立博物館蔵

(読み)

上 置 し尓可参   とそんじ爰 ニて聞(キク)尓夫 ハ

あげおきしにまいるべしとぞんじここにて  きく にそれは  


三 里跡 なりと云 何 分 ニも可参   とて半

さんりあとなりというなにぶんにもまいるべしとてはん


路ほとあとへかえりし尓イヤ\/之 ハ帰 りニより

ろほどあとへかえりしにいやいやこれはかえりにより


可申   とて又 取 て返 し長 崎 の方 へおも

もうすべしとてまたとってかえしながさきのほうへおも


むきけるあと尓て承     しハ往 来 問 屋場

むきけるあとにてうけたまわりしはおうらいといやば


ヘ此 様 なる旅 人 通 り申  候   哉と度 々 お尋

へこのようなるたびびととおりもうしそうろうやとたびたびおたずね


ありとぞ此方  どう勢(セイ)一 向 尓二 人故

ありとぞこのほうどう  ぜい いっこうにふたりゆえ


問 屋場心  付カ春゛とて大 笑  しぬ荻(ヲキ)ハ佐賀

といやばこころづかず とておおわらいしぬ  おぎ はさが


城  下より三 里も入り   る事 也 爰 より成 瀬と

じょうかよりさんりもいり(た)ることなりここよりなるせと


云 処  ヘ行キし尓之 はよろしから春塚 崎 通 りよし

いうところへゆきしにこれはよろしからずつかさきとおりよし

(大意)

(補足)

「申上置し尓」、「置」のくずし字は頻出です。ここのくずし字は読みづらい。

「三里跡なり」、跡は後、つまり行き過ぎてしまった。地図を見ても随分戻ることになります。

「承し」、ここのくずし字の形を調べるとあるにはあるましたが、あまり目にしない形のようです。

「どう勢(セイ)」、『どうぜい【同勢】連れ立って行動している人々。また,その人数。「凡そ十四五人の―で」〈歌行灯•鏡花〉』

 いよいよ、長崎目前になってきました。古地図で追ってきましたが、全体図もないとどの程度歩いてきたのかがわからなくなってきていて、国土交通省九州地方整備局佐賀国道事務所のHPに長崎街道の宿場町の地図がありました。 

 ほぼ江漢さんのたどったところを正確に確かめることができます。

 

2025年6月17日火曜日

江漢西遊日記四 その30

P35 東京国立博物館蔵

(読み)

包 ミ来 ル物 なりと云 二里過 て小田と云 処  尓

つつみきたるものなりというにりすぎておだというところに


泊 ル此 邊 ハ東 海 道 筋 の様 なる泊  家ハなし

とまるこのへんはとうかいどうすじのようなるとまりやはなし


皆 百  姓  ニして恒(ツネ)の家 なり先ツ茶 を出ス

みなひゃくしょうにして  つね のいえなりまずちゃをだす


尓土瓶(トヒン)尓茶 碗 を銅 能たらひへ入 て出シ

に   どびん にちゃわんをどうのたらいへいれてだし


个り然 し九  州  の地者゛ん茶 なし嬉  野

けりしかしきゅうしゅうのちば んちゃなしうれしの


と云 処  茶を出 タ春所  なり茶 釜 なし

というところちゃをいだすところなりちゃがまなし


一 度\/ 尓土瓶(ヒン)尓て煮(ニ)花(ハナ)なり之 能ミ

いちどいちどにど  びん にて  に   ばな なりこれのみ


甚  タよし

はなはだよし


八 日天 氣小田を六 時 出  立 しさて江戸尓

ようかてんきおだをむつどきしゅったつしさてえどに


てお約 束 申  候   て必   荻(ヲギ)と云 所  へ可参   と申

ておやくそくもうしそうろうてかならず  おぎ というところへまいるべしともうし

(大意)

(補足)

「小田」、地図左側に上小田町とあります。 

 約三百年ほど前、出島のオランダ東インド会社のドイツ人医師ケンペルは『江戸参府旅行日記』の中で、「牛津川には立派な木橋が架かり付近には遊船もあり、下ると四里から五里で海に注ぐ」、また小田宿(江北町)を通ったとき「小田村の右手には、他の場所より見事な田圃があった」と記しています。

「嬉野」、嬉の喜の部分が、㐂となっています。

「煮花」、にばな煮花・煮端】煎じたての香りの高い茶。でばな。

「八日」、天明8年10月8日。西暦1788年11月5日。

「荻」、小城。牛津の上方、地図の右上にあります。

 目的地の長崎に近づいてきたためか、足取りも順調です。

 

2025年6月16日月曜日

江漢西遊日記四 その29

P34 東京国立博物館蔵

(読み)

㐂(キ)鵲(シヤク)と云 鳥 野(ヤ)邊(ヘン)ニ飛フ田 夫ニ聞ク尓大 ない

  き   じゃく というとり  や   へん にとぶでんぷにきくにだいない


から春と云 實 ハ高麗烏(コウライカラス)と云 事 能よし

からすというじつは    こうらいからす ということのよし


此 邊 ノ言 葉奥 州  邊 言 葉ニ似多り豆(トウ)婦

このへんのことばおうしゅうへんことばににたり  とう ふ


屋の前 尓通 りし尓豆腐(トウフ)を買 ニ来 ル價(アタヒ)を

やのまえにとおりしに   とうふ をかいにきたる  あたい を


聞キし尓賣(ウリ)者(テ)云 様 ハゴンマヱと答 へ多り之(コレ)ハ

ききしに  うり   て いうようはごんまえとこたえたり  これ は


五文 と云 事 なり佐賀城  下四里程 あり然 シ

ごもんということなりさがじょうかよりほどありしかし


中  国 邊 ヨリキタナシ夫 より牛 津(ツ)なり此 間

ちゅうごくへんよりきたなしそれよりうし  つ なりこのあいだ


能宿 者川゛れの家 尓あら布 能如 き物 尓文字

のやどはず れのいえにあらぬののごときものにもじ


ある物 を以 テ能うれん尓春之(コレ)ハ唐(カラ)より荷物 を

あるものをもってのうれんにす  これ は  から よりにもつを

(大意)

(補足)

「高麗烏」、『カササギの別名』『九州の個体群は17世紀に朝鮮半島から現在の佐賀県(佐賀藩)および福岡県筑後地方(柳河藩)に人為移入された個体が起源とされる』とありました。体調は45cm前後あって大きい。漢字は「鵲」。 

「㐂」、喜の異体字でフォントがあります。七が3つあって縁起がよいので看板や暖簾などいたるところに使われています。

「佐賀城」、地図では中央に佐嘉となっています。 

「牛津」は地図の右上。 

 言葉や暖簾に興味しんしん、読者も旅の雰囲気にふれることができます。

 

2025年6月15日日曜日

江漢西遊日記四 その28

P33 東京国立博物館蔵

(読み)

へ行く路 あり十  六 里あるよし亦 久留目(クルメ)

へゆくみちありじゅうろくりあるよしまた    くるめ


能城(シロ)見ユ此 間  より兎角(トカク)寒 ク此 旅 舎

の  しろ みゆこのあいだより   とかく さむくこのりょしゃ


あしく風邪なり此 中(ナカ)者゛るニ泊 ル七  時 過 ニ也

あしくかぜなりこの  なか ば るにとまるななつどきすぎになり


埒 もなき家 なれど近 比 家作 してあら可べ

らちもなきいえなれどちかごろかさくしてあらかべ


ニハあれどたゝみもきれいなり飯 を出タ春

にはあれどたたみもきれいなりめしをいだす


さ以ハ平 さら尓十春じ程(ホト)こん婦を入 コンニヤ

さいはひらざらにとすじ  ほど こんぶをいれこんにゃ


ク一 切 塩 魚  切 身一 切 誠  尓奇妙  なる

くひときれしおざかなきりみひときれまことにきみょうなる


料  理なりキタナキ田 婦能小児 をい多゛き

りょうりなりきたなきでんぷのこどもをいだ き


てき うじ春る

てきゅうじする


七 日時雨 ニて雨 降 又 ヤム神埼(カンサキ)と云 処  此 ニ

なのかしぐれにてあめふりまたやむ   かんざき というところここに

(大意)

(補足)

 太宰府から下って、原田・田代と過ぎ、そのあたりで西に曲がるのですが、どうも迷子になったみたいで、中原を探すのに全然違う山路の街道を何度も往復しました。

 中原は地図の中央にあり、神崎は左隅にあります。大宰府はこの地図からはみだしてずっと右上になります。 

 これならば、途中で確かに「久留目(クルメ)能城(シロ)」が見えます。地図には久留米、有馬玄蕃頭居城とあります。

「七時」、午後4時で秋でありまた山路なのでもう暗かったはずです。

「埒もなき家」の晩飯は、細く切った昆布が10切れとコンニャク一切れ、それに塩魚一切れが一皿にのったもの。このあたりは天明の大飢饉の影響はあまりなかったのかもしれません。

「七日」、天明8年10月7日。西暦1788年11月4日。

 

2025年6月14日土曜日

江漢西遊日記四 その27

P32 東京国立博物館蔵

(読み)

白 川 ハ宰 府町  能西 南 尓あり哥尓武者゛

しらかわはざいふちょうのせいなんにあり


玉能我可黒髪ハ志ら川能水ハく武まで



老尓个る可な幸 橋 能哥 あり多能もしき

      さちばしのうたあり


名尓も有可な道行ハ先幸の橋を渡らん



漆(ウルシ)川の哥尓名尓者いえと黒くも見へ春



うるし川さ春可尓渡る人ハぬる免り其 外

                そのほか


苅 萱(カヤ)の関 能古跡 アリ水城(ミツキ)能関 の古跡

かり  かや のせきのこせきあり   みずき のせきのこせき


あり原 田より中 者るヱヒス能像(カタチ)を石 ニて

ありはらだよりなかばるえびすの  かたち をいしにて


きざミ辻 \/尓立 ル原 田より田代 の間  筑

きざみつじつじにたてるはらだよりたしろのあいだちく


後能高麗(カウラ)山 見える中 者るより彦 山

ごの   こうら やまみえるなかばるよりひこさん

(大意)

(補足)

白川の哥「むば玉の我が黒髪はしら川の水はぐむまで老にけるかな」

幸橋の哥「たのもしき名にも有かな道行ば先(まず)幸の橋を渡らん」

漆川の哥「名にはいえど黒くの見へずうるし川さすがに渡る人はぬるめり」

「原田より田代」、大宰府よりてっきり北西へ博多方面へ出たのかとおもってましたが、大宰府より南下して、画像の右上に原田宿、左下に田代宿があります。

「高麗(カウラ)山」、高良山。久留米市の東5kmにある小さな山。

 哥は、当時は太宰府周辺の見どころに、哥の碑でも建っていたのでしょうか。それらを書き写したのでしょう。

 

2025年6月13日金曜日

江漢西遊日記四 その26

P31 東京国立博物館蔵

(読み)

能時代 より手前 の物 也 菅大臣(クワンタイシン)能此 筑(ツク)

のじだいよりてまえのものなり    か んだいじん のこの  つく


紫(シ)へ流 されし時 啻僅見瓦色(タ々ワツカニミルカハライロ)と詩句

  し へながされしとき                    としく


あり礎   ハ都府楼 能者 なるべし路 々 此 瓦

ありいしづえはとふろうのものなるべしみちみちこのかわら


を拾 ひても重 け連ハ一 ツ二 ツ持 帰 りぬ針(ハリ)

をひろいてもおもければひとつふたつもちかえりぬ  はり


春里と云 所  ハ福 岡 へ能往 来 なり四里ある

すりというところはふくおかへのおうらいなりよりある


よし太宰 府ニハ古跡 多 し其 一  二  を誌 ス

よしだざいふにはこせきおおしそのひとつふたつをしるす


天  原 山 安 楽 寺ハ地名 なり岩 踏 川 社  の北 の

あまがはらさんあんらくじはちめいなりいわふみかわやしろのきたの


方 三 里ニアリ思  川 宰 府町  ノ西 ヘ流 る川 也

ほうさんりにありおもいかわざいふちょうのにしへながるかわなり


愛 染 川 社  の南  尓あり哥 尓今宵 より

あいぞめかわやしろのみなみにありうたにこよいより


亦 ぬら春へき袂(タモト)可なあゐ染 川 能末 能白 波

またぬらすべき  たもと かなあいぞめかわのすえのしらなみ

(大意)

(補足)

啻(ただ)」、『なんだか通常一般の様子とは異なる、普通でない、といった意味で用いられる表現。 「ただごとではない」などとも言う。 雰囲気などを形容する語として用いられることが多い』

「啻僅見瓦色」、ただ、わずかにかわらのいろをみる。これだけではよくわからないので、ちょっと調べてみました。

『【原文】

都府楼は纔かに瓦の色を看る 

観音寺はただ鐘の声を聴くのみ

             菅家』、とあって訳は

『(左遷の身の私は官舎の門を出ることもなく)太宰府の都府楼はわずかに瓦の色を看るだけで、(その近所の)観音寺といえば、ただ鐘の音を聞くばかりである。 菅原道真』

そして、『この詩は、太宰府で道真公がおつくりになった「門を出でず」という七言律詩の第二聯(れん)である』とありました。

 安楽寺、岩踏橋、思川、愛染川は今でも天満宮近辺の観光コースのようです。

 

2025年6月12日木曜日

江漢西遊日記四 その25

 

P30 東京国立博物館蔵

(読み)

五  時 過 ニ出  立 して爰 より十  四 町  行 て観

いつつどきすぎにしゅったつしてここよりじゅうよんちょうゆきてかん


世音 寺アリ隣  ニ海 代 寺アリ堂 の前 ニ

ぜおんじありとなりにかいだいじありどうのまえに


大 キナル石 臼 あり訳 を聞 ハ埒 もなき事 を云

おおきなるいしうすありわけをきけばらちもなきことをいう


夫 より七 八 町  も行 て田能中 尓一 間 四方 なる

それよりしちはっちょうもゆきてたのなかにいっけんしほうなる


石 尓丸 柱  能礎(イシツヱ)いくらも有 土民 ニ聞ケバ

いしにまるばしらの  いしづえ いくらもありどみんにきけば


此 様 なる礎(イシツヱ)耕作(カウサク)能さま多け故 ニ取

このようなる  いしづえ    こうさく のさまたげゆえにとり


除 个多りと云 都府楼 能址 と云 何 ニせヨ

のぞけたりというとふろうのあとというなんにせよ


春ざましき殿 ありと見へ多り此 邊 田能

すざましきでんありとみえたりこのへんたの


中 路 の傍  ラ嶋 目付 田る瓦  いくらもあり

なかみちのかたわらしまめつきたるかわらいくらもあり


奥 州  多賀城  能瓦  能如 し之(コレ)ハ其 礎

おうしゅうたがじょうのかわらのごとし  これ はそのいしづえ

(大意)

(補足)

「観世音寺」、宰府村のすぐ左に観世音寺、観世音寺村があります。天智天皇の創建、十一世紀ごろから東大寺の末寺となり以後衰退とありました。

「都府楼能址」、都府楼跡(とふろうあと)の名前で親しまれている大宰府政庁跡は、古代の役所である「大宰府」が置かれていた場所。

 太宰府というと名前がよく知られていて、それほど昔ではないのかとおもいきや、ずいぶん昔の時代でありまして、もうほとんど神話の時代になりましょうか。太宰府の北西はすぐ福岡です。

 

2025年6月11日水曜日

江漢西遊日記四 その24

P29 東京国立博物館蔵

(読み)

漸  ク太宰 府ニ至 ル大 鳥 居アリ池(イケ)尓三ツ橋

ようやくだざいふにいたるおおとりいあり  いけ にみつはし


掛 ル左右 ハそり橋 中 ハそら春゛池 の邊(ヘン)大 楠

かかるさゆうはそりはしなかはそらず いけの  へん おおぐす


アリ山 門 アリ本 社 左右 回 廊(ロウ)飛 梅 と云 ハ

ありさんもんありほんしゃさゆうかい  ろう とびうめというは


本 社 ノ脇 尓アリ誠  尓王びさび多る処  なり日も

ほんしゃのわきにありまことにわびさびたるところなりひも


西 山 ニ入り个連ハ鳥 居能前 なる大 野屋と云

にしやまにいりければとりいのまえなるおおのやという


家 ニ泊 ル毎 年 八 月 廿   一 日 より廿   六 日 まで

いえにとまるまいとしはちがつにじゅういちにちよりにじゅうろくにちまで


祭 禮 アリ近 郷 より参 詣 多 し此 所  ハ

さいれいありきんごうよりさんけいおおしこのところは


外 \/よりハ至  て寒 し十 日以前 より霜 降

ほかほかよりはいたってさむしとおかいぜんよりしもふ


里申  とぞ

りもうすとぞ


六 日寒 し風 アリ朝 画を認  メ神 主 ニ贈 ル

むいかさむしかぜありあさえをしたためかんぬしにおくる

(大意)

(補足)

 江漢さんが参詣した当時とほとんど太宰府天満宮は変わってないとおもいます。この画像の大楠は「池の邊(ヘン)」のものではなりませんが、樹齢1500年とあって、まさに御神木です。

「大野屋」、現在は豆菓子店[まめや]として営業しているようです。

「外\/」、『ほかほか 【外外】〔「ほか」を重ねた語〕

① そこ以外の別々の場所。よそ。ほか。「はやうありし者どもの―なりつる,田舎だちたる所に住む者どもなど」〈枕草子•25〉

② 別々にわかれているさま。「月ごろ,かく―にて」〈源氏物語•若菜下〉』

「六日」、天明8年10月6日。西暦1788年11月3日。

 「朝画を認メ」たのがどんな画だったのか興味がわきます。天満宮境内の画のような気がします。

 

2025年6月10日火曜日

江漢西遊日記四 その23

P28 東京国立博物館蔵

(読み)

馬 ニ乗里往 来 春るとぞ亦 爰 よりニ里程

うまにのりおうらいするとぞまたここよりにりほど


行キ石 羅漢 あり本 堂 も半 分 ハ石 ニて作

ゆきいしらかんありほんどうもはんぶんはいしにてつく


里多る者 と云 路 隔  りし故 ニ不行 此 日ミゾレ

りたるものというみちへだたりしゆえにゆかずこのひみぞれ


なと降り寒 し此 邊 ハ十  月 雪 降 とぞ申

などふりさむしこのへんはじゅうがつゆきふるとぞもうす


五 日曇  テ寒 し此 キタナキ宿 を朝 六 時 比

いつかくもりてさむしこのきたなきやどをあさむつどきころ


出  立 して飯 塚 と内 野能間  三 里半 アリ路

しゅったつしていいづかとうちののあいださんりはんありみち


尓生 なる志ゐ茸 を喰フ之 ハ初 メてなり爰 より

になまなるしいたけをくうこれははじめてなりここより


少 し往 て右 ノ方 田路 ニ入  太宰 府ヘ行ク路 なり

すこしゆきてみぎのほうたみちにはいるだざいふへゆくみちなり


夫 より多゛ん\/山 坂 路 ニて大 石 二十 間 三 十 間

それよりだ んだんやまさかみちにておおいしにじっけんさんじっけん


ある者 行 路 ニアリ飛 越し行 事 也 四里(ヨリ)を過 て

あるものゆくみちにありとびこしゆくことなり   より をすぎて

(大意)

(補足)

「五日」、天明8年10月5日。西暦1788年11月2日。

「飯塚と内野」、飯塚は右上、内野は左下にあります。 

「太宰府ヘ行ク路」、地図左側に宰府村があり、そのあたりに太宰府天満宮があるはず。

 地図でも山間の路をぬうようにして街道があるのがわかります。

「山坂路ニて大石二十間三十間ある者行路ニアリ」、二十間は約36m、三十間は約54mですから、50mプールに入るくらいのでかいでかい石となります。いくらなんでもこんな大きな石がゴロゴロあって飛び越して行くなんて、大げさに記したのではと。

「西遊旅譚三」の同じあたりを確かめると、「山中尓し天大石道路(ドウロ)を塞(フサ)ぎ十間(ケン)又は五六間なる毛能阿り」とありました。これなら18mくらいのもの、10m前後の石となりますから、いくらか納得です。

 途中、雪に降られたりして、やはり天明年間は世界的な異常気象の只中であったようです。

 

2025年6月9日月曜日

江漢西遊日記四 その22

P27 東京国立博物館蔵

(読み)

くさし此 石 炭 ハ一ツぺん焼きて炭 ニし多る者

くさしこのせきたんはいっぺんやきてすみにしたるもの


なり不焼(ヤカ)者 ハほ能ふ立チて木を焚ク如 し

なりやかず   ものはほのおたちてきをたくごとし 


此 処  ニて能 \/聞く尓之(コレ)ハ山 能根より出ルなり

このところにてよくよくきくに  これ はやまのねよりでるなり


夫 石 炭 を掘ルニハ山 能上 より谷 底 へフゴ

それせきたんをほるにはやまのうえよりたにぞこへふご


とて藤 桂  ニて造 り多る者 をおろし車  ニて上(ウヱ)

とてふじかつらにてつくりたるものをおろしくるまにて  うえ


尓引 上 ルとぞ皆 木能石 と化し硫黄 能氣

にひきあげるとぞみなきのいしとかしいおうのき


を得て燃 ルなりさて爰 より太宰府(ダサイフ)へ行

をえてもえるなりさてここより    だざいふ へゆく


路 アリ亦 豊 後ニ中 津ノ近 邊 ニ切 貫 と云

みちありまたぶんごになかつのきんぺんにきりぬきという


処  アリ之(コレ)ハ山 能根ヲ洞ラ穴 能如 く往 来 ニ切リ

ところあり  これ はやまのねをほらあなのごとくおうらいにきり


ぬき内 暗 キ故 亦窻(マト)を切 明ケ穴 能中 ハ

ぬきうちくらきゆえまた まど をきりあけあなのなかは

(大意)

(補足)

「フゴ」、負籠は当て字かもしれませんが辞書には『ふご 12【畚】

① 物を運搬するために用いる竹や藁(わら)で編んだかご。もっこ。

② びく。釣った魚を入れるかご。』とあります。現在でも使われています。

「藤桂」、桂は葛。

 江漢さん、石炭について詳しく記しています。地元の人たちにあれこれたくさん質問したのでしょう。やはり好奇心知識欲の強い方なのだなとおもいます。

 

2025年6月8日日曜日

江漢西遊日記四 その21

P26 東京国立博物館蔵

(読み)

真奈靏 能如 し全 躰 白 クして口(クチ)者し

まなつるのごとしぜんたいしろくして  くち ばし


足 代(タイ)赭(シヤ)石 の色 なり雁(カン)ハ一 向 尓居春゛又

あし  たい   しゃ いしのいろなり  がん はいっこうにいず また


画ニかく丹 頂  と云 鶴 ハ且 てなし路 々 バセ

えにかくたんちょうというつるはかってなしみちみちはぜ


能木植 て紅 葉 して如錦     雨 ニて七  時 過 ニ飯(イゝ)

のきうえてこうようしてにしきのごとしあめにてななつどきすぎに  いい


塚 と云 処  キタナキ家 尓泊 ル寒ムけれハ早

づかというところきたなきいえにとまるさむければさっ


束 火体(ハチ)を出しける尓網(アミ)五徳 ニして夫 ハ石

そくひ  ばち をだしけるに  あみ ごとくにしてそれはせき


炭 ヲ入レ上 尓熾(ヲキ)を置キ多る者 ニて其熾(ヲキ)

たんをいれうえに  おき をおきたるものにてその おき


能勢(セイ)尓てもゑる事 ニて其 おき消(キヱ)レハ石

の  せい にてもえることにてそのおき  きえ ればせき


炭 共 ニ消(キヱ)ルなり全  ク石 能燃(モヱル)尓非 ス硫黄(ユヲゝ)の

たんともに  きえ るなりまったくいしの  もえる にあらず   いおう の


氣能燃 ルなり風呂も之 ニて立 ル故 とかく尓

きのもえるなりふろもこれにてたてるゆえとかくに

(大意)

(補足)

「バセ」、櫨(はぜ)。なぜか二番目に付くべき濁点が手前の文字に付くことがたびたびあります

「早束火体(ハチ)」、早速。火鉢。

「石炭」、北九州で石炭の使用が一般化したのは元禄年間(1688年9月30日〜1704年3月13日)であるとありました。ケンペルの『日本誌』に、江戸参府途上、数ヶ所の炭鉱を示されたこと、採掘や使用法について見聞したことが記されている。なおケンペルは[1651〜1716]ドイツの医者・博物学者。1690年蘭館医として来日。日本の国情および動植物について観察や採集を行なった。92年離日。著「廻国奇観」「日本誌」など。

 

2025年6月7日土曜日

江漢西遊日記四 その20

 

P25 東京国立博物館蔵

(読み)

往 来 能人 もなく僕 と二 人漸(ヨウヤ)ク五 ツ時 前 なる

おうらいのひともなくぼくとふたり  ようや くいつつどきまえなる


比 黒 崎 の驛 尓至 ル能(ヨキ)家 ニ泊 ル此 節 旅 客

ころくろさきのえきにいたる  よき いえにとまるこのせつりょきゃく


なし

なし


四 日昨 日 ヨリ雨 今朝ヤミ亦タ降 ダス此 邊  時(シ)

よっかさくじつよりあめけさやみまたふりだすこのあたり  し


雨(グレ)とて風 雨多 シ昼 比 ヨリ風 やミ大 雨 トナル

  ぐれ とてふううおおしひるころよりかぜやみおおあめとなる


三 里程 行 てこや能瀬と云 驛(ヱキ)より飯(イゝ)

さんりほどゆきてこやのせという  えき より  いい


塚(ツカ)迄 七 里半 余  能路 なり此 間 靏 多 し

  づか までしちりはんあまりのみちなりこのかんつるおおし


雁(カン)能如 ク幾 武連も飛ヒ田能面ニおりて

  がん のごとくいくむれもとびたのもにおりて


居ルなり多 くハ真奈靏(ツル)黒 ツルハ小(コ)婦゛りニ

おるなりおおくはまな  つる くろつるは  こ ぶ りに


して頭  の当 り赤 シ亦 白 靏 アリ大 キサ

してあたまのあたりあかしまたしろつるありおおきさ

(大意)

(補足)

「五ツ時前なる比黒崎の驛尓至ル」、夜八時前に画像の右上隅の黒崎村に着きました。 

「四日」、天明8年10月4日。西暦1788年11月1日。

「こや能瀬と云驛(ヱキ)より飯(イゝ)塚(ツカ)」、木屋瀬村は黒崎から下ったところ、さらに南下して直方村があって、その先が飯塚村、画像の中央です。西へ約30kmゆくと現在の福岡市になります。

「田能面ニおりて居ルなり」、この「面」をなんと読むのか迷いました。辞書に『も 【面】〔「おも」の「お」が脱落した形〕おもて。表面。あたり。方向。「阿倍の田の―に居る鶴(たず)の」〈万葉集•3523〉』とあったので「も」としました。

「小(コ)婦゛り」、漢字「婦」に濁点「゛」が付いてますけど、変体仮名なのでおかしくはありません。

 鶴がたくさんいるのが、時期としていくらか早いような気がしますが、すでに西洋暦では11月、そしてこの頃の11月は今よりぐっと寒かったのでしょうか。