2019年5月31日金曜日

変事出来二付心得覚記 その197




 P.104 最初〜6行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
門 ロ ニ而申  様 、小殿 之者 二
かどぐちにてもうすさま、こどののものに

あら須、鳥 居もの二
あらず、とりいものに

あらず、一 同 談 事なけれハ
あらず、いちどうだんじなければ

ならず、此 度 之事 ハ杉 葉
ならず、このたびのことはすぎは

杉 皮 喰 事 ならず与
すぎかわくうことならずと

申  候
もうしそうろう


(大意)
門付近での立ち話では(柏屋)は「(御林は)小殿のもの
ではないし、鳥居のもの
でもない。(村役人)全員で相談すべき
ことである。この度のことは、たとえ杉の葉一枚
杉の皮一枚とて伐ってはならない」と
申された。


(補足)
「門口ニ而申様」、帰り際に、門の付近で立ち話でもしたのでしょう。
「鳥」がやはり難しい。なれるしかありません。
「なければ」、「け」は「計」の変体仮名?。「个」ではなさそうです。
「葉」、「艹」「世」がひとかたまり、「木」が「ふ」のようになる。
「皮」、「須」の偏と同じようにくずしています。おまけに右側に「、」がある。


2019年5月30日木曜日

変事出来二付心得覚記 その196




 P.103 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
一   新 立 江立 寄 炭 谷入
ひとつ にったちへたちよりすみやいり

字 檜  山 御林  山 之儀ヲ
あざひのきやまおはやしやまのぎを

柏  屋代 八 殿 江噺 し候   処  、
かしわやだいはちどのへはなしそうろうところ

柏  屋申  様 、夫 盤村 役 人
かしわやもうすさま、それはむらやくにん

一 同 談 事之上 無之  候ハヽ、
いちどうだんじのうえこれなくそうらわば

賣 買 手入 致  事 不成、
うりかいていれいたすことならず

先 祖可゛印 形  致 し候   事 故、
せんぞが いんぎょういたしそうろうことゆえ

取 計  二 不成 、新 立 之
とりはからいにならず、にったちの


(大意)
ひとつ 新立へ立ち寄り、炭谷入
檜山御林山の件について
柏屋代八殿へ話しましたところ
柏屋は次のように申しました。「そのことについては村役人
全員で相談した上でのことでなければならないので
売り買いを手がけることをしてはならず
先祖が押印して承ったことなのであるから
あれこれと算段してはいけません」。新立の


(補足)
柏屋代八(50)は古組組頭。その倅清八は21歳で組頭見習。

「屋」のくずし字は特徴的、右上にクルッときているのは何なのでしょう。
「処」「故」のくずし字がにています。
「盤」(は)、変体仮名。
「印」、左右の部品が上下になっているようなくずし字ととらえるとわかりやすい。「迎」も同類。

 前の頁あたりから手跡は変わりましたが、今度はどなたが記しているのでしょう。


2019年5月29日水曜日

変事出来二付心得覚記 その195




 P.102 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
七 月 廿   一 日 、醫王 寺二於 帝
しちがつにじゅういちにち、いおうじにおいて

出會 之事 、是 ハ村 方 施  し
であいのこと、これはむらかたほどこし

評  議
ひょうぎ

筏  仲 間畑 中 茂左衛門 殿
いかだなかまはたなかもざえもんどの

宅 二而一 同 出会 二付
たくにていちどうであいにつき

廿   三 日 、日延 二相 成 候   、以上
にじゅうさんにち、ひのべにあいなりそうろう、いじょう

七 月 廿   三 日 、村 方 施  し相 談 、
しちがつにじゅうさんにち、むらかたほどこしそうだん

醫王 寺江一 同 集  ル
いおうじへいちどうあつまる


(大意)
7月21日医王寺へ
出かけ、この村への施しについて会談をした。
筏仲間の畑中茂左衛門殿宅へ
一同出かけ話し合いましたところ
23日に延期することとしました、以上。
7月23日村へ施しの相談をするために
医王寺へ一同が集まりました。


(補足)
 この頁、次の頁の字が大きくなりました。頁にぎっしりと余白もなく書き込むかと思えば
この頁のように、空白だらけのこともあります。書き手が変わってその人の癖、ということもあるでしょうが、やはり気分次第なのでしょうか、よくわからないことばかりです。

「醫王寺」、ほとんど楷書です。しかし頁最後の行の「王」は変体仮名の「わ」の感じでくずしてます。




「筏」、「竹」冠が立派なので2文字のようです。

「出會」は出かけていって会うことでしょうが、「集ル」ともあります。あまりこだわらないほうがよいのかもしれません。



2019年5月28日火曜日

変事出来二付心得覚記 その194




 P.101a (貼り紙)10行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
兵 三 郎 申  様 、一 向 存不申    、親父
へいさぶろうもうすさま、いっこうぞんじもうさず、おやじ

病  氣二而志者゛らく罷  居 候   と申  候ハヽ、
びょうきにてしば らくまかりおりそうろうともうしそうらわば

小殿 申  様 、流 連之事 慥  二承  知致  候、
こどのもうすさま、ながれのことたしかにしょうちいたしそうろう

鳥 居不承知  ならば、半 分 伐 て
とりいふしょうちならば、はんぶんきって

村 方 江施  し二遣  し、我 間違  て我
むらかたへほどこしにつかわし、われまちがえてわれ

志ん志やう丸 で遣   首 二而も差 出しても
しんしょうがんでつかわしくびにてもさしだしても

くるしから須と申  事 、度々  是 ヲ申  候   とキ無
くるしからずともうすこと、たびたびこれをもうしそうろうときなし


(大意)
兵三郎は「まったくわかりません。親父は
病気でしばらく臥せっておりました」と答えたところ
小殿が言うには「今までの経緯はたしかに承知してます。
鳥居が同意しないのならば半分伐って
村へ施しとし、(以下???)」


(補足)
「我間違て〜申候とキ無」、よくわかりません。
「志ん志やう丸」(まる)or(がん)、薬の名前なのか落語家なのか?
「申候」の次の「刀」のような字も不明です。

 まだ若輩の兵三郎さん、他の年長の名主さんたちにやや問い詰められている様子。
恐縮して親父は病気でしたので・・・と伏目がちに額に汗うかべていそうな場面です。

小殿はややせっかちになり、それならば伐木は半分だけにして村へ施し、わたしが間違えていたら毒薬(志ん志やう丸)でこの首差し出してもかまわないとたびたび言っていたと言ってくれ。のような感じでしょうか。フィクションですけど。

 いずれにしても、この貼紙全体はくだけた調子であることは否めません。


2019年5月27日月曜日

変事出来二付心得覚記 その193




 P.101a (貼り紙)最初〜9行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
(貼紙)
七 月 廿 日宮 本 二て祭 禮 相 談 之節、
しちがつはつかみやもとにてさいれいそうだんのせつ

村 方 一 同 出會 、伴 次郎 殿 申  様 (先達而)
むらかたいちどうであい、はんじろうどのもうすさま(せんだって)

(御頼)  相模 さん・松 さん先達  而御頼 ミ
(おたより)さがみさん・まっさんせんだっておたのみ

申  候   炭 谷入 檜  山 、鳥 居ゟ いま多゛相
もうしそうろうすみやいりひのきやま、とりいよりいまだ あい

さつ無之  、此 儀如何二候   哉御聞 被下
さつこれなく、このぎいかにそうろうやおききくだされ

申  ニ付 、相模 ・松 太郎 、兵 三 郎 さん、あな多王御存
もうすにつき、さがみ・まつたろう、へいさぶろうさん、あなたわごぞん

知無之  、御父 江小殿 様 御頼  二付 、おとうさんへ御噺 し
じこれなく、おちちへこどのさまおたよりにつき、おとうさんへおはなし

申  候   御林  山 之義、如何 御噺 し有之  哉と
もうしそうろうおはやしやまのぎ、いかがおはなしこれあるやと

申  二付 、
もうすにつき


(大意)
7月20日宮本で祭礼の相談をしているとき
村方一同が顔を揃えました。そのとき伴次郎殿がいうには
「相模さん松さんが先日お願いした
炭谷入檜山のことですが、鳥居からはその後
連絡はなく、この件についてはどのようになっているのかきいてくださいませんでしょうか」
というので、相模と松太郎は「兵三郎さん、あなたはご存知
ないだろうが、お父上へ小殿様は頼りにしているので、おとうさんへお話し
ている御林山の件は、どのようなお話になっているのでしょうか」
と尋ねました。


(補足)
一頁分の貼り紙で、内容は小さな字でびっしり記され、実際は数ページ分の量になっています。
宮本の相模さんは神主さん。兵三郎さんは源左衛門さんの息子さんで当時27歳。鳥居は平沼家屋号。
小殿は吉田伴次郎(36歳)。
宮本で祭禮相談のときに村方一同出會、一向にすすまない杉桧を伐っての施金の件が話題になり、その場のやりとりが、口語体で記されています。言葉がくだけるとやはり身近に感じるものです。

「先達而」「御頼」が縦長の丸で消され、その行末にまわされました。
「鳥居」、「鳥」のくずし字が難しい。
「御父」、消しかかっているようにもつぶれてしまったようにもみえますが?

 この貼紙は覚記を書くときとは気分が異なり、手紙を書くような感じで流して筆を運んでいる雰囲気があります。削除したり行間に挿入したり、親しい知人にこんな感じだったんんだよと気軽にそのときの様子を伝えているような気軽さがあります。


2019年5月26日日曜日

変事出来二付心得覚記 その192




 P.101 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
貰候、天龍寺院寺様と
もらいそうろう、てんりゅうじいんてらさまと

同道二而相模殿・松太郎殿参ル、
どうどうにてさがみどの・まつたろうどのまいる

伴二郎殿申様、御尤大きに
はんじろうどのもうすさま、ごもっともおおきに

御苦労さ満二御座候、相談
ごくろうさまにござそうろう、そうだん

松太郎ゟ申聞セ候
まつたろうよりもうしきかせそうろう

六日、七日、八日、九日、十日、十一日、十二日、


十三日迄病氣二而臥居、
までびょうきににてふせおり

漸々十四日、少々全快二而
ようようじゅうよっか、しょうしょうぜんかいにて

龍泉寺へ施餓鬼罷出候
りゅうせんじへせがきまかりでそうろう


(大意)
もらいました。天龍寺院のご住職様と
一緒に相模殿と松太郎殿がやって参りました。
伴次郎が言うには、「大変
ご苦労さまなことで御座います。相談内容は
松太郎が説明してくださいました。」
六日、七日、八日、九日、十日、十一日、十二日
十三日まで病気で床についておりました。
ようやく十四日に少々回復し
龍泉寺へ施餓鬼をお願いにでかけました。


(補足)
前頁の「基」「薬」もそうですが「貰」も2文字に見えてしまいます。

なぜわざわざ「六日、・・・、十三日迄」と一行以上つかって書いたのでしょうか。
「六日ゟ十三日迄」とすればすむでしょうに。

「御尤大きに」、感じはつかめますが、当時の言い回しとしての語感はよくわかりません。
「さ満」、「ま」の変体仮名でしょうけど、偏がありません。
「相模」と「相談」がよく見ないと間違えそうです。
「臥」、これ一文字とにらめっこしてもわかりません。


2019年5月25日土曜日

変事出来二付心得覚記 その191




 P.100 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
宮 本 松 太郎 殿 方 へ迎  遣  し、
みやもとまつたろうどのかたへむかえつかわし、

新 古両  組 之内 当 地老  リハ
しんこりょうぐみのうちとうちとしよりは

太次郎 殿 なり、是 迄 参 り
たじろうどのなり、これまでまいり

流 連の御触 御廻  状  ニ而も参 り
ながれのおふれおまわしじょうにてもまいり

候   哉と、御廻  状  写  御改   被下  候   趣
そうろうやと、おまわしじょううつしおあらためくだされそうろうおもむき

申候    得共 、太次郎 殿 覚  無之
もうしそうらえども、たじろうどのおぼえこれなく

趣   申  候   、古組 村 役 人 の印 形  も有之  候   二付 
おもむきもうしそうろう、こぐみむらやくにんのいんぎょうもこれありそうろうにつき

対 し小殿 ヘ
たいしこどのへ

相 談 可致   趣   二付 両  人 帰ス、
そうだんいたすべくおもむきにつきりょうにんきす

五 日直 竹 醫者 元基 殿 相 頼  薬 用 手当 致 し
いつかなおたけいしゃもときどのあいたよりやくようてあていたし(もらいそうろう)


(大意)
宮本松太郎殿方へむかえをつかわしました。
新古両組の中で当地の年配者は
太次郎殿です。これまでに(代官所)からの
御触御廻状もありましたこと
でしょうから、御廻状の写しを改めて探していただけないでしょうかと
お願いしてみたのですが、太次郎殿はどうも覚えていそうにも
ありませんでした。古組の村役人の押印もこのようにあるのだが、どうやら小殿と
相談しなくてはならないようだとのことで両人は帰りました。
5日直竹の医者元基殿にかかり薬をもらいました


(補足)
 源左衛門宅で宮本松太郎殿と原田太次郎殿(当時67)の相談の様子です。
太次郎殿が新古両組当地では一番の年配者なので、古くからの事情よくご存知ではないのかと杉桧植林についての手元にある写しの確認をお願いしているのですが、御本人はどうも記憶にはござらんなぁという様子。古組にはこのとおり押印した写しがあるのだが(われら新組では如何に)。ならばやはり小殿(新組吉田伴次郎(36))にきいてみましょう、とこんな場面です(だろうとおもいます)。

「宮本」、「宮」のくずし字は「呂」が「五」になります。
「迎」、「卯」は部品が左右ではなく上下になります。
「両組」「当地」、「両」と「当」がちょっと似てますが、区別はつきやすい。この後にも出てきます。
「老」の最初の一画目を間違えたのか、ためらいながらの手跡です。心配なので(とし寄)と振り仮名をふってます。

「村役人の印形・・・」の「役」の左側にある「亻」のくずし字のような字は?わかりません。

「直竹」、地名です。「直」のくずし字はいろいろなところにあらわれて重要。
「元基」(もとき)としましたが読みは不明。「名栗の歴史 上」に「村の医療事情」という項目があるのですが、そこには直竹のこの医者の名前はありませんでした。

この頁は源左衛門さんの手跡のようです。


2019年5月24日金曜日

変事出来二付心得覚記 その190




 P.99 7行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
流 連二相 成 候   哉も志連すと
ながれにあいなりそうろうやもしれずと

被申  候   と小殿 噺 し御座候
もうされそうろうとこどのはなしござそうろう

右 二付 、翌 朝 松 太郎 殿 同 道
みぎにつき、よくあさまつたろうどのどうどう

被 下 、小殿 江右 之噺 し可致   と
くだされ、こどのへみぎのはなしいたすべきと

申  候   二付 、源 左衛門 ゟ 翌 朝
もうしそうろうにつき、げんざえもんよりよくあさ


(大意)
小殿は何か考えがあってのことかもしれないと
申されていた」とのことで御座います。
そのようなことで、翌朝松太郎殿がご一緒して
下され、小殿へ先程のお話をしようと
いうので、源左衛門より翌朝


(補足)
「翌朝」、「翌」はいつもながら大きく立派、「羽」「立」の二文字のようです。「朝」の「月」は昨日も書きましたが、「跡」や「得」の旁と似たような形のくずし字です。

「右之噺」、この「噺」のくずし字はちょっとわかりずらい。

 このあたりのやり取りが妙に詳しく、救済のために伐木してしまったあとで、幕府から、あの杉檜は献納すべきものであった、などと何らかのお咎めがあることを恐れたからなのでしょうか。
まだ、このやり取りが続きます。


2019年5月23日木曜日

変事出来二付心得覚記 その189




 P.99 最初〜6行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
右 之通 り相模 殿 ・松 太郎 殿 江
みぎのとおりさがみどの・まつたろうどのへ

噺 し致  、尤   小殿 二而、何 角慥
はなしいたし、もっともこどのにて、なにかたしか

成 流 連相 成 候   ヲ見込 承  知之上 事
なるながれあいなりそうろうをみこみしょうちのうえこと

二者候  得共 、私  し一 向 存  不申  候   、
にはそうらえども、わたくしいっこうぞんじもうさずそうろう、

松 太郎 申  様 、蔵 久保半 兵衛殿
まつたろうもうすさま、くらくぼはんべえどの

二三 日 跡 小殿 江参 ら連、夫 盤
にさんにちあとこどのへまいられ、それは


(大意)
右のような話を相模殿松太郎殿へ
致しました。もっとも小殿には何か確かな
お考えがあり見込みがあると承知している
のでしょうが、わたくしは一向に存じ上げませんでした。
松太郎が言うには、「蔵久保半兵衛殿が
2、3日後小殿へ来て、それは


(補足)
「何角」(なにか)、辞書にはなく、当て字としました。
「流れ」、話の前後のつながりから(考え)としました。
この頁「れ」はすべて「連」となってます。

「候得共」、「得」と「跡」の旁がほとんど同じです。この形のくずし字は他の旁でも頻繁に表れます。前後の文章のつながりで読むことができればそれで十分だったのでしょう。

「夫盤」、頻繁に使われる助詞「は」がどうしてこんなに複雑で画数の多い「盤」を変体仮名にしているのかホントに不思議です。

 伐木について、ああでもないこうでもないと話は続きます。



2019年5月22日水曜日

変事出来二付心得覚記 その188




 P.98 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
只 今 王かり可年候   与し
ただいまわかりかねそうろうよし

申  候   二付 、手前 ゟ 写  ヲ取 よせ
もうしそうろうにつき、てまえよりうつしをとりよせ

柏  屋代 八 殿 二見せ候   処  、代 八 殿
かしわやだいはちどのにみせそうろうところ、だいはちどの

申  様 、此 書 付 二而ハけしからぬ事 、
もうすさま、このかきつけにてはけしからぬこと、

伐らせ帝跡 二而願 王連候
からせてあとにてねがわれそうろう

よふものなら者゛大 変 之事 、
ようものならば たいへんのこと、

四五日 過 帝柏  屋へ参 り候   処、
しごにちすぎてかしわやへまいりそうろうところ

柏  屋申  様 、柏  木組 ゟ 小物 迄
かしわやもうすさま、かしわぎぐみよりこものまで

右 之仲 間二成 不申  と申  而
みぎのなかまになりもうさずともうして

仲 間ぬけ二相 成 候   噺 し
なかまぬけにあいなりそうろうはなし


(大意)
すぐにはどこにあるかわかりません」
と答えました。そこでわたしが写しを取り寄せて
柏屋代八殿に見せましたところ、代八殿は
「この書付の内容から判断すると、(伐木は)してはいけないととれる。
伐木してしまってから、幕府から献納しろと命じられ
ようものならば、大変なことになるのではないか」と申しました。
4,5日後柏屋へ行ったところ、
柏屋は「柏木組やその小物たちまで
そのような伐木するしようとする者たちには加わわらないと言い
そのような仲間からは抜け出したい」という話でありました。


(補足)
 手跡が柔らかく変体仮名や平仮名が目立ちます。書き手が変わったようです。

「年」のくずし字は何でこうなるとというくらい面白い。
「与し」、「与」のくずし字は助詞の「と」として頻繁に出てきます。くずし字は同じようです。
「写ヲ」、「写」の中は「与」ですが、「与」のくずし字に似ているような似てないような。
「けしからぬ」、この2行後に「よふものなら者゛」と流れるような平仮名が続きますが、この部分はなんかたどたどしい。
「跡」のくずし字は読めません。旁が「月」や「頁」に見えてしまいます。
「願」、頻繁に出てきますが、ここの「原」がわかりにくい。
「四五日過帝」、しばらくながめてから、あっそうかと読めた次第。初心者は辛い。
「処」、4行前では「處」でした。
「仲間」、「門」を冠のように書くくずし字もありますが、ここではちゃんと書いてます。

 このあとしばらく、「〜申様」のやりとりが続きます。
当時の口語体の表現もありおもしろいです。


2019年5月21日火曜日

変事出来二付心得覚記 その187




 P.97 7行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
栄 左衛門 ゟ 承    り候   、右 之由
えいざえもんよりうけたまわりそうろう、みぎのよし

申  候ハヽ  、柏  屋代 八 殿 申  様 、書 付 等
もうしそうらわば、かしわやだいはちどのもうすさま、かきつけなど

可有之   哉と尋  候   間  、伴 次郎 殿 二
これあるべくかとたずねそうろうあいだ、はんじろうどのに

預 ケ有之  、差 出し可申   由 申  候ハヽ  、
あずけこれあり、さしだしもうしべくよしもうしそうらわば

伴 次郎 殿 申  様 、仕舞 込 候   間
はんじろうどのもうすさま、しまいこみそうろうあいだ


(大意)
(父)栄左衛門より聞いております。以上のような
経緯をお話したところ、柏屋代八殿が「書付などは
ありますかと」聞くので、伴次郎殿に
預けてあり、持ってきてもらおうかと言うと
伴次郎殿は「しまいこんでしまっており
(すぐにはどこにあるかわかりません」
と答えました。)


(補足)
 この頁は前半がちょっと元気がありませんが源左衛門さんらしくはあります。後半はやや疲れて病気か何かで弱っていたのか心もとなく感じます。

 今までも「〜殿申様」という表現はたくさん出てきました。
臨場感があってよいのですが、どこまでが話した内容なのかが、初心者のわたしにはとてもわかりにくのです。
場面が展開してすぐに分かる場合もありますが、そのようなことはあまりありません。

 次の頁でも「〜殿申様」がたくさんでてきます。


2019年5月20日月曜日

変事出来二付心得覚記 その186




 P.97 最初〜6行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
可差上   様 申  候   二付 、則 御請 仕    候   、
さしあげべくようもうしそうろうにつき、そくおうけつかまつりそうろう、

御出  役 被仰付    候   二者、借 物 なら者゛
ごしゅつやくおおせつけられそうろうには、かりものならば

かゑさねならぬ、相(ソヲ)当 之金子 差 出し、
かえさねならぬ、そう   とうのきんすさしだし、

地面 引 請 、植 附 献 納 可致   由
じめんひきうけ、うえつけけんのういたすべくよし

被仰   二付 、村 役 人 小前 一 同 承  知二
おおせられにつき、むらやくにんこまえいちどうしょうちに

候   間  、左ニ相 心  得遍く旨
そうろうあいだ、さにあいこころえべくむね


(大意)
(国へ)献納するようにといわれたので、すぐに引き請けた。」
ご出役様から言われたことは、借りたものならば
返さねばならぬ。それ相応のお金を用意し
場所が確保でき、植林し献納できるようにせよと
おっしゃられ、村役人小前一同は承知
しましたのでの、そのように心得たと

(補足)
「則」、時間的にすぐにと言う意味の「即」としましたが、(したがって)などの意味でもおかしくはありません。正しくはなんと読むのかはわかりません。

「なら者゛かゑさねならぬ」、変体仮名も含めて平仮名が続きます。書き手が変わったかもしれません。
「相当」を書き加え、さらに振り仮名「ソヲ」を記しています。

「相当の・・・引請」、前後から想像して大意としました。フィクションになってそうです。


2019年5月19日日曜日

変事出来二付心得覚記 その185




 P.96 7行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
村 役 人 共 一 同 申  様 、
むらやくにんどもいちどうもうすさま、

炭 谷入 檜  山 是 ハ空 地之場所
すみやいりひのきやまこれはあきちのばしょ

ゆへ貸し可遣    候   、是 江植 立
ゆへかしつかわすべくそうろう、これへうえたて


(大意)
(ところが)村役人一同が言うには
「炭谷入檜山のここは空き地の場所
なので、貸し付けることができる。ここへ植林し


(補足)
「植」、「直」のくずし字「ホ」+「一」のような形。「置」など「直」の部品を含む漢字に共通です。

 この後、村役人同士で喧々諤々の議論が始まります。
自分の父親や祖父の代の事柄であり、記録することが名主たち村役人の大きな役目であり、真面目で勤勉実直な彼らが残し伝えてきているはずなのに、杉檜の植林の経緯が曖昧であるというのもおかしな話ではあります。


2019年5月18日土曜日

変事出来二付心得覚記 その184




 P.96 最初〜7行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
雄 三 郎 様 御出  役 被遊   、為
ゆうざぶろうさまごしゅつやくあそばされ、

国恩  之  持 分 之内 二而空 地場所 へ
こくおんのためもちぶんのうちにてあきちばしょへ

杉 檜  五千 本 宛々両  人 二而一 万 本
すぎひのきごせんぼんずつりょうにんにていちまんぼん

植 立 献 納 可致   様 被 仰付   候   、
うえたてけんのういたすべくようおおせつけられそうろう、

其 砌  両  人 御免 願  少株二
そのみぎりりょうにんごめんねがい???

御座候ハヽ  、持 分 之内 空 地之場所 無 之
ござそうらわば、もちぶんのうちあきちのばしょこれなく

様 奉申上       候   、
さまもうしあげたてまつりそうろう、


(大意)
雄三郎様が村にやって来られたとき、
国のために持ち分の空き地の場所へ
杉檜五千本ずつ両人で一万本
植林し献納するよう命じられたました。
そのときに両人は免除してくれるよう願い、資産も少ないことで
御座いますし、持ち分のうちに空き地の場所もありません
と申し上げたました。」


(補足)
「遊」、このくずし字を読むのは困難。「辶」のついた字をくずしの
ほとんどは右側部分が平仮名「を」のような形になる。

行末に「為」がきて、改行して行頭から「国恩之」となってます。下から返って(こくおんのため)と読むのでしょうが、書くときに間違えないのかといつも思ってしまいます。

「空地」、が3回出てきます。「空」のくずし字は指でなぞってもわかりにくい。
「五千本」、「五」は特徴的で間違えやすいので逆に読むことができるが「千」のほうがわかりづらい。
「宛々」、(ずつ)としましたが、辞書にもありません。
「一万本」、「一」も「万」も「壱」でも「萬」でもありません。

「少株」、(すくないかぶ)なのですが、振り仮名をふるならなんとしましょう。意味はまぁなんとなくわかります。

「持」と「場」が何度か出てきます。くずし字でもちゃんと「扌」と「土」の区別がわかります。


2019年5月17日金曜日

変事出来二付心得覚記 その183




 P.95 6行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
私   儀も檜  山 之儀者一 向 不存  候  得共、
わたしくぎもひのきやまのぎはいっこうぞんぜずそうらえども、

尤   父 栄 左衛門 私   二申  聞 候   二者、
もっともちちえいざえもんわたくしにもうしききそうろうには、

川 崎 平右衛門 様 御支配 之砌  、
かわさきへいえもんさまごしはいのみぎり、

御手代 中 川 順  蔵 様 并  高 橋
ごてだいなかがわじゅんぞうさまならびたかはし


(大意)
「私も檜山のことについては一向に知らなかったが、
もっとも、父の栄左衛門より次のように申し聞かされている。
川崎平右衛門様が御支配(代官)のとき
手代の中川順蔵様と高橋」


(補足)
川崎平右衛門様御支配のときとは、文化年間(1804年2月11日〜1818年4月22日)の頃。
この頃に植林し、この覚記が1866年ですから、ちょうど伐採できる時期になっていました。

栄左衛門さんは安政6年(1859年)に亡くなっています。

「川崎」の「崎」が読めそうで読めません。
「手代」、代官に使える役人。


2019年5月16日木曜日

変事出来二付心得覚記 その182




 P.95 最初〜5行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
代 八 殿 ・軍 蔵 殿 申  様 、檜  山 之儀
だいはちどの・ぐんぞうどのもうすさま、ひのきやまのぎ

如何 被成 候   哉、貴殿 方 之心  持 二随  イ
いかがなされそうろうや、きでんがたのこころもちにしたがい

取 計   遍゛くと存  候   、源 左衛門 申  様 、
とりはからいべ くとぞんじそうろう、げんざえもんもうすさま、

伴 次郎 左ん如何  と申  候得  ども
はんじろうさんいかかがともうしそうらえども

一 切 相 談 無之  二付 、源 左衛門 申  様 、
いっさいそうだんこれなくにつき、げんざえもんもうすさま、


(大意)
(柏屋)代八殿と(町田)軍蔵殿が言うには「檜山(伐採)の件は
どうされるおつもりなのか。貴殿の気持ちに従って
とりはかろうとおもっている。」源左衛門が答えて
「(吉田)伴次郎さん(小殿)にどうするのかと聞いたのだが
一切相談することはなかった。」(続けて)源左衛門が言うには


(補足)
 このあたりの手跡や字の大きさなど書きはじめの頃のものとは大きく異なってきてしまっています。何度も繰り返し述べてきていますが、この覚記の書き手は数人よりももう少し多いような気がします。

「被成」(なされ)、「被」のくずし字は「ヒ」。
「貴殿」、二文字セットで覚えます。ここの「貴」のくずし字はカタカナの「キ」のような感じ。
「心持」、「心得」などで頻出です。「心」のくずし字は、最初の二画までが一つながりで偏、
あとの二画はまとめて「、」。
「随」(したがう)。「阝」以外は平仮名「を」のようなくずし字。

「伴次郎左ん」、「左」のくずし字、この形ははじめて。辞書で調べると確かにあります。
古文書に「さん」がでてくるとくだけた感じがしてニコリとしてしまいます。

「相談」ですがこのくずし方だと「相模」に見えてしまいます。

「源左衛門申様」、二度続けて出てきてます。二度めはいらないとおもうのですが。


2019年5月15日水曜日

変事出来二付心得覚記 その181




 P.94 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
弐百  人 持 入 會 野所  噺 し承    り
にひゃくにんもちいりあいのところはなしうけたまわり

候   所  、杉 山 見 分 以多し村 役 人 并
そうろうところ、すぎやまけんぶんいたしむらやくにんならび

重 立小 前 、四五日 も山 峰 二於 て
おもだつこまえ、しごにちもやまみねにおいて

伐 木 二可及   評  義以多し候   趣   二も、
ばつぼくにおよぶべくひょうぎいたしそうろうおもむきにも、

柏  屋代 八 殿 并  新 宅 先 軍 蔵 殿 ゟ
かしわやだいはちどのならびしんたくせんぐんぞうどのより

源 左衛門 方 へ書 面 参 り、炭 谷入
げんざえもんかたへしょめんまいり、すみやいり

檜  山 一 条  二付 内 談 仕   度 候   間  、小殿 迄
ひのきやまいちじょうにつきないだんつかまりたくそうろうあいだ、こどのまで

早 速 可罷出   趣   申  来 り候   間  、早 速
さっそくまかりでべくおもむきもうしきたりそうろうあいだ、さっそく

小殿 迄 源 左 衛門罷  登 り候
こどのまでげんざえもんまかりのぼりそうろう


(大意)
200人持ちの入会地であるとの話を承知しているし
杉山を検分し、村役人ならびにおもだった小前が4,5日も山嶺において
伐木するかどうか評議したこともあった。」

柏屋代八殿と新宅軍蔵殿より
源左衛門へ書面がきて、炭谷入
檜山の件に付いて相談したいので、小殿まで
すぐに来てはくれまいかとの内容であった。早速
小殿まで源左衛門は出向きました。


(補足)
「名栗の歴史 上」を読まないとこのあたりの内容はよくわかりません。
両家とは平沼家(平沼源左衛門)と吉田家(吉田伴次郎(小殿))のことです。
この両家が60〜70年前に、入会地に杉檜を植林し、もともとは幕府へ献納することとなっていたのでしょうけれど、数世代前のことではっきりしないまま、時は流れました。
ちょうど折よく伐採時になったこれらの杉檜を売って、村人の救済に役立てようとの相談をしているところの記述になります。

「入會」、この「會」のくずし字が、「檜」の旁と同じになってます。

この一行目の区切りが初心者のわたしは悩みます。
弐百人持(200人持)、入會野(入会地)、所、噺し承り としましたが、まちがっているかも。

「重立」(おもだつ)、「重」が上下にの二つの部品に見えます。
「四五」、難しい「五」のほうが特徴的だけにすぐわかりましたが、「四」もわかりずらい。
「以多し」、二度出てきてます。
「新宅先軍蔵殿」、「先」がわかりません。
「登」のくずし字は特徴的、このまま覚えます。


2019年5月14日火曜日

変事出来二付心得覚記 その180




 P.93 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
炭 谷入 御林  山 二両  家二而
すみやいりおはやしやまにりょうけにて

植 立 置 候   檜  山 杉 檜、  此 度 てうど
うえたておきそうろうひのきやますぎひのき、このたびちょうど

能折柄   二付 、縦令 筏  通 行 者不相成  共
おりがらよくにつき、たといいかだつうこうはあいならずとも

何 程 二か可相成   間  、村 方 江施行 二
なにほどにかあいなるべくあいだ、むらかたへせこうに

仕   度 旨 、此 段 源 左衛門 二掛 合 呉
つかまりたくむね、このだんげんざえもんにかけあいくれ

候   様 頼  二付 参 り候
そうろうようたよりにつきまいりそうろう

源 左衛門 申  様 、只 今 の御相 談 二
げんざえもんもうすさま、ただいまのごそうだんに

相 成 兼 、一 体 檜  山 御林  山 之儀者
あいなりかね、いったいひのきやまおはやしやまのぎは

六 七 ケ年 以前 、伊倉 組 ゟ 栃 谷海  迄
ろくしちかねんいぜん、いぐらぐみよりとちやがやまで


(大意)
炭谷入の御林山に両家で
植林し(幕府に献納し)た杉・檜が、ちょうど
よく育っている。たとえ筏の通行ができなくても
いくらかにはなるだろうから、(伐採して)村方へ施行
したい旨、この事を源左衛門に相談してくれる
ように頼まれてやって来たのだった。
源左衛門が答えるには、「只今の相談は
そうしようとしてもできないだろう。そもそも檜山御林山については
6,7年以前に伊倉組ゟ栃屋谷(とちやがや)まで


(補足)
 整然とした手跡、筆圧加減も均一で、最初から最後まで乱れが全くありません。
「折柄」の「折」は書き直してますが。

 7月4日病気で臥せっている源左衛門さんに相談が持ちかけられました。
村内への施金が十分に行われてないので、炭谷入の杉檜を伐採販売して困窮者を救済しようとの相談です。

 炭谷入は上名栗村の中にあった入会地の一つでした。入会地とは村民が共同利用する林野でした。そこで萱(かや)、秣(まぐさ)、枯れ枝などや炭焼きや造林などをしました。
江戸で西川材の需要が増加し、大量に原木が筏で運ばれると、供給がおいつかなくなり入会地にまで杉檜が植林されました。

「植立置」、「直」の部分のくずし字が同じになってます。
「檜」のくずし字が初めて見るような形です。
「縦令」(たとい)、ちょくちょくでてきますが、このくずし字は読むのが困難。
「施行」、「通行」、「行」のくずし字が微妙に異なってますが、まぁ同じような感じです。
「呉」だけだと?ですが「掛合」があるので類推できそう。

「相成兼」、この「兼」はこの後の話から、否定的な方の意味と解釈しました。
「以前」、二文字セットで覚えます。

「栃谷海」、原文ではこのようになってますが、「栃屋谷」(とちやがや)だとおもいます。



2019年5月13日月曜日

変事出来二付心得覚記 その179




 P.92 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
右 之通  御廻  達  之趣   写  ヲ以
みぎのとおりおまわしたっしのおもむきうつしをもって

申  上 候   以上
もうしあげそうろういじょう

       南  村 寄 場
       みなみむらよせば

 七 月 一 日  名主 
 しちがつついたち なぬし

              東 兵衛
              とうべえ


右 之段 三 日に承    り申  候   、四 日ハ病  氣
みぎのだんみっかにうけたまわりもうしそうろう、よっかはびょうき

罷  居 候   処  江、宮 本 相模 殿 并
まかりおりそうろうところへ、みやもとさがみどのならび

原 松 太郎 殿 両  人 小殿 に頼 連
はらまつたろうどのりょうにんこどのにたよれ

参 り候   、小殿 伴 次郎 申  遣  し候   儀、
まいりそうろう、こどのばんじろうもうしつかわしそうろうぎ、


(大意)
右の通り、一通り御廻状が回覧し終わったようなので、この写しをもって
申し上げます。
7月1日
 南村寄場名主 東兵衛


  右のお廻状は3日に承りました。4日は病気
で寝ているところへ、(神主)宮本相模殿と
原松太郎殿お二人は小殿に頼まれて
やって参りました。小殿伴次郎が知らせてくれた内容は
以下の通り。


(補足)
「趣」、このくずし字は今までと少し異なり、偏の「走」がなんとなく形に残っています。

「寄場組合」について
 江戸時代後期になると、経済が活発になりそれとともに農村の有り様が著しく変化しました。
世の流れに乗り富裕層になる者たち、一方飢饉などで疲弊し土地を失い夜逃げして貧窮民となりさらに悪事に走るものも多数出てきてました。

 それらの取締のために、関東一円を取り締まるために関東取締出役を文化2年(1805)に設置しました。しかし、これだけで関東周辺を取り締まることができるわけがありません。

 そこで、文政10年(1827)に各村々が協力しあう自衛組織としてを組合を作らせました。
それを寄場組合(改革組合)といいました。

「三日に承」、平仮名の「に」がなぜかとても目立ちます。2行後の「小殿に頼連」の「に」も。
「宮本」、「宮」のくずし字は前回も出てきました。「呂」が「五」のくずし字。「本」のくずし字は「東」と似てますが、両側の点々があるかないかだけです。


2019年5月12日日曜日

変事出来二付心得覚記 その178




 P.91 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
之上 可被取計     候   、此 廻  状  刻 付 ヲ以
のうえとりはかられるべくそうろう、このまわしじょうこくづけをもって

継 送 り、留  村 ゟ 御用 先 江可被
つぎおくり、とどめむらよりごようさきへ

相返      候   、以上
あいかえされべくそうろう、いじょう

    関 東 御取 締  出  役
    かんとうおとりしまりしゅつやく

 寅 六 月 廿   八 日       杦 本 麟 次郎 印
 とらろくがつにじゅうはちにち      すぎもとりんじろういん

   大 宮 郷
   おおみやごう

   南  村
   みなみむら

   本 野 上村
   ほんのがみむら

               右  寄 場役 人
               みぎ よせばやくにん

 大 小  惣 代 中
 だいしょうそうだいちゅう


(大意)
行うことができるようにすること。この廻状を刻付(文末の日付)以降
順に廻し、留め村(最後の村)より御用先へ
戻すこと、以上。

以下略


(補足)
「刻付ヲ以」をネットで検索するとたくさんヒットします。お廻状などの決まり文句だったようです。
「継」の旁が「遣」のくずし字に似ています。

「当村」、翻刻されたものはこのようになっていましたが、これは「留村」だとおもいます。

「杉」、には「椙」「杦」などの字もあります。

「大宮郷」、「宮」のくずし字は独特です。「呂」が「五」のくずし字のようになります。
「郷」のくずし字は、よく使われるからなのでしょうか、とても簡略化されて「々」のようになってます。
「野」のくずし字は出てくるたびに同じことを繰り返してますが、とても独特。


 このような騒動の混乱の中でも、日々の生活に困難困窮しているものを救済すべきものは手助けし、この状況に便乗し私腹を肥やそうとするけしからん者どもとはしっかり見極めよと、いかにもお役人の文面です。

 ここの役所を預かるご出役たちは金銭を動かす権限などありませんでした。
あるのは、このようなお触れをだしたり武力の要請や出動などでしたから、米穀物など村民に直接の施米や施金はできません。権力基盤を支えるのは武力だけではなく莫大な財力がなければ、絵に描いた餅そのものです。江戸幕府が傾いてゆく一端が見えるような気がします。



2019年5月11日土曜日

変事出来二付心得覚記 その177




 P.90 5行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
身元 之者 心 得 を以  差遣   し候   者
みもとのものこころえをもってさしつかわしそうろうは

勝 手次第 二候  得共 、融 通 之ため
かってしだいにそうらえども、ゆうずうのため

過分 之質 物 差 入 置 候   者 迄
かぶんのしちものさしいれおきそうろうものまで

同 様 心  得居 候   者 者不筋 之儀二付 、
どうようこころえおきそうろうものはふすじのぎにつき、

右 等 混 雑 不致  様 弁 別
みぎとうこんざついたさずようべんべつ


(大意)
分をわきまえてやってくる者は
彼らのおもうようにすれば良い。しかし、金銭をやりくりするために
必要のない質物を入れておく者たちまで
同じようにあつかうことは、道理に合わないことである。
このようなことを取り違えることなく、正しい判断を

(補足)
「身元之者心得を以差遣し候者」がうまく文章にできません。
前後関係からの適当なフィクションです。お恥ずかしい限り。

前頁では「ヲ以」でしたが、ここでは平仮名「を以」。
「差遣し候者」、平仮名「し」と「候」が並んでしまってます。
「融通」、なんとなくわかりますが・・・。
「之ため」、二行前では変体仮名「之多免」でした。
「過分」、「過」のくずし字が・・・、このまま覚えるしかなさそう。
「不筋」、前頁に出てきました。
「混雑」、このての単語はくずさないようです。

このお廻状の中には「心得」という単語が何度も使われています。お役人言葉だったのでしょうか。



2019年5月10日金曜日

変事出来二付心得覚記 その176




 P.90 最初〜4行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
先歟、岩 鼻 表  江申  出候   共
??、いわはなおもてへもうしでそうろうとも

可被致   候   、尤   鰥 寡孤獨 又 者
いたされべくそうろう、もっともかんかこどくまたは

極々  難 渋  二而、其 日営 方 二差 支
ごくごくなんじゅうにて、そのひえいかたにさしつかえ

候   程 之者 者救 ひ之多免、
そうろうほどのものはすくいのため


(大意)
まずは、岩鼻役所へ申し出るように
致すことである。もっとも身寄りのない者たちについては
大変に困っており、その日の生活についても支障が
あるような者どもは救済するために


(補足)
「先歟」、意味は前後関係からわかりますが読みが?です。類例として「為先歟」(さきのためか、せんのためか)が見つかりました。(さきんじるや)ではおもすぎるし・・・。
「歟」のくずし字も難しい。このくずし字からよく「歟」とわかったものだとおもいます。

「鰥寡」(かんか)、日常用語ではまず出てこなさそうな単語です。
「孤獨」、「瓜(うり)につめあり爪(つめ)につめなし」この二つの漢字の違いは「、」のあるなしだけなので、子どもの頃はこんなふうにゴロよく教わりました。しかしここの「孤」では「、」がありませんね。おおらかなんです。「獨」の「犭」が現在の書き順通りになっているのがよくわかります。

「極」、旁がなんともすごい筆の運びでくずされてます。
もう一度同じ字を書いてもらうと異なる字になるのではないでしょうか。

「免」(め)、変体仮名。平仮名の「め」は「女」です。


2019年5月9日木曜日

変事出来二付心得覚記 その175




 P.89 6行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
不筋 之難 題 申  聞 候   者 も有之
ふすじのなんだいもうしききそうろうものもこれあり

哉二相 聞 不届  之至 り候   、万 一
やにあいききふとどきのいたりそうろう、まんいち

右 体 之儀強而 申  聞 申  者 有之
みぎていのぎしいてもうしききもうすものこれあり

候ハヽ  一 應 者申  諭  、弥以     不取用
そうらわばいちおうはもうしさとし、いよいよもってとりもちいず

節 ハ差 押  置 、自分 共廻   在
せつはさしおさえおき、じぶんどもまわりあり


(大意)
無理難題を押し付ける者もいる
と聞き、法に従わないことになろう。万一
そのようなものがいると申す者が
いたのならば、ひとまずは説得し、どうしても応じぬのであれば
差し押さえておき、われわれが対処しよう。


(補足)
 本日投稿分の5行、ここだけ手跡の雰囲気が変わっているような感じ。氣のせいでしょうか。

「不筋」、なんと読むのか?でしたが、試しに辞書にあたるとそのままのっていました。わからない読みは面倒くさがらずにまず調べることと反省しました。
「難題」、ここでの意味は、いいがかり、無理な注文。
「強而申聞」、この「強而」がよくわかりません。

「節」、この「竹」冠が「不筋」のものとは異なってます。部品として同じくずし字のときもあれば、漢字全体のおさまりのなかで形が決まることもあるようです。
「廻在」(かいざい)かもしれません。

 お代官様が一同の者の前で、申し渡している様を想像して偉そうな感じで大意としました。
実際はお廻状ですけど。


2019年5月8日水曜日

変事出来二付心得覚記 その174




 P.89 最初〜5行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
方 及強談    候   節 、暴意 二恐 連
かたごうだんおよびそうろうせつ、ぼういにおそれ

一 圓 之謀    ヲ以  承  知之旨 請 書
いちえんのはかりごとをもってしょうちのむねうけしょ

差 出し、或  者張 紙 等 い多し候   由 之
さしだし、あるいははりがみとういたしそうろうよしの

所  、此 節 二至 り心  得違  之者 共 右 ヲ
ところ、このせつにいたりこころえちがいのものどもみぎを

可然   儀と心  得、己  之 利欲二迷 ひ
しかるべきぎとこころえ、おのれのりよくにまよい


(大意)
強引に談判した折には、無理やりすべての計略にのっとって書かれた内容を承知したとの証文を押し付け、あるいは差し押さえたことを示す張り紙などをしたようである。
このようなことをした者たちは、
それらを当然のこととおもい、自分らの目先の欲に迷い


(補足)
 難しい言い回しや言葉はないのですが、「暴意」〜「差出し」までがよく理解できません。
一応、フィクションで大意としましたが、間違っている恐れは大であります。

 文面は明らかにお代官様が身分の異なる低い者たちへのものとなっているようにおもわれます。
「己之利欲二迷ひ」など漢籍のどこかにある文章の調子です。

「一圓」、囗(くにがまえ)のくずし字はみな似ていて特徴的です。
「謀」、読めません。
「ヲ以」、一文字のようにくっついているのでわかりずらい。
「承」、どのような筆の運びになっているのでしょうか。


2019年5月7日火曜日

変事出来二付心得覚記 その173




 P.88 6行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
先 般 名栗 邊  之者 共 多人 数
せんぱんなぐりあたりのものどもたにんずう

徒黨 致  、村 々 人 家打 毀  、当 郡
ととういたし、むらむらじんかうちこわし、とうぐん

中  江押 来 り候   砌  、最寄 之者 共
ちゅうへおしきたりそうろうみぎり、もよりのものども

相 加  り身元 相 應 之者 共 江罷  越 、
あいくわわりみもとそうおうのものどもへまかりこし、

米 金 施行  、且 質 品 等 無代 二而
こめかねせぎょう、かつしちしなとうむだいにて

請 戻  、并   借  用 證  文 差 戻 し
うけもどし、あわせてしゃくようしょうもんさしもどし


(大意)
先般、名栗村周辺の者どもが大勢で
不穏な集まりをもち、村々の人家を打ちこわし、当郡
へ押し出してきた。そのとき近くにいた者たちも
その集団に加わり、同じような身分の者たちを誘った。
米金の施しを要求し、かつ質品などを無料で
受戻し、同時に借用証文の返却を


(補足)
 関東御取締出役 杉本麟次郎 署名のやや長文のお廻状のはじまりです。
つまり、お役人が村役人たちへの指示・心得の文面となります。

「先般」、「般」=「舟」+「殳」。舟偏がわかりずらい。
「毀」、こちらはそのまま「殳」とわかります。
「当郡」、「当」のくずし字がとてもよくわかります。「郡」=「君」+「阝」ですが難しい。
「砌」(みぎり)、ちょこちょこでてきます。
「最寄」、「最」の「取」のくずし字をよりどころに読みます。
「身元」、「身」のくずし字が立派。
「施行」(せぎょう)としましたが、まちがっているかもしれません。
「品」、のくずし字は特徴的でこのまま覚えるしかありません。
「無代」、「無」がわかりずらい。


 このお廻状の日付は6月28日です。岩鼻お役所が現状までの取り調べでとはいえ、騒動の約2週間後に出していることに驚かされます。連絡手段が悪かったことを勘案しても素早い対応です。
また、騒動の概要を簡潔に把握していることも、ぼんくら役人ではなかったようです。


2019年5月6日月曜日

変事出来二付心得覚記 その172




 P.88 最初〜5行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
御廻  状  写
おまわしじょううつし

追而 、此 廻  状  寄 場ゟ 組 合 内 江相 達 し候而者   、
おって、このまわしじょうよせばよりくみあいないへあいたっしそうらいては、

自然 手間取 候   間  、此 度 限 り此 儘 大 小  惣 代
しぜんてまどりそうろうあいだ、このたびかぎりこのままだいしょうそうだい

有之  村 方 江相 廻 し、承  知之旨
これありむらかたへあいまわし しょうちのむね

請 印 帳  相 認
うけいんちょうあいしたため

可被相返    候   、以上
あいかえされべくそうろう、いじょう


(大意)
御廻状写
後ほど、この廻し状が寄場より組合へ届きましたならば
おのずとその処理に時間がかかることでしょうから、今回に限りこのまま大小惣代の
いる村へ廻し、承知したことの印として
認め印の帳面に押印し
そのまま返却するようにお願いします、以上。


(補足)
「達」、「辶」が立派です。
「自然」、読みは(じねん)もありますが、どちらが正しいかわかりません。
「此儘」、次の「大」の右上に上の「儘」のくずし字が流れてしまっています。
「帳」、くずし字をよくみると「巾」+「長」になってます。
「可被」、「被」のくずし字「ヒ」が上の「可」にくっついてしまっています。

 この次の部分からその御廻状の内容が始まります。


2019年5月5日日曜日

変事出来二付心得覚記 その171




 P.87 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
同  和助
どう わすけ

 菊 八
どう きくはち

 喜十  郎
どう きじゅうろう

組 頭 忠  太郎 代  弥吉
くみあいちゅうたろうだい やきち

新 古両  組
しんこりょうぐみ

 御役 人 中
 おやくにんちゅう


(大意)


(補足)
「忠太郎」、(ただたろう)かもしれません。2頁前に「親類 忠次郎」がでてきてます。

誰が連名署名したかは重要なことであったのでしょう。
以下何名とは記さずに全員の名を記録しています。
総勢28名です。

 「名栗の歴史 上」を読むと、村民たちの生活全般・宗教・職業・婚姻・争いごとなどほぼすべてが名主たちにより、掌握管理されていたことに驚かされます。また五人組などの村民同士でお互いを管理することもしていたわけですから、その徹底ぶりは現在の比ではなかったはずです。

 このような日常生活をしていれば、見知らぬ者が村でちょっと大げさな振る舞いをしただけで、そのうわさは、あっという間に広がってしまいます。

 ここまでこの覚記を読んできて、名主さんたちは特別後手に回ることもなく、それなりの対応をしてきているようにおもいます。多勢に無勢であったことが初期の騒動を抑えきれなかった原因だろうとも感じます。

 名主さんたちはとにかく対応に大わらわだったわけですが、騒動の途中からはまたは最初の時点で、誰が首謀者だったのかは明らかにわかってしまっていたこととおもいます。

 武家社会ならば不始末があればお家断絶や藩召し上げお取り潰しなど関係者の処分は免れません。
村役人たちが連帯責任でなんらかの咎を恐れることは当然でした。
頭の中にはどうにかして丸く治めることしかなかったはずです。
そのためなら何でもする。何でもしたはずです。

 あまりに詳しい真実の記録を残すことは結局自分たちや村の首を絞めることになります。
かといって、村の出来事を記録することそのことそのものが村役人たちの使命でもあったのですから、大変に悩ましい問題だったことでしょう。

 そんな事情の中で記録されたのがこの覚記だったということがわかりはじめました。
切羽詰まった村役人たちの右往左往する姿が、ドキュメント番組を見ている以上の臨場感をともない行間から当時の空気があふれだしています。



2019年5月4日土曜日

変事出来二付心得覚記 その170




 P.86 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
 湯野沢 組  初 五郎
 ゆのさわくみ はつごろう

 小前 惣 代  忠 助
 こまえそうだい ただすけ

井戸入 組  八十八
いどいりぐみ はそはち

 小前 惣 代  勝 次郎
 こまえそうだい かつじろう

蝉 差 組  藤 次郎
せみざすぐみ とうじろう

 小前 惣 代  豊 五郎
 こまえそうだい とよごろう

 百  姓  代  冨 五郎
 ひゃくしょうだい とみごろう

 同  龜 太郎
 どう かめたろう

 組 番  倉 次郎
 くみばん くらじろう

 同  長  兵衛
 どう ちょうべえ

 同  織 之助
 どう おりのすけ


(大意)


(補足)
連名が続きます。

「蝉差」(せみざす)、現在では「蝉指」と書きます。この地区には「中指」(なかざす)、
「黒指」(くろざす)という地名があります。ネットで調べると「〜差」や「〜指」など、
地名の由来が投稿されています。

「初五郎」「豊五郎」「冨五郎」、「五」が異なってます。
「忠」、読めませんでした。
「湯野沢」、「野」は特徴的でかえって覚えやすい。

「長兵衛」「織之助」、「兵」と「之」のくずし字がとても似ています。
しかし前後のつながりから予想すると読み方の収まりどころが決まります。


2019年5月3日金曜日

変事出来二付心得覚記 その169




 P.85 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
 同  梅 八
 どう うめはち

同 組 豊 五郎
どうくみとよごろう

 親 類  忠 次郎
 しんるい ただじろう

 五人 組  伴 次郎
 ごにんぐみ はんじろう

 同  茂助
 どう もすけ

伊倉 組
いぐらぐみ

 小前  徳 太郎
 こまえ とくたろう

 惣 代  政 右衛門
 そうだい まさえもん

名郷 組
なごうぐみ

 小前 惣 代  愛 次郎
 こまえそうだい あいじろう

 同  文 次郎
 どう ぶんじろう

山 下 組
やましたぐみ

 小前 惣 代  勝 之助
 こまえそうだい かつのすけ

 同  多吉
 どう たきち


(大意)


(補足)
連名だけの頁です。
上名栗村の旧行政区の地図を「名栗村の歴史 上」より無断転載しました。申し訳ありません。



連名の前にそれぞれの立場が記載されてます。
親類・組合・五人組・小前惣代・百姓代・組番はありますが、名主・組頭・年寄の役職名はありません。

「梅八」、「梅」が読めません。
「倉」、はじめて出てきたとおもいます。
「愛」、つぶれているし、そうでなくても読めません。

名前は難しい。


2019年5月2日木曜日

変事出来二付心得覚記 その168




 P.84 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
之者 一 同 願  上 候   、然 ル上 者、昼  夜
のものいちどうねがいあげそうろう、しかるうえは、ちゅうや

附 添 番 致  、当 人 共 異変 之義
つきそいばんいたし、とうにんどもいへんのぎ

無之  様 急 度為相慎     可申   候   、万 一
これなくようきっとあいつつしみさせもうしべくそうろう、まんいち

番 等 不情  二以多し異変 之
ばんとうなさけずにいたしいへんの

儀出来候ハヽ  、各 々 方 少  茂御苦
ぎできそうらわば、おのおのがたすこしもごく

難 相 掛ケ申  間敷 候   、為後證之
なんあいかけもうしまじくそうろう、ごしょうのため

両  人  薬用 中  預  り一 札 、依而如件
りょうにんやくようちゅうあずかりいっさつ、よってくだんのごとし

上 名栗 村
かみなぐりむら

 新 組 紋 次郎
 しんぐみもんじろう

慶應  二寅 七 月 三 日 親 類 久  太郎
けいおうにとらしちがつみっか しんるいきゅうたろう

               組 合  弥太郎
               くみあい やたろう


(大意)
の者全員のお願いでございます。お認めいただければ昼夜
付き添い看病し、当人たちは何事もなく静かに過ごすよう
きつく言い含めます。万が一
見張りなどが思いもかけずに行き届かず、異変が
おこってしまいましたならば、皆様には決してご迷惑は
お掛け致しません。後々の証拠のために
両人治療中預かりの証文と致します。依而如件。

上名栗村
 新組 紋次郎
慶應二寅七月三日 親類 久太郎
         組合 弥太郎


(補足)
「然ル上者」、決まり文句です。「然」、下の「灬」が見当たりませんが、「尤」の右下の部分かもしれません。
「昼夜」、「昼」の「日」と「一」が中には入らず、「夜」の「亠」は「亻」と一つになって偏になってます。
「附添番致」、ゆっくり一文字ずつながめると、読めてきます。

「不情ニ」、(なさけずに)としましが(ふじょうに)でしょうか、よくわかりません。
意味としては「なさけないことになってしまったら」のような感じでしょう。

「苦」、これだけだと?ですが次の行の「難」があるので、「苦難」と予想できます。
「後證」、現在では後証。「證」の「登」のくずし字は特徴的。

「依而如件」、決まり文句。


2019年5月1日水曜日

変事出来二付心得覚記 その167




 P.83 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
豊 五郎
とよごろう

 紋 次郎
どう もんじろう

右 両  人 之者 共 儀、今 般  岩 鼻
みぎりょうにんのものどもぎ、こんぱん いわはな

御出  役 様 御用 先 二而御調  之上 、
ごしゅつやくさまごようさきにておしらべのうえ、

腰 縄 、組 合 ・村 役 人 預 ケ慥   被仰付
こしなわ、くみあい・むらやくにんあずけたしかにおおせつけられ

候   所  、右 両  人 儀暑 邪 二而相 煩   少  々
そうろうところ、みぎりょうにんぎしょじゃにてあいわずらいしょうしょう

快 方 之所  、猶 又 持病  差 発 り
かいほうのところ、なおまたじびょうさしはつり

難 儀至極 仕    候   間  、組 合 江引 取 薬 用
なんぎしごくつかまつりそうろうあいだ、くみあいへひきとりやくよう

手当 仕    度 、親 類 組 合 外 連 印
てあてつかまつりたく、しんるいくみあいほかれんいん


(大意)
  豊五郎
同 紋次郎

右両人については、このたび岩鼻
ご出役様がこちらへ来てくださってお取調べいただき
腰縄組合村役人お預けのご裁定慥かに仰せつかり
ました。ところが両人は暑さにやられてしまい、少々
よくなりましたが、引き続き持病の発作が起こり、
症状は大変に重くなっております。そのため組合で引取り、薬を用いて
手当をしたく存じます。親類組合その他連印


(補足)
「今般」、セットで覚えたほうが良さそうです。「般」が難しい。
「 岩鼻」、岩の上の空白は闕字。
「慥」(たしか)、よくでてきます。
「被仰付候」(おおせつけられそうろう)、「被」は「ヒ」のように簡略化されてしまってます。
「煩」、ジッと見ると偏が「火」だろうなとわかりますが・・・。
「猶亦」、頻出です。
「差発り」、読みがわかりません。病気ですと「熱発」「発汗」などの述語がありますが、訓読みだとなんて読むのでしょう。
「難儀至極」、「隹」と「至のくずし字が同じように見えます。
「印」、「仰」の右側と同じようなくずし字です。右側にくる漢字の部品が下側にきます。