P.87 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」
(読み)
同 和助
どう わすけ
同 菊 八
どう きくはち
同 喜十 郎
どう きじゅうろう
組 頭 忠 太郎 代 弥吉
くみあいちゅうたろうだい やきち
新 古両 組
しんこりょうぐみ
御役 人 中
おやくにんちゅう
(大意)
略
(補足)
「忠太郎」、(ただたろう)かもしれません。2頁前に「親類 忠次郎」がでてきてます。
誰が連名署名したかは重要なことであったのでしょう。
以下何名とは記さずに全員の名を記録しています。
総勢28名です。
「名栗の歴史 上」を読むと、村民たちの生活全般・宗教・職業・婚姻・争いごとなどほぼすべてが名主たちにより、掌握管理されていたことに驚かされます。また五人組などの村民同士でお互いを管理することもしていたわけですから、その徹底ぶりは現在の比ではなかったはずです。
このような日常生活をしていれば、見知らぬ者が村でちょっと大げさな振る舞いをしただけで、そのうわさは、あっという間に広がってしまいます。
ここまでこの覚記を読んできて、名主さんたちは特別後手に回ることもなく、それなりの対応をしてきているようにおもいます。多勢に無勢であったことが初期の騒動を抑えきれなかった原因だろうとも感じます。
名主さんたちはとにかく対応に大わらわだったわけですが、騒動の途中からはまたは最初の時点で、誰が首謀者だったのかは明らかにわかってしまっていたこととおもいます。
武家社会ならば不始末があればお家断絶や藩召し上げお取り潰しなど関係者の処分は免れません。
村役人たちが連帯責任でなんらかの咎を恐れることは当然でした。
頭の中にはどうにかして丸く治めることしかなかったはずです。
そのためなら何でもする。何でもしたはずです。
あまりに詳しい真実の記録を残すことは結局自分たちや村の首を絞めることになります。
かといって、村の出来事を記録することそのことそのものが村役人たちの使命でもあったのですから、大変に悩ましい問題だったことでしょう。
そんな事情の中で記録されたのがこの覚記だったということがわかりはじめました。
切羽詰まった村役人たちの右往左往する姿が、ドキュメント番組を見ている以上の臨場感をともない行間から当時の空気があふれだしています。
0 件のコメント:
コメントを投稿