P.92 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」
(読み)
右 之通 御廻 達 之趣 写 ヲ以
みぎのとおりおまわしたっしのおもむきうつしをもって
申 上 候 以上
もうしあげそうろういじょう
南 村 寄 場
みなみむらよせば
七 月 一 日 名主
しちがつついたち なぬし
東 兵衛
とうべえ
右 之段 三 日に承 り申 候 、四 日ハ病 氣
みぎのだんみっかにうけたまわりもうしそうろう、よっかはびょうき
罷 居 候 処 江、宮 本 相模 殿 并
まかりおりそうろうところへ、みやもとさがみどのならび
原 松 太郎 殿 両 人 小殿 に頼 連
はらまつたろうどのりょうにんこどのにたよれ
参 り候 、小殿 伴 次郎 申 遣 し候 儀、
まいりそうろう、こどのばんじろうもうしつかわしそうろうぎ、
(大意)
右の通り、一通り御廻状が回覧し終わったようなので、この写しをもって
申し上げます。
7月1日
南村寄場名主 東兵衛
右のお廻状は3日に承りました。4日は病気
で寝ているところへ、(神主)宮本相模殿と
原松太郎殿お二人は小殿に頼まれて
やって参りました。小殿伴次郎が知らせてくれた内容は
以下の通り。
(補足)
「趣」、このくずし字は今までと少し異なり、偏の「走」がなんとなく形に残っています。
「寄場組合」について
江戸時代後期になると、経済が活発になりそれとともに農村の有り様が著しく変化しました。
世の流れに乗り富裕層になる者たち、一方飢饉などで疲弊し土地を失い夜逃げして貧窮民となりさらに悪事に走るものも多数出てきてました。
それらの取締のために、関東一円を取り締まるために関東取締出役を文化2年(1805)に設置しました。しかし、これだけで関東周辺を取り締まることができるわけがありません。
そこで、文政10年(1827)に各村々が協力しあう自衛組織としてを組合を作らせました。
それを寄場組合(改革組合)といいました。
「三日に承」、平仮名の「に」がなぜかとても目立ちます。2行後の「小殿に頼連」の「に」も。
「宮本」、「宮」のくずし字は前回も出てきました。「呂」が「五」のくずし字。「本」のくずし字は「東」と似てますが、両側の点々があるかないかだけです。
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