P.95 6行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」
(読み)
私 儀も檜 山 之儀者一 向 不存 候 得共、
わたしくぎもひのきやまのぎはいっこうぞんぜずそうらえども、
尤 父 栄 左衛門 私 二申 聞 候 二者、
もっともちちえいざえもんわたくしにもうしききそうろうには、
川 崎 平右衛門 様 御支配 之砌 、
かわさきへいえもんさまごしはいのみぎり、
御手代 中 川 順 蔵 様 并 高 橋
ごてだいなかがわじゅんぞうさまならびたかはし
(大意)
「私も檜山のことについては一向に知らなかったが、
もっとも、父の栄左衛門より次のように申し聞かされている。
川崎平右衛門様が御支配(代官)のとき
手代の中川順蔵様と高橋」
(補足)
川崎平右衛門様御支配のときとは、文化年間(1804年2月11日〜1818年4月22日)の頃。
この頃に植林し、この覚記が1866年ですから、ちょうど伐採できる時期になっていました。
栄左衛門さんは安政6年(1859年)に亡くなっています。
「川崎」の「崎」が読めそうで読めません。
「手代」、代官に使える役人。
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