2019年5月17日金曜日

変事出来二付心得覚記 その183




 P.95 6行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
私   儀も檜  山 之儀者一 向 不存  候  得共、
わたしくぎもひのきやまのぎはいっこうぞんぜずそうらえども、

尤   父 栄 左衛門 私   二申  聞 候   二者、
もっともちちえいざえもんわたくしにもうしききそうろうには、

川 崎 平右衛門 様 御支配 之砌  、
かわさきへいえもんさまごしはいのみぎり、

御手代 中 川 順  蔵 様 并  高 橋
ごてだいなかがわじゅんぞうさまならびたかはし


(大意)
「私も檜山のことについては一向に知らなかったが、
もっとも、父の栄左衛門より次のように申し聞かされている。
川崎平右衛門様が御支配(代官)のとき
手代の中川順蔵様と高橋」


(補足)
川崎平右衛門様御支配のときとは、文化年間(1804年2月11日〜1818年4月22日)の頃。
この頃に植林し、この覚記が1866年ですから、ちょうど伐採できる時期になっていました。

栄左衛門さんは安政6年(1859年)に亡くなっています。

「川崎」の「崎」が読めそうで読めません。
「手代」、代官に使える役人。


0 件のコメント:

コメントを投稿