2025年10月31日金曜日

江漢西遊日記六 その28

P38 東京国立博物館蔵

(読み)

流  しま向 フ尓見へ与次平 塚 能前 を乗り。

りゅうしまむこうにみえよじへいづかのまえをのり


行キ可けと違 ヒ波 なく能キ舟ナ遊 ヒなりき

いきがけとちがいなみなくよきふなあそびなりき


七 ツ時 赤 間カ関 ニ著(ツク)朝  鮮 人 萩(ハキ)へ漂  流  シ

ななつどきあかまがせきに  つく ちょうせんじん  はぎ へひょうりゅうし


此(コゝ)所へ来ルと云 亦 おらん多人 廿 日ニ爰 ニ来

  ここ  へくるというまたおらんだじんはつかにここにく


るよし舩 尓おらん多能幡(ハタ)を建(タテ)多り

るよしふねにおらんだの  はた を  たて たり


十  九日 天 氣一 日 滞 畄  春阿弥陀寺ニ行キ

じゅうくにちてんきいちにちたいりゅうすあみだじにゆき


開 帳  春安 徳 帝 入 水 能海 ニて陵(ミサゝキ)もあり

かいちょうすあんとくていじゅすいのうみにて  きささぎ もあり


天 皇 能木 像 左右 能障  子ハ極 彩 色 ニ

てんのうのもくぞうさゆうのしょうじはごくさいしきに


して古法 眼 の画と云フ二位の尼 内 侍及 ヒ

してこほうげんのえというにいのあまないしおよび


平 家の一 族 能像 を画く次キの障  子ニハ

へいけのいちぞくのぞうをかくつぎのしょうじには

(大意)

(補足)

「眼流しま」、巖流島(がんりゅうじま)。正式名称は船島。無人島。引島のすぐ東側。

「赤間カ関」、赤間関。西国第一の要港。

「阿弥陀寺」、『 山口県下関市阿弥陀町にあった寺。中世には浄土宗,近世では真言宗に転じた。安徳天皇鎮魂のため1191年に建立。1875年(明治8)寺を廃して赤間宮(あかまじんぐう 【赤間神宮】山口県下関市阿弥陀寺(あみだじ)町にある神社。阿弥陀寺を神社に改めたもので安徳天皇をまつる。旧称,赤間宮。)となる』。

「十九日」、天明9年1月19日。1789年2月13日

「古法眼」、『こほうげん ―ほふげん【古法眼】

父子ともに法眼の位を授けられている時,その父の方をいう称。特に,狩野元信をいう。』

「二位の尼」、『にいのあま にゐ― 【二位の尼】

平時子(たいらのときこ)のこと。剃髪後,従二位に叙せられたのでいう。』

「内侍」、『ないし【内侍】

① 律令制で,内侍司の職員である尚侍(ないしのかみ)・典侍(ないしのすけ)・掌侍(ないしのじよう)の総称。本来は天皇の日常生活に供奉(ぐぶ)する女官であるが,平安中期には,妃・夫人・嬪(ひん)ら天皇の「妾」に代わる存在となり,また,単に内侍といえば,掌侍をさし,その筆頭者を勾当(こうとうの)内侍と呼ぶようになる。』


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