2025年10月20日月曜日

江漢西遊日記六 その17

P21 東京国立博物館蔵

P22P23

P24P25

P26

(読み)

P21

有 田山

ありたやま


墨 ニ藍 ヲ入

すみにあいをいれ


タル色

たるいろ


冬 山

ふゆやま


黄 土色

おうどいろ


今 利ヨリ有 田

いまりよりありた


ヘ三 里アリ

へさんりあり


今 利宿

いまりしゅく

P22

調(ツキノ)川(カハ)ヨリ

  つきの   かわ より


御厨(ミクリヤ)ノ路

   みくりや のみち


七 ツ嶋 ト云 所

ななつしまというところ


佐賀領

さがりょう


有 田山

ありたやま


焼 物 ヲ

やきものを


ヤク所

やくところ


佐賀山

さがやま

P23

唐 津

からつ


冨士

ふじ


ニ似タ

ににた


やま


ハゼ村

はぜむら

P24

志作 ヨリ今 福 ノ間

しぜんよりいまふくのあいだ


北 ノ方 ヲ望 ム

きたのほうをのぞむ


ホシカノ浦

ほしかのうら


ウキセイロウ

うきせいろう


ト云

という


シビ見

しびみ


シヲ

しお


ニンバルト云 処

にんばるというところ


P25

其 二

そのに


イキ

いき(壱岐)


平 戸ノ方

ひらどのほう


志作 村

しぜんむら

P26

唐 津ノ内

からつのうち


二里ノ松 原

にりのまつばら


徳末(トクスエ)ヘ出 路 ナリ

   とくすえ へでるみちなり


雪 サラ\/降

ゆきさらさらふる


景色 ヨシ

けしきよし

(大意)

(補足)

P21 江戸時代の浮世絵や錦絵など摺師への色の指示はこのようにしてました。そして版元・絵師・彫師・摺師が出来上がった見本をみながら出来栄えを検討したようです。

 画には「有田山」という山の名前のようになっています。しかし調べてみると「「有田山」は有田町を中心とした陶磁器生産地のことで、「皿山(さらやま)」という言葉の元になっています」とありました。さて?

P24 「志作」は「しぜん」と読むのだそうです。そして『現在、「志作」という町名はありませんが、「志佐町」の読み方として「志作」が使われることがあります』とAIの概要にはありました。調川(つきのかわ)のすぐ西に志佐村や志佐浦があって、きっとそのあたりが志作だったのでしょう。

P26 「二里ノ松原」は古地図の「虹ノ松原」でしょうか。「二里」と「虹」は音が同じ。 

 随分大きな荷物をしょっての歩き旅、そして従者はひとり、くたばってしまいそうです。

 江漢さんたち、生月島を出立してからの道のりを現在の地図でどのあたりにいるかを確認すると、 

 拡大すると、


 です。 

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