2025年3月9日日曜日

江漢西遊日記三 その11

P11 東京国立博物館蔵

(読み)

太夫 ハ不揚 と春武なり亦 太夫 を借リて

たゆうはあげずとすむなりまたたゆうをかりて


見ル尓ハ僅(ワツカ)能物 入 ニて二十  五六 人 出てるかゐ

みるには  わずか のものいりにてにじゅうごろくにんいでるかい


と里装  束 ニてツイ立 能陰(カケ)より出客  ノ前

とりしょうぞくにてついたての  かげ よりできゃくのまえ


ニて盃   を手ニ取 酒 を呑ムま袮方 をして

にてさかずきをてにとりさけをのむまねかたをして


立 能くなり其 内 我カ氣ニ入 多るを揚 る事

たちのくなりそのうちわがきにいりたるをあげること


なり之 ハ江戸尓なき事 也 夜 ニ入 个連ハ先

なりこれはえどになきことなりよるにいりければまず


宿 ヘかえり夫 より硝石板(ヒイトロイタ)を造 ルと云 者 能

やどへかえりそれより    びいどろいた をつくるというものの


方 を尋 子其 路 石 屋アル処  を通 ル何 ヤラ

かたをたずねそのみちいしやあるところをとおるなにやら


マゝ焚(タキ)女  と云 風 俗 ニて路次の入 口 など尓

まま  たき おんなというふうぞくにてろじのいりぐちなどに


立チ居る何ンシヤと聞 ハあれハソウカとて江戸

たちいるなんじゃときけばあれはそうかとてえど

(大意)

(補足)

「かゐと里装束」、『かいどりすがた【搔取姿】褄(つま)(着物の裾(すそ)の左右両端の部分。また,竪褄(たてづま)のこと)をとって裾をからげた姿。「逃ぐる―のうしろ手」〈徒然草•175〉』

「硝石板(ヒイトロイタ)を造ル」、「大阪ガラス発祥之地」の碑。 大阪市北区にある大阪天満宮の正門の西側に「大阪ガラス発祥之地」の碑があります。その碑によると、江戸中期の宝暦年間(1751~1764)に大阪天満宮の前でガラスの製造を始めた長崎の商人・播磨屋清兵衛が、「大阪 ガラス商工業ノ始祖」だとされています。播磨屋清兵衛は、オランダ人が長崎に伝えたガラス製法を学び、大阪に持ち込んだのです。とありました。

「ソウカ」、『そうか【総嫁・惣嫁】江戸時代,京坂地方で夜,街頭に立って客を引いた下級の娼婦。辻君(つじぎみ)。そうよめ』

「二十五六人出てるかゐと里装束ニてツイ立能陰(カケ)より出客ノ前ニて盃を手ニ取酒を呑ムま袮方をして立能くなり」、まるで時代劇の一場面を見ているような描写です。

 

2025年3月8日土曜日

江漢西遊日記三 その10

P10 東京国立博物館蔵

(読み)

宿 ニ至 ル嶌 能内 清水 町  筋 中 津町  と

やどにいたるしまのうちしみずちょうすじなかつちょうと


云フ処  丸 屋清 兵衛方 ニ至 ル此 者 案内 ニて

いうところまるやせえべえかたにいたるこのものあないにて


どうとん堀 芝 居ノ邊  を通 リ北 堀 江蒹(ケン)

どうとんぼりしばいのあたりをとおりきたほりえ  けん


葭(カ)堂 ヘ参 リ又 米 市 場テンマヤ加助 米 師ヘ参

  か どうへまいりまたこめいちばてんまやかすけこめしへまいる


夫 より新 町 を見 物 春皆 揚 屋ニて其 内

それよりしんまちをけんぶつすみなあげやにてそのうち


吉 田屋と云フハ名 家なり夕霧(ユウキリ)能文 を珍

よしだやというはめいかなり   ゆうぎり のふみをちん


蔵 春爰 ハ江戸吉 原 同 前 能処  ニて太夫

ぞうすここはえどよしわらどうぜんのところにてたゆう


あり揚 代 七 拾  五匁  雑 用 共 なり揚 屋

ありあげだいななじゅうごもんめざつようともなりあげや


ニ中 居とて若 キ女  緋ちりめん紫   縮 緬 の

になかいとてわかきおんなひちりめんむらさきちりめんの


前 ヒ多゛れ尓て出て取 持 妓子(ゲイコ)数 人 よびて

まえひだ れにてでてとりもつ   げいこ すうにんよびて

(大意)

(補足)

「丸屋清兵衛」、未詳だが、木村蒹葭堂とかなり親しかったらしく、「蒹葭堂日記」に頻繁に顔を見せている、とありました。

「蒹葭堂」、元文元年(1736)〜享和二年(1802)。この地に来ると誰もが訪れる有名人。

「夕霧」、延宝六年(1678)正月六日没。浪華の名妓扇屋夕霧。江戸の高尾、京の芳野と並び称された。 

著者豊国 出版者魚栄 出版年月日 文久1(1861)。

鬼貫(おにつら)の句「古能塚(つ可)者 柳(や奈ぎ) 奈久帝も 哀(あハれ)那り」。

「吉原同前」、同然。

 江漢さん、このあと10日間ほど、大阪を楽しむことになります。

 

2025年3月7日金曜日

江漢西遊日記三 その9

P9 東京国立博物館蔵

(読み)

壱 人 前 百  文 二 人して四人 前 借ル夜 ハ五時過

いちにんまえひゃくもんふたりしてよにんまえかるよるはごじすぎ


ニ舟 を出春段 々 と下 リ舟 ニて淀 能方 ニ趣  ク

にふねをだすだんだんとくだりふねにてよどのほうにおもむく


月 出 漸  ク照ラして淀 能城 水 車  大 橋 を越

つきいでようやくてらしてよどのしろみずぐるまおおはしをこ


へ山 崎 山 右 尓見ヘ夫 より程 なく牧方(ヒラカタ)ニ至 ル

へやまざきやまみぎにみえそれよりほどなく   ひらかた にいたる


此 河 中 物 賣 舟 酒 汁 飯 一 向 ニあじなき

このかわなかものうりふねさけしるめしいっこうにあじなき


物 をうる尓クラワン\/  と云フ此 云ヒ方 爰 能

ものをうるにくらわんくらわんというこのいいかたここの


名 物 なり夫 より守口(モリクチ)など云フ処  を経て

めいぶつなりそれより   もりぐち などいうところをへて


程 なく大 阪 八 軒 と云フ処  尓舟 を津ける

ほどなくおおさかはちけんというところにふねをつける


明 て五時比 なり

あけてごじごろなり


十  七 日 天 氣日本 橋 かな物 屋と云 旅 人

じゅうしちにちてんきにほんばしかなものやというたびにん(やど)

(大意)

(補足)

「壱人前」、「壱」のくずし字は頻出なのですけど、どうも苦手です。t+z のような感じ。

「段々」、PCのくずし字検索ではありませんでしたが、くずし字辞典にはちゃんとこのくずし字がありました。

「淀能城水車」、このことでしょうか。月明かり(ほぼ満月なのでとても明るい)でよく見えたのでしょう。

「伏見」から「枚方」までの航路。 

「物売舟」、こんな舟にのったのでしょう。こんな舟で川下りしてみたいものです。 

「守口」、「大阪八軒」は大阪城側の天神橋左側の船着き場。 

 夜の五時(8時)に舟を出して、明けて五時(8時)の12時間の船旅でした。淀川の下りで、距離はおよそ40km程度、もっと速いのかと思ったら、意外と遅い。

「十七日」、天明8年八月十七日。1788年9月16日。

 ようやく、大阪に到着しました。ほぼ四ヶ月かかっています。

 

2025年3月6日木曜日

江漢西遊日記三 その8

P7頭注 東京国立博物館蔵

P8頭注

(読み)

P7

其 後尓

そのごに


京  ヘ上 リシ時

きょうへのぼりしとき


唐 崎 の松

からさきのまつ


を見て志

をみてし


賀能山 中

がのさんちゅう


を越ヘ白 川

をこえしらかわ


へ出夫 ヨリ

へでそれより


二条  へ出ル

にじょうへでる


又 文 化壬

またぶんかみずのえ


申 ノ十  月 備

さるのじゅうがつびっ


仲  ノ人 と共 ニ

ちゅうのひととともに


京  より白 川

きょうよりしらかわ


山 中  越して

さんちゅうこして


峠  ヨリ左  ニ下 リ

とうげよりひだりにくだり


松 ヲ見る湖

まつをみるみずうみ

P8

能傍 ヲ通

のわきをとお


里石 山 ニ泊 ル

りいしやまにとまる


三井寺 ニ参 リ

みいでらにまいり


小関 越 ト云

こぜきごえという


処  ヲ通 リて

ところをとおりて


京  ニ返 りぬ

きょうにかえりぬ

(大意)

(補足)

「其後尓京ヘ上リシ時」、江漢晩年65歳の文化9年(1812)2月、芝新銭座の居宅を売り、京に移住しようと旅立ったときのことをさす。4月1日に京都に落ち着き、同年11月21日突然江戸旧宅に帰るまでの間在京し、吉野の花見などを楽しんだ。このときの道中記録が「吉野紀行」である。とありました。

「志賀」、滋賀?の山中を越えて、追分で右の街道を進み二条へむかったのでしょう。

「文化壬申ノ十月」、文化9年(1812)10月。

「備仲」、備中。

「小関越(こぜきごえ)」、この道は、長等地区の小関町から小関峠を越え、藤尾地区の横木まで続く道。東海道を大関越と呼んだのに対して付けられた名称で、京都から大津の町中を通らずに北陸へ向かうための近道(間道)として利用された。また観音巡礼の札所三井寺から京都の今熊野への巡礼道でもあった。道の両方の登り口に、江戸時代の道標が立っている。 

 65歳にもなって京都へ移住とは、またその体力にも驚きますが、やはりどこか変人ぶりを発揮しているような・・・

 

2025年3月5日水曜日

江漢西遊日記三 その7

P8 東京国立博物館蔵

(読み)

大 塚 と云 在 所 ヘ出ツ爰 ハ追 分 より能伏 見

おおつかというざいしょへいづここはおいわけよりのふしみ


往 来 なり然 レとも往 来 能人 もなく至

おうらいなりしかれどもおうらいのひともなくいたっ


て淋(サミ)しき通 リなり夫 より三 里程 行キて

て  さみ しきとおりなりそれよりさんりほどゆきて


山 を越へ田畑 を通  て漸  く墨 染 と云 処  へ

やまをこえたはたをとおりてようやくくろぞめというところへ


出多り即  チ伏 見なり墨 染 桜  なと云 木

でたりすなわちふしみなりくろぞめざくらなどいうき


ありて左  ノ方 尓スタレを下 シお山 出て往 来 ノ

ありてひだりのほうにすだれをおろしおやまでておうらいの


人 をと免る也 爰 より行 当 リて左  尓行ケハ

ひとをとめるなりここよりゆきあたりてひだりにいけば


即  チ伏 見京  町 也 爰 尓日野中 井能店 アリ

すなわちふしみきょうまちなりここにひのなかいのみせあり


尋  て爰 ニ至 ル尓手代 六 右衛門 と云 者 ありて

たずねてここにいたるにてだいろくうえもんというものありて


此 者 案内 して八百屋佐右衛門 舟 宿 ノ舟 にのる

このものあないしてやおやさうえもんふなやどのふねにのる

(大意)

(補足)

 前日その6と同じ地図ですが、再掲。

 現在の地図と比較しても、それほど変化してないのがわかります。 

 逢坂・音羽山・追分・黒染寺などが確認できます。

 険しい山道を抜けて、伏見からは舟にのる江漢さん、かなりホッとしているはずです。

 

2025年3月4日火曜日

江漢西遊日記三 その6

P7 東京国立博物館蔵

(読み)

    中  ハ初 メテ故 不案 内 にしてカラサキノ松 を不見

(どう)ちゅうははじめてゆえふあんないにしてからさきのまつをみず


十  六 日 曇  て不雨暑 シ五時爰 を出  立 シ

じゅうろくにちくもりてふうあつしごじここをしゅったつし


大 津の方 へ行ク膳所能城 ギハを行キ矢波

おおつのほうへゆくぜぜのしろぎわをゆきやば


瀬と云 尓出 夫 より三井寺 観 音 山 へ登 る

せというにでるそれよりみいでらかんのんさんへのぼる


湖中  目 下ニ見ヘ爰 ヨリ 裏能坂 を下 り又 坂

こちゅうがんかにみえここよりうらのさかをくだりまたさか


路 を行 爰 ニて追 分 を聞 ニ跡 なりと云フ何

みちをゆくここにておいわけをきくにあとなりというなに


分 先 伏 見へいて京  へハ出奴量  个ん故 ニ

ぶんまずふしみへいできょうへはでぬりょうけんゆえに


大 まわ里をし多里夫 故 何 ヤラ一 向 能田

おおまわりをしたりそれゆえなにやらいっこうのい


舎 ニ入 音 羽と云 処  ノよし東 西 も王からぬ

なかにいるおとわというところのよしとうざいもわからぬ


畑  ノ間  ヘ出て川 あり音 羽川 と云 よし川 を渡 リ

はたけのあいだへでてかわありおとわがわというよしかわをわたり

(大意)

(補足)

「十六日」、天明8年八月十六日。1788年9月15日。

石山寺そばの山下旅館より、大津・膳所・三井寺・追分・音羽・大塚・黒染・伏見と順に地図でたどることができます。

 山路が途中で分かれるところが追分になって右は京都、左は伏見となります。膳所の城ギハを行ったところで「矢波瀬」(矢橋(やばせ))が出てきますが、これは大津の対岸にあって近江八景のひとつ、江漢さんの勘違いでしょう。

「跡なり」、後なり。分かれ道はもっと先ですよと教わった。

「出奴量个ん」、なんと読むかハタと悩む。料簡とわかって、それはないでしょ江漢さんとぐずりました。

 地図で街道を見るだけでも、方向がわからなくなるくらいの山路であります。

 

2025年3月3日月曜日

江漢西遊日記三 その5

P6 東京国立博物館蔵

(読み)

多る様 なるおも武く(キ)尓て他国 ニなし山

たるようなるおもむく き にてたこくになしさん


上  よりハ眼 下尓流 レを能そミ瀬田能橋 ヨリ

じょうよりはがんかにながれをのぞみせたのはしより


湖 水を隔タて比良(ヒラ)ノ山 亦 三上 山 左  ノ方

こすいをへだて   ひら のやままたみかみさんひだりのほう


ハ唐 崎 の方 を見ル時 尓ハ 月 十  五日 ノ夜

はからさきのほうをみるときにはちがつじゅうごにちのよる


なり夫 より旅 館 ニ返 リて酒 を呑ミし尓

なりそれよりりょかんにかえりてさけをのみしに


十  六 娘  出てシヤクを取 其 娘  ニ色 々 者なし

じゅうろくむすめでてしゃくをとるそのむすめにいろいろはなし


などしける尓一 向 尓笑ラ王春゛之 ハ東 方 能人

などしけるにいっこうにわらわず これはとうほうのひと


此 地と言 語異トなる故 なり爰 ハ江 州  なれ

このちとことばことなるゆえなりここはこうしゅうなれ


と京  尓ちかし故 ニ京  能ことバと同 し肴(サカナ)ウゴヒ

どきょうにちかしゆえにきょうのことばとおなじ  さかな うごい


亦 ハスト云 魚  皆 湖中  能毛能なり全  く道

またはすというさかなみなこちゅうのものなりまったくどう(ちゅう)

(大意)

(補足)

「比良」「三上山」「唐崎」、 

 石山寺を軸にして、11時の方向を伸ばした先が唐崎、14時方向に三上山(近江富士)、比良は唐崎の西側の山系。

「ハス」、「くへ」の字の口と体長約30センチの銀色の体、もともとは、琵琶湖と福井県三方湖だけで生息、コイ科には珍しい魚食性。

 山下旅館をネットで探すも、No Hit。

 

2025年3月2日日曜日

江漢西遊日記三 その4

P5 東京国立博物館蔵

(読み)

さかりなり又 二里程 行 て水 口 へ出ツ往 来

さかりなりまたにりほどゆきてみずぐちへいずおうらい


なり河 アリ渡 レハ石 部なり爰 ニて昼  喰

なりかわありわたればいしべなりここにてちゅうじき


を春る町 能者づれ尓関 道 ありて札 を立て

をするまちのはずれにかんどうありてふだをたて


此 路 旅 人 通 ルべから春゛とあれと皆 人 通 ル

このみちたびびととおるべからず とあれどみなひととおる


故 尓我 も此 路 を行ク尓草 津尓至 ル爰

ゆえにわれもこのみちをゆくにくさつにいたるここ


より石 山 寺 能山 下 旅 館 尓泊 ル月漸(ヨウヤク)

よりいしやまでらのやましたりょかんにとまるつき ようやく


照 し前 ハ湖水 能流 レ向 フ瀬田能橋 を

てらしまえはこすいのながれむこうせたのはしを


能そ武景 妙 也 旅 館 より少 シ行 ハ石 山

のぞむけいたえなりりょかんよりすこしゆけばいしやま


寺 なり門 を入 て石 階 を登 りさて此

でらなりもんをいりていしだんをのぼりさてこの


石 ハ誠  尓奇妙  なる石 なり造 り物 ニし

いしはまことにきみょうなるいしなりつくりものにし

(大意)

(補足)

「水口」「石部」、日野大窪町を出立して水口まで、地図を見ても山路。

なるほど石部宿の手前に川があります。

「関道」、間道。

「草津」、「石山寺」、石山寺は瀬田の唐橋のもうちょっと南側、川の左岸にあります。 

「西遊旅譚二」の8月15日の部分です。 

上段は「石山より瀬田乃橋を望」とあり、草津ノ宿が橋の左にありますけど、これは間違い。

下段は「瀬田の橋上より膳所乃城を望」とあります。上の地図でも膳所のところに青い瓦屋根の画が目立ちます。

 わたしも何度か石山寺・瀬田の唐橋近辺を訪れたことがあります。佳きところであります。

 

2025年3月1日土曜日

江漢西遊日記三 その3

白紙

P3 東京国立博物館蔵

P4

(読み)

何 ヤラ川 魚  焼 物 汁 鮒 津保゛平 付 ニして

なにやらかわざかなやきものしるふなつぼ ひらずけにして


膳 を出ス皆 魚  ハ湖中  能産 なり爰 ヨリハ

ぜんをだすみなさかなはこちゅうのさんなりここよりは


湖   毛爰 ヨリハ路 隔  リてアリ亦 三 年 漬(ツケ)

みずうみのここよりはみちへだたりてありまたさんねん  づけ


多る酢(ス)しを出ス至  て珍 物 なるよし明日ハ

たる  す しをだすいたってちんぶつなるよしあすは


出  立 せんとて仕度 春るセン別 とて金 宝 ヲ

しゅったつせんとてしたくするせんべつとてきんぽうを


贈 ル

おくる


十  五日 天氣 ニて朝 五時前 尓日野を出

じゅうごにちてんきにてあさごじまえにひのをで


一 里行 て川 原へ出ル一 人小 童を案 内 者 ニ

いちりゆきてかわらへでるひとりこどもをあんないものに


付ケ爰 ニてかえ春夫 より山 路 ニ入 秋 なれハ

つけここにてかえすそれよりやまみちにいるあきなれば


萩 砂参  女郎花  桔梗  蘭 春ゝきノ花 の

はぎしゃじんおみなえしききょうらんすすきのはなの

(大意)

(補足)

「十五日」、天明8年八月十五日。1788年9月14日。

「朝五時」、朝8時頃。

「砂参」(しゃじん)、漢方薬の生薬の名前で江漢さんは記したよう。ツリガネニンジンとありましたが、不明です。

 ここのお宅に初めて訪れたときにも、豪華な接待でしたが、この日もこれまた豪華な料理の数々、「三年漬(ツケ)多る酢(ス)し」は、今でも有名な鮒ずしでしょうね。