P1 東京国立博物館蔵
(読み)
此ノ人 魚 塚 アル処 ハ仙 臺 侯 八 千 石 能
このにんぎょづかあるところはせんだいこうはっせんごくの
領 地と云フ蒲生 郡 日野ハ古 キ処 ニて
りょうちというがもうぐんひのはふるきところにて
古跡 多 し由来 分 明 なら春゛此 家 ニも
こせきおおしゆらいぶんみょうならず このいえにも
記事アリ餘暇なく写 しか多し此 碑ハ
きじありよかなきうつしがたしこのひは
町 者川れ尓綿(ワタ)向 の社 の堺 内 神輿 の
まちはずれに わた むきのやしろのさかいうちみこしの
庫 能南 能土手ニアリ
くらのみなみのどてにあり
二親幽霊無法界
采五仏得道也
方卒都婆志者為
延慶三年十月十六日
願主日記重吉
(大意)
略
(補足)
「分明」『ふんみょう ―みやう 【分明】〔「ぶんみょう」とも〕→ぶんめい(分明)に同じ』。『ぶんめい【分明】〔古くは「ふんめい」とも〕
① はっきりしていること。明らかなこと。また,そのさま。ぶんみょう。「結論を―にする」「既に勝負は―にして」〈金色夜叉•紅葉〉』
「写しか多し」、「写」は「冖」+「与」。ここのくずし字は「宿」みたいに見えて、どうも異なる漢字ではないかと。
「町者川れ尓」、「町」を「可」と読んで、しばらく悩みました。
「綿(ワタ)向の社」、「馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)」のことか。日野町の最高峰である綿向山(標高1,110m)の頂上に鎮座の綿向大神(天穂日命)を、平安時代初期の延暦15年(西暦796年)に里宮として現在の地に遷し祀り、蒲生上郡の総社として信仰をあつめた。
その後、当地を支配し城下町を築いた蒲生家が氏神として庇護し、さらに江戸時代には日野商人が出世開運の神として崇敬した、とありました。
「堺」、「境」。
「延慶三年」(えんきょう)、西暦1310年。
三冊目にはいりました。
江漢さん、碑文などを見ると、どうしても写し取ってしまう気持ちをおさえきれないようです。
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